曖昧ミーマイン

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「っ、ぎゃっ!?」

押し潰されたようなひっくり返った悲鳴が上がって、皆の視線が一気にそちらに集中する。例えば声の主がザップならばいつものようにクラウスにちょっかいを出してやられたのだと誰もが納得し、さして気にもしなかっただろう。悲鳴を上げた人間が、今回は問題だった。
悲鳴を上げた本人でさえも状況に追いつくことが出来ず、ただ首筋を押さえて瞬きを忙しなく繰り返す。みっともない悲鳴のせいで注目されているという羞恥心でじわじわと顔に熱が集まっていく。
弾かれたように僕が逃げたせいで手持ち無沙汰になった右手を宙で泳がせながら、クラウスが心配そうに僕を見た。う、そんな目で見ないでくれ。違うんだ、誤解だ。何が誤解なのか自分でもよくわからないが。違うんだ、クラウス。

「スティーブン?」

集約されて凶器じみた鋭さの視線達に晒されながら、クラウスが不安げに僕を見る。咄嗟に飛び退いてしまったせいでクラウスとの間には不自然な距離が出来てしまっている。
別になんてことないやり取りだったはずだ。僕の首元に埃がついているのに気付いたクラウスが一言断ってから僕の首元へ手を伸ばした。その手が首へ触れたその瞬間だった。ぞわりと足元から旋毛まで身体の隅々を何かが駆け上がった。冒頭の悲鳴はその反射で口から出たものだ。攻撃を受けたわけでも、不意を突かれたわけでもない。それなのにこの反応はどう考えても異常だった。僕自身がそう思うんだからクラウスやライブラの面々がそう思わないはずがない。

「スティーブン、様子がいつもと違うようだが大丈夫だろうか」
「い、いや、急だったからびっくりしちゃって」
「む? 声は掛けた。君も返事をしただろう」
「う。……ううん、君の手が冷たくてびっくりしたんだよ」
「……ふむ。レオナルド君」
「はい?」

僕達のやり取りに耳を澄ましていた少年がクラウスに呼ばれてひょこひょことやって来る。そうして並んでいるのを見るとコラージュなんじゃないかと思うくらいに残酷な身長差が浮き彫りになった。少年が小柄で、クラウスが規格外だからこそ起きる悲劇だ。

「手を」
「え? あ、はい」

差し出された両手の上に少年が手を乗せる。当然だが手の大きさもかなり違う。サイズ的には親子だな。
手がぴたりと重ね合わさるとクラウスが首を傾ける。それにつられるように少年も同じ方向へ首を傾げた。いや、なんでだ。

「私の手は冷たいだろうか」
「……いえ、寧ろちょっと熱いくらいだと思いますけど」
「……ふむ。ありがとう」

要件はそれだけだったようで、少年はクラウスから手を素早く退けると元の場所へ戻って行ってしまった。…………あ、ちょっと待って、これはまずいんじゃないか。

「スティーブン」

うっ! ほら来た!
本当に、本当に何でもないんだが二回も誤魔化した以上クラウスは何もないでは納得しないだろう。そうなるとこれからどうなるかは想像に安易だ。

「クラウス、本当に何でもないんだ。本当に驚いただけで、何でもない。心配しないでくれ」
「しかし、君のあのような声は初めて聞いた」
「……」

僕も初めて出したよ、あんな声は。
次のクラウスの言葉はわかっているのに防ぐ手段が見つからない。逃走という手もなくはないが遅かれ早かれ捕まるだろうし、何よりここにはライブラの主力が集結している。面白がったザップとKKあたりが手を組んで捕獲に乗り出せば5分としない内に捕まるだろう。あの2人が僕の窮地に乗ってこないはずがない。おまけにチェインと少年もいる。どう考えても不利だ。
頭は回る方だと自負しているがこんな時に限って役に立たない。絶え間なく限界速度で回しているのに打開策は何も出てこなかった。

「1度診察を受けるべきではないだろうか」

…………うん、だよね。そう来るよな。
本当に驚いただけなんだ。異常なしと診断されるのはわかりきってるし、その時の居心地の悪さを想像するだけで死にそうだ。ほんとに何でもないんだクラウス。
逃走しようなんて本気で考えていたわけじゃないが、じりじりと後退してクラウスから距離を取る。それが気に入らなかったらしいクラウスはずんずんと距離を詰めて来た。今にも逃げ出しそうな僕を逃すまいと右手首を掴ん…………だところでまた何かが駆け上がった。

「っ!!?」

何か、としか形容出来ない正体不明の何かが一瞬で身体を駆け上がる。悲鳴こそ上げなかったものの、反射的に僕を掴むクラウスの手を振りほどいてしまった。さして力は込められていなかったようで、あっさりと拘束が解かれたことに安堵の息を吐く。そうしていよいよ詰んだことに気付いた。…………ああ、嫌だ。顔上げたくないなあ。目の前の威圧感凄いし、絶対修羅みたいな顔して心配してるよ。

「スティーブン」
「…………なんだい」

ああ、やだやだ、返事したくない。やだやだやだやだ。これからのことを考えると憂鬱だ。

「診察へ行こう」

文面とは裏腹に拒否権などないのはこれまでの経験上わかっている。

「…………わかったよ」

拒否出来ないならさっさと終わらせてしまおう。KKが楽しげに笑っているのを恨めしげに見れば、ついには腹を抱えて笑いだしてしまった。……君、僕が困ってるのほんとに好きだよね。















一人で行くと主張したのだが、クラウスはそれを承認しなかった。本音を言うならクラウスが同伴したかったようだったが、それは僕が頑なに拒否した。何ともないのにボスを連れて席を外せるわけがない。HLではふとした瞬間に世界崩壊規模の事件が発生するのだ。それなのにこんなくだらない理由でトップが揃いも揃って不在にするわけにはいかないだろう。

「それで妥協案で僕、と」
「いやあ、すまん」

風でばたばたと少年の前髪が揺れる。オープンカーだからなのかいつも首にぶら下がっているゴーグルは眼にきっちり装着されていた。おかげでどんな顔をしているかわかりにくいが、そもそも常時糸目なので眼が見えまいと関係ないと言えば関係ない。視線を気取られない内に前方に戻して、気持ちアクセルを踏み込んだ。
お目付役として白羽の矢が立ったのは少年だった。まあ、妥当なところだろう。クラウスに同行されるよりは何倍もマシだろうということで僕も少年の同行を承諾した。少年は完全に巻き込まれたかたちになったわけだが。

「バイトもなかったんで別にいいんですけど、一人で病院に行かせないってスティーブンさん何か前科でもあるんですか」
「病院行ったことにして行ってなかったり、それらしく診断書作って証拠としてクラウスに出したりしたな」
「……原因それじゃないですか」

基本的に人を信じるクラウスがここまでするのは単に僕に前科があるからだ。ああ、そうとも、悪いのは僕だ。今回は本当に何もないんだ、なんて主張してところでそりゃあ信じてもらえないだろう。身から出た錆というか、オオカミ少年にでもなった気分だ。

「駄目元で聞くがサブウェイで買収される気はないか?」
「ジャック&ロケッツで食べ放題でもその要求は飲めないです」
「なあ、せめてブラッドベリ総合病院はやめないか。彼女も忙しいだろうし」
「どうせ行くならちゃんと診てもらえばいいじゃないですか」

みっともなく食い下がるが少年は応じない。HLで揉まれて生活している内に随分と図太くなったもんだ。ライブラの副官としては喜ぶべきことなんだろうが、僕個人としてはあまり喜ばしくない。説得は難しいだろうな、これは。
到着するまでに少年を説き伏せるのは無理だろうと判断して、回避出来なかった未来に溜息を吐く。せめてここでどかんと大きな事件でも起こってくれれば有耶無耶になりそうなものだが、こういう時に限ってHLは平和だ。平和が憎い。こうなると病院が緊急患者のすし詰め状態で門前払いされるのを期待するくらいしかない。いや、彼女の腕なら数時間待たされるくらいでひと段落しそうだな。ううん、困った。
前方に目的地が見えてきたところでスピードを上げる。加速についてこれなかった少年が前につんのめるのを一瞥して、もう一度憂鬱を口から吐き出した。













「全ての数値で異常なし。念の為に骨と内臓も診てもらったが全く問題はないそうだ」

それ見たことか、という気持ちを込めに込めてクラウスの机に診断書を叩きつける。本来異常がない場合は診断書など出さないが、今回は無理を言って出してもらった。少年が同行していたとは言え何かと前科があるので信じてもらう為には診察を受けたという確かな証拠が必要だった。病名の欄には「異常なし」と流れるように記載され、病状を説明する欄にはどういった検査を行ったのかが書き連ねられている。診断書の下部にはMs.エステヴェスの名が刻まれている。彼女の手を煩わせるようなものでもなかったのだが、彼女の名前を出すのが一番確実だろう。
叩きつけた手を持ち上げるとクラウスは診断書へ視線を走らせた。その視線を追うだけで今どこあたりを読んでいるのかがわかる。オリーブグリーンの瞳が文字を追うのを眺めていると、文末まで走り終わった視線が持ち上がってこちらに向いた。

「一応言っとくが、彼女の直筆だぞ? 彼女の字は見たことがないだろうから信じるに足る証拠にはならないかもしれないが、証人もちゃんといる。少年、俺はちゃんと診察を受けたな?」
「あ、はい。ブラッドベリ総合病院で診察してもらってました」

直立不動で僕の横に控えていた少年が、びしりと姿勢を正してからそう答える。そんなに緊張しなくてもいいと思うんだが……いや、無理か。今のクラウス怖いよな、僕も苛々してなきゃ怯んでたと思う。
少年の報告を受けて、それからまた診断書に視線を落とす。もう一度文字を一通り追ってから、今度は僕を見た。嘘をついているように見えるかい? 視線だけでそう問えば視線が逸れた。クラウスの視線は少年へと飛ぶ。

「急な頼みですまなかった。ありがとう」

ようやく信じたクラウスに少年が安堵の息を吐く。彼からしてみれば今まで針の筵にいるようなものだっただろう。それから解放された少年はぱたぱたと両手を振りながら「そんな大したことやってないんで」なんて謙遜してから離れて行ってしまった。少年が視界から外れるまで横目で追いかけるがすぐに見えなくなった。クラウスも少年を目で追いかけていたが少年がザップに絡まれ始めたあたりで視線を僕へ戻す。

「……異常がなくて何よりだ」
「そう言う割には納得いかない顔してるな。異常が見つかった方が良かった?」
「スティーブン」
「すまんすまん、冗談だ」

咎める声音で呼ばれて、慌てて謝罪を吐き出す。もう怒るなよ、ちょっと意地悪してみただけじゃないか。
だが僕の言うことが全くの的外れってわけでもないはずだ。クラウスは納得してない。その理由もわかっているが、何もかも察して先回りしてしまうのはクラウスの為にならないのでクラウスがそれを言語化するのを待つ。非常時には人の心を揺さぶる言葉をすらすらと紡ぐくせに普段の彼の口は酷く重い。今回もたっぷり30秒の沈黙をもってようやく固く引き結ばれた口を開く。

「君の状態は普通ではないだろう。しかし診断の結果は異常なしだ。彼女やレオ、ましてや君を疑うわけではないがこれでは矛盾している」
「もう治ってるだけかもしれないぞ」
「む。その可能性は考えていなかった。……スティーブン」
「はいはい」

異常がないことが異常だとクラウスは言う。クラウスは至極真剣に心配してくれているわけだが、当の本人はそこまで深刻に考えていない。一時的な知覚過敏とかそんな類のものじゃないかと思うわけだ。少なくともボスがわざわざ気を揉むようなことではない。そんな気持ちで口にした仮定は完全なる口から出任せというわけでもない。病院に向かう途中でレオナルド、それから診察中にはMs.エステヴェス。二人に接触したがこれといって異常はなかった。クラウスに触れられただけで過剰反応したのは事実なので原因が時間経過で消えたと考えるのが妥当だろう。クラウスに促されるままに手を差し出す。己の目で確認するまでクラウスは納得しないだろう。本当に何でもないんだって。
手のひらを上にして無造作に左手を差し出す。クラウスの右手が机の向こうからゆっくりと伸びて来る。重さを感じさせまいとするかのようにそろりと中指が生命線の上に降り立つ。指先が掠めるように手のひらへ僅かに重みを加えたところでびりびり手のひらに刺激が走った。

「っ!」

静電気じみたそれは手のひらから腕を伝って瞬時に胴へ移るとそこから上と下に分かれて全身を巡った。増幅しながら駆けて行く刺激に思わず眉を顰める。無意識に左手を引いてしまったことに気付いた時にはもう遅かった。

「スティーブン」

剣呑な声に呼ばれて、同時に左手首をがしりと掴まれる。逃すまいとしているかのようにそのままぐい、と手を引かれて数歩前へよろけた。いや、それはいい、問題はそこじゃない。まずい。

「く、クラウス! 待て、一旦放してくれ!」

ぞくぞくと身体中を何かが這い回っているような感覚がする。発信源は恐らくクラウスが触れている左手首なんだろうが絶え間なく送り込まれ続けるそれは四方八方に散るもんだから始点も終点もわからない。何にせよ原因はわかっているんだからそこを潰せばとりあえずは解決だ。それなのにクラウスは手を放そうとしない。

「ク ラ ウ ス !」

振り解こうと手を振るがクラウスの手は手首にがっちり巻き付いて放れる気配が全く無い。いっそこれが痛みならまだ耐えられた。だが身体中を巡る正体不明のそれはどちらかと言えば快感に近い。それが背筋に走って、身体が震える。その場で踏ん張って手を引くがそれでもクラウスは頑として手を放さない。というか、多分踏ん張れてない。目一杯踏ん張って後ろに身体を引いているつもりだが両足はみっともなく震えていた。生まれたての子鹿一歩手前と言ったところか。これは踏ん張れてないな、絶対力入ってないな。いや、冷静に自分を分析してる場合じゃないぞ。
今度は何事だとちらちら若者達が視線を送って来ているのがわかるがそんなものは俺が聞きたい。何だこれ。どういう状況だ。あ、ちょっと待て。本格的にまずいぞこれ。力抜けて来た。
踏ん張っている足が滑る。いっそ血凍道で凍らせて固定してしまおうか、なんて考えが頭の隅を過ぎったが後々の片付けを考えると面倒なのでやめた。しかしこれは本当にまずい。ぶるぶると身体が震える。ついには自重を支えるのも難しくなってきて、今にも膝を折ってしまいそうだ。俺の状態はわかってるだろうに、それでもクラウスは手を放さない。手を放すつもりがないわけだ、僕がクラウスの望む反応をするまでは。

「……うっ、くそ……」

腰回りを撫で上げるように微弱な刺激が巻き付き、意思とは関係なく身体が跳ねた。しゃっくりのように喉が引き攣る。
足掻きにもう一度強めに手を引いてみるが、やはりびくともしない。抗議の視線でクラウスを睨み付けるが、それでもクラウスに変化はなかった。無感情なオリーブグリーンがじっと、慌てる僕を映し出している。
絶えず流れ込んでくる刺激に頭の中が掻き乱される。とにかくこの状況から脱したいとそればかり考え始めるようになって、足元に薄く氷が張った。……まずい。このままだと遅かれ早かれ耐えかねてクラウスに血凍道を見舞いそうだ。そんな本意じゃない事態を避ける方法は今の所ひとつしか思い浮かばない。出来ればそれも避けたかったが、そんなことを言っている余裕もなくなってきた。かたかたと震え始めた奥歯を噛み締めて、精一杯平静を装う。クラウスの狙いはこれに違いないが、出来れば言いたくはなかった。

「わかった、認める。確かにこの状態は普通じゃない。認めるから、頼むから放してくれ」

捲し立てるに早口でそう降参の言葉を口にする。さっさと言葉にしてしまわないと吃音が混じってしまいそうだった。
クラウスが頑固なのはよく知っている。力ずくでどうこうするのが不可能である以上は降参しか手段が残されていなかった。このまま意地を張っても長引くだけだ。現状が異常の塊であることは充分に理解した。もう充分だ。

「……」
「クラーウス」

探るような視線を受けるが、まだ抵抗する気があるように見えるんだろうか。視線を甘んじて受けながら引く力を緩めると、ようやくクラウスの手が離れた。いきなり放すのではなく少しずつ開くようにして解放される。クラウスの手の中を僕の手がするりと通り抜けて、その勢いのままに数歩後退した。震える足で移動したせいか身体が一瞬ぐらつく。いつの間にか呼吸も僅かではあるが乱れていたようで、何気なく吐き出したつもりだった息に熱が多分に含まれていた。……ええ、なんだこれ。

「スティーブン」
「ああ、うん、大丈夫。……確かに君の言う通りこれは異常だな。原因がわからない以上は手の打ちようがないが対策は練らないといけないな」

クラウスと接触する習慣はないので特に支障はないとは思うが、万が一のことを考えると何か手を打っておく必要はあるだろう。主に戦闘中には咄嗟にどんな連携をすることになるかわからない。連携でなくとも例えばクラウスのいる場所に僕が吹き飛ばされたりとか、そういうことが可能性として全くないわけじゃない。完全に回避するのは無理かもしれないが軽減策くらいは出さなければいけないだろう。

「君の異常の対象はやはり私だけなのだろうか」
「恐らくね。まだあまり試してないから断言は出来ないけど。ああ、ちょっと待っててくれ。試してくる」

対象は恐らくクラウスだけだろう。何の確証もないが確信じみた思いがある。だがそれを馬鹿正直に信じるわけにもいかないのでくるりと踵を返した。
ここにいるのは少年とソニック。それから斗流の二人だ。少年は既に試した。こいつらにしては珍しく静かにしていたのは僕とクラウスの動向が気になっていたからだろう。矛先が自分達に向いたのにも当然気付いていて、視線がわざとらしいくらいに泳ぐ。そんなに露骨に怯えられると傷付くじゃないか。彼等の前で立ち止まって、ソファーに腰掛ける彼等を見下ろした。

「ザップ」
「げ。俺っすか」
「動くなよ」

ソファーの背にべったりと張り付いて少しでも距離を稼ごうとみっともなく足掻くが、ストップをかけるとぴたりと動きを止めた。……ううん、そんなに構えられると傷付くんだが。
ポケットから出した手でザップの頬に触れる。指の動きに合わせてザップの瞳が左へ寄った。目尻の下から唇の横を通って顎まで指を滑らせる。ザップの眉間に皺が寄ったが、俺の眉間にも同じくらいの皺が刻まれていることだろう。不本意なのは俺も同じだ。

「……どうっすか」
「ジャンクフードの食べ過ぎだ。肌荒れが酷いぞ」
「何で検診してんすか。ってかあんた人のこと言えねえでしょ。ちゃんと寝てます? 肌荒れてますよ」
「何男の肌をチェックしてるんだ、気持ち悪い」
「えええ、理不尽ここに極まれりだよ。数秒前の自分の台詞棚上げだよ」
「うるさいぞザップ」

異常はなかった。別に何も感じない。だがそんなことは報告するまでもなく様子を見ていればわかるだろう。そもそもこいつに報告する必要性もない。
ザップは試した。レオを挟んで右側に座るツェッドに視線を滑らせて、その視線の道を右手で辿った。向きも変えないままにツェッドにスライドさせた右手は甲からツェッドの頬へぶつかる。その瞬間に僅かに肩が浮き上がった。クラウスとは違う、純粋な驚きだ。

「おお……ジャパニーズスイーツ葛餅だな」
「はあ……」

話には散々聞いていたが、実際に触れるのはこれが初めてだった。まさに、何の誇張もなく質感は葛餅だ。つい珍しくてぺちぺちと頬を軽く叩くとツェッドが戸惑いがちに僕を見た。その視線に気付いて、慌てて手を引く。それから手を顔の横まで引き戻して降参のポーズを取った。

「すまん。つい触り心地が良くてな」
「はあ。いえ、構いませんけど」

そう言いはするが、ツェッドは僕に触れられたところを己の手で撫でる。もしかして嫌だったんだろうか。それなら言ってくれれば流石に無理矢理触ったりはしなかったんだが。いや、まあ、過ぎたことを考えても仕方ないか。パワハラで訴えられそうになったら謝ろう。

「えー、あとはソニック……」
「もう触ってましたよ?」
「ん?」

少年の首元から顔を覗かせるソニックへ目をやると、ソニックが小さく鳴いた。それは、肯定の鳴き声だったりするんだろうか。僕達の会話内容は恐らくは理解しているんだろうが。

「ザップさんと肌がどうこう言ってた時に右手にタッチして戻って来てました」
「それは、気付かなかったな」

よくよく思い返せば少年の襟元が一瞬不自然に揺れていたような気もするが、ソニックだったか。触れていると認識してないものはカウントすべきなのか微妙なところだが、ソニックには反応はないだろうと半ば確信しているのでまあ、良しとする。試したという事実だけで充分だろう。どうしてここまで根拠もなく確信出来るのかは自分でもよくわからないが。

「……うん、協力してくれてありがとう。おかげではっきりした」

出来ることなら手当たり次第試して確信をより強めるべきなんだろうが、一歩間違えばセクハラに成りかねない行為を何度もしたくはない。女性にするわけにはいかないし、何が悲しくて野郎ばかりぺたぺた触らなければいけないのか。試すならこの3人と1匹でも充分だろう。
右足を軸に180度回転してクラウスへ向き直る。じっと僕を視線で追いかけていたクラウスと必然的に目が合った。そんなに見られると穴が空きそうだ。居心地の悪さを誤魔化すようにへらりと軽薄な笑みを貼り付ける。宙を泳ぐ右手をポケットの中へ滑り込ませた。

「どうやら君だけみたいだ」

これだけ聞くと愛の告白みたいだな、なんてぼんやり思って。冗談にしてはあまりに笑えない想像だったので即座に打ち消した。













ついっ、と視線を左から右へ滑らせる。画面から発生するブルーライトが網膜を突き刺し、その眩しさに思わず目を細めた。その光に苛まれる度にブルーライトカットの眼鏡でも購入すべきかと検討するのだが、そういつもPCと睨み合っているわけでもないので先延ばしにしてしまう。老眼鏡だと思われるのも嫌だし。
コーヒーを啜りながら片手でキーボードを叩いていると、視界の端に紅が映り込む。

「やあ、K・K」

彼女の情熱的な性格を体現しているかのように真っ赤なコートをはためかせ、ロングブーツを打ち鳴らしながら一直線に僕の元へとやって来る。機嫌が悪いのか、いつもより靴音が大きい。いや、まあ、僕と対面している時点で彼女が不機嫌になるには充分なんだけど。それでも気付いていない振りをして視線を彼女へ移してひらひらと手を振ると、眉間に皺が深く刻まれる。機嫌は更に悪くなったようだ。僕がどう反応したところで彼女の機嫌は悪いのだろうからあまり深く考えないことにする。毎度のことではあるがここまで露骨に嫌われるといっそ清々しい。

「貴方しかいないのね」
「ああ、丁度みんな出払っててね」
「見ればわかるわよ」

不機嫌に拍車をかけながら彼女は右手をびっ、と勢いよく僕の眼前へ突き出す。僅かに仰け反って衝突を回避すると、人差し指と中指の間にUSBが挟み込まれていた。鼻先すれすれをキャップ部分が掠める。

「流石だね」
「お世辞はいいわ。さっさと受け取りなさいよ」

彼女なら難なく回収して来てくれると信じていたのでお世辞でも何でもないのだが、食い下がっても彼女の機嫌が降下するだけだろう。そう判断して言う通りにUSBへ手を伸ばすと、彼女の表情が歪んだ。また僕は彼女の機嫌を損ねたらしい。
K・KはUSBを受け取ろうと持ち上げた僕の右手を睨み付けると、苦虫を噛み潰したような表情で言葉を吐き出した。ついでに唾でも吐き出しそうな勢いだ。

「それ、いつまで嵌めてるつもり? お揃いみたいでぞっとするんだけど」

K・Kの言う「それ」とは十中八九僕の手に嵌め込まれている手袋のことだろう。真っ黒な革手袋は指先から手首まで、両手をぴっちりと覆い隠している。K・Kは指先が露出しているタイプの手袋だが、同じ黒地の手袋なのでお揃いと言えなくもない。どうやら彼女はそれがお気に召さないらしい。しかしこれには事情があるので彼女の訴えに応じるわけにはいかない。

「そんなこと言われても……この前の僕を君も見てたじゃないか」

クラウスに触れると動悸・震え・心拍の乱れ等々の異常が現れることがわかった後も至っていつもと同じように過ごしていた。勿論原因を探ってはいたが、業務に支障が出ていなかったので呑気にしていたところもある。だから気を抜いていて、失敗した。結論から言うなら書類をぶちまけた。100枚以上及ぶ分厚いそれを、だ。
書類を手渡す際に僕の指先がクラウスの指先に僅かに触れた。たったそれだけだ。それなのに忌々しいことに僕の身体は大層過剰に反応して、書類を取り落とした。構えていればまだ何とかなったのかもしれないが、完全に油断している時には反応は随分と過剰になるらしい。書類が流れ落ちる中でクラウスの瞳が驚愕に見開かれたのを鮮明に覚えている。いや、うん、あの時は死にたかった。
革手袋を嵌めるようになったのはそれからだ。お互いが素肌でなければまだ耐えられるのはわかっていた。出来ることなら首にマフラーでも巻いて、口元もマスクで覆っておきたいところだがそこまで来ると不審者になるのでやめておいた。
書類を掻き集めるのをK・Kも手伝ってくれたので知っているはずだ。だから言いたいのはそういうことじゃないんだろう。

「似合ってないわよ、革手袋」
「白よりマシだろ」
「大差無いわよ、胡散臭い」
「ははは、酷いな」

まあ、クラウス以外からは揃いも揃って微妙な反応を頂いているのであまり良くないのはわかっているんだが、やめるわけにもいかない。あれ以来クラウスに近付くことが軽くトラウマになっている。素手で生活なんてとてもじゃないが出来そうにない。
USBを受け取って胸ポケットにしまい込む。K・Kは手を引っ込めて、不機嫌に息を吐き出した。

「クラっちが心配してるわ」
「うん、わかってる」
「そう。じゃあ取引しに行くくらいに心配してるのも知ってるわけ?」
「…………いや、それは知らなかった」

原因不明の症状に悩まされる僕を心配したクラウスは、原因を突き止めるべくあの取引を持ちかけたのだとK・Kは言う。残りの人生全てを賭けた対局と引き換えに望みを叶える、ドン・アルルエル。同行したことはないが、クラウスが連絡のつかない深部で時折取引しているのは知っていた。そもそもクラウスだって隠しちゃいない。だが今回そこへ行ったのは知らなかった。K・Kが知っているのは同行していたからだろう。ギルベルトさんも知っているはずだ。

「……取引して、クラウスも無事。それなのに僕は何も聞いてないけど」

彼女の言葉を信じるならクラウスは僕の異常の原因を突き止めたはずだ。それなのに何も聞いていない。至極当然の指摘をするとK・Kが鼻で笑った。

「断られたのよ。どうしてかわかる?」
「断られた?」

思わず目を剥く。断られただって? そんなこと今までそんなことはなかったはずだ。理由が皆目見当もつかない。予測すら出来なくて疑問符を飛ばすと、K・Kに虫ケラでも見る目で見られた。ええ、傷付く……。

「望みの対価が5秒だったのよ。対局に値しないって断られたわ」
「……5秒」

あまりにも対価が軽過ぎて対局してもらえなかった、と。対局していないからクラウスは何の情報も得ていない。僕が何も聞いていないのも当然だ。

「私からしてみれば1秒も必要ないと思うわ」
「はは、酷いな。…………ん? 待ってくれK・K。君もしかして原因知ってるのか?」
「…………スカーフェイス」

K・Kの声音に苛立ちが強く混じった。彼女の機嫌が底値を更新した気がする。これ以上下はないと思いたいがどうだろう。何せ相手はK・Kだ。相手が僕だと言うだけで彼女の機嫌は容易く落ちる。
きっと僕を罵る為に開いたであろう口からは言葉が出てくることはなく、一音も発さないままに緩慢に閉じた。感情任せに発言しようとして思い留まったようだ。珍しい。彼女は思ったことを隠さず口にする。僕に対してはその傾向が殊更強いのに、彼女は口を噤んだ。

「とぼけてるなら撃ち殺してやろうかと思ったけど本気でわかってないのね」
「……その口ぶりだと君はわかってるわけだ」
「私だけじゃないわよ。他にも知ってる奴は沢山いるわ」
「僕は誰からも何も聞いてないけど」

原因がわかってるなら教えてくれてもいいんじゃないだろうか。この異常のせいでクラウスには過剰なくらいに日々心配されるし、それがわかるから居た堪れない。みんな冷たいじゃないか。

「嫌よ。藪をつついて蛇を出すような真似わざわざするわけないじゃない」
「でも君は今こうやって教えてくれたじゃないか」

藪蛇とは酷い言いようだ。いや、まあしかし客観的に見て面倒そうだな、とは思う。組織のトップ2人に口を出すのはなかなかにハードルが高いことだろう。しかもことと次第によっては巻き込まれるかもしれないと来た。それなら沈黙する、か。そんな状況なら僕も黙ってそうだな。
K・Kは沢山ヒントを出してくれているんだろうが、全く答えに辿り着ける気がしない。5秒の価値しかない答えならそんなに難しいことでもないと思うんだが。K・Kが蛇蝎の如く嫌う苦笑を貼り付けたまま考えるが答えは見つからない。そんな様子をじっと見つめていたK・Kが溜息混じりに口を開いた。

「きっかけがあるはずよ。思い出しなさい」
「心当たりはないけど」

きっかけなんて言われるまでもなくとっくに考えている。少なくとも記憶にある限りで何か仕掛けられた覚えはなかった。だがK・Kは違うのだと言う。そういうことじゃないと、僕の額を人差し指で突く。そうしてこんこん、と啄木鳥のように繰り返し突いた。丁寧に切り揃えられた長い爪がちくちくと刺さる。

「い、痛い。痛いよK・K」
「ちゃんと探しなさいよ。クラっちと何かあったはずだわ」
「……クラウスと?」

それはあまり考えていなかった。異常の原因があるとすれば外部から何らかの形で干渉されたと考えるのが順当だと思う。だからクラウスはほぼ関係ないだろうと思っていた。彼女が言うにはその前提からどうにも違うらしい。クラウスとの間でこそ何かがあったはずだと。……そこまで見当がついてるなら教えてくれても良くないか。
抗議したところでそれこそ心底嫌そうに「嫌よ」と拒否されるのはわかりきっていたので、素直に彼女の言葉に従う。異常が現れるより以前は、ひとつだけ事件があった。HLでは珍しくもない、凶悪で超人的な事件。いや、主犯は人じゃあなかったけど。
特別なことはなかったはずだ。ただあの日はいつもより霧が濃くて、視界が酷く悪かった。誰の姿も視界に入れられず、孤軍奮闘してるのではないかなんて錯覚を抱きながら敵を片っ端から凍てつかせていた。それだけだ。数時間もすれば事態は鎮静化して、霧も幾分か薄くなっていた。

「あの時、クラウスに助けてはもらったけど」

視界が劣悪な中で大量の敵に囲まれて、捌ききれなくなった。取りこぼした敵が襲いかかってくるのがわかったが、カウンターも防御も間に合わない。だから一撃食らう覚悟を決めて。その後の反撃の準備をしていた。クラウスが濃霧の中から飛び出して来たのは丁度その瞬間だった。
近くで奮闘していたらしいクラウスが、僕の眼前の敵を粉砕して、元々赤い髪と服に返り血が降り注いで真っ赤に染まった。だがクラウスはそれに構うことなく拳を元の位置に戻してから視線を上げた。

「大丈夫かね、スティーブン」

オリーブグリーンが僕の姿を捉えて、安否を確認する。別に珍しいことでもない。ただ、その日は霧が濃かった。ろくろく使い物にならない視界の中でもオリーブグリーンはぎらぎらと光り輝いていて、さながら道標のようだった。この光があるならどんなに視界が悪くても迷うことはないだろうと、そんな根拠のない思いを抱いたのを覚えている。確かこの時だ。この時に、心臓がおかしくなった。九死に一生を得た直後の様に心臓が慌ただしく早鐘を打って、送り出された血液が顔面に集まって来ようとする。敵に一撃見舞えば、冷気と出血のおかげかそれが実現することはなかったが。
……うん、多分、おかしくなったのはここからだ。見慣れているはずのオリーブグリーンがやけに神々しいものに見えて、未だに瞼の裏にこびりついている。いや、でもそれじゃあまるでこれは。


「顔が青いわよ、スティーブン先生」


僕が思い至ったことに気付いたK・Kがにやにやと笑う。彼女が指し示したかった答えはこれで間違いないだろう。確かにこれなら辻褄は合う。異常にも説明がつくし、ドン・アルルエルに対局を断られるのも当然だと言える。だが僕自身が納得するのを拒んでいた。だって、そんなのは、あまりに今更じゃないか。どうして今更、そんな。

「……つまり、あれか。僕はクラウスにその…………フォーリンラブ、的な」

恥ずかしくない言い回しを考えて、結局とても恥ずかしい言い回しになってしまった。どんな言葉を使ったところで消えてしまいたいくらいに恥ずかしいんだろうから、考えるだけ無駄なんだろうが。
この際きつめの罵倒でもいいから否定してもらいたくて縋るような目を向けると、K・Kは無慈悲に追い打ちをかけた。

「ちなみにレオっちは早い段階で気付いてたわよ。病院について行く時、そんなに心配してなかったでしょ」
「…………うん」

言われてみれば、確かにそうだ。検診を受けている間、一度も心配をされていなかった気がする。少年はあの時にはもう気付いてたってことか。酷いな、教えてくれたっていいじゃないか。
それじゃあ何か、触れるのが駄目なのは単にクラウスのことが好き過ぎて平静を保てなくなってだけってことなのか? ……嘘だろう。嘘だと言ってくれ。

「ちょっと待ってくれ。それだと革手袋までして自衛してたのがすごく間抜けに思えてくるんだけど」
「思えてくる、じゃなくて間抜けなのよ。クラっちはともかくとしてあんたまで気付かないなんてね。自分のことだととことん鈍いのは知ってたけど酷過ぎだわ」
「……」

全くもってそのとおりで言い返す言葉もない。そんなはずあるわけないだろうとは思うのが、一度思い至ってしまうと全てが腑に落ちてしまう。妙に危機感がなかったのも無自覚ながらにわかっていたからなのかもしれない。

「……怒らないんだね」
「怒る? どうして?」

どうして、と言われても怒る要素の方が多いだろう。恋愛にうつつを抜かしている余裕なんてないだろう、と真っ先に思った。僕もクラウスもHLの均衡を保つ上での役割は大きい。一瞬の油断が命を脅かすし、世界の崩壊へと繋がる。隙を作りかねない感情は持ち込むべきじゃない。何より、相手はあのクラウスだ。人類ながらにして人類とは思えない精神と力を兼ね備えた人類の希望そのもの。ついでに言うなら僕より遥かに逞しい身体を持つ成人男性だ。ここは元々NYだったし、世界の仕組みが変わった中心地だけあって恋愛も形も様々だ。性別は勿論種族に縛られない者達も多く存在するし、婚姻という形も認められている。だがそれはあくまで他人事ならばの話であって、身近な者であったり当事者であるなら話は別だ。特に人類の中ではまだまだそういった形に拒否感を示す者も多い。彼女は恐らくその部類ではないだろうが、牙狩りの上層部なんかはまだその傾向が強いだろう。何せあの方々は頭が固い。歳を重ねるごとに色んなところが凝り固まって身動きが取れなくなっているようだ。
とにかく、あまりに障害が多い。いや、自覚したところでどうこうするつもりは微塵もないが、それにしたってこれはあまりに酷いだろう。クラウスとはこれまで同僚として、戦友として、親友として、副官として良好な関係を築いてきたつもりだ。信頼関係だって厚いつもりだ。それなのにこれはどうだ。この感情はクラウスに対する裏切りなんじゃないだろうか。手を血で染めても尚清廉さを微塵も失わない彼を汚す好意だ。背信と言っても決して過言ではないだろう。それなのにK・Kは僕を咎めない。いっそ立ち直れなくなるくらいにぼろぼろに罵倒でもしてくれれば持ち直せそうな気もするのに、彼女はそうしてはくれなかった。

「いいんじゃないの。恋をするのと応えてもらえるかどうかは別だし。クラっちの隣にあんたが収まるなんて私は嫌だけど、それを決めるのはクラっちだもの」
「……別に僕はどうこうするつもりはないさ」

これは本音だ。現時点でクラウスに劣情は抱いていないし、今ならまだ憧憬に近いとすら思う。変化なんて何ひとつ望んでいない。

「あんたはそのつもりでも、クラっちは納得しないと思うわよ」
「だろうね……」

僕のここ数日間の挙動は明らかに不審だった。原因はわかったが、それをそのままクラウスに伝える訳にはいかない。だが説明なしにもう大丈夫だと言ったところでクラウスは決して納得しないだろう。自分には説明出来ない未解消の何かを僕が隠しているのだと確信して強く追求してくるはずだ。適当にそれらしい理由を見つけて説明するのがいいだろうが、そんなものがあるならとっくに使っている。
なかったことには出来ない。一方通行でも何もなかった時にはもう戻れない。せめてもっと早くに気付いていれば上手く立ち回ることも出来ただろうに、もう完全に誤魔化しが効かないことろまで来てしまっている。納得のいく説明がなければクラウスは引き下がらないだろう。だが本当のことは言えない。

「クラっちなら真剣に考えてくれるでしょ」
「そうだろうけど、だからこそ言えないだろ」

いっそ気持ち悪いと一刀両断してくれるなら吹っ切れると思う。普通じゃないのは充分過ぎるくらいにわかっている。いっそ軽蔑されるくらいの方が丁度いいんじゃないだろうか。だがクラウスは決してそんな反応はしないだろう。こんな形での好意は裏切りに他ならないのに真摯に受け止め、胃を痛めながら真剣に悩んでくれるのだろう。答えはきっとNOだろうが、それでも歩み寄ろうとしてくれるだろうし赦してくれるだろう。クラウスはそういう奴だ。だからこそ絶対に言うわけにはいかない。こんなことで彼を煩わせたくはない。

「このことはクラウスには黙っておいてもらえるかい」
「外野から口出すほど私は野暮じゃないわよ。その様子だととことん逃げるつもりね、あんた」
「賢明な選択だろ」
「後々の自分の首を締めるだけだと思うわよ」
「上手く逃げ切るさ」

立ち回るのは得意だし、クラウスはこういったことには鈍いだろうし。逃げきれる自信はある。K・Kが危惧しているような事態にはならないだろう。どうこの事態を切り抜けるかはノープランだが、それは逃げながら考えるとしよう。

「はっ、クラっち相手に出来るもんならね」

無駄な足掻きだと彼女は言外に言うが、そんなことはやってみないとわからないじゃないか。


















ライブラの拠点には盤がある。使用するのはほぼクラウスだが、テーブルゲームは基本的に一人では出来ない。故に誰かが付き合わされることになるわけだが、専らそれは僕の役割だった。チェスならば皆出来ないことはないが、クラウスの手にかかれば瞬殺だ。プロスフェアーとなるとライブラでは僕かギルベルトさんくらいしか打てるものがいない。それだって簡易版だが。……まあ、要するに対戦相手として最もマシなのが僕なわけだ。それでもクラウスを唸らせるには程遠いが。

「……いつも思うんだが、僕と対戦するよりオンラインで相手を探した方が楽しくないか?」

持ち上げた駒をこつりと盤上へ進めて置く。簡易版プロスフェアーはチェスと同じ盤で行う。戦域拡大は無し、宣誓は回数制限を設けてあるので難易度は格段に下がっているがそれでも難解であることに変わりはない。チェスと同じく先攻の白が有利なので、ハンデとして僕が白になることが多い。今回も僕が白。だがここまでしても勝つのは大抵クラウスだ。実力差があり過ぎて面白く無いんじゃないかと純粋な疑問をぶつけるが、クラウスはあっさりそれを否定した。

「君との対戦は楽しい。君の一手は私とは違ってトリッキーでそれでいて繊細だ。勉強になる」
「それは、褒められてるのかな」
「勿論だ」

いいように受け取ってもらっているところ申し訳ないんだが、僕の打つ手は姑息で誠実さに欠けているだけだと思う。こういう頭脳戦はもろに性格を反映するから、こればかりはどうしようもない。クラウスにはあまり参考にしないでもらいたいものだ。
クラウスの一手は誠実だが愚直ではない。まさに彼そのものだと、こうして対局する度に思う。こつり、とクラウスが黒い駒を進めた。
若者達には情報収集に駆けずり回ってもらっている中自分達は呑気にテーブルゲームに興じていて、申し訳なさがないわけではない。だが今回は我々が動くわけにもいかなかったのだがら仕方ないだろう。若者の間で爆発的に広がる噂を若者達の中に混じって収集してくるのは若者がやるべき仕事だ。いや、まあ、クラウスも年齢的には若者なんだが外見が一般的な若者からはかなり突出しているので今回は外れてもらった。外部からの情報は収集したし、我々はそれこそこうしてテーブルゲームでもしながら待機しかするべきことがない。出来れば二人きりは避けたかった、なんて個人の事情は考慮の外だ。

「スティーブン、あれから変わりはないだろうか」

クラウスの視線が僕の手へ移る。そこには相変わらず黒の革手袋が嵌め込まれている。それを見れば変わりがあったかどうかなんて問わずともわかりそうなものだが、律儀に問うところが彼らしい。

「多分変わりないね。原因もわからないままだ」

ここ最近は立ち振る舞いのコツを掴んできて、うっかりクラウスに接触することがなくなった。だから絶対とは言い切れないが、恐らくは治っていないだろう。何せ原因が原因だ。原因がわかったところで1日2日でどうにかなるものでもない。恋の病は言わばアクセルべた踏みの自動車のようだものだ。ブレーキを踏んだところで急には止まれないし、慌てて無理に止めるとそれなりの反動を食らう。今なんとかアクセルから足を上げようと格闘しているところなので、自然に停止出来るまでもう暫く時間が欲しい。時間さえあれば上手く誤魔化せるようになるはずだ。

「君の方も収穫なしかい?」

クラウスが余計な自責の念を抱かないように、からからと明るい声音を意識してそう問う。収穫はないだろう。クラウスのツテはそう多くはない。最終手段とも言えるドン・アルルエルから引き出せないとなればそれ以上の手はクラウスには恐らくないだろう。いや、そんなに大袈裟なものでもないんだが。こんなくだらないことで胃を痛めさせているのかと思うと僕の胃も痛くなってくるようだ。
すぐに肯定が返ってくるものだと思っていたのだが、予想に反してクラウスは僅かに言い淀んだ。……何かあるらしい。それが何かまでは見当もつかないので黙ってクラウスが口を開くのを待つ。白の駒をひとつ、進めた。

「実は、園芸仲間に相談をした」
「……へえ。ちなみにどんな感じで?」
「君の症状をそのままに。私の友人達の話だということにはしたが」
「ははっ、それ多分バレてるぞ」
「うむ。そのようなニュアンスでアドバイスを受けた。やはり私は嘘をつくのには向かないようだ」

いや、というか友人の話なんて前置きは自分のことですと言っているようなものだろう。盤に視線を走らせたクラウスは一呼吸の後に黒の駒を進める。ううん、そう来たか。

「アドバイスってことは解決の糸口でも見つかったかい」
「……どうだろうか」
「いや、僕に聞かれてもな」

聞いたのは君だろう。何を言われたのかは知らないが、困惑しているらしい。自分の中でも上手く整理が出来ていないのに僕に伝えてもいいものか、と悩んでいるようでだからこそ言い淀んでいたのだろう。……そんな迷子の子供のような目で見られても何もしてやれないぞ。別に納得いかないなら報告しなくたっていいし。

「部外者が口を出すのは野暮だと窘められた」
「……へえ」

その口ぶりだと彼等は、彼女等は、気付いたんだろう。そりゃあ、まあ、気付くだろう。K・Kに指摘されるまで全く持って自覚がなかった僕が言うのも何だが、僕のリアクションはべたべたで各所で使い倒されているものだ。僕の場合は客観的に状況を整理することが出来なかったせいで自覚に至らなかったが完全に外から見れば一目瞭然だろう。更に言うならクラウスの園芸仲間はご老体が多い。人生経験豊富な彼等が気付かないわけがない。

「でもアドバイスもらったんだろう?」
「……うむ」
「あまり参考にはならない感じか?」
「それも、判断しかねている」

一体どんなアドバイスをもらったのか。気になるところだが、正直聞くのが怖い気持ちもある。そこまで見当違いのアドバイスはされていないのだとは思う。ただ相手が彼等の想定していたような人物ではないだけで。クラウスの戸惑いの原因も結局はそこにあるのではないかとも思う。
クラウスはまだもう暫く悩んでいるだろうからその間に次の手を考える。……うーん、薄々そんな気はしてたけど結構追いつめられてるな、これ。ここから逆転は難しいだろう。かと言ってあっさり諦めてしまうのはクラウスの好みじゃないだろうから精一杯の足掻きはさせてもらおう。そろりそろりと駒を持ち上げて、ことりと静かに駒を進めた。……あ、いや、この配置はまずいか。今更気付いてもどうしようもないが。いっそ宣誓した方が……いや、益々追い込まれるな。
打ってから悪打だったことに気付いたわけだが、危惧していた通りにクラウスはそこを突いてきた。クラウスが黒の駒を進めて、チェスで言うところのクイーンにあたる白駒を貪った。

「チェックだ」

プロスフェアーはチェスと構造がよく似ているので、用語もよく似ている。チェック、チェックメイトなんかはチェスと意味合いも全く同じだ。王を刈り取る音が迫っている。防がなければここで負けだ。
王を護るべく、致し方なく盾にする駒を選出する。犠牲になるとわかっていて動かすのはゲームと言えどもあまり気が進まないが仕方ない。そういうゲームだ。キングを護る為に持ち上げた駒が盤を叩くよりも早く、ぐん、と手首を引かれた。

「え」

手首から掌へ、革手袋の下へクラウスの指が潜り込む。びくりと手が跳ねて、摘んでいた駒が落下する。真下にあった駒へとぶつかって、弾かれて、あたりの駒を薙ぎ倒して配置を滅茶苦茶にしながら駒は盤から転がり落ちる。机上に転がった駒は床に落下することはなく、テーブルの端で動きを止めた。
手袋と掌の間に潜り込んだクラウスの手は緩慢に革手袋を僕の手から剥ぎ取っていく。掌を彼の指が歩む感覚で身体中の肌が粟立った。ぐ、と掴まれた手に力を込めるがびくともしない。捲り上げられた手袋は完全に外されることはなく、指先へ窮屈そうに溜まる。剥き出しになった掌をクラウスのごつごつとした指が撫でた。みっともない声が出そうになって、慌てて噛み潰す。
そうしている間に、クラウスは更に強く僕の手を引いた。流石に椅子に座り続けていることは出来なくて、腰を浮かす。

「おい、ちょっと、クラウス。どうしたって言うんだ。手を放してくれ」
「それは出来ない」

今、素肌で触れられるとどうなるかわかっているくせにクラウスは頑なにその手を放そうとしない。何だ、嫌がらせか。僕の何が気に障ったって言うんだ。……ああ、いや、わかってるさ、君がそんな無意味な嫌がらせなんてしないだろうってことくらいは。何か意味があるんだろうし、出来ることなら協力的でありたいんだがだがしかしこれは駄目だ。腹の底からぞくぞくと何かが湧き上がって、際限なく身体中を這い回って犯す。こんな状態が続けば正気ではいられない。せめて説明くらいしてくれたっていいじゃないか、と恨みがましい目を向ければオリーブグリーンの瞳がぱちりと一度隠れた。

「……アドバイスを受けたのだ」
「うん」
「手を取り、その目をしっかり見据えなさい。それから」

アドバイスをそのまま言葉にしているのだろう。クラウスの言葉に常の熱はなく、訥々と鼓膜に響く。アドバイスに沿ってクラウスが僕を見据える。実直なその性格をそのまま詰め込んだ瞳に射抜かれて、息が詰まりそうになる。どうしようもなく居心地の悪さを覚えて身体が逃げを打とうとするがクラウスはそれを許さない。ぐん、と逃げ出せなかった腕が突っ張る。絶え間なく巡る何かが耐え難くてぶるぶると唇が震えた。
ゆらり、とクラウスの利き手が持ち上がるのを視界の端で捉えた。彼の左手は真っ直ぐ僕に伸ばされて、襟元を掴む。喉は人体の急所だ。本能的な恐怖を抱いて身を引こうとするが叶わず、シャツを巻き込みながら襟元を掴まれた。恐喝でも受けているような錯覚に陥りながら、クラウスの挙動ひとつひとつを追いかける。
クラウスも椅子から腰を浮かせると、ぐ、と僕に向かって伸び上がった。ずい、と近付く顔に怯んで思わず目を閉じると、額に柔らかな感覚が伝わった。前髪越しなのでいまいち確信が持てず、そろそろと目を開くとクラウスが僕の額から唇を離しているところだった。

「く、クラウス?」
「彼女に口付けを。そうすれば私か彼女の腹が決まるだろう、と。……すまない、君が女性ではないと指摘する隙がなかったのだ」
「ああ、うん。それは別にいいけど」

性別を聞かされてないなら女性の話だと思うのも無理はないだろう。寧ろ言わなくて正解だったんじゃないだろうか。恋愛は今でこそ多様化しているがほんの最近の話で、年配の人類などはまだまだ快く思わない者が多い。無駄に嫌悪されるリスクを背負う必要もないだろう。それよりも、だ。

「スティーブン、大丈夫かね」
「うん?」
「顔が赤い」
「え」

端的に状態を指摘されて、声が上擦った。ああ、いや、そんな気はしてたんだ、実のところは。熱を覚まそうと手でぱたぱたと顔面を扇いでみるが、効果は得られそうもなかった。早く何とかしなければ、と焦れば焦るほどに熱が集まっていく。
この気持ちが憧憬に近いだなんてよく言えたものだ。こんなままごとの延長みたいな触れ合いでさえこんなに動揺しているってのに、これが憧憬だとでも言うのか。流石にそれは苦しいだろう。……ああ、そうとも、こんなの憧憬じゃない。もっと醜悪で、見苦しくて、どす黒いものだ。

「ああ、いや……」

大丈夫だと伝えようとして、上手く言葉に出来なかった。大丈夫ではないのは流石にクラウスでもわかるだろう。下手に誤魔化すと追い詰められる。いい加減に学習した。
ああ、そうさ。認めようじゃないか。形容するのもむず痒くて仕方がないが、僕はどうにもクラウスに懸想しているらしい。性欲に繋がるところまで至っていないのが幸いではあるが、正直時間の問題な気がしないでもない。だがまあ認めたところでクラウスに伝えられるかと言えば否、断じて否だ。露骨な拒絶こそされないだろうが、どんな反応が返ってくるかと考えるだけでも恐ろしい。…………告白? いや、無理だね。無理だ、無理。
襟元と手首が緩やかに解放される。それと同時に飛び退くように着席する僕をクラウスが不思議そうに見た。ああ、うん、ちょっと今の挙動はないな。僕らしくないものな。外れかけた革手袋を強めに引っ張って手を覆い隠した。

「気分を害してしまっただろうか」
「……そんなことはないさ」
「それにしては君の様子がおかしい」
「最近ずっとおかしかっただろ」
「それはそうだか」

あ、ちょっと傷付いた。いや、僕のここ最近の挙動がおかしいのは僕が一番わかっちゃいたが上辺の否定くらいはしてくれたっていいんじゃないか。いや、前言撤回。君そういうの苦手だったな。君にそういうことを期待したのがそもそもの間違いだった。うん、これは僕が悪いな。すまん、クラウス。
薙ぎ倒された駒をクラウスが立ち上げ直していく。元の位置からずれている駒もいくつかあったが、クラウスの記憶力をもってすれば完全復元くらいは朝飯前だろう。僕はいまいち自信がないのでその作業はクラウスに任せることにして、打とうとしていた駒を拾い上げた。……えーと、なんだったかな。確かチェックされてたんだっけ?

「クラウス、1日だけ時間をくれないか」

自覚はした。認めたくはないが、信じ難いが、不相応だが、これは恋慕だ。自覚が遅れたせいで誤魔化すことはもう出来ないだろう。遅かれ早かれ白状しなければいけない。それは理解している。だがその決意まで出来ているかと言われればそんなことは全く無く。今だって居た堪れなさで逃げ出したいくらいだ。決心する時間が欲しい。何日も考えたところでうだうだと悩む時間が増えるだけだろうし、それならいっそ1日だけでいい。とにかく落ち着く時間が欲しかった。少なくとも今は駄目だ。自分でも言うのも何だが、多感な思春期並みに落ち着いてない。今は無理だ。
乱される前に完璧に戻された盤を一瞥して、息を吐く。ああ、そうそう。ここまで追い詰められていた。キングを奪われない為にはこの駒を犠牲にするしかないんだった。他に手の打ち用もないので当初の予定通り、キングを護る位置に駒を置く。その様子を眺めていたクラウスが「ふむ」と一考した。考える必要ないと思うけど。

「……今月は難しいだろうが来月ならば恐らく時間が取れると思う。君は何か予定はあるだろうか」
「来月の予定は今のところはそんなに……ってクラウス、何の話をしてるんだ?」
「? 1日だけ時間が欲しいと君は先程言わなかっただろうか」
「言ったけどそれとこれとがどう関係…………ん? あ!」

ああ、なるほど。理解した。僕は一人で考える時間が欲しいとかという意図で時間をくれと言ったわけだが、受け取ったクラウスの認識がずれている。クラウスは「僕とクラウスが一緒に過ごす時間が1日欲しい」と解釈したわけだ。ちょっと待ってくれ、その解釈だとデートにでも誘っているようじゃないか。

「あー、クラウス?」
「君と仕事抜きで二人で過ごすのはいつ振りだろうか」
「……うーん、久しいのは確かだね。その辺りは君の方がよく覚えてるんじゃないか?」

訂正をかけようとしたが、ぽんぽんと花が撒き散らされていて訂正のタイミングを逃した。どうやらクラウスはその1日をいたく楽しみにしているようだ。今更勘違いです、なんてとてもじゃないが言えない。目に見えて落ち込むのがわかってる。……こういうところが甘いと言われるんだろうが、誰も見てないし別に構いやしないだろう。

「じゃあ、折角だからどこかに出掛けようか。と言ってもHL内にはなるけど。場所は考えておくけど君も行きたい場所があれば遠慮なく言ってくれ」
「うむ。承知した」

花を飛ばして嬉々とするクラウスが駒を進める。僕がついさっき動かした駒を奪って、心なしか弾んだ声音で宣言した。

「チェックメイトだ、スティーブン」

ゲームのみならず現実の攻防でも負けた気がするのは多分気のせいじゃない。

「参った。流石だクラウス」

二重の意味で降参だ。
降参のポーズを取って薄く笑みを作ると、クラウスがふんすと得意げに鼻息を吐き出した。


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