スモーク・コール








真っ白な壁、清潔な匂いと空気。
過ごす上でこれ以上ないくらい快適なはずなのに、普段とは別のにおいが立ち込める場所。
エレベーターの鏡、監視カメラ、消毒液の薄まった匂い。
自然と気持ちがまっさらになって、ここは世間と隔離された場所だと本能が感じ取る。
身包みの中まで染みついた外の匂いと自分の匂いが掻き消されるような気がしても、振り払う。
この場所には、いつ入るか分からない。
事故に遭う、病気をする、いつどうなるか分からないのだから、嫌ってはいけない。
死んでしまって自分の匂いが消えれば、きっとこの消毒液を薄めた匂いになるんだろう。
その未来は遠くでありますようにと思う前にエレベーターが止まり、機械音声が「15階です。」と到着を知らせる。
扉が開き、清潔感の塊のような光景が目に入った。
ナースステーションはガラス張りで、中では看護師が事務作業をしている。
見舞いに来た人を一瞥し、頭を下げた後は何事もなかったかのように手元の仕事を片付け始めた。
プライバシーとか、人の気持ちとか、そういうのもあって看護師は極力こちら側に関わらない。
だから、那須ちゃんのお見舞いに行きやすいんだけど。
臓器の色まで見透かされそうな空間へと脚を踏み入れる。
那須ちゃんのお見舞いに来ただけの私の体に医者が気づいて引き止める妄想をしながら、フロアを確認した。
長い通路、今回は通路を曲がって一番奥の個室で那須ちゃんが検査入院をしている。
スマートフォンを弄りながら勘で歩き出し、着いたことを連絡しようと那須ちゃんとのチャット画面を開く。
那須ちゃんのアイコンが検査入院前に撮ったプリクラになっていて、嬉しくなる。
元気かな、早く良くなって、また遊ぼうね。
言葉を口の中で何度も往復させていると、通路の奥から見覚えのある人が歩いてきた。
すらっとした手足に、ヘーゼルの瞳。
色素の薄い髪と、那須ちゃんに少し似ている顔立ち。
「あ」
私に気づき、向こうも立ち止まった。
薄地のシャツに濃い緑のパーカー、黒のスキニー。
休日の奈良坂くんを目にして思わず止まり、忘れていたけど奈良坂くんは那須ちゃんの従兄弟だったこと思い出す。
「こんにちは」
目の前から歩いてきた奈良坂くんに挨拶すれば、長い脚が止まってくれた。
「こんにちは。」
私を見て、軽く会釈する。
「那須ちゃんのお見舞い?」
それしかないよね、と思いつつも会話を続けようと踏み込めば、暇なのか会話に応じてくれた。
薄い唇がそっと動く喋り方は、那須ちゃんと同じ。
「果物を渡せと、母に頼まれた。」
「仲いいんだね」
見舞いに持つものだから、そこそこ良い果物または好物。
那須ちゃんが大好きな桃缶を持っていったのだろうか。
「私、なまえって言います。」
どうも、と言えば奈良坂くんは優しく笑った。
「玲から聞いている。」
スマートフォンを鞄に入れて、奈良坂くんと向き合う。
奈良坂くんと話すことは、まずない。
個人戦をしているか、三輪くんと当真くんと一緒にいるか、東さんといるか。
たまにラウンジで一人でいるところを見かけるけど、話しかけにくいオーラを放っている。
基本的に、この人は隙がない。
稀に来馬さんと話しているところを見るけど、その時の顔も殆ど動かないし、なんだか怖いのだ。
那須ちゃんとは別の隙の無さがあって、とっつきにくい。
どんな人か分からない、だから話してみたい。
「那須ちゃんが、私のこと奈良坂くんに話してるの?」
「会えば世間話をする、そうすると自然となまえちゃんがと玲が楽しいことの話を初めて、隊のこととなまえの話になる。」
「そっか」
嬉しいな、と呟けば奈良坂くんは来た道を戻り始める。
通路を進んで、那須ちゃんのいる個室へと向かう足取りを作ってくれた。
「こういうとこに通い詰めるような体だから、基本的に関わる人が少ないんだ。なまえのことを俺によく話している。」
「那須ちゃん、良くなるのかな」
「死にはしないだろう。」
たぶん、と脳内で反復する。
弱い体のまま長生きする人は沢山いるし、那須ちゃんは検査もしているから大丈夫。
大丈夫、大丈夫。
自分に言い聞かせるだけ、那須ちゃんに言い聞かせるわけではない。

「那須ちゃん、ボーダーに来たときは凄く元気そうだよね」
「そうだな、玲はトリオン体で思い切り動けるようになってから、よく笑うようになった。それまでは殆ど笑わなかった。」
従兄弟の奈良坂くんだから知る情報。
私が那須ちゃんと知り合ったのは、ボーダーに入ってから。
学校に行っても保健室で倒れがちなのは聞いていたけど、体調のことを考えれば不思議でもない。
笑わない那須ちゃん。
元気な熊ちゃん、物静かな小夜子ちゃん、明るい茜ちゃん。
那須ちゃんは、三人とは対照的。
通路を歩く奈良坂くんと私。
長い通路を簡単に歩けることが幸せなことだと、那須ちゃんの体を見てから思った。
普通のことが出来る、それがどれだけの幸せか。
「そうなの?でも那須ちゃん、熊ちゃんといる時はよく笑ってるよ」
「玲から聞いているかもしれないが。」
歩きながら、奈良坂くんは続けた。
「トリオン体での実験に賛成していたのは、病院関係者だけだ。叔母さんは警戒してたし不安そうだった、何せ玲の症例は少ないものだからな、珍しいものを扱われるようで嫌だったんだろう。
でも玲にとって良い結果だった、それは間違いない。」
那須ちゃんの生い立ちを考えたら、すぐに気づくこと。
でも考えないようにしていた。
かわいそう、とか、そんな言葉しか掛けられない立場だから。
「大変だよね」
同情しか言えない立場の私が、那須ちゃんに出来ることはとても少ない。
「走り回る玲を見たことがなかった。俺が学校で勉強している間も、遊んでいる間も、寝ている間も、玲は寝ているか大人しくしているか。」
通路を曲がり、最奥に大きなガラス張りの扉が見えた。
三門市の景色がよく見える窓から、陽射しが差し込む。
「玲は自由を知らなかった、玲は俺と違う。」
もっともなことを言う奈良坂くんの横顔は陽射しを受けて影を作る。
お日様の光で、ヘーゼルの瞳が透けるようだ。
那須ちゃんを思い出す顔になった奈良坂くんを見て、スマートフォンを取り出す。
「でも」
写真画面を取り出し、つい最近の写真をひとつ選択して奈良坂くんに見せる。
ピンクを背景に那須ちゃんと私が映り、ネオンの文字で「ピーチケーキday!」と書いたプリクラ。
調子が良い日に遊んでいる那須ちゃんは、他の子と変わらない。
映画と桃缶が好きな普通の女の子。
「那須ちゃんは他の子と変わらないよ、ね、見て、この前プリクラ撮った時の那須ちゃん」
プリクラの中で笑う那須ちゃんを見た奈良坂くんが、ふっと笑う。
従姉妹が元気そうにしているのは、安心するんだろうか。
「元気な時は、何にも変わらない」
「そうだな。」
奈良坂くんは立ち止まり、通路にあるガラス張りの窓を開けた。
風向きを確認してから、奈良坂くんはパーカーのポケットに手を突っ込んだ。
人気の無い通路、誰も呼吸してないかのような冷たい空気。
奈良坂くんはポケットからタバコとライターを取り出し、窓から少しだけ身を乗り出して咥えたタバコにライターで火をつけた。
「えっ、奈良坂くん!」
すっとタバコの先が燃え始める。
それから、吐き出された煙が外へと消えていく。
「なんだ。」
「それ…」
奈良坂くんの指に挟まれたタバコから、ほんのりと煙があがる。
匂いはしないけど、ここは病院。
というか、タバコ。
唖然とする私を前に、奈良坂くんは慣れた手つきでタバコを吸って、窓の向こうにある外へと煙を吐いた。
「ここは空気が澄んでいるから美味い。」
15階、三門市がそこそこ一望できる。
周りの建物を見下ろせる場所の隙間で、燻らす。
「珍しくもないだろう、菊地原と犬飼さんもよく吸う。」
煙を吸う奈良坂くんが何でもないことかのように告げる。
菊地原くん?あの子も?
犬飼くんはすぐに想像がついたけど、奈良坂くんがタバコなんて。
何も言えない私を察したのか、皮肉そうに笑った奈良坂くんが煙を吐き終わってから、私を見た。
「勉強とボーダーが簡単に両立すると思っていたのか?なまえ、これは自由の代償だ。」
那須ちゃんに似た薄い唇が、タバコを咥える。
進学校に通っていたはず、なのにタバコ。
ばれたらどうするんだろう、言い訳でもするんだろうか。
でも奈良坂くんがタバコなんて、言いふらしてたとして誰が信じるというんだ。
「かっこいいこと言えるんだね」
いい陽射しの中で煙を吐き出す奈良坂くんの隣に立ち、タバコを吸う横顔を見る。
那須ちゃんよりしっかりした骨格、似ているのは目元くらい。
喫煙している奈良坂くんの写真でも撮ってみんなに回してもいい、けど、気にせずタバコを吸う奈良坂くんを見て気が変わる。
「お見舞い終わってから飲もうと思ってたけど、やめた」
鞄にある那須ちゃんに渡すための映画のDVDと桃のお菓子が入った袋の隣にある缶を取り出し、開ける。
ぷしゅ、と音がして嗅ぎなれた匂いがする液体を飲む。
アルコール独特の味が舌と喉を通り過ぎ、胃に落ちる。
「これで、おあいこ」
那須ちゃんを思って買った桃のチューハイ。
いつも飲んでいるアルコールに比べればジュースみたいなもので、まったく酔えない。
ただの炭酸じゃないか、もっとアルコールを。
脳がそう言うのが分かって、誤魔化すように飲む。
奈良坂くんを見れば、驚いた顔でタバコを咥えていた。
もう一口飲んで、アルコールを臓器に染みわたし、大好きな感覚を体に浴びさせる。
「臭いがあるから、酒よりバレやすいと思うよ」
「電子タバコにするか…。」
そう言いながらタバコを吸う奈良坂くんを見て、焦燥感が襲う。
「果物の味がする電子タバコ、あるよ」
「それもいいな。」
「よくないよね、那須ちゃんのことを知ってるのに」
でも、私にはこれがないと。
奈良坂くんにも、タバコがないと。
そんなの言い訳でしかないけど、自由に生きた結果なにか悪いものを摂取する代償を負う。
生きてるだけでも儲けもの、なら何か背負ってもおかしくない。
市民様を守ります、そのためにあるボーダー。
内情なんてボーダー関係者しか知らない。
自由の代償と気取ったことを言う奈良坂くんが、タバコの煙で脳が落ち着いたのか気の抜けた顔をする。
「生きてるだけで、何もせずに代償を追っている玲が時々羨ましくなる。」
「それ那須ちゃんに言える?」
「言える、善悪なんて本当は存在しない。」
奈良坂くんがタバコを咥えたまま、空いた手で箱から一本取り出し私に差し出す。
細くて長い指に挟まったタバコを受け取り、奈良坂くんを見つめる。
酒の味がする唇でタバコを咥えれば、ライターを差し出された。
奈良坂くんが窓の端に移動し、私のスペースを空ける。
ライターでタバコの先に火をつければ、煙が出た。
吸って、苦い味が口いっぱいに広がる。
「なまえ、どうだ?」
「まずい」
「だろうな。」
ふっと笑った奈良坂くんの唇から煙が出て、景色の中へ消えていく。
風に流されていく煙と、私の体の中に溜まる酒。
煙を体に取り込む奈良坂くんと、三門市の景色を見ながらタバコを吸う。
15階、その高さから慣れた手つきで灰を落とす奈良坂くん。
灰はすぐばらばらになって流されていく。
私の悪習も那須ちゃんの病気も、この灰のようにばらばらになって消えてしまえばいいのに。
飲みかけの桃のチューハイを奈良坂くんに差し出すと、これもまた慣れた手つきで飲まれた。
タバコを吸い、秘密を分け合う。
煙のように消えては、匂いだけが残る。
お互いにそんな気持ちを抱えていると思いたい。
タバコはどうにもまずくて、美味しいとは思えなくて、奈良坂くんの手にあるチューハイを取り口の中をアルコールで直した。






2019.06.14








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