オルゴールは回る
「いや、あの女の検査はいらないとマティウス様よりのお達しだ」
「「「っ!?」」
マティウス、チトセが言っていたアルカ教団の人の事だろうか?
でも、何故?
会った事もなく、あたしの名前すら知っているかどうか危ういのに、どうして。
あたしの思考を読み取ったように、ルカとイリアが声を荒げてグリゴリに疑問をぶつけた。
「マティウスが!?
なんで、マティウスがリズさんの検査を……?」
「そもそも!なんで、マティウスがリズの事を知ってんのよ!」
イリアの言葉がピン、と心に引っ掛かった。
―その服ね、貴女が寝ている間にマティウス様とお会いして……―不意に、チトセの言葉を思い出した。
勢いよく、後ろにいるだろうチトセを振り返る。
振り返った瞬間、チトセと目が合ったが、すぐに逸らされた。
あの時、チトセはなんて言っていた?……そう、確か……
―貴女の事を話したら下さったの―そう、言っていなかったか?
『チト、セ……?』震える唇が、彼女の名前を声なく紡ぐ。
チトセはあたしを見ようとはしない。
ただ、俯いているだけ。
なんで顔を背けるの?
だって、それじゃあまるで……。
その先は考えたくなくて、あたしはそこで思考を手放した。
呆然としたままのあたしを余所に、背後にある扉の向こうでグリゴリの声が聞こえた。
「そんな事は我らは知らん。
ただ、入団希望者と同じ扱いをしろと指示を受けただけだ」
もういいだろう、とグリゴリはその話題を打ち切り、「それでは付いて来るように」と言って、カツカツと歩き始めた。
それを聞き、チトセが慌てて扉へと駆け寄る。
あたしを困ったようにチラリと見てから、扉越しに声をかけた。
「あの、皆さん。お気を付けて」
「うん……、ありがとう」
返ってきたのはルカの返事だけだったが、チトセはそれだけで少しだけ安心したようにそっと息を吐いた。
その横顔を見て、ふと思考が浮上する
……もしかして……いや、もしかしなくても。
(チトセは、ルカの事……好き、なのかな?)
不謹慎で軽率な推測だが、おそらく外れてないと思う。
うーん、ルカも隅に置けないなぁ……いや、実際に隅に置いたら泣かれそうだけど。
「あの、リズちゃん……」
呼ばれて我にかえり、慌てて顔を上げると不安そうに揺れる琥珀色の瞳と視線がかち合った。
ああ、この眼は知ってる。"彼女"の眼と一緒だ。
チトセの引き結ばれた唇、下がった眉に誰かの面影が重なる。
−−−そんな事、仰らないで下さい。
−−−私は貴女の味方です。信じて下さい。凛とした声が、頭に残っていた霧を晴らしていく。
そうだ、あたしは知ってる。
掛け値なしの言葉が、曇りのない笑顔がどれだけ純粋か。どれだけ信用に値するか知っている。
だったら、それを信じればいい。
あたしはチトセの事をあまり知らない、それは曲げようのない事実だ。
でも、彼女と一緒に過ごしたこの数時間は嘘偽りないものだから、あたしはチトセを信じたい。
チトセを見ても、今はもう何も感じなかった。
先程の裏切られたような気持ちも、感じた不信感やショックも、不思議なほどに引いている。
落ち着いた今、よく考えてみれば、あの時はチトセだってあたしの名前すら知らなかったのだ。
今だって、彼女はあたしの本当の名前さえ知らない。
名前も知らないあたしの事をどのように話したのかは知らないが、これだけは言える。
チトセは、あたしを売り渡した訳じゃない。
マティウス、という人が何故あたしにそんな措置を施したのかは定かではないが、チトセが裏切ったのではないと分かっただけで、あたしは安堵していた。
「リズちゃん、私……」
言い募ろうとしたチトセに対してあたしは首を振り、気にしていない事を伝えたくて、出来るだけ柔らかく笑いかけた。
伝わって欲しい。
全ては無理かもしれないけれど、今は疑ってない事だけでも伝わればいい。
チトセは少し目を見開いた後に暫く瞳を伏せていたが、おもむろに微笑んだ。
「ありがとう、リズちゃん」
チトセの言葉に気持ちが断片でも伝わった事を理解し、安堵の息をつく。
彼女の笑顔に、あたしも笑い返した。
その時だ。
ギィ、と音を立てて、前置きもなく扉が開かれた。
驚いてそちらを見ると、グリゴリと見知らぬ男が立っている。
始めは新たな転生者かと思った。
しかし、あれだけ転生者に手荒な扱いをしていたグリゴリがただ黙って脇に控えているから、少なくとも検体ではないだろう。
そう思案していると、男が一歩踏み出して丁寧に頭を下げた。
「お待たせ致しました。
私(わたくし)、アルカ教団の使者として参りました、キルヴィスと申します。お二人をお迎えに上がりました」
キルヴィスは宜しくお願い致しますと告げ、柔和な笑みを浮かべた。
ぞわり。
その笑顔を見て、何故か一瞬にして鳥肌が立った。
キルヴィスから一歩後ろずさり、差し出された彼の手から思わず身体を逃がす。
キルヴィスが眼鏡の奥でスッと紫の瞳を細めたのを認め、身体が震えた。
しかし、彼は軽く肩を竦めただけで、何も言いはしなかった。
後ろに待機するグリゴリを振り返って幾つか言葉を交わし、再びこちらを見てニコリと笑う。
「彼らからも許可をいただきましたので、参りましょうか」
「黎明の塔に、ですか?」
控え目に質問したチトセを見て、キルヴィスは「いいえ」と答えた。
「まず、教義の一環としてある場所での奉仕活動に参加していただきます。
そして、活動が終了次第、黎明の塔に向かいます」
「そう……ですか。
あの、ある場所……というのはどちらですか?」
(どこに連れてかれるんだろ……)
キルヴィスは何だか得体が知れなくて怖いが、やはり今後の行き先は気になった。
相変わらず鳥肌が収まらないあたしはチトセの後ろに隠れるように立ったまま、恐る恐る彼の方を窺う。
キルヴィスは右手で眼鏡を押し上げ、笑って告げた。
「激戦地区、西の戦場です」
to be continued...