欲の淵よ、背くなかれ
2015年の話を発掘したので加筆修正しました。鳥丸の家族構成内容は妄想そろそろ私は駄目になる、早くどうにかしなければ。
その言葉はどこからともなく出てきて、叫びそうな私の空っぽの口の中で声なき声として留まり続ける。
噛み砕けもしないそれは、私の中で溶けて、私を焼くだろう。
空っぽでいられるうちは何とでもなる。
ロッカーを見つめ、化粧が荒れていないかだけを気にしているふり。
裏に戻ってきた鳥丸くんに紙を指差し、制服を脱ぐ。
「来月のシフト、出てるから」
髪が整えられていないけど、顔は整っている後輩に良い顔をすると、面持ちひとつ変えられず礼をされた。
「はい、ありがとうございます。」
お礼を言う烏丸くんが制服の紐を緩めて、シフトを手に取る。
年頃にしては、手首が細い。
骨と皮と筋肉だけで、脂肪の見当たらない薄い体を見て、ただ気の毒になる。
「ね、烏丸くん、廃棄なんだけど持っていっていいよ」
雑務机に積まれた弁当に目をやると、烏丸くんの目が輝いた。
「本当ですか。」
薄い体をしているとはいえ、彼含め彼の家には食べ盛りがいる。
売れ残りの廃棄も、食べる事が可能なら食べてしまう。
家族のために頑張る彼は、私には眩しすぎる。
「とんかつ」
「頂きます。」
鳥丸くんの大好きな食べ物の名前は、まるで魔法だ。
売り場に並べるとんかつを横目で見る鳥丸くんを見るだけで、面白くなる。
レジを打ち、商品を並べ、ラベルを張り、必要なら掃除もする雑務。
本当は廃棄も食べてはいけないけど、目を瞑る。
烏丸くんはバイトを掛け持ちし、何がそんなに大変なのか理解に苦しむくらい働いている。
四時間の仕事をスーパー、コンビニ、居酒屋と一日3回したり、働きぶりが凄まじい。
それに彼はボーダーにもいるという。
ボーダーは特殊なエナジードリンクでも出しているのだろうか。
彼は今日もシフトを遂行して帰路につく。
夜遊びをする暇なんて彼にはなく、バイトが終われば足早に次のバイトへ。
携帯を閉じて髪を梳かしている私に、とんかつを食べる鳥丸くんが話しかけた。
「なまえさん、このあとも仕事ですか?」
機械的に答える。
「いや?」
「そうですか。」
髪を縛っていたヘアゴムをポーチに仕舞い、コンコルドを出す。
長い髪を楽に飾りながら、とんかつを貪る烏丸くんを見た。
裏からじゃ天気は見えないけれど、晩方を過ぎれば外は暗い。
「烏丸くんは上がるんでしょ?」
「はい、上がらせてもらいます。」
お疲れ様、と言って制服をロッカーにかけて、鞄にポーチを仕舞う。
これから私は、建前だけの副業に足を運ぶ。
もりもりと食べ続ける幸福な時間を邪魔してはいけない、と一足先に去る。
店から出ると、夕方の空は暗んでいた。
クラブハウスのような場所は、嫌いではない。
居酒屋も、バーも、嫌いではない。
煙草と石鹸の匂いも、嫌いではない。
でも、どれも私の肌に合うわけもなかった。
この客から漂う煙草の匂いが、マウスワイダーに染み付くことを考えると事後の掃除に嫌気が差す。
私の中の私が、金を稼ぐ。
稼いで、そうしたら、私がどうにかなる前にやめるんだ。
そう思って、どれくらい経っただろう。
沸きあがるのは後悔や恥でもなく、人を殴ると聞こえる叫びに震える鼓膜の感覚や、蹴ったとき足に伝わる肉塊の重みの震動、叩く音への恋しさ。
自分はこういう奴なんだと胸を張れなくても、日陰の中で自分だけの豪邸を持てるのなら、それは幸せではないだろうか。
この客も、等しいことを考えているはずだ。
浣腸を終えて椅子に縛り付けた客の男の直腸から出てきた、二重の真空パック。
高そうな箱の中身は想像できて、いつも虐めてくれてありがとう、ということなのだろう。
ブランドものとかは好きではない、かといって罵りつつ好きなものを強請るつもりもない。
ゴム手袋を嵌めた手で二重の真空パックを開けてから綺麗な箱を開けると、高価なネックレスが出てきた。
こういうものを身につけるのは、好きではない。
質に流すとして、プレゼントは、まあ、嬉しく思う。
真空パックに包んだプレゼントを出すために使用し、空になった浣腸器具を投げつけると、客の男が嬉しそうにした。
微笑みを薄めたような、男性特有の性欲にまみれた顔。
気持ち悪い。
椅子に縛り付けた客の男の周りを、尋問官のように歩く。
「卑しいわ」
言葉だけで、この手の輩は勃起する。
卑しい、卑しい、どうしようもない性欲を持った人は、けっこう多い。
糞を食い射精するような客もいれば、体に釘を打ち付けられ失神して勃起する客もいる。
こんな奴らの相手をする職業がある世が憎い気持ちにはならず、ただ加虐心が煮えるだけだ。
客の男が着ていた服のベルトを顔に巻きつけ、視界を塞ぐ。
締め上げると、苦しそうな声がした。
優越感、興奮。
お互いそれを求めてやっているんだから、どっかの金だけ高いヘルスよりはいいだろう。
事前に拝借した客の男の携帯を手に、ムービーモードをオンにする。
「はーい、今日は何月何日ですか?」
赤子を甘やかすような口ぶりで無様な男にカメラを向けた。
携帯のカメラに向かって、無様な声で今日の日付を答える。
豚の声を真似したような汚らしい声が、部屋に響く。
マウスワイダーの間からいつ涎が飛んでもおかしくないその顔は、歪んでいた。
その姿を撮る私に向ける懇願の顔が、面白くて仕方がない。
「よくできましたねー、雄豚ちゃん」
携帯を放り投げ、客の男の腹を蹴り飛ばす。
椅子ごと倒れ、悶絶する際のけたたましい声がしたので、喉を踏んであげた。
ピンヒールが食い込んだのか、胸が上下して、爪先がぐぱぐぱと動く。
その姿も携帯のカメラに収めながら、鞭で胸を叩く。
呻き、喘ぐ姿は、ただの豚。
腰を蹴飛ばし、勃起したものを下着の上から踏みつける。
女には到底理解できない苦しみの声を聞かされ、クラブハウスの音を思い出す。
似たような重低音を組み合わせ、踊るための音楽を作る。
その音楽で踊って、酒を飲んで、近くにいる女でも男でもいい人にキスをして、酔いを楽しむ。
ただ、そんな世界は、私には合わない。
こういうところに求める人は、合わないという意見だけは徹底して合うのだろう。
この客に関していえば、ひたすら殴られ罵倒されるのが好きなのだ。
楽な客。
エゴマゾの相手や、シナリオでも頭の中にあるのかというような喘ぎ方をするマゾは、面倒くさい。
拷問台に腰をかけて、客の男の臀部を蹴り飛ばす。
痛みを感じて足を開いたその間に、足をかけた。
ピンヒールの踵が肛門に埋まっていくたび、太ももと胸が動いた。
声をあげず、次の痛みを楽しみにする姿を見て、笑う。
何度も踏みつけるように、ピンヒールで肛門を踏みつけると、リズムのとれた悲鳴が聞こえた。
「どうすんの?あんたの緩いケツのせいで靴汚れちゃうじゃない」
汚い汚い、私の仕事。
お金はたくさん。
室内に響く金切り声に快感が滲み出して、気持ち悪い。
ピンヒールにつく粘液は、浣腸の残りだろうか。
消毒しよう。
客の男性が射精し、精液が私の足の間を通り抜け床を汚す。
白い伸びたゼリーのような見慣れた液体は、鼻を掠めるほどの匂いを放っていた。
来る前に肉でも食ってたのかと思い、鞭の先で顎を突く。
「撒き散らすのは吐いた息くらいにしなさい、汚いものを私に寄越そうとしないで頂戴」
足を下半身からどけて、汚れたピンヒールの部分を客の男の口に持っていく。
突き刺すように口に入れれば、嘔吐寸前のような声と共に頬ずりされて、面白い。
芋虫のように動く体が醜くて面白いから踏みつけ、蹴る。
この客は、あと60分の相手。
性でも体でもない、また別のものを売り続けることだけは、私に合っていた。
明るいうちに明るいお仕事、暗いうちに暗いお仕事。
決まった時間に働く仕事、働く時間を決めれる仕事。
両方しても、答えは埋まらない。
お金は貯まっていく、いつか何かに使うはずの金。
欲の捌け口を金で買える世の中なら、もう何もかも金で済ませればいいじゃないか。
そう思いながら、バラ鞭を手にした。
送迎の車から降りて、最寄り駅を目指す。
朝焼けの空の下、帰ってからのことを考える。
風呂に入って、寝て、起きる頃には昼の11時で、ご飯を食べて、昼過ぎから夕方まで売り場に出る。
今日一緒なのは、誰だっけ。
新しく入ったパートさんは、休憩時間に飴やクッキーをくれる笑顔の素敵な主婦さんだ。
会うのなら、お礼を言って今度はお菓子をあげよう。
遠くに見える横断歩道が赤になったのを見て、立ち止まると話しかけられた。
「おはようございます。」
聞き覚えのある声に咄嗟に反応すると、古びた自転車に乗った烏丸くんが目の前にいた。
「あ」
籠には新聞が入っていて、二度見する。
「俺、この地区の配達担当なんですよ。」
「そうなんだ、朝から偉いね」
新聞配達してるなんて今知ったぞ、とは言わないでおいた。
あまり寝てないのだろう、目つきがどんよりとしている。
今日は平日、烏丸くんは学校があるはず。
「学校で眠くなったりしないの?」
「俺、そんなに寝ないでも動けるタイプなので。」
便利な体質を羨み、信号機を見る。
まだ赤のままで、時折車が通っていく。
こんな時間でも車を走らせる人はいて、人の気配が消えることはない。
そうして、烏丸くんが気づく。
「今、帰りですか?」
「そうだよ」
上着のポケットから出した飴の袋を開けて、食べる。
いい歳をして煙草ではなく飴を頬張る私を見た烏丸くんが、ありのままに質問した。
「なまえさんが夜にしてる仕事で、月どれくらい稼げますか。」
ざっと金額を暗算し、大体の額を言う。
「50万くらい。」
へえと珍しそうにする烏丸くんの姿が、眩しい。
この時間から新聞配達をして、朝から学校に行く。
走り回る青春は、私が踏み入っていいものではない、精々弁当の廃棄を全部渡すくらいで留めておきたい。
それが私の思いではあるが、実際はどうか。
私以外の人からしたら、こんなに面白い形勢はないだろう。
烏丸くんの性格を知っているものの、このことを従業員に漏らす可能性も、なくはない。
それならここで烏丸くんを物陰に連れ込んでおけばいいのだけど、そういうのは私に合わないのだ。
飴のおかげで甘くなった口で、真実を喋る。
「健全な青少年の為にひとつ言っておくと、私のやる仕事の内容は受身じゃないの」
溶ける甘い味は、なんの贖罪にもならない。
それどころか、私は罰して欲しい野郎の為に金を貰って贖罪ついでに嘲罵し、殴り、蹴り、叩く。
組み敷き「お仕置き」を加える仕事は、金になる。
そして、私の心も、満たされる。
「どうしたの烏丸くん、お金、シフトだけじゃキツいの?店長に相談しようか?」
「それはなまえさんも同じですよね。」
「そうね、同じ」
話題を変えようとしても、上手いこと離れない烏丸くんを見る。
朝から新聞配達をする、好青年。
知っているだけでも、烏丸くんはバイトを三つ掛け持ちしていた。
これで四つ目。
家が裕福ではない、どちらかといえば貧乏な部類に入る子ではある。
「訳がないなら夜の仕事は勧めないよ」
「そうですね。」
「夜の受身の仕事は、きついからね」
「やったことがあるんですか?」
「ない」
「てっきりキャバ嬢か何かかと。」
「いやいや、ああいうのは程度満たす社交性と切り売りできる性格じゃないと出来ないよ」
「そうなんですか、よく知ってるんですね。」
烏丸くんの答えが眩しい。
廃棄の弁当や残りものを食べていることもあるし、ちゃんとした弁当より安くてカロリーだけは馬鹿みたいに高いもので凌いでいる姿をよく見ていた。
食べ盛りの男の子には酷な現実だろうとは思っていたのがバレていたのか、烏丸くんが私を見据えて言った。
「夜は何をするんですか、なまえさんのことを軽蔑しただけで、仕事に興味とかはないですよ。」
私が客にいつも言う言葉が向けられる。
そうか、あの客もこんな気持ちなのか、蔑まれ、汚いと思われるという、それだけでも最低の気分だ。
客のケツから出てきた高価なアクセサリーは質に流しました、と、素直にそう言うか。
そんな気にもならないと過ごそうとしていると、烏丸くんが次の手を打ってきた。
「すいません、嘘です。」
新聞配達の、爽やかな朝。
遠くの信号機は青になっていて、行こうと思えばここで会話を打ち切れる。
思わず笑う。
烏丸くんが、自転車を漕ぎ始める気配はない。
笑う私を、ただ見つめる。
はじめて見る動物を見るような目で。
「想像するんだよ、全裸で目隠しされて縛られた烏丸くんを、誰かが虐める」
烏丸くんを、僅かに引き込む。
何も考えずに落ちる世界へ、身を任せ痛めつけられてから弾けて生まれる快楽へ。
「誰か…好きな人でもいいわ、想像して。耳にキスする代わりに罵って、フェラチオする代わりに鞭で叩く、体に精液をかけられる代わりに蝋燭を垂らす。
えげつないことをやっているけれど、性行為は無いんだ。烏丸くんが思うより汚い女じゃないよ、そういう仕事で、私はそういう性なんだ、それ以外は普通だよ」
蹴り飛ばす時の高揚感。
悲鳴をきくたびに震える臓器。
悶絶を眺めるときの、優越感。
どこからそれが沸くのか、誰かに説明してほしい。
だから、烏丸くんに説明する。
誰かが答えてくれるわけはない。
私は駄目になる、きっといつか、駄目になる。
その時もきっと誰かの贖罪を金で買っては、痛みを与えているのだろう。
笑う私を見る烏丸くんが、愛想笑いからも遠い顔をする。
「なまえさん、オフの日は喋り方がけっこうフランクだなと思ってたんですけど、納得がいきました。」
朝日が差し込む外の世界で、穢れなき少年が私を見る。
納得されてしまって、さあどうしようか。
飴を舐める口で、烏丸くんを諭す。
「さあ、どうしようもないお姉さんの話は忘れて、配達しなさいな青少年」
通り過ぎようとすれば、烏丸くんとまた目が合う。
整った顔と、子供の光をまだ宿した幼い瞳は、私を捉えている。
「そんな顔して言われても、説得力ないです。」
はっきりと言う烏丸くんが恐ろしいわけでもなく、怖いわけでもなく、これが普通の反応だと思うから、安心した。
夜の仕事は、体を売るだけじゃない。
これから配達される新聞だけが、この話を聞いている。
新聞が今の話を漏らすというなら、燃やせばいい。
烏丸くんが世間話でもするかのように、淡々と喋りだした。
「下の妹が、中高一貫に受験をして理系の大学に行きたいらしくて、母の手術費用は近いうちに必要になるのに、妹は俺にだけ打ち明けてきたんです。妹達は我慢してきてるから行かせてやりたい。家にいる父は…血が繋がってなくて。」
よくある話だからこそ「すいません、嘘です。」という先程までの烏丸くんを期待した。
真偽はどうでもいい、彼は私をどこまで信頼できるか試している。
大人の私が、烏丸くんに出来ること。
「俺の父は再婚して頼れないので、だから、母に気づかれるバイトは避けたいんです。バイト増やすなとか言われたくないんで、友人の家がやってる店でバイトして夜中までとか、住み込みってことにして…母さんの見舞いの時間にシフト入れるわけにはいかないんで、店長にシフトの相談とか回さないでくださいね、俺も何も言わないので。」
私より長い台詞を喋った烏丸くんの顔は、依然として整っている。
弁当の廃棄を食べる姿を思い出し、胸が熱くなった。
家族なんか捨てて自分のしたいことをやれ、と言っても、この手合いの家族が好きな人にそんなことを言っても通用しない。
家族しか拠り所がないのなら、私が拠り所が見つかりやすい世界に案内するから。
黙って頷いて、飴の味を舌の上で転がした。
「なまえさん、さっきの話、またしてください。」
数秒、見つめあい、私は頷いた。
一礼し新聞配達に戻る烏丸くんの背中を目で追う気には、ならなかった。
飴の味で満たされた口腔のように、私の心が加虐心で得るもので満たされる日は来るのだろうか。
受身でなければ汚くないと思っているのは、男も女も、一緒だ。
美少年に殴られたい趣味の奴は一定数いるだろうと思ってから、朝焼けの空を見た。
そろそろ私は、駄目になる。
烏丸くんを連れて、あけすけな闇へ落ちよう。
2015.11.07
加筆修正 2020.08.21
[ 234/351 ][*prev] [next#]