16



喉の奥に指を突っ込まれ、何度もえづいていた。
ライナーの指が歯に当たり、私の舌が自然とライナーの指を舐める。
いっそ口に入れられている指を噛み切ってしまえばいいのだろうけれど、私の力じゃ無理だ。
喉奥に爪と指先が押し込まれ、ぼたぼたと涎とも胃液とも判別のつかない液体が流れてくる。
透明なその液体はライナーの手の甲から滴って、トイレの中へと垂れていく。
えづいて、背中の筋肉が痛む。
隣にいるライナーの顔を拝めないのが残念だが、真っ白な便器が心底憎く思えた。
大きな指を口腔内に突っ込まれて、口の端が切れそうだ。
人差し指と中指を遠慮なく喉に押し込まれ、潰れた声が出る。
汚い、人に聞かれたくない声。
げほ、ごほ、と延々と喉の異物感と吐き気と戦い続けるのも、嫌になってきた。
逆流する圧力に負けて、目から涙が零れる。
喉の奥が一瞬開いたと同時に、食道からものがせりあがってきた。
便器に吐瀉物がぶちまけられ、白い便器が一気に汚れた。
目の奥が押され、涙が零れる。
顔に集まっていた血が、一気に引くのが分かる。
食道から逆流するそれを喉と口腔で感じ取り、余計吐き気が襲ってきて、また嘔吐する。
数日前に齧ったトーストらしきものが出てきた。
消化すらされてない。
喉から舌にかけて、食べた欠片が広がる。
大部分は口から流れ出たけれど、不愉快なものは不愉快だ。
嘔吐し、噎せる私の背中を、ライナーの腕が撫でた。
指が引き抜かれ、舌を嘔吐したものが撫でる。
喉元が熱い。
「なまえさん、やっと吐けたね。」
背中を撫でる手が、やけに暖かく感じる。
私の体温が低いだけだ。
「すごく辛そうだったから。」
優しそうなライナーの声が、耳に嫌なまでに響く。
便器に向かって俯く私に、心配そうに話しかけてくる。
「つわりなのに上手く吐けないんだろ?」
何を言われているか、まったく分からない。
私がおかしいのか、ライナーがおかしいのか、どちらだろう。
目の前のライナーは、正気な目をしている。
口の中の酸の味は、一体なんなのだろう。
私は、ついに泣いてしまった。
目の中も、口の中も熱くて乾いている。
吐瀉物がかかった髪の毛先がべたついて、胸元が冷たい。
ぼろぼろと、涙が零れる。
視界が涙でどんどん歪んでいく。
「なんで、泣いてるんだ?」
ライナーの顔も見れず、問いかけにも答えられず、嘔吐したせいで焼けそうな喉から声も出ず、ただ泣いた。
声をあげずに泣いて、何になるというのだろう。
便器にぶちまけられた吐瀉物の上に、涙が落ちる。
「なまえさん、なまえさん、お姉さん。」
ライナーの手が、肩にかけられた。
大きな手の暖かさが、抗えない不快感にしか変わらなかった。
本人が現状に気づいているのか気づいていないのか、まったく察しがつかない。
ゆっくりと、痛みが広がる喉を押さえてライナーを見た。
何一つ変わらないライナーが、私を心配している。
「やだ」
その一言だけが、私の口から漏れた。
胃の中に残った最後の食べ物まで吐き出すように、言い捨てた。
私の頭の中が静寂で支配されている間に、ライナーの顔が悲しそうに歪んでいった。
どうしてそんな顔をするんだろう、と私は思っているけれど、相手にしたらどうしてそんなことを言われなければならないんだ、といった具合だろう。
「お姉さんまで俺に違うこと言うの?」
まで、ということは今まで拒絶されてたのか。
すこしだけ思考回路が回った自分に感心しながら、嘔吐物の残る口の中の唾液を飲み込んだ。
「何も違うことなんていってないわ」
吐いたあとだというのに、わりかしまともな声が出た。
拒絶と取れる言葉を違うと言い張るとは、一体どういう神経なのだろう。
気にはなるけれど、悲しそうな顔を見る限り、狂ってはいなさそうだ。
だからこそ、説得は無理。
私はそう判断した。
「なんで。」
寂しそうな声を聞いて、可愛そうだとは思う。
疲れ果てた眼球で見つめ返す、それしかできない自分の無力さに怯えた。

「なまえさん?いる?」
トイレの壁に耳を当てる形でうなだれていた時に、ふと聞こえた。
幻聴がとうとう聞こえた、そう思った。
その声は壁のすぐ向こうの、すぐまた向こう。
玄関のほうから聞こえた。
わずかに瞼を開けて、見えているものの中に幻覚がないことを確認する。
頭も呼吸も、乱れていない。
壁につけていた耳を頼りに、判断した。
ベルトルトくんだ。
まさか、そんなわけがないと思う気持ちの反面、とてつもない安心がこみ上げてくる。
そしてその声が幻覚ではないということが分かり、張り詰めていた肩の力が抜けた。
ライナーが、その声を聞いて玄関へと向かった音がしたのだ。
助かる、そう思い、重くて張った痛い足を無理矢理立たせる。
耳を澄ませる前に、すぐに這ってトイレのドアを開けた。
ドアノブまでの距離が遠く感じて、膝が痛んだ。
骨盤が軋み、太ももの内側が痛む。
ガチャ、とドアを開け、立ち上がろうとした。
壁に寄りかかって立つと、すぐ足元で何かが盛大に転がった。
足に響くくらい大きな音を立てて倒れたそれは、ライナーにしがみつくベルトルトくんだった。
羽交い絞めにしたまま、玄関の段差にひっかかって転んだ様子だ。
開いたままの扉が奇妙な影を作って、二人が異様に見える。
「なまえさん!!」
ベルトルトくんの必死な声にハッとして、開いたままの扉まで走った。
普段なら軽い扉も、とても重く感じた。
ほぼ、体当たりで扉を開ける形でなんとか外に出た。
すぐ近くの階段から降りようと歩いたけれど、足首が猛烈に痛んだ。
変な体勢をずっと取ったおかげだろう。
冷たいコンクリートの廊下を走って、手すりを掴みながら階段を降りる。
あと数段、というところで、盛大に躓いて転んだ。
転んだことはどうでもいい、遠くから聞こえる、ライナーの怒号とベルトルトくんの悲鳴に近い何か。
それが聞こえるだけ、マシだと思った。
きっとその声に気づいて、誰か来るだろうから。
転んで打ち付けた半身を押さえて、そのまま座り込んだ。
久しぶりに浴びた陽の光が、眩しい。
寄りかかる冷たい壁に、これほどまでに感謝する日が来ようとは。
私は意識を手放した。






2013.08.16

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