アンキア

この女を主人公にできるかと、問われている気がした。アンデルセンが殺生院キアラと出会い、契約したことに意味があるとするのなら、おそらくはその問いがためだった。思想はないが欲望はある。慈愛はあるが倫理はない。この世のすべてを使って自分の欲を満たしたいのだと、聖母のように微笑んで言う女。アンデルセンは彼女のためだけの物語を書くことにした。悪逆非道の女が掴むハッピーエンドを、見てみたいと思った。

「あら、あら。アンデルセン。今日は珍しく勤勉ですのね」
切れたインク瓶を開封していると、キアラがふらりと現れた。休みなく暗躍を続けているわりに、その頬はいつも薄紅色で皮膚には張りがある。白魚のような手で、アンデルセンが苦戦していた瓶の蓋をあっけなく開けてしまいさえする。「仕方ありませんわ、その可愛らしい姿に腕力など期待していません」くすくすと笑うが、甘い声には嫌味が一筋混じっていた。
「他人の精力を吸い取る色欲魔には勝てんさ」
「酷い言い草ですこと。私は私なりに奉仕しているだけだというのに」
キアラは微笑んだまま、ふとアンデルセンの足許に跪いた。座った椅子の座面から床に届かない小さな足に触れ、靴下を捲り上げる。
「何をする、俺まで食い物にする気か」
「それも悪くはないでしょうけど、貴方は嫌がるから」
女の指が足の皮膚を、かつて皮膚だった鱗の重なりを撫でる。声なき民がもたらした呪いのひとつ。人魚姫の悲劇の代償だった。
「……私なら貴方を呪ったりなんてしませんのに」
「お前は夢を見ないからか」
「いいえ。だって私は、童話を書く人はきっと優しい、きれいな人に違いないと思っていましたから。祈りこそすれ呪いはしなかったでしょうね。現実の作家はこの有り様でしたが」
「ふん。残念だったな、ざまあみろ」
「でもきっと、貴方を呪う人はいなくなる」
私の願いが成就すれば、そこに意思あるものなど残らないから。キアラは甘く蕩ける瞳で言う。アンデルセンも誰も映さぬ、ただ快楽に溺れた女は美しかった。誰にもどうしようもないからこそ、何からも逸脱して美しかった。

だが、アンデルセンはこの女に踏み込みたい。その心の奥底まで見抜いて物語にしたい。そしてその物語を、殺生院キアラの閉じた美にも勝る美しい物語にしたい。それが現在アンデルセンが持ちうるただひとつの夢だった。
足にくらいならキスをしてもいいかしら。アンデルセンの夢、ただひとりの主人公は言う。なぜか気分が良かったので頷くと、女の熱い唇が一度、鱗を掠めて離れた。肉欲の塊のような女のはずなのに、その口づけはひどく淡く幻のようだった。
アンデルセンのみる夢は、書きかけの物語は、まだどこまでも不確かで美しい。


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