05




握り締められた手から水が噴出したら、この男の体温で焼け死ぬ。
暴れてでも、この男を遠ざけようとする気にはならなかった。
白く短いマントと、対照的な黒い服と髪。
何も言う気配はなく、姉さんと言われたことの意味だけを考える。
私は誰かの姉をした記憶はない。
私が誰かの姉である可能性も、ない。
なら、この男は何を言っているのか。
濡れて歪んだ砂のような瞳の中の瞳孔は、目を引くくらいはっきりとしていた。
姉、とは、姉だ。
この男の姉が存在して、私はその姉に似ているのかもしれない。
その線は薄いだろう。
男の髪は黒く、私は砂のような髪と目の色。
似ている部分なんて、どこにもない。
暫し私を見て、視線を逸らし、しゃがみこむのをやめた。
この男は、陽太郎のように会話できるわけではなさそうだ。
立ち上がり、バツが悪そうにしたあと呟く。
「悪い・・・あなたは、誰だ・・・。」
なまえです、と言いたくても言えず、愛想笑いをする。
「足が悪いんですか、声も・・・」
水に入れば一瞬で解決する痛みもありますが、そうです。
と、心の中で言って頷く。
成り立たない会話をさせてしまっている申し訳なさもあるが、男の違和感に引っかかった。
目元は暗く、先ほど私を誰かに間違えたにしては鋭すぎる瞳。
春秋と同じ、黒い髪に黒い目。
ここの世界の人種と民は一様に黒い髪と黒い目と砂浜のような、白色と黄色の中間の肌をしている。
「あなたのような人が、どうしてここに、隊員ではないでしょう。」
頷くと、足を覗かれた。
細い手足に、手当てだらけの身体。
男が眉間に皺を寄せ、憎そうに私の怪我を見る。
「怪我、まさか・・・近界民にやられたんですか。」
その一言に、震え上がる。
声が出せたのなら、呻きくらいはあげただろう。
男は確かに、ネイバーと言った。
その憎そうな顔と、鋭すぎる目の違和感の正体を突き止めた体の下で心臓が脈打ち、乾いた鱗も見えない肌にあり得ない程鳥肌が立つ。
扉の向こうに行ったレイジは、まだ帰ってこない。
男は私に食って掛かるような顔で、手を握り締めてきた。
冷たい男の手から汗が爆発しませんようにと祈りながら、避ける。
「いつですか、我々の知りえぬところに奴らが・・・!」
けひゅう、と鳴る喉に、男がハッとする。
申し訳ない、水の中に放りこんでくれないか。
そう目で伝えても、わかるわけがない。
見ている限り、この世界の住人は水中での生活をせずとも酸素を取り込める。
リーベリーの民が陸に上がって生活をすることは、殆どない。
水の民は、水と共に生きる。
こうなったのなら激痛のまま延々と走り、鱗を剥がしながら水を求め歩き、駄目ならそこで果てればいい。
けひゅうと鳴る喉を見る男の顔は、悲しそうだった。
目の前の扉が開き、レイジが現れる。
私の側に白くて短いマントをした男がいるのを見て、歩み寄り私の事情を告げた。
「秀次、なまえは口がきけないんだ。」
男は、秀次と呼ばれた。
発音しにくく覚えにくい名前の秀次が振り向き、レイジを見るなり顔つきを変えた。
「玉狛の女か?」
「保護した、口頭で伝えたが危険性はないと判断され、後日こちらのエンジニアも交えることになった。」
エンジニアとはなんだろう。
医者なら、やっても無駄だと言いたい。
意味がわかっている秀次は、レイジに聞き出す。
「近界民から攻撃を受けた可能性は?」
「それは、なまえに聞けばわかることだ。」
口のきけない私に、よく言う。
椅子の上からも動けない私の情けなさを無視した秀次が、突き飛ばしそうな勢いでレイジに向き合った。
「この足、声、市民がやったことだというなら、俺達に怯える。未確認の近界民が忍び込み、なまえが攻撃を受け口もきけなくなったと考えるのが妥当だ。」
何故、俺達と言ったのか。
見てわかるとおり、レイジと秀次は男性で、私は細くて動けない傷だらけの女。
状態から連想される可哀想なことといえば、そういうこと。
男性が暴力を振るう固体が増えやすい性というのは、こちらでも同じようだ。
「なまえといったな、話をさせろ。」
鋭い目を暗くして、獣のような目を向けた。
おそらく、秀次には近界民への憎悪がある。
本能的に突き刺さる憎しみを感じて、秀次から目を逸らした。
秀次は察しがいい。
未確認の近界民が忍び込んだというのは、本当。
攻撃は受けてないが、任務に失敗して地上にいるおかげで乾いて口がきけない。
お断りだ。
そっと顔を背けて、目でレイジに助けを求める。
「そんなに気になるのなら、玉狛に来い。」
レイジがあっさりと言い切り、私の椅子を押す。
来た道を戻るように進み、秀次が遠のく。
安堵していると、レイジが起きた事を忘れさせようとするように話しかけてくれた。
「何故、なまえに話しかけたんだろうな。」
わからない。
首を振ると、レイジが呟いた。
「あまり見ない光景だった。」

糸車と機械が重なったような椅子を動かされ、施設から遠のく。
私への裁判も、処分も言い渡されることもなかった。
一体レイジはここに何をしに来たのだろう。
それはレイジしか知らないし、口のきけない今はレイジと話すことも伺うこともできない。
動けない足と、その下で疼く痛みに歯を食いしばる。
歯に力を入れたら、亀裂のようにエラが戻らないものか。
乾いた空気に触れるたび、そんなことはないと突きつけられる。
リーベリーの民の血が濃く水の中で素早く動けても、地上での生活を上手く出来ない私は、回る椅子を押されるだけ。
いつになったら事態は好転する。
この世界の字も分からないから、文字での会話はできない。
耳にあるピアスで三半規管を調整し、利器の恩恵で言葉を把握できても、トリガーを使うためには水が必要。
任務に失敗した時点で、未来なんかない。
この世界のなるように任せよう。
正当な自暴自棄をする私に、当たり前のように気づかないレイジの大きな手によって黒い鉄の塊に乗せられた。
近くで見れば見るほど、戦士の力瘤ほどの大きさをした肩だ。
休暇の兵士が、わざわざ人助けをしているのか。
相変わらずレイジは無言で、口のきけないものへの丁寧な扱いに徹していた。
丸い輪を捻りつつ方向距離と速度を体感で計算して、この黒い鉄の塊を動かしているように見えた。
勝手に走るわけでもなさそうな鉄を上手く動かすレイジは技術者なのだろう。
横から見て伺うと、走る速度を足で調整してるようだった。
逃げ出す時が来たとしても、この鉄の塊だけは使いたくない。
来る時は俯いていたが、薄く硬い水幕の向こうの景色を見た。
水幕は透明で、硬く、音だけを殆ど遮断していた。
灰色と緑、たまに光の玉のようなものと色がふんだんに使われた建造物がある。
細かく、規則性はなく聳える塔は光っていた。
建物に光というと、私の認識では合図や司令塔の命令に使われる。
もしかして、ここの世界は常に見えない遠くの場所で戦争をしているのかもしれない。
そう思ってもいいくらい、どこもかしこも光っては色が変わり、通り過ぎる建物は光が漏れていた。
レイジが、鉄の塊を動かす時もそうだ。
短い塔の横についた白い箱の中の紅色を見ると止まり、藻色を見ると足を動かし鉄の塊を走らせる。
色と光で合図を出し、色をここまで細かく使う文化がある世界は、初めて見た。
任務に失敗し、放り投げられた世界をこうして眺める。
静かにしていられるのも、あとどれくらいなのか。
鉄の塊の振動とは違う、別の振動を耳で聞く。
その振動に目をやるとレイジの手の中で治まり、静かになったそれをレイジが耳に当てた。
「俺だ。」
あれは、通信機械だ。
こちらの世界は通信ですら機械なのか。
何をやるにしても重たい世界だと思ってみていると、レイジが鉄の塊の方向を変えた。
身体が引っ張られ、頭が水幕にぶつかる。
ゴンと音がして、耳の中で響いた。
「今来ているのか、ああ、それなら俺が迎えに行く。」
そう言ったレイジは通信機械を元の場所に戻し、私に一言かける。
「寄るところが出来た。」
灰色の建物の道から、緑色とオレンジ色の道を目指す。
水幕は相も代わらず景色だけを映す。
景色は変わり、変わり、人が歩く。
鱗のない足は健康的に動き、誰も歩く事に痛みを覚えていないようだった。
今この瞬間だけ、足が羨ましい。
走る子供を通り過ぎ、大きな建物の前で止まる。
数十秒の間を置いて鉄の塊の扉が開き、小さい女の子が見えた。
私を見て、軽く礼をする。
「あ・・・初めまして。」
「雨取、この人はなまえ。」
雨取とレイジに呼ばれた子が、はいと言って鉄の塊に乗り込む。
細くて小さい足が軽やかに動いていて、羨ましい。
「玉狛で一時的に保護することになった女性だ、怪我をしていて声が出ない。」
レイジはそれだけ言って、鉄の塊を動かした。
細い足の小さな女の子は私の包帯まみれの足を見ても、丁寧に挨拶をした。
「雨取千佳です。」
なまえです。
千佳ちゃん、よろしくね。
そう言ったつもりで軽く笑うと、怪我の心配をされた。
「大丈夫ですか?」
大丈夫です。
できれば水に突き落としてね。
言えればいいことが言えない辛さのまま、小さな女の子を見る。
この子も黒い髪をしているではないか。
この世界に来て、一体何度見た色だろうか。
景色は色取り取りなのに、髪は黒。
奇妙な世界に来てしまったと景色を見ると、レイジの声を耳の側で拾った。
「東さんが雨取に用があるとかで、今玉狛にいる。」
「はい。」
鉄の塊は動き、見覚えのある場所に戻ってきた。
レイジが降りて、千佳ちゃんが降りる。
私のいるところの扉が開いて、冷たい風が私の体を撫でる。
レイジに抱えられ、糸車と機械の椅子に座らされた。
水幕のない景色は光と風が満ちていて、心地よい。
来た道の光景を見ていたから、陽太郎のいるところに戻ってきたのは分かっていた。
私と話せるのは、今のところあの子だけ。
どら焼きを食べながら、陽太郎と話せたら事態は動くかもしれない。
レイジが椅子を動かしている間、来る時は痛みで見ていなかった景色を見た。
私の目が、光と色の見過ぎておかしくなったわけではないのなら、痛みで気づいていなかったことになる。
景色を見渡し、椅子の進む方向を見て、レイジと千佳ちゃんがどこに向かっているか今一度確認し、下を見る。
下は、大きな川だ。
陽太郎がいる、あの大きな家は川の上に立っている。
どういう構造かピンとこないけれど、何故今まで気づかなかったのか。
そのあとすぐに、痛みで白目を剥きかけて景色どころではなかったことを思い出す。
足の痛み、声の出ない喉。
レイジと千佳ちゃんは話している。
万一の可能性に賭け、痛みに耐えるべく先に歯を食いしばった。
動きにくい手で、右手のほうを指差して椅子を叩く。
まるでそこに何かがあるように、大袈裟に指を差し何度もレイジと千佳ちゃんに視線をやる。
私のただならぬ様子に気づき、指差す方向に目をやった。
今だ。
椅子から立ち上がり、川の下を目指す。
バランスを取ることを考えずに傾けば、すぐだった。
「あ!おい!!」
レイジの悲鳴が聞こえた。
ここでお別れかもしれない、でもいい、とにかく水があるなら、そこでこそ私は貴方達に礼が言える。
千佳ちゃんの、きゃあという短い悲鳴が聞こえた。
水の中に落ちて、耳も、身体も、指も、足も、顔も、頭も、全てが包まれる。
恋しくてたまらない透明の匂い目掛けて落ちようとすると、必死の形相のレイジが見えた。
下は水、それなら、もうこれはいらない。
服に手をかけたところで、水の中に落ちた。
冷たさに安堵と恋しい気持ちと喜びが内臓を動かし、乾いた臓器が動き出すのが分かる。
頭の中まで冷えるように感じてから、足の傷が癒えた。
手当てしてもらったものを剥がして捨てて水の中で泳がせる。
溶ける気配もない服が、流れていった。
足に何枚も張り付いた布を剥がし終わると、足先から鱗が伝う。
乾いた肌と萎びた肺、砂漠のような喉が潤っていく。
水の中で、思い切り呼吸をしてみる。
耳、鼻、目が競うように水を取り込み痛みから遠のいていった。
二本の足は尾ひれがつき、鱗が染みて血を割り肉を作る。
砂のような髪は舞い、元通りになった。
灰の唇は色を取り戻し、石の爪は指と一体に。
鼓膜が音を拾うようになったあと、エラと水かきが戻ったのがわかった。
足と腰に力を入れ、レイジと千佳ちゃんが話しているのを聞く。
地上で、絶叫と騒がしいほどの声がいくつも聞こえる。
動けないものが水の中に飛び込んだのだから、地上側はこれとない騒ぎだろう。
顔を出さずに、ここを去ろうとする隙も与えないと言わんばかりに、水の中に誰かが落ちた。
黒っぽい服、戦士のような身体。
水の中で動けないけど私を助けに来たレイジが、怪我をしたまま水に落ちて川底に沈んでいる私を探す。
それもしないうちに、私と目が合う。
リーベリーとしての姿を取り戻し、レイジを気遣い近寄る。
レイジの頬に指を近づけただけで火傷しそうな熱を感じて、手をひっこめた。
「もういいの」
それだけ言って、驚いたようなレイジをそのままにして水面から顔を出した。
光が注ぐ水上を眺め、川の水質が特別いいわけではないことに気がつく。
もとは水質調査で潜入したせいか、気にしてしまう。
この水を、この世界の人はどのようにして飲んでいるのか、聞けるのならレイジにでも聞きたかった。
顔を出し見上げると、覗いていた千佳ちゃんが息を飲み呆然とする。
「千佳ちゃん、あなたの足、細くて可愛いね!」
水面から手を振り叫ぶと、千佳ちゃんが更に驚いた顔をして動けなくなっていた。
久しぶりに喋れたことへの嬉しさで、尾ひれが激しく動く。
鱗の目立つ手首と、腹。
それ以外は変わらないけれど、明らかに違う姿を見て千佳ちゃんが青ざめはじめた。
手の水かきが原因だろうと思い、隠す。
すぐ横から、濡れて髪がぐちゃぐちゃになったレイジが顔を出した。
信じられないものを見る目を向けるところから言って、運がいいのか悪いのか分からなくなる。
「なまえ、おい、どういうことだ。」
低く棘のある声に変わったレイジを見て、先ほどの男を思い出す。
どこの世界でも、男は暴力性を秘めているようだ。
「見てのとおり」
初めて喋った私を見て、レイジが何も言えず私を見る。
狭く見えたあの橋は、下から見ると暗くて大きい。
その上から、小さい顔が見える。
驚き何も言えず立ち尽くすしかない千佳ちゃんの横に、もう一人増えた。
「木崎!大丈夫か!」
飛び込んだレイジを心配したのだろう、木崎、というのも、レイジの名前なのだろう。
レイジに向かって木崎と呼んだ見覚えのある顔が、こちらを見ていた。
黒髪の男の人。
顔と手しか見えないのに、誰なのかわかって冷たい身体が僅かにときめく。
熱を感じれば火傷をして鱗が痛む身体なのに、自らの鼓動が聞こえる。
何故、今ここにいるのか知らない。
そう思ってすぐ、鉄の塊の中での会話を思い出す。
「東さんが雨取に用がある」と言ったレイジ。
薄い紙を一枚差し出して、私になまえとつけた時、「東春秋だ。」と名乗っていたこと。
そうか、そういうことか、だから今ここに。
こんな偶然、あっていいのか。
声も出せない状態の私を助けてくれた、心優しい人。
話せたのなら、ずっと会いたかった、会ってお礼をしたかった。
あの時助けてもらえなかったら、私は今頃もっと酷い事になっていた、ありがとう、と。
嬉しい気持ちが沸きあがり、尾ひれと両手を振る。
鱗の下半身と手の水かきを見ても、この人は気づいてくれた。
「・・・なまえ?」
焦りを僅かに見せた目元以外は、あの時と変わらない。
心地よい風が、鱗の肌を撫でた。
「春秋!」
水に染み、潤った喉は、しっかりと春秋の名を呼んだ。




2015.09.16









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