今吉と女
疾風怒濤の高校時代の名残を撫でるような、奇妙に穏やかな大学生活だった。時間なら持て余していたので適当にいくつかアルバイトをはじめた。そのうちのひとつが定食屋の厨房で、彼女は同じバイトの一人だった。 「いい名前だね」 自己紹介をしたときの第一声がそれだった。彼女は風貌も雰囲気もごく普通だったが、なぜか敬語だけはまったく使えなかった。 「普通の名前やないです?」 「いいじゃん、普通の名前。変な名前よりよっぽどいいでしょ」 そう言って馴れ馴れしく笑った。その時点でうすうす気づいていたが、彼女は仕事ができなかった。
さして接点は多くなかったが、休憩のときにはたまに会話をした。休憩用の部屋に置かれたテレビで競馬を見ているときは、それなりに盛り上がった。 「競馬好きなんだ?」 「んー、まあ。でも馬券は買わんから心配いらんで」 「そうなの。私は買うけど」 訊けば競艇やパチンコも好きだという。今吉はギャンブル自体には興味がなかったので、それ以上会話は続かなかったが。 また別の日には、彼女は懸賞用のハガキを書いていた。けっして綺麗とはいえない字をぼーっと見ていると、名前欄に見飽きた名前が書かれていることに気付いた。 「使用料の入金まだみたいやけど?」 「当たったらでいい?何度かあんたの名前借りてるけど、まだ当たったことないんだ」 「そんな縁起いい名前やないしなあ」 「でも、いい名前じゃない」 会った時と同じように、彼女は言った。自信に満ちた声だった。そして誇示するように名前欄、『今吉翔一』という字をなぞってみせたが、今吉にとってそれは、いいも悪いもないただの自分の名前だった。 「わからんな〜……」 「そう?幸せになれそうな名前だと思うけど。私が籤引きの神様なら、絶対この葉書を選ぶわ」 「誰やそれ。しょぼい神様やな!」 今吉が笑うと、彼女は真面目なことだと眉をひそめた。それだけの会話だった。以降も彼女は何度かハガキを書いていたが、今吉のもとに使用料が入ってきたことはなかった。
なかったのだが。 店を辞めるのだと話す彼女の腕には、薄っぺらい素材の箱が抱えられていた。 「やっと当たったんだ。あげる」 「使用料、まさかの現物かい」 「要らなかったらメルカリとかで売っていいからさ。非売品らしいし」 中身はペアのマグカップで、ゾウだのキリンだのが可愛らしい絵柄で描かれている。背丈が180センチある男に渡すものではないし、神様が贈ってくるにはくだらない。だが、そういうものかもしれないと思った。籤引きの神様とやらが案外しょうもないことを今吉はよく知っていた。彼女が敬語を使えず物覚えが悪いように。今吉がバスケで栄冠を手にできなかったように。ささやかな当たり外ればかりがきっと大量に転がっている。 彼女が去った休憩室で、今吉はスマートフォンの電話帳を開いた。久々にみるその名前は、自分よりよほど良い名前だと思う。数回のコール音の後、懐かしい声が応答する。 「なあ、ワシとお揃いのコップ使う気にならんか?」 嫌がる返事を思い浮かべて、今吉は自然と笑ってしまう。罰当たりな奴だ。そしてきっと、それでいい。
Don't bless you
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