小田切と福本
死にたかった訳ではないが、死に損なったとは思った。飛崎の人生はそうした、生と死のどちらにも触れられない彷徨の具象だった。 終戦の後、シベリアでの抑留を経て自国の土を踏んだ瞬間、飛崎の胸を去来したものは安堵ではなく諦念であった。ほとんど死を意味する最前線への配属も、凍土での尊厳なき労働も、飛崎という男から何一つ奪いはしなかった。完全なる兵士として、心なき道具として、あるいは惨めな狂人として、血と土煙に魂が摩耗されて果ての果てまで追いつめられるを彼は己に期待していた。しかしながら数多の犠牲の果てに焦土に降り立つ自分ときたら、あの日D機関を去ったときと何一つ変わらない、何処からもどうしようもなく異邦人だった。 俺は、つまり時代や環境がためではなく、ただ俺が俺であるためにこんな有り様なのだ。そう認め、そして認めた事実がこれからの一生もまだ付きまとうことを飛崎は予感し、自身の内に這う諦念をいっそ静かな心持ちで受け入れていた。
配給に向かう人の波をくぐり、飛崎の足は自然とかつての学舎に向かっていた。当然ながらその建物は焼きつくされ、梁や床の残骸がほうぼうに散らかるのみだった。果たして、ここに生きた彼らは今どうしているのだろうか。公にはD機関は解体されたはずだが、あの結城が生きている限り、水面下ではまだ諜報にその身を捧げる男たちが息をしているに違いない。それとも、結城も学舎同様、呆気なく亡き者となったのか? かつて自分も生きた場所の名残をぼんやりと眺める飛崎を、幾つかの人影が邪魔だとばかりにぶつかり、或いは避けてゆく。不健康そうな顔色と、焦点の定まらない眼差し。その群れの中に見知った姿を認め、飛崎は彼の名前を呼ぼうとし、それが本名ではないとすぐに思い出して止めた。しかし視線が交わったために、声は二者の間には不要だった。かつてもそうであったように、小田切と福本には沈黙こそが符丁だった。
「福本、と呼んでいいか」 「ああ。俺も、小田切と呼ぼう」 かつて飛崎が福本と呼んでいた男は、最後に見たときと変わらない容姿をしていた。大柄であること以外は印象に残らない。ただ、眼だけが妙に透明というべきか、やたらと子どもじみた無邪気さがあった。恐らく彼は、戦時中も変わらずスパイであり続けたのだろう。 「口封じの代わりにでも、前線に行かされたのだと思っていたが」 「その通りさ。ただ、運よく死ぬ前に戦が終わった。それから後がまた色々あったが、耐えられない程じゃなかった」 「確かに小田切なら、耐えられただろう」 福本はごく自然に、つい昨日も会ったばかりのようにその名前で呼んだ。感情のこもらない彼の声色は、当時の小田切にとって心地よかったことを、不意に飛崎は思い出した。誰にも興味がないと言わんばかりの素っ気なさが気楽だった。二人は恐らく友人ですらなかった。 「久々に、その名前で呼ばれた。おまえは本当に変わらないな」 「おまえは取り繕わなくなった」 「必要がない。軍人には、ほとんど何も」 偽の名前も、経歴も、或いは情緒の切れはしさえも、生死の奔流の前には意味がない。飛崎はただの装置だった。結城の手駒であったころよりも道具だった。だからこそ満州とシベリアの数年間は飛崎にとって全く手触りのない時間であった。 福本の横顔を伺う。この無感動な顔が彼の偽りない感情を表しているのか、昔も今も分からないままだ。そしてきっと永遠に、知らないままなのだろう。だがそれは存外悪いことではないという気がした。この知己は自分とは遠く離れた場所に存在する他者だった。他者だからこそ、何処にも行けない、何にもなれない自分の形を、明確に感じさせてくれた。 「……おまえが人を殺すところを見てみたかった」 ふいに、福本が静かな声で言った。ああ、この男にとっても、自分は他者なのだと飛崎は思った。飛崎は返事を選ばず、沈黙を選ぶ。かつては煙草で会話に小休止を入れたものだが、そんな贅沢品がこの時世にあるわけもない。ただ福本と、その背に広がる空と瓦礫を眺めた。何もかもが燃死体のような街の名残にあっても、空は突き抜けて青い。雲は渦を巻いて更なる天に伸びている。その美しい青空が何もかも無意味だと囁いているようで、飛崎はひどく、うれしかった。不変の空の青さ。変わらない、塑像めいた男。何処にも至れない自分。 飛崎は福本の左胸に拳を突き出し、ナイフで刺す真似をしてみせた。福本は変わらず能面のような顔で、それでも少し、笑っていた。
旅上にて
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