「…星渡りは、過去を繋ぐか」
帰りのバスの中だった。
車内には何故だか塩素の臭いが充満していて、整髪料か何かかと思ったが、それにしては少し違うような気もした。
帰宅時の道路は車やバスで混み合い、白い水垢で汚れた窓の外では、ブレーキランプが点いては消え、点いては消えを繰り返している。
停車する度に、名も知らぬ同乗者の背中を支えに体勢を保つ。狭い空間と荷物や人に圧迫されながらも、こればかりは仕方の無い事だ。誰一人として不愉快な顔一つせず、暗黙の了解の中で、吊革だけがギリギリと音をたてていた。
各々の疲労感が、灰のように足元に積もっている。
滑舌は良いが無機質な女声のアナウンスが、次のバス停の名を告げた。
混み合うバスの中、何とか二人掛けの通路側の座席に座ることができた名前であったが、ここに座ったことを酷く後悔していた。
車内であるというのに、無心でパンを貪る中年の女。咀嚼音と、口元から僅かに零れ落ちるパン屑。混み合う事に我慢は出来ても、隣から聞こえてくる咀嚼音と、時折こちらにまで被害が及ぶパン屑には苛立ちがこみ上げてきた。
しかし、わざわざこの女を注意する面倒くさい人間などいるわけがないし、名前自身、この場は我慢に徹する他打開策は無いことは重々承知している。
とは言え、そのつり上がった眉はなかなかに怒りを表現していた。
「“星渡り”と言う言葉を、知っているか」
走行音が、不意に背景の音になった。
「…あ、」
すぐ脇の通路に立つ、長身。
「全然気付かなかった。柳くんも乗ってたんだ」
彼は、両脇にいるサラリーマンよりもいくらか悠々と吊革に掴まり、片手には本を持っていた。
「…で、あの、ほしわたり?」
聞き慣れぬ言葉。確認がてら聞き返す。
黒いながらも少しばかり赤茶けた瞳には、名前の隣に座る女は映し出されていないようで、全くと言って良いほど見向きもしない。
「そう、星渡りだ。星に、渡ると書いて」
バスが止まった。
揺れがおさまり、静まり返る車内。分からない、と出掛かった声が後込みして、喉の奥に引っ込んだ。
星渡りという奇妙な言葉に分からないと答えられたのは、バスが動き出してからだ。
「星が、渡るんだ。空を」
「…渡る……あ、流れ星?」
柳蓮二が頬を緩めてニコリと微笑んだ。
「なんか、良いね。流れ星よりも婉曲的」
「造語だがな」
「造語? え、柳くんの?」
いや、と言って、柳蓮二は手に持っていた文庫本の表紙を見せた。紺色の背景に、シンプルな明朝体の斜体。
『星渡りは過去を繋ぐか』
「あ、本か」
「この小説に出てくる言葉だ。作者の、造語」
仕事に多忙を極める生活を送る主人公の八重子が、流れ星を見たある夜、学生時代の恋人・秋崎に教えてもらった“星渡り”という言葉を思い出す。
濃紺の空を瞬時に駆けゆく星を、世を渡る人間に例えた星渡りと言う言葉。
三十路を過ぎた今となっては微笑ましく懐かしい、青春謳歌した過去を回想していく…といった、少々ほろ苦いセンチメンタルな小説らしい。
「…星渡りという言葉も良いし、なんというか、自分が本当に三十歳を過ぎた大人のように思える。…苗字に、是非薦めたかった」
混み合うバスの中で、静かに手渡された小説。
『星渡りは過去を繋ぐか』
──真田くんなんか、凄く共感できそう。
──できるだろう。同世代の主人公だからな。
そういえば、そんな冗談を言い合ったっけ。
名前は家のベランダから夜空を見上げていた。
転勤でこの土地に着てから、もう七年が経つ。神奈川のように都会ではないけれど、かと言って不便というわけでもない。今住んでいる社宅は少々郊外にあって、街の灯りが邪魔をしないから、夜は星がよく見える。
三十路を過ぎてはや四年。
八重子と同い年になった自分。
生まれて初めて流れ星を見たこの夜に、柳蓮二から教えてもらった、“星渡り”を思い出した。
小説で、八重子は結局秋崎とは何の巡り合わせも無いまま完結した。もしかしたら自分もそうかもしれないし、再会することができるかもしれない。
自分と柳蓮二は恋人ではなかったあたり、八重子よりは未練がましく無い気はする。…と、擁護してみる。
「…星渡りは、私の過去を繋いでくれるのかな」
再会してもしなくとも、どのみち自分達はなかなかいい大人になった。流れ星を見る度に、柳蓮二も星渡りを思い出すのだろう。
空を駆けて星を渡る、小さな人間の、小さな話。