ぼくらの永遠よ!





古びたマーレ軍のズボンに薄いシャツ。
血の混じる浴槽の湯に浸かり虚空を見つめるライナーの薄い唇から、唾液と混じった真っ白な泡が零れる。
散らばるナイフと酒瓶、噎せ返るような香と精液の匂い。
堕落に相応しい姿で安らぐライナーに、声をかける。
「気分はどう?」
浴室なのに声が響かない。
大きなバスタブを一室に持ってきただけで、元々浴室ではないのだろう。
床の湿り気と水は捌ける気配もなく、材質の底へ沈んでいく。
「最悪だ。」
「ねえ、自分だけが世界で一番孤独だって顔しないで」
「なまえに分かるのか。」
どうしてここに私がいるのか気にする余裕もどこかへ飛ばしたライナーが、髭面のままぼんやりと掠れた声を出す。
腕の大きな切り傷は、他害ではなさそうだ。
部屋を移動し、リビングのテーブルにある救急箱を手に取る。
ソファにはベルトルトが腰かけ、散らばっていた本の一冊を手に取り読みふけっていた。
ヴィリエ・ド・リラダンの『アクセル』を読むベルトルトの顔を見たのは、久しいような、久しくないような。
ベルトルトは熊のぬいぐるみを抱きながら、読書に耽る。
邪魔をするのは悪いと思いつつ、声をかけた。
「ベルトルト、そのぬいぐるみいつ持ってきたの?」
「これはなまえが置いていったんじゃないか、忘れたの?」
「あ、そうだ。うっかりしてた」
あはは、と笑うとベルトルトも微笑んでくれた。
読書を再開したベルトルトを見ながら、ソファに鎮座する複数の動物のぬいぐるみを見る。
猿、鰐、鳥、すべてのぬいぐるみをどこかで見たような気がする、そんな感覚に包まれるのも今ここにいるせい。
救急箱の中にあった包帯を手に、バスタブのある部屋に移動する。
「消毒は…いらない。」
半開きの覇気のない目をしたライナーが、包帯を持った私を見た。
「治りにくくなるわよ」
「そん時はなまえが縫うか切り落としてくれ。」
「私、そんなことしないからね」
期待してなさそうなライナーは、ああ、と乾いた返事をしてから目を閉じる。
寄り添い、血まみれのナイフや酒瓶、滲んで読めなくなった手紙を何度も跨いでライナーの側に座り込む。
対して深くもない切り傷に包帯を巻きながら、ライナーの吐息に耳を澄ませた。
澄み切った山で呼吸するような、肺から気道までの潤いの果てが聞こえる傍ら、隣の部屋にいるベルトルトの手が本のページを捲る音がする。
読書の邪魔をするのは気が引けるけど、なんとなく声をかけずにはいられなかった。
『アクセル』を、どこまで読んだのだろう。
出来ればもっと読んでほしいけれど、包帯を巻き終わってから生きることは何かと考える。
怪我をして血が出る、循環で血が出る、皮膚が避けて血が出ていく。
手当は人がいないと出来ない。
こんなこと、召使に任せておけばいい。
「ベルトルト、あなたがどれだけ苦労したか今わかるわ」
本を閉じて、テーブルに置く音。
ゆっくりとバスタブのある部屋にやってきたベルトルトの顔は彫りが深く、優しそうな目元をしている。
背が高く、身体が大きい。
着ている地味なシャツに、黒のスキニーパンツがベルトルトの足の長さを強調する。
口元にだけ笑みを浮かべたベルトルトを、本物のベルトルトだと認識したライナーの顔が引きつった。
「は?」
久しぶりに会うベルトルトに対して、驚きと恐怖を露わにしたライナーがバスタブの中で藻掻く。
巻いたばかりの包帯を湯に突っ込んで、飛び上がる準備をする。
自分のしていた行為の賜物だと喜びもせず、我が身のまさかだけを巡らせていた。
「おめでとう、ライナー」
にこり、と笑ったベルトルト。
悪趣味な言葉に優しい笑顔。
燻られていくライナーが、バスタブから出てタオルも手に取らず全身を濡らしたまま、床に染みを作る。
「え、は、いや、そんな…俺…。」
ベルトルトがいる、そしてなまえもいる。
現実にしては狂気、夢にしては不都合。
眼球がぎょろぎょろと動くライナーが叫びだすのは避けたくて、いち早く種明かしをした。
「ユミルったらね、最近インテリアに凝ってるの。二番目の娘さんと一緒にドールハウスを作ったって。だから、ここでもお裾分け」
ここがどこか理解したライナーが、私とベルトルトを何度も見てから溜息をつく。
大きく項垂れ、バスタブに腰かける。
そのままお湯に後ろから倒れそうなライナーの肩を撫でながら囁く。
「巨人じゃない自分はどう?」

いま、世界がどうなったか。
腕に切り傷をつくり、怠惰に沈んでいるライナーのいる世界。
「そうだな…。」
諦めたように呟くライナーの側に、生きることを任せた召使がいても意味がないだろう。
誰かが、この傷を癒さねばライナーは助からない。
生きていくうちに助かっていくはず、でも時には助けも神も赦しもないのではないかと絶望することだってある。
人である限り、それらから逃れられない。
ライナーは、絶望をよく知っている。
「今までの人生の意味を全てブン取られて、取り繕う必要もなくて、鎧でも皆の兄貴でもない俺だけが残って…
どうやって生きてたか、って…そりゃ戦士だから生きて戦ってたから…母さんからどう言われようと…。中途半端な糞野郎だ、親父そっくりの…。」
ライナーが呻き、冷たい息を吐きだす。
バスタブは子供用のソファに変わり、部屋の模様も子供部屋のようなシンプルな色合いへと変化する。
「道」にいると面白いのは、心情風景と空間認識が連動するところ。
ベルトルトにはバスタブと部屋がどう見えているか分からないけど、この変化でライナーの心が知れる。
「ここは、時間が存在しないのか…そうか、ユミルの道にある部屋だ、時間なんかあるわけねえ。」
じかんが、そんざいしない。
子供部屋の小さな窓は、昼下がりであることを教えてくれる。
「ベルトルト、お前はどうだ。」
何をするにも一度ベルトルトに意見を求めるライナーは、兵士。
混線した精神を立て直すように、ベルトルトは目を閉じてから口を開く。
「僕には、ライナーの求める答えを出して上げられるような意思がない。」
「なんだそりゃ、どういう…。」
「ライナーの中にある答えを他人から引き出しちゃ駄目、ってこと」
なまえ、とベルトルトが焦った様子で引き止めた。
これ以上はよくない、その加減はベルトルトが一番わかっている。
彼はライナーの召使ではないのに、よく観察していた。
召使にもなれそうにない私は、茫然としたライナーが「なまえ。」と言うまで肩を撫でている。
私が丁寧に訳すると、ライナーは顔を顰めてから歯を食いしばった。
今にも泣きそうなライナーを抱きしめるよりも先に、危機管理能力が働く。
瞬時に手を引っ込めると、怒号が飛んできた。
「全部俺のせいだって言うのか!?今ここに及んでも言えっていうのか!
じゃあ言ってやるよ、だから、どうやったら早めにくたばれるか教えてくれよ!!ふざけんじゃねえ!
俺が!俺が…どんな思いで今まで生きてたと思う!?なんで…俺が…俺…謝られて…ッ!!
俺のせいで、俺のせいで滅茶苦茶になったことがいくつもある、鎧を持ってたらあいつら全員ぶっ殺してやる!
良い顔して和平交渉の…れっ、れ…」
叫んで頭が描き回されたライナーのために、言葉を続けた。
「連合国大使」
怒号は飛ぶことがなく、ライナーは混乱したまま小さなソファに腰かけ、頭を抱えた。
どうして俺が、と呟くライナーを見てから、ベルトルトに伺う。
「こういう時どうしてた?」
「落ち着くまで放置。」
優しく、冷たい答え。
ベルトルトにはライナーを助けられない。
傷を癒すものは、いくつかの決まりがある。
友達で傷ついた心は、友達でしか癒せない。
男性から傷つけられた心は、男性でしか癒せない。
女性から傷つけられた心は、女性でしか癒せない。
家族から傷つけられた心は、家族でしか癒せない。
いくつかの決まりを、どうにかしようと足掻くのが人間である証。
たくさん傷ついた人間ほど、生きる価値を見出せるわけではない。
傷つきながらも、生きる意味を探すことができる世界にいる。
決まりに気付いているライナーは、今にも崩れそうな声で叫ぶ。
「連合国大使、そんなもん努めてな、泥みてえな言葉と優しい言葉をぶっかけられ続けて、なあ!巨人じゃねえ俺はゴミみてえな奴なんだよ!
これ以上正気でいろっていうのか!?また、また国の為に生きて…俺がどこにいるのか…。」
自己否定の塊になりかけたライナーを引き止める。
それは私の言葉で、他にもっといい言葉をかけてあげられる人がいるかもしれない。
でも私は、ライナーが好き。
ベルトルトも好き。
だから、望まれない答えだと蔑まれていい。
「みんな正気じゃない、誰だって誰かの影に隠れて生きたほうが楽って思ってるよ」
私の意見を、ベルトルトは遮らなかった。
「でも影になったらお終いなの、その人はもう生きてない。それでも影になりたい?誰かの影になれば、何もせずとも存在できる」
「なまえ…は、影か?」
「影じゃない」
「ベルトルト、お前はどうだ。」
ライナーの問いかけに、小首を傾げたベルトルトがつまらなさそうにした。
「僕には自分の意思がない、って言ったの忘れたんだね。」
すまない、と小さく呟くライナーを見たベルトルトが、優しそうな瞳を向ける。
巨人のいた世界では、凄惨な人生を歩んだ彼が人に向き合う。
もう、巨人は存在しない。
無意味な未来など、もう産まれることはないから安心して生きれる。
産まれた瞬間に背負わされる狂気と負の連鎖は、彼を蝕むことはない。

「影になんかなりたくない、ユミルが巨人のいない世界を望んで、僕も存在している。きっと、僕が生きている意味がある。
僕が生きる意味がある、それを見つける世界が存在している。」
「おい…ベルトルト、お前そんな奴だったか。」
「うん、僕だ。僕だよ、君がまだ生きている世界ではゴミクズ以下の人生だったよ。」
一度は闇に沈み、夜の帳にも現れぬ存在になったベルトルトは、存在の軽さを図られる故の苦しみを知っている。
私は「道」でユミルに遭遇することよりも、ベルトルトに遭うこと望む。
「窮屈な人生を好奇心で犠牲にするのは、終わりにしよう。」
つまらなさそうにしていたベルトルトはどこに行ったのか、そう思うくらい自由を抱く。
巨人という存在に左右され、蹂躙された生を与えられたベルトルトの意思を感じ取ったのか、ライナーの意識が変わる。
小さなソファと子供部屋は、大きなテーブルがある応接室に変化し、ライナーは一番奥の椅子に腰かけていた。
窓からは、ヴァルプルギスの夜が見える。
子供の声と魔女の笑い声が、耳を済ませれば聞こえるだろう。
焼けた臭いと、甘い匂い。
窓の外から見える光景に、頭痛がする。
ライナーのことを救うのは、一筋縄ではいかない。
時間をかけて癒さないと、ライナーは救われないまま死んでしまう。
そんなの、絶対嫌。
広い応接室には、ヴァルプルギスの夜の飾りがいくつもある。
飾り達が今にも動き出して攻撃してきそうな印象を受けて、悲しくなった。
ライナーは、私が助ける。
それが半生をかけたものでもいい、私はライナーが好き。
私とベルトルト、ライナーとの距離は遠い。
これだけ広い部屋にいるのに、駆け寄る気持ちを抑え込まれた。
ここまでか、と道から目覚める準備をする私を制するように、ベルトルトがライナーに訴えた。
「ライナー、君が見つけてくれるまで僕はここにいる。君はまだ巨人だった過去を背負って生きる時間が何十年か残っている。
僕は待っているよ、ライナーとまた会う世界で。」
ベルトルトの手にいつの間にか握られていた『アクセル』は、主人公が「生きること?そんなことは召使いどもに任せておけ」と最終幕で放つ。
人の本質が生に否定的か、否か。
答えをベルトルトは得ている。
生きることへの意味と理屈をブッ壊したくて仕方ないのが分かる。
それは彼にしかできないことで、いつか成しえる偉業。
残酷な世界に対する答えをいち早く出した聡明な彼。
私とライナーが巨人のことをすっかり忘れた世界に存在した時、彼は真の論者になる。
「道」に囚われず、巨人のいない世界で「巨人がいた世界」の理論を壊して、救済の蜃気楼も壊して、ライナーの人生が終わる頃。
「それまで、なまえと君を待っているから。」
ベルトルトは私を見つめた。
「なまえは、僕を見つけてくれたんだね。」
優しい声。
貴方が好きよ、我儘な生者を見守っててくれたのだから。
言葉になる前に眠気に襲われ、視界が霞む。
戻る時は、いつもこうだ。
眠りたい時に、こうして眠れればいいのに。
呑み込まれるように「道」から吹き飛ばされ、連合国大使の演説会場で居眠りをする自分の身体に意識が着地する。
微睡む意識の中、ベルトルトの声がしたような気がした。
私は、ライナーもベルトルトも好きよ。
だって、私の生きる意味を教えてくれた。
私の名前を呼んでくれた、私もあなた達の名前を呼び続けたい。
それを赦す世界があるなら、早くそこに行きたいな。

低い声で喋るライナーの声がした。
壇上に視線をやれば、スーツを着こなして演説をするライナーとアニ。
「なまえ、5分くらい寝てたぞ。」
真横にいたジャンに声をかけられる。
「疲れているんじゃないか。」
「そうかも」
「コニーにバレてるかもしれねえ…あとで弄られないようにな。」
ありがと、ジャン。
微笑んでから、演説を聞く。
各国の大使と偉い人がライナーとアニの言葉に耳を傾けた。
憎まれ、差別され、戦わされた子供だった二人の言葉に涙ぐむ人も見える。
ここまで来るまで色々あった、それこそ気の遠くなるような時間ずっと、ずっと戦っていた。
調査兵団として、人間として、争いの被害者であり加害者として。
覆らない立場でもいい、争いは何故起きたのか人類は知る必要がある。
争いが起きるまでの犠牲と、歴史と、苦しみを明らかにして論じることが人間には必要だ。
夜明けのような光景。
孤独だけで生きてはいけないことを、愚かさが歴史を繰り返すとしても、戦った人がいることを忘れてはいけない。
犠牲の上に成り立つ世界と、未来を美しいものに出来ると信じて生きる人々。
この光景を、誰かに見せたい。

あれ、でも誰だっけ、誰に見せたいんだっけ。
見せたい人がいる、見つけなきゃ。







最終巻で号泣しました。歴史に残る素晴らしい漫画だった
進撃の巨人、大好きです。


2021.06.15



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