曖昧ミーマイン

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「クラウス」

呼ばれて視線を上げると、スティーブンが書類を片手に立っていた。さして枚数がないので安定せずに書類はぺらぺらと左右に揺れる。

「急ぎではないから後でいいんだが、チェックを頼めるかい?」
「ああ、了解した」

差し出された書類を受け取って机の端に置く。ざっと中身を一瞥する限りでは他のメンバーに見られて困る内容でもなかったので机にしまい込む必要はないだろう。
受け取った書類を所定の位置に置いたところで視線をスティーブンに戻す。一見した限りではいつもとなんら変わりないが、よくよく見ると彼の異変に気付くことが出来る。

「それと、少し時間を作ってもらっていいかい?」

言い淀んで、視線は僅かに斜め下に逃げる。
ココアブラウンの瞳の下にはメイクで隠して尚隠し切れない酷い隈がその存在を主張していた。全く寝ていない、ということは流石にないだろうが充分な睡眠をとっていないのは明らかだった。

「私で良ければいくらでも付き合おう」
「ありがとう」

すまない、とは言わなかった。私がそれはやめてくれと頼んだからだ。
スティーブンは眠りが非常に浅い。曰くそれは今に始まったことではなく、昔から小さな物音で目を覚ますことも多かったのだと言う。だがこの三年あまりでその症状は悪化していた。ライブラの副官的ポジションについたことで肉体的・精神的な負担が増し、それがストレスとなって睡眠を妨害していた。眠りについても僅かな物音で目を覚まし、酷いと睡眠状態が十分と続かない。そんな状態が常態化してスティーブンは睡眠時間を削り始めた。眠れないなら眠らなくても同じ。そんな理屈で睡眠時間をぎりぎりまで削り続け、それがまた常態化し、医者に不眠症と診断されるに至った。眠りたくても眠れなくなったスティーブンは得意のポーカーフェイスでそれを誤魔化し、主に目元に現れる睡眠不足の証はメイクで巧妙に隠蔽した。それでも彼は人間だ。睡眠をとらなければおのずと限界がやってくる。スティーブンは本当に限界の限界、その一歩手前でようやく私を頼る。
パソコンの電源を落として仮眠室へ足を向ける。共に向かうスティーブンの足取りはよくよく見ると平常時よりも心もとないように思う。それを指摘したところで「気のせいじゃないか」と返されるのだろうが。

「最近の睡眠時間を聞いても?」
「……あー、どれくらいかな。トータルで二時間ない、くらい、かな?」
「そうか」

こういう時のスティーブンはありのままに話さない。私を過度に心配させないよう、少し盛って報告する。その悪癖を考慮するに実際の睡眠時間は一時間あるかないかと言ったところか。
ここ最近いつにも増して眠れていないようだったのはわかっていた。ただ、こちらからそれを切り出すとスティーブンは決して受け入れようとはしない。スティーブンは己のことを酷く知り尽くしていて、どこまでなら耐えられるのか限界をわかっている。だからその限界ぎりぎりまで頼ろうとしない。強引に頼らせることは勿論可能だが、それをしてしまうとスティーブンは今よりも遥かに巧妙に疲労を隠そうとするだろう。そうして今以上に私を頼らなくなるに違いない。

「上着を」

仮眠室に入るなり手を差し出す。スティーブンはその手を拒否しようとしたが私が譲らない姿勢であることを悟ると大人しく上着を脱いで手渡した。受け取った上着は皺がついてしまわないようにハンガーにかけて吊るしておく。

「君は脱がなくていいのかい」
「大丈夫だ。スティーブン、靴も脱ぎ給え」
「わかってるよ」

マドレみたいだな、なんて軽口を叩きながらスティーブンは武装を解除する。それからすぐにでも装着出来るようにベッドの近くに揃えて置いた。私も靴を脱いで、彼とは反対側に靴を揃えて置く。
スティーブンが膝からベッドに乗り上げる。ベッドのスプリングが軋む。更に私も続くとベッドは更に大きく、悲鳴じみた軋みを上げた。

「流石に大男二人は負担が大きいみたいだ」
「うむ。頑丈なベッドに新調するべきか」
「やめとけ。ザップあたりに痛くもない腹を探られるぞ」
「そうかね?」

ライブラの資金の不正利用だとか、そういった話だろうか。しかしこれはスティーブンの睡眠確保の為に必要な出費であり、不正ではないように思う。それでも認められないラインだと言うなら個人的に出費しても一向に構わないのだがそれはスティーブンに拒否されるだろう。

「ああ、すまん。余計なことを言った。君はそのままの君でいてくれ」
「?」

そう話すスティーブンの瞼は重そうだ。眠れないからといって眠くないわけではないのだと、以前彼は言っていた。駄目だ、早くスティーブンを寝かせなければ。
スティーブンの側頭部を掴んで自分もろともベッドへ引き倒す。大男二人が倒れこんだせいでベッドが軋む。やはり新調すべきか。

「クラウス」
「早く寝たまえ」

不眠症に悩まされているスティーブンはこれまであらゆる方法を試して眠りに落ちようとした。その中で全くもって偶然なのだがひとつ、眠れる確かな方法を見つけ出した。心音だ。とくとくと微かに脈打つ心音を聞いていると微睡んで熟睡出来るそうだ。その言葉に嘘はないようで、一度心音で眠ったスティーブンはちょっとやそっとの物音では目覚めない。
しかしながら心音を聞きながら眠る為には誰かに添い寝してもらう必要がある。それなら女性の方が適任なのではないかと思ったのだが、スティーブンはそんな相手はいないと言う。更に言うなら心音で眠るスティーブンは普段が嘘のように起きないので万一奇襲を受けた時に対応が出来ない。それも考慮に入れた上でスティーブンは非常に不本意そうに私にその役を頼んだ。スティーブンの睡眠の為なら私が断らないことはわかっていたのだろうし、何より私が近くにいるのなら熟睡してしまっても問題はない。以上の理由からスティーブンは私を適任だと判断した。それならば私が断る理由はない。
心音が聴きやすいように、とスティーブンの顔を胸に押し当てる。

「わかってると思うが僕が寝たら離れていいからな? 君が離れたくらいじゃ起きないから」

スティーブンがわざわざそう釘を刺すのは私が時折スティーブンと一緒に眠るからだ。私が離れたところでスティーブンは起きないのだが、いつもどこか苦しそうに眠っている彼が穏やかに寝息を立てている姿を眺めているとつい私も眠くなってしまう。業務に支障がない時なら構わないだろうと返したことがあるのだが「君はこの状況を客観的に認識した方がいい」と苦々しげに返されてしまった。何のことだろうか、と返すと「ああ、いい。君はそのままで」と先ほどと同じような答えを返されたのは記憶に新しい。
心音の効果は劇的のようで、早くもスティーブンは微睡み始めていた。本当にぎりぎりまで耐えていたのだろう。

「あまりに起きないようなら君が帰る直前でいいから起こしてくれよ……」

以前は二時間で起こしてくれ、と時間単位で頼まれていたが私がことごとくその約束を果たさないので最近は頼まれなくなった。本当に彼の力が必要ならば起こすし、私や他の面子だけでなんとかなるなら出来るだけ寝かせておいてやりたいと思う。この口論は何度かして、結局スティーブンが折れた。時折「どうして起こさなかった」と抗議はされるが。
間もなくして「すう」と空気を控えめに吐き出す音が聞こえてくる。視認は出来ないが、どうやら眠ったようだ。これは演技ではなく、スティーブンはいつも五分と保たずに墜ちる。今回は随分と早かったが。
スティーブンの言葉通りに抜け出そうか悩んで、やめた。急ぎでやらなければいけない仕事はなかったはずだし何かあればギルベルトが報告に来てくれるだろう。それに、スティーブンは一度眠り込んでしまえばもう大丈夫だと言うが心地いいのなら心音は聴き続けていた方がいいのではないかと思う。帰宅しても彼は一人では上手く眠れない。今日からまた限界へのカウントダウンが始まるだけで根本的な解決にはなっていない。それならばせめて少しでも長く、少しでも心地よく眠っていてもらいたいと願う。

「スティーブン、私も眠ろう」

願わくば、日が落ちるまで眠りを妨げられることのないように。
誰にでもなくそう祈って、目を閉じた。規則的に聞こえてくる寝息が心地よく、彼にとっての心音はこんな存在なのかもしれないと微睡み始めた意識の中でぼんやりと思った。


心音に墜ちる


どちらかと言うと寝汚そうかもしれない

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