美大生の初夏


現パロ
・美大生設定
・大体尾形のせい




尾形が高校時代にロシアに留学した際に出来た友人の話は、前々から聞いていた。
名前はヴァシリ・パヴリチェンコ。
シューティングバーに一緒に行ったところ二人で凄まじいスコアを叩き出したとか、彼は絵が上手いとか。
訛りの無いロシア語をヴァシリに教わった尾形は、ロシア語が上手くなって戻ってきた。
あの尾形にモノを教えることができるのだから、只者ではない。
白石は「ぜってーにヤバい奴だって!尾形と分かり合えるくらいだし、初対面で殴ってきそう。」と会ったこともないヴァシリを恐れていた。
大沢の「フィーリングって大事じゃん?」という言葉に同意しつつ、尾形の知性を懐柔した存在は印象に残っている。
何を考えているか分からない顔をした尾形とシューティングバーに行けるんだ、普通の人ではない。
そのヴァシリが交換留学生として日本に滞在することになったと聞いて、私はすぐに興味を持った。


「元気?」
「げんき。」
エプロンを絵の具まみれにしたヴァシリが扉を開けて、私を出迎えた。
部屋からは油絵の独特の匂いがして、マスクなしでは苦しい。
クッキーの箱を片手に見せると、ヴァシリの顔が明るくなった。
「なまえ、今日まだ食べてない。」
「いま昼の2時だよ…」
ヴァシリは放っておくと、寝食を忘れて絵を描き続ける。
尾形を交えて三人で会う機会がある時くらいしか家で食事をしないことも、絵具で手足が汚れた時しか風呂に入らないことも、今は驚かない。
彼は、間違いなく天才なのだ。
お邪魔します、と上がるとヴァシリは手を洗ってから、二人分のコーヒーを用意しはじめた。
二部屋あるアパートのど真ん中に、見る者の目を奪う油絵が置いてある。
「これが次の絵?」
「展覧会に出す、来月には完成。」
「描きたいものを描くって、どんな気分?」
「最高。」
絵の具がついた腕でコーヒーカップを取り出したヴァシリが、手際よくコーヒーを淹れる。
油絵のことは、殆ど分からない。
筆を使い分け、細かいところを描くための集中力と体力が物をいう最中なのは、素人目にも分かった。
辺りに散らばった絵具やゴミやタオルを邪険にする気もなく、絵を眺めているとヴァシリが話しかけてくれる。
「ロシアの美術の先生、その絵のレポートを待っている。」
「えーと、イリヤ先生だっけ」
「そう、イリヤ。」
ヴァシリの描いた油絵を茫然と眺め、芸術とは何か考えた。

絵を描き続けるヴァシリを何度も遊びに誘っているうちに、尾形が「もうお前ら二人で会えよ、なまえがアトリエに行けばいいだろ。」と言い放った。
思えば、尾形なりの気遣い。
今日と同じ、よく晴れた日のこと。
尾形は私だけをヴァシリの家に向かわせ、栄養失調になってアパートの玄関先で倒れているヴァシリと遭遇させた。
油絵に集中すると、ヴァシリは寝食を全て忘れる。
倒れるヴァシリの側にあった油絵は、筆舌に尽くしがたい素晴らしさだった。
その絵は無事発表され、『ロシア出身の美大生が描く油絵が、この世のものとは思えないほど美しい』と、話題を独占。
絵も、ヴァシリにも、上手くいってほしい。
寝食を忘れて絵を描くヴァシリが心配で定期的に家に行くようになった、と報告すれば「はあーあ、ようやく付き合ったか。」と半笑いで言われ、尾形の肩をド突いた。


油絵から目をそらし、山積みになったクロッキーブックとスケッチブックを見る。
冷蔵庫が開閉される音がしてから、コーヒーの香りがしてきた。
スケッチブックを見る私に気づいたヴァシリが、コーヒーを片手に微笑む。
「学校、課題。レポートもある。」
「あ、これ?すごいね」
いくつも重なる分厚いスケッチブック。
夏休み前に出る課題は大変だという興味本位で努力の結晶を手に取り、すこしだけ見てみる。
風景から人物像まで、精巧に描かれたそれらに魅入られた。
見ているだけで心が動かされ、近くにあった別のスケッチブックを手に取った。
表紙に〈チェック用〉と書かれたスケッチブックを開く。
裸、裸、顔と性器、性器、体液と裸、断面図、体液と顔、裸、裸、性器に囲まれた顔。
脚を開いている、全裸、体液、顔、表情筋、指、舌、液体。
描かれている人間は全て女性。
肉感的で扇情的なあれそれと、あられもない姿の女性の間には線が引かれている。
画の中の性器を隠すように貼られた大きめの付箋には日本語で〈だらしねえケツにブチこんでやる〉〈どいつもこいつもメスの顔しやがって〉と書かれていた。
このスケッチブックに描かれたものが何なのか。
裸婦画と表現するよりも早い言葉を、私は知っていた。
「えっ…ろ、漫画?」
スケッチブックを手にする私を見たヴァシリが、手に持っているコーヒーカップを震わせた。
言葉ではなく、画で表現するために海を渡るような人だ。
どんな絵を描いていても、不思議ではない。
コーヒーカップを近くのテーブルに置いたヴァシリが、なまえと名前を呼んだ。
スケッチブックを手に唖然とする私を見つめるヴァシリの目に光がなく、不安が過ぎる。

「線で表現する方法、日本だけ。持っていても怒られない日本、シェアで沢山のお金になる、日本。」
ヴァシリは、言い訳や謝罪をする前に語り出した。
「お金は画材を豊かにする、お金は必要。」
コーヒーの匂いがするリビングで、ヴァシリの熱弁を受けながら思う。
シェアでお金になる、ということの意味を察してから気づく。
ヴァシリの日本語は決して上手くない。
付箋に書かれていた日本語は、誰のものなのだろう。
「シェアは一人でやってるの?」
「尾形と。」
「これ、誰が翻訳してるの?」
「尾形。」
死んだ目の刈り上げ頭の男を思い出し、頭痛がした。
スケッチブックを閉じて、元の場所に戻す。
ヴァシリが嘘をついていないのは、すぐに分かった。
付箋に書かれていた卑猥な言葉の筆跡に見覚えがあったような、なかったような。
額を押さえると、ヴァシリが必死の形相で私の肩を掴んだ。
「なまえの安心がほしい、尾形とは友達。」
「なんの!?」
大きな手が、私の肩を揺さぶる。
ええと、ああ、と呻いたあと、ヴァシリが国の言葉を話した。

『漫画の中でばかりセックスしていて、最近していない。本当はなまえとしたい、愛を伝えたい。』
「え…………なんて?」
『男の性欲は金になる、女の性欲は愛になる。』
真剣な目をしたヴァシリが、一息おいて日本語で話す。
「絵に向かう気持ち、全ては同じない、なまえに分かってほしい。」
「それは、まあ」
「絵画の女性、見る人の心の中で微笑む。わかるか。」
「…わかる。」
「愛、言葉なき伝わる。」
半分ほどしか意味の伝わらない日本語。
つまり、受け取る側の問題だと言いたいのか。
ヴァシリはエロ絵が詰まったスケッチブックを手にして、私の目の前に差し出した。
開けて寄こしたページは、漫画の導入部分。
卑猥なシーンはなく、男女が喫茶店で話しているところが書かれている。
貼られた付箋に書かれた言葉から〈交際期間の短い男女が、ホテルに行くかどうか話している〉シーンだとわかった。
スケッチブックを見る私に、ヴァシリが問う。
『私の描いたものは女性の劣情を誘えるか?なまえは描かれたセックスを読んで盛り上がるのか?』
次のページを見ても、似たような光景が続く。
横にある尾形の字で具合が悪くなりそうだ、と正直に言うか迷っていると、ヴァシリならではの悩みが飛び出す。
『芸術は愛が無いと生き残れない、それが今の課題だ。』
「……ヴァシリ」
『愛を描けるようになりたい、なまえに抱く愛を描けなければ。』
変な目で見て悪かった、と思う。
おそらく、これを持ちかけたのは尾形だろう。
毎日大量の絵を描き、部屋から出てこないヴァシリを適当な誘い文句で観光地に連れ出し、そういったものに興味を持たせ、描かせる。
尾形ならやりそうだ。
利益を見て手を組んだのならば、ヴァシリは真剣に絵を描いている。
人から生み出されるものは、人の心を常に揺らす。

『愛と金はイコールじゃないわ』
ロシア語を話した私を見て、ヴァシリが短く息を吸い込む。
何を言ったか、言われたか。
『わかるなら、ロシア語で話せ。』
『少ししか話せない』
分かっていたけど、遮らず。
ロシア語を打ち切って、スケッチブックを見た。
絵はとても上手いし、誰が見ても目を引くものだということは分かる。
「今のところ、私は欲情しない」
「そうか。」
置いてきたコーヒーを取ったヴァシリが、鼻歌を歌い出す。
彼の頬が赤い。
きっと私の顔も赤いだろう。
コーヒーを飲んだヴァシリを見て、私もコーヒーを飲む。
あまい、甘いコーヒー。
油絵と画材と紙とコーヒーの匂い。
シューティングバーでスコアが書かれた紙にまで絵を描きだしたヴァシリを思い出し、絵画はヴァシリの全てだと感じる。
一週間ほど寝ずに絵を描いていたヴァシリの疲れ切った目と幸せそうな顔に、尾形と二人で狼狽したこともあった。
これがないと、彼は生きていけないのだ。
「でも、あれね。真面目に描いたのと漫画は絵が違うね」
何度か頷いたヴァシリが、冷蔵庫から出したケーキを切りながら答えた。
「タッチ変わる。」
描くもので絵柄が変わる、というのは耳にしたことがある。
ヴァシリも向き合うものによって画風が大なり小なり変わるのかもしれない。
小さなお皿に乗ったケーキを差し出され、ヴァシリは話を続けた。
「なまえがエロいと思う、なに?」
お皿を受け取り、呟く。

「留学生の良い男が、面食いの女を家に上げちゃって襲われるやつ」
「それ、今。」




2022.06.12



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