オルゴールは回る
チトセと別れ、費やした時間を埋めようと道を外れ、森の中をひた走る。
彼女の言った通りガラム兵は撤退したらしく、ガラム兵の姿はおろか、銃撃の音さえも聞こえない。
けれど、先程見た王都陣営側の空はあからさまに勝利とはかけはなれた騒乱の予感しか感じられなかった。
それを裏付けるように、あたしが目指す方向から動物や鳥たちが一目散に逃げてくる。
時折、魔物ともすれ違ったが、ロッドを構える間もなく蜘蛛の子を散らすように逃げていくばかりだった。
戦う時間さえ惜しいから幸いと言えばそうなのだが、裏を返せば人間を襲う魔物でさえ恐れて逃げ出すほどの事態でもあるという事だ。
(患者さんたち、大丈夫かな……)
夕暮れ時の空の色が変わるほどなのだ、きっと火事の規模も大きいに違いない。
患者として運ばれてきた怪我人には、一人では歩く事もままならない人だっているのに……無事に避難出来ているだろうか。
湧き上がる焦燥を押し殺し、木々の間を抜けて道へと出る。
どうやら近道は成功したらしい。
少し先を走るルカたちの背中を見つけ、追い付けた事に安堵しながらあたしは足を速めた。
足音に気付いたのか、最後尾を走ってたイリアが振り向き、近付くあたしを見て目を吊り上げた。
「あ、ちょっと!どこ行ってたのよ、リズ!」
尖った声と怒りが滲む瞳に身を竦めながら、顔の前に片手を立てて謝罪の気持ちを現せば、それ以上のお咎めは無かった。
溜飲が下がったのか、もしくは予断を許さない状況だからだろうか。
いずれにしろ、思いの外早く怒りが鎮まって助かった。
せめて合図でもしなさいよ、と結んだイリアの言葉に頷き、追い付いた彼女の後ろを走る。
前方へと視線を向ければ、先頭を走るスパーダの背中の向こう側からうっすらと煙が流れてきていた。
熱を孕んだ風が運ぶ煙と共に、火事特有の煤けた臭気が鼻腔を刺激する。
その中に混じった、焦げ臭い臭いとはまた別の異臭を嗅ぎ取ってしまい、あたしは思わず片手で口と鼻を覆った。
(うっ……この臭い……っ)
ゴムが焼けるような、生々しい臭い。
髪を焦がした時に似た、けれどそれを上回る悪臭。
草木でない、"何か"が燃えるおぞましい臭い。
その"何か"が何であるか、恐ろしい事に見当がついてしまった。
震え出すもう一方の手で、ロッドと荷袋の紐を落とさないよう強く握り締める。
鼻ではなく口で呼吸するよう努めても、一度吸ってしまった強烈な臭いは忘れられなくて、まるで肺に染み込んだかのような錯覚に吐き気さえした。
「火事って、こんな森の中でしょ?大惨事になるじゃない!」
「こ、これって、敵の策略じゃないの?火計ってヤツ」
「何か焼けてるなー。匂ってくるぞ、しかし」
「う、胸が悪くなりそう……」
(あたしも……)
イリアの言葉に内心で同意する。
黙り込んだイリアと口元を覆ったままのあたしを見比べて、コーダが小首を傾げた。
「オーブンの前にいるとイイ匂いが漂って来るのになー。全然違うな、しかし」
呑気な発言に危うく転倒しそうになった。
寸でのところで体勢を立て直し、こっそりと安堵の息を吐く。
普段なら可愛く思えるのだろうけど、今の状況が状況なだけにそうは思えない。
なんでこんなにも、コーダには緊張感という物がないんだろう。
しかも、また食べ物関係だったような……あれ、もしかしてお腹が空いているのかな。
胸中で首を傾げていると、先頭にいた筈のスパーダがスピードを落としてコーダの隣に並び、彼の頭を力一杯はたいた。
「緊張感の無い会話してんじゃねーよ!
オラ!状況確認しに陣地に戻るぞ!」
痛いではないか、しかし!と喚くコーダを意に介さず、スパーダはさっさと先頭へと戻っていく。
その背中を苦笑しながら見送り、荷袋に手を差し入れて魔物との戦闘で得たグミを取り出す。
憤慨するコーダの眼前に赤いそれをかざせば、先程までの怒りはどこへやら、目を輝かせて飛び付いた。
器用にグミだけくわえて着地し、早速咀嚼しながら上機嫌にぬふぬふと笑うコーダに単純だなぁと半分呆れながらも、思わず破顔する。
「単純でいいわねぇ、あんた」
「でも、ちょっと羨ましいかな」
「む、しかしグミはコーダのものだぞ」
「誰もグミの事なんて話してないわよ!ほんと、食い意地の塊なんだから」
コーダの食い意地に呆れた様子のイリアに、ルカが苦笑を向けた。
垣間見えた二人の顔色は先程よりも少し良くなっていて、その事に胸を撫で下ろす。
同時に、あたし自身の気分も僅かに軽くなっているのに気付いた。
いつの間にか口元から離れていた手を胸に当て、走りながら意識して深めに呼吸を繰り返す。
今でも微かに感じる臭いへの不快感はなくなってはいないが、それでも先程のように平静を保てないほど酷くはない。
想像を引きずり出そうとする一部の思考さえ断ち切れば、何とかなりそうだ。
(コーダに感謝、かな)
「見えた!陣地だ!」
不意に鼓膜を打ったスパーダの声に、顔を上げた。
曲がり角を抜けた矢先、直接顔に吹き付ける熱風に腕をかざして耐えながら、目を凝らす。
火事によって夕焼けとは全く違う異様な赤に照らされる周囲の中でも、そこは一際明るく、そして異質だった。
「や、やっぱり燃えてる…!」
そう。ルカの言葉通り、遠くに見える陣地は炎に包まれていた。
轟々と燃え盛る炎が風を熱波に変え、空を紅く朱く染め上げる。
近付くにつれ、炎の音に紛れて怒号や悲鳴が聞こえてきた。
熱気に肌が焼かれる微かな違和感も、より一層濃くなる悪臭も、耳に滑り込む誰かの絶叫も、あたしの内で這い回る恐怖に拍車をかけていく。
「……っ」
予想を遥かに上回る惨状となっているであろう陣地を目前にして、足が竦みかける。
怖くて泣きたくて堪らない、逃げ出せるものなら逃げ出したい。
今すぐここから逃げ出せたら、どんなにいいだろう。
けれど、次々と脳裏に浮かんぶ医療班の面々や患者さんの面影にどうしてか嫌な予感が止まらないから、無事を確かめたくて必死の思いで走る。
わななく唇を噛みしめ、ともすれば止まりそうになる脚を叱咤して前へと進む。
怯える本能と制止を訴える理性を感情で抑え込み、余計な事を考えないようにひたすら足を動かした。
(班長、皆……っ)
早鐘を打つ心臓の音が、やけに大きく聞こえる。
嫌な予感ほどよく当たる事を身を以て知っているから、余計に不安ばかりが募っていく。
胸元で揺れるロケットを縋るように握り締めた。
お願い……お願いだから、どうか。
(皆、無事でいて……!)
そう願いながら、陣地の中へと飛び込んだ。
to be continued...