渇望の音







慣れ親しみたくないものを、慣れ親しむ私がいる。
学校にあるような長い長い洗面所の壁に取り付けられた大きな鏡で、自分の姿を見る。
洗った顔を拭いて、申し訳程度のスキンケアをして、あまり物音のしない静かな通路を横目で見た。
たまに、元気そうな患者が歩いていく。
指定された場所でなら携帯も使えるここは、そんなに不便ではない。
隠れてタバコを吸う患者を見ては笑う私の中には、そもそも不便がなんなのか上手く認識されていなかった。
さっぱりした顔で冷たい空気に触れ、肌が心地良い。
白い壁の建物の中を歩き、日差しだけは健康的に降り注ぐ床は綺麗に磨かれていて、埃ひとつない。
洗面所で顔を洗い自分の病室に戻る途中、今週はまだ使われてないはずの病室から看護師が吸入器を持って出て行った。
咳き込む気管支の間から漏れる声に聞き覚えがあり、不躾だと分かりつつも病室を覗く。
まだ閉められていないカーテンには、友人の姿があった。
白い肌、薄く足りていない色素、細い体に薄い顔色。
「那須ちゃん?」
思わず声をかけ、そっと近寄る。
那須ちゃんは私に目を向け弱弱しい笑顔を向けてから、ゆっくりと喋ってくれた。
「なまえ、今日は非番なの?」
吸入器を使ったのだろう、手にはタオルが握られ、那須ちゃんの鼻と口元が赤い。
服は外出用のお洒落なブラウスと品の良い落ち着いたロングスカートだった。
脱いだカーディガンがベッドの横に畳まれているのを見て、心配になる。
私の名を呼ぶ那須ちゃんの声が落ち着いていることを確認して、話しかけた。
「ここでは久しぶりだね、どうかしたの?」
「うん、ちょっと悪くなっちゃった。」
「どうしたの?ボーダーにいるときに発作が起きたの?」
「ううん、まだ朝だよ、外で。」
タオルを握る那須ちゃんが寝ているベッドの横に、小奇麗な紙袋がある。
それに目をやり、薄い瞳を残念そうに歪めた那須ちゃんが悲しそうな顔をした。
「玉狛の宇佐美さんが、私が見たい映画のDVDを偶然持っててね、話してて盛り上がってDVDを借りたの、それで今日は体調も良いし返しに行こうと思って、でも、駄目だったの。」
喋るたびに動く細い腕と薄い胸が、那須ちゃんの本当の姿。
ここから玉狛は、そう遠くない距離にある。
那須ちゃんの家から玉狛も、この病院から那須ちゃんの家も玉狛も、遠くはない。
でも那須ちゃんにとっては、長距離移動。
どうしてそんなことをしたのかと問い詰める気にはならず、呼吸を落ち着かせようと耐える那須ちゃんの胸の動きを見た。
上下する胸と気管支の上にある皮膚。
汗は見当たらず、ただ血流だけが激しく全身を覆い内蔵を這う。
それが苦しいのだから、那須ちゃんは大変だ。
「言ってくれれば私が行ったのに」
「ううん、いいの。」
笑みを浮かべても、どこか悲しそうな顔をした那須ちゃんの呼吸を感じ取る。
病院で寝る那須ちゃんも、家で大人しくしている那須ちゃんも、トリオン体で相手を千切る那須ちゃんも、こうなってしまってはどうしようもない。
落ち着いている様は痛ましく、つい口が出た。
「私が代わりに行こうか?」
タオルを握る手の力が緩んで、それから残念そうに瞳を伏せた那須ちゃんが、私を見る。
小さく頷いて、小奇麗な紙袋に視線を投げられた。
お願いしますと言葉にしたくない気持ちが、とてもよくわかる。
那須ちゃんに笑いかけてから紙袋を手に取ると、一本のDVDと和菓子が入っていた。
紙袋をしっかりと受け取ると、那須ちゃんがか細く「なまえ、大丈夫?」と呟く。
白い肌が更に白くなった那須ちゃんに笑いかけ、紙袋を抱いた。
「トリオン体で行くから、大丈夫」


玉狛の入り口で挨拶するより以前に、隊服のまま登場した人物を何事かと見つめる白い髪の小さな少年がいた。
誰かは、わかる。
一体こいつはなんなんだと言いたそうな顔をした彼に微笑む。
敵意がないことを受け取ってくれたのか、こちらにてくてくと歩み寄ってくれた。
一方的に有名人である彼に、挨拶する。
「初めまして」
「はじめまして。」
まんまるな目と可愛い唇をした遊真くんは、端くれに所属する私でも知っている。
それに、あの那須ちゃんと戦った人だ。
村上くんも荒船くんも負けたという新人に、話題の大体は攫われている。
有望株で強くて、外見も不透明なことが伺えるミステリアスな感じが、なんとなく好きだった。
ちゃんと会話をするのが初めての遊真くんに、紙袋を差し出す。
「那須ちゃんの代理で来ました、これをうさみさんという方に」
遊真くんに紙袋を渡すと、珍しそうな顔をされた。
「ボーダーの人?」
「そうです」
「そうか、おれは。」
「遊真くん」
名乗る前に名前を言うと、純粋に不思議そうにされた。
「ふむ?なぜおれの名前を?」
「有名人だから」
那須ちゃんと戦ってたし、とは言わずに微笑む。
「なまえです、よろしく」
「なまえは那須さんの友達なのか?」
「うん、病院が同じなの」
「ほう病院の。」
どんな顔をしていても、私よりずっと年下に見える。
実年齢や細かいことは聞いたこともないし知る機会もなかった。
間近で会っても、異様な雰囲気は感じられない。
個人的な理由に加え、那須ちゃんを負かすに至った優秀な隊員のことは気になっていた。
「那須ちゃんが借りたものを返すために来る途中で倒れちゃって、それで私が」
「倒れたのか。」
「調子が崩れちゃったみたいで」
よくあることなんです、とは言えない。
体が弱い那須ちゃんが少しでも元気になろうとする姿を怒ることも否定することもできない私は、ただそれだけを言う。
「病院ってことは、なまえも具合がわるいのか?」
ああそれは、と続ける。
ボーダー隊員であることを踏まえて、話してもいいだろうという範囲だけを掻い摘む。
「那須ちゃんはね、病気とかで産まれつき体が弱い子をトリオン体で元気にできるかって実験の成功者で、私は後から続いたの」
「そうなのか、なまえも病気なのか?」
「まあ、そうだね」
病弱な那須ちゃんがトリオン体ではないと上手く動くことすらできないことは、周知の事実。
軽い説明でも納得してくれた遊真くんに、思いを告げる。
「那須ちゃんとこと戦ってたよね、遊真くん、かっこよかったよ」
「どうも。」
感じのいい笑顔をしてくれた遊真くんに安心していると、紙袋を手にした遊真くんが、読み取れない表情を顔に貼り付けたまま私を見てきた。
特に怖くもないけれど、こういう目で見られるのはあまり好きではない。
白い髪と赤い目は、生まれつきなのだろう。
聞いてみる自信もないのに、そういう目で見る。
ほら、私だって、みんなと変わらない。
意識の奥底で自棄を押さえつけているうちに、遊真くんは私をじっと見始めた。
何も言っていないのに、ただ見つめる。
なにかと首をかしげると、早速突っ込まれた。
「なあ、なまえ、ボーダー隊員って時間外もトリオン体で出歩いていいのか?」
「トリオン体って動きやすいじゃない?」
間髪いれずに、そう言う。
プログラムでもしてあるかのような回答をした途端、遊真くんの目の色が変わった気がした。
ずっしりとした、目の回る視線。
「へえ。」
「出かけたりするくらいなら、自己責任範囲でトリオン体になっていいよって言われてるから」
「そうなのか。」
心地よくない視線には、覚えがある。
なんでもないはずの何かの中に存在する異様なものを見る目。
私は、それに慣れていた。
白い髪、赤い目。
小さい背に整った顔立ち。
それでも不自然さはどこにもない遊真くんの視線が、どっしりと圧し掛かった。
耳の裏が冷えて、目の奥がぐるりと回る感覚がする。
こちらも負けるものかと遊真くんの白い髪を見ていると、ぽつり、と落し物でも見たかのように口を開いた。
「ウソつきたくもなるよね。」
一秒、二秒、三秒。
もっと長い時間考えるのをやめてから、頷いた。
「うん」
トリオン体には、間違いなく換装している。
私自身の落ち度は無いはず。
だから遊真くんに気づかれただけ。
遊真くんの顔を見てから、思ったことを言った。
「サイドエフェクト?」
「そうだ、よくわかったな。」
心の一番底にある諦めの感情を、自らへの同情で上塗りする。
そうしていれば、人と話すことくらいはできた。
自棄の感情を、もう少し色つけたものが湧き出てきそうになる。
サイドエフェクトの詳しいものは、なんだろう、相手の本当の姿が見えるとか心の具現化が見えるとかだろうか。
もしそうならば、今ここで消え去りたい。
遊真くんに恐る恐る問いかけるつもりで、平気な顔をした。
「ウソの姿まで、見えたりする?」
「見えはしないな、分かるだけだ。」
先ほどの感じのいい笑顔をしてくれた遊真くんの姿を、目に焼き付ける。
「遊真くんは、気にならないよね」
「なにがだ?」
わからなさそうにする遊真くんの素直さに、打たれる。
「不思議だよね、人って、目の色も髪の色も肌の色も、生まれつきかファッションか見抜けるんだから」
上塗りして、色付けて、平静を装って出た言葉の貧困さに心の中で狼狽する。
言わんとすることを感じ取ったのか、遊真くんは聞いてきた。
「髪の色とウソの理由と、トリオン体でいることが関係あるのか?」
「うん」
「おれも似たようなもんだ、気にするな、なまえ。」
感じのいい笑顔を見て、冷たくなった耳の裏が戻っていく。
「似るって、どんな風に?」
目の奥がぐるぐるする不快感だけは残ったまま、遊真くんに聞いた。
ふむ、と考えるような仕草をした遊真くんは決してふざけた顔をせずに、続ける。
「なまえのウソは、おれと似た部分がある、そんな気にしなくてもいいと思うぞ。うちの隊長だって換装しても眼鏡かけてるし。」
たぶん、三雲くんのことだ。
いつでも眼鏡をかけている人もいるなあ、と思い出し、遊真くんの白い髪を見てしまった。
「ごめんね、もう病院戻らなきゃ、明日ボーダー来る?話そうよ」
僅かに表情を固めた遊真くんが何か言う気がして、血の気が疼く。
じゃあまた明日と言われるつもりだった私を、あっさりと突き返す。
「なあ、なまえ。」
まるで呼び止めるような声で、胃の辺りがさっと冷える。
「なまえがなんでそんなウソを必死につくのか、悪いがおれにはわからん。だからなまえがおれと話してもなまえが嫌なだけかもしれないぞ。」
罵られたわけでもなく、突き放されたわけでもない。
馬鹿にされたわけでもないし貶められたわけでもない。
それなのに、足元が歪んで狂うようだった。
嫌じゃないよと言うよりも先に、もっと手っ取り早い方法を手繰り寄せた自分に呆れる。
ポケットの中のトリガーにそっと手を伸ばし、トリオン体の換装を切った。

途端に、音が消える。
感覚もない左耳と、空気の音も鼓動も聞こえない右耳。
もともと住んでいる無音の世界は、広がる気配はない。
指を動かす音も、足音も髪の擦れる音も瞬きの音も聴こえない世界は、嫌いになれるわけがなかった。
さっきまで聞こえていた玉狛支部内の雰囲気の流れる感覚も生活音が響く空間の音も、気配の線のような音も、衣擦れの音も、足音も、聴こえない。
存在しない聴覚を抱えた体と、それでも動く鼓動。
微かに聞こえる呼吸音が邪魔をして遊真くんの声が聞こえないのではと、息をすこしだけ止める。
高い鼻根、茶色の左目と青白い右目、前髪だけ白い私をみた遊真くんが「ふむ、なるほど。」と言ったのが聴こえた。
白さだけなら、前髪は遊真くんと変わらない。
目にかかる前髪だけが白く、睫のすぐ上に霞がかかったように見える。
遊真くんに向きなおり、愛想笑いをした。
なにかを話しかけてきた遊真くんに焦り、伝わるように耳を指差した。
耳を指でトントンと指差し、音の取れない低く歪んだ声で、ごめんねきこえない、と言う。
私の声を聴いた瞬間、遊真くんは理解してくれた。
遊真くんの口が「そうか、きこえないのか、すまんな。」と動いたような気がした。
驚きもせず、まっすぐ見つめてくる遊真くんが今何を考えているのか、どう思っているのか、それを知ってしまったらいけない気がする。
茶色の目で見る世界は、すこし薄くて遊真くんの赤い目だけがハッキリと見えた。
青白い目は、遊真くんの白い髪の薄さを捉える。
高い鼻根で出来る顔の影は、トリオン体の私とは違う印象を与えるだろう。
会話が通じないままでいるのも悪いので、すぐにトリオン体に換装する。
途端に聴こえる空気の音、呼吸の音、感覚の音、鼓動と呼吸音に耳が触れて、前髪も目の色も同じになる。
遠くの音も、隣の建物の生活音まで聞こえてきそうな耳を手に入れ、機能していないはずの鼓膜が震えた。
明瞭な視界と均一な色の髪も、本来はないはずのもの。
こうしていたほうがいいんだと、ずっと前に納得した。
白い髪でも、赤い目でも、堂々とする遊真くんが私は心底羨ましい。
「私、変なの」
羨ましさも、妬ましさも、自分自身に対する自棄も異の念も、一言にだけ込めた。
遊真くんのサイドエフェクトがどんなものか知らないまま、私は上塗りされた心から送り出される精一杯の表情をする。
それすらも見破るサイドエフェクトならば、もう遊真くんと話すことはないだろう。
私は、遊真くんが羨ましかった。
「おれはそう思わないけど、気になるのか?」
即座にそう言えてしまう生い立ちも、今まで遊真くんを取り巻いていた環境も、遊真くんの性格が形成されるに至った人生も。
「ボーダーのやつらは、変な目で見ないとおもうぞ。」
「そうかな、そうだといいな」
「おれも日本ではハーフとか外人とか言われるな、でも話してればすぐ言われなくなる。」
「それ、私も同じ」
「一緒だな。」
一目見た時から思った。
あなたが羨ましい。
「耳がきこえないのは大変だな、でもそれ以外は気にならなかったぞ。」
「遊真くんは、外国にいたの?」
「そうだよ、けっこう長いこと色んな国を転々としてた。」
だからか、と合点がいき、白い髪と赤い目の理由に察しがついたと同時に遊真くんが軽やかに喋る。
「なまえ、明日ボーダーにくるか?」
非常にねっとりとした感情の私に気さくに話しかけた遊真くんから、目が離せない。
「うん」
頷くと、またしても感じのいい笑顔を見せてくれた。
羨ましい、好き、うらやましい、すき。
そんな気持ちまでバレていたら遊真くんは次の瞬間になんて言うのだろうか。
私の心にまた新しいものが上塗りされる、そう構えていても、遊真くんは気前よくするだけだった。
「個人戦でもしよう、おれはいつでも戦えるぞ。」
「ほんと?」
「おう、なんならうちの隊長とも戦うか。」
「いいね、出来たらやってみたいな」
頭の中を覆い尽くしている暗くねっとりとした感情が薄まっていく。
「じゃあ、また明日」
遊真くんに手を振って、挨拶して後にする。
紙袋を持ったまま手を振る遊真くんと、また明日も話す。
那須ちゃんとの戦闘ログを見返してもトリオン体の目で見ても生身の目で見ても、白い髪は変わらない。
そのままでいいと言い切れる遊真くんと私の何が違うのか、どこで違ったのか、誰かに説明してほしかった。
きっと説明できるのは、私しかいない。
慣れ親しみたくないものを、慣れ親しむ私がいる。
何故覆い隠すのか、理由は見つからない。
よく聴こえる耳は暴れる鼓動の音も聴き取っていて、非常にうるさかった。










2016.01.26








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