愛を支配する奴隷





暗くなりかけた路地を歩き、遠くを見る。
マーレとエルディアの存在が白日の下に晒され、街には灯りが灯り経済が豊かになった。
街ゆく人の手にある新聞には真実が記され、特異から平凡まで世界の真実を手にしている。
この世界はどうやらとても広いらしく、壁の中は狭く、囚われた世界らしい。
それを知っても、どうにも思わない自分がいる。
生きている限りどこにでも行ける、その範囲が広がったというだけ。
道を決めることも、生きることも、全て自分が決めること。
ある一定の決まりや足枷はあれど生は平等であること。
それを自分なりに分かっていた私は、マーレもエルディアも存在しているだけの何かでしかない。
食材が詰まった袋を片手に、住み家の扉を開ける。
案の定キースは帰宅していて「ただいま」と言えば「おかえり。」と低い声が響いた。
部屋の灯りが通り、明るくなった部屋の真ん中にはキースが飲んでいたであろう紅茶のカップが置き去りにされている。
キースは本棚の本を整理している最中だ。
真横を通り、キッチンに食材を置く。
「リコに会ってきた」
なんとなしに、今日のことを報告してみる。
本を整理する手を止めないキースと、食材を保管庫に入れる私。
「憲兵団も大変みたいね、リコの目元が凄い疲れてた。そこから目の話になって、遠くを見るために必要な目のトレーニングとか教えてもらったわ」
「また目が悪くなったのか。」
本を片手に、キースが私を見る。
暗い目元の中で光る瞳。
口元の皺や目元の皺をそのままにした怖い顔つき。
数々の戦場を生き抜いたキースの雰囲気は、静かな凄みに包まれている。
大きな背に体格、低い声。
この人が怒鳴ろうものなら新兵は逃げ出すのだけど、私の前でだけは普通のおじさんになってしまう。
「まあ、仕事がそれだからね」
出入口付近にあるワンピースを一瞥し、にやりと笑う。
片手間に始めた針子の仕事は生活の足しになっていて、私が買ってきた食材もキースが手にしている本も足しのおかげ。
生活そのものはキースのお金で出来ている、なら贅沢を追加してやろう。
そうして始めた針子の仕事で、テーブルは新しいものに、古いものは新しいものに買い替え、ベッドは夜にどれだけ激しく使っても壊れないものに。
「でも普通の人よりずっと良いみたい、80メートル先まで見えるって言ったらリコが驚いてた」
「なまえの目は巨人発見に役立っていたからな、印象深いだろう。」
「そうね、私より目が良い人いないって」
「探偵でもしたらどうだ。」
「尾行なんて得意じゃないわ、やあよ」
兵士時代、役に立った視力を生かす日々はもう来ない。
戦う日々と離れても、私は私。
強いて言えばこの視力は、キースの些細な変化を見逃さない。
「マーレのレシピ教えてもらったから、夕飯作るね」
「そうか。」
そう言うキースの髭が少し伸びたとか、相変わらず頭に毛がないとか、喉仏の骨が浮いて目立ってきたとか。
シャツが真新しいから、一度着替えただろうとか。
本を整理する手は爪が短く切り揃えられ、その手で昨日は何度もお尻を叩かれて濡らしたとか。
「暫く立つけど、新兵加入数はどう?」
「減り続けてはいる、だが、なくなることはない。」
キースは目を伏せて、本の整理を続ける。
激励の罵倒、訓練の痛罵、人格の唾罵、存在の唾棄。
教官という職業柄、とても得意。
その姿から想像もつかないほど、普段のキースは物静かな人だ。
巨人と戦える兵士を育てる人だから、逞しくないといけない。
逞しさを携えているからこそ、普段は落ち着いているのだろう。
そんなことは分かりきっていても、キースへの興味は尽きない。
「まだ教官やるの?」
浅ましいことも隠したいことも、何もかも。
「なまえ、どういう意味だ。」
「巨人が人間って分かったこの時世でしょ、上が一斉に教官職を切らないといいけど。もし切られたら、私の仕事手伝って」
マーレ、エルディア、壁、巨人の正体。
色々と世界のことが明らかになったけど、私の世界は基本的に私とキースで回っている。
生きることなんて、空の流れに任せておけばいい。
「キースが切られるなんて、あり得ないけど」
空のように人間の心が移り変わるとしても、私の思いは地面についたまま。
それをキースも分かっていても、取り巻く世界の動乱は収まらない。
「あ、でも私も私で針子の仕事なくなったら兵士に戻ろうかしら。立体機動装置の使い方、身体は覚えてるかなあ」
食材を保管庫に入れ、二人分の食材を手に取る。
マーレの一般的な食事だという肉と野菜の煮込みと、赤い野菜で作るスープ。
二人分の食事はちょうどよく作れて、一晩で食べきることができる。
「貴方に認められたくて一生懸命だったのよ、兵士の時の私」
懐かしいことを口にしても、何も変わらない。
「貴方の傍にいたくて必死で、戦うことも座学も頑張った。血の滲む努力の感覚、たまに忘れそうで怖いわ」
今があるから、何も怖くない。
世界がどうあろうと、私は変わることがない。
「だって貴方の傍にいるのが幸せなんだもの」
本の整理を中断したキースが、立ち上がって私の目の前にまでやってくる。
見下ろした、と思う間もなくそっと抱きしめられた。
キースの腕は大きくて、私なんか簡単にへし折られてしまいそうなくらい筋肉がある。
逞しい腕と胸に抱かれてから、軽く呼吸した。
「人間、か。」
キースの声が響いて、耳が落ち着く。
身体を預けるように傾いても、キースの身体はぴくりともしない。
「そうね」
もぞもぞと腕を動かして、キースの腕の中で子供のように見上げてから、手のひらでキースの頬を撫でる。
触れてることも見ることも慣れてしまった愛しい人の肌。
皺のある肌は私よりも乾いていて、舐めて潤したくなるのを必死で堪えた。

キースの腕の中で、ふとしたことに思いを巡らせる。
「ねえ、そういえば」
私の一言に、すぐ反応した。
キースは私を抱きしめたまま、私を伺っている。
「私、キースの口から愛してるって言葉あんまり聞いたことないわ」
表情筋ひとつ動かさず、キースが顔を赤くした。
こういうところが特に好き。
人差し指でキースの唇をつつけば、齧られるふりをされた。
笑いながら手を引っ込めて、耳のあたりを触る。
指先で優しく、手繰り寄せるように撫でればキースが恥ずかしがった。
「言えば気が済むか。」
私を抱きしめながら、私から目を逸らす。
「そうじゃないわ」
キースの耳を触るのをやめて、胸板に手を置く。
しっかりとキースのヘーゼルの瞳を見て、気持ちを引き戻す。
「前に落ち込んでた時に色々言ってたでしょ、自分は特別じゃないとか平凡だとか」
「…いきなり、なんだ。」
応えなかった。
私が幸せだと言った途端に抱きしめてきた貴方には、決して言わない。
気持ちはきっと伝わっている。
怖い顔をしたキースの瞳だけは優しくて、浅黒い肌に身を寄せた。
シャツ越しに耳を当て、心臓の音を聴く。
キースの心臓は、どこに捧げられたのか。
捧げた心臓は、本当は自分のものに出来て捧げる場所も自分で決められる。
私がキースの光でありたいと思うことが傲慢でも、驕りでも、空のように変わることを許した世界の中では小さなこと。
「生きてるだけで凄いのに、誰かに愛される自分を信じてほしいの」
本心が欲しいなら、探ってほしい。
「不安なんでしょ」
キースの心の底にいる存在でありたくて、生きている。
そのために生きているんだから、世界なんてどうでもいい。
「新兵に怒鳴ったり、自分のことだけを考えたり、自分の力だけを信じているキースも好きよ」
「それだけが理由ではないだろう。」
「ごもっとも」
団長であるキースを好きになった。
団長を辞めたキースのことも、ずっと好き。
教官をしているキースも、大好き。
私をこうして抱きしめるキースの拠り所になっていることが、とても嬉しい。
自分よりも強いと分かっているキースに、愛を捧げたくてたまらない。
私は貴方を支配する奴隷。
生きる意味は、愛する人と共にある。
「私、きっとなにもかも上っ面ね」
キースの胸元で、自らの無力さを哀れむ。
「それでも愛と呼ぶわ」
刃を握り、兵士であることを辞めて愛する人の手を握ることしかしなくなった手でキースの胸に手を当てる。
大きな胸板の下にある心と、心臓。
「この下に詰まっているのは肉と骨、でも私はキースが好き」
大きな腕が片方私から離れ、頭をゆっくりと撫でてくれた。
乾いた手のひらと指が髪を優しく触り、私の耳元までキースの顔が降りてくる。
「なまえ、愛している。」
耳元で囁かれ、腰が砕けそうになるのを予測していたのか、キースに片腕で強く抱きしめられた。
戦い抜いた腕が、最後に何を抱くのか知らない。
私を抱いて死んでもいい、戦場で死んでもいい、人知れず朽ちてもいい。
最後に私を思い出すのなら。
あいしてる、その言葉で疼いた心を押し付けるようにキースに抱き着く。
溜らないと囁けば、キースが頭を撫でている手を私の肩に置いた。
大きな手。
簡単に私を支配してしまう、大きな手と身体。
キースの虜になった心と身体は、キースに寄り添う。
「今にも殺しにきそうな顔してるのに、私を突き飛ばさない、私を見てくれる」
私が支える人は、支えることを許してくれた。
この人しか知りえない、孤独、傲慢、挫折、苦悩、全てを愛したいと願ったことを許してくれる。
キースのそういうところが、とても好き。
好きでたまらなくて、身体を寄せる。
「キースから離れられない」
「俺がなまえから離れられないだけだ。」
即座に言い返され真顔になったところで、キースが私を離す。
なんでだと後ろを向けば、目が合った。
「飯は俺が作る、先に風呂に入れ。」
そう言って、薬指を唇につける。
これが夜の合図。
期待を胸に、キースに笑いかける。
キッチンに立つキースを見ながらその場で全裸になろうと思い、やめた。
今は前と違い灯りが部屋にあり、全裸になろうものなら寝室と違いよく見えてしまう。
キースが食材を入れていた袋の真横に置いておいた小さな筒を手に取り、不思議そうにした。
「なんだ、これは。」
「輸入品の口紅」
キースの手から奪い取り、本来の用途に使う。
「リコに会ったときに貰ったのよ」
蓋を開けて、口紅を自分の唇に引く。
真っ赤に彩られた唇でキースの唇と頬にキスをすると、浅黒い肌の上に真っ赤な唇の形がついた。




2020.01.09







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