03





空を見れば、小さい水が無数に落ちてきた。
水の青が光って、この色を作り出している。
もしも海がピンク色になれば、空は淡いオレンジ色になるだろう。
一滴は透明でも、大きな海の中に落ちてしまえば色に染まって、同化したように見えて、わからなくなる。
私もそのうち、この世界でわからなくなるのだろうか。
いくら水になって溶け込もうとしても、私はこの世界じゃ異物のまま。
同じになることはない。
砂の壁の塊のような部屋に追われるように寝かされて、数日。
白い服を着た女性達は、なんとかして私と意思疎通を試みた。
喋る練習もさせられて喉を何度も揉まれ、押され、舌を見られ、外観に異常がないことを何度も確認された。
不審な子だ、と言う声は、聴こえる。
この星の者は、私達よりも耳が悪いのだろう。
壁の向こうにいけば、声が届かなくなると思っている。
何度も、意思疎通の練習をしたが、その甲斐も虚しく私が声をあげられることはなかった。
足は痛みを感じて、うまく歩けない。
まっすぐ歩く感覚を取ることに集中する歩き方を練習を毎日させられ、数歩踏み出しては止まり、痛みに耐える。
痛いとも言えず、蹲ることが何度もあった。
空気が乾いている日に歩かせられると、最悪だ。
白い服の女性の誰かが、間違えて身体に思い切り水でも零してくれると楽なのに、そんなことも起こらない。
医者も行き先が決まらない者を相手にするのは、堪えるのだろう。
砂の壁の部屋に置かれてからは、なにもしない時間が増えた。
私の扱いは、行方不明者。
失踪者との照らし合わせが、とか、誘拐事件が、とか、そんな言葉が聞こえた。
でも、関係ない。
他の人から見たら、喋れない、話せない、なのに言葉は理解している様子がある、毛色の違う気の毒な子。
それ以外に何か思う人がいるのなら、むしろ会ってみたい。
私を助けた、春秋という彼だけが、妙な良心を持ち合わせていた。
また、来てもいいかな。
そう彼は言った。
ここで彼を待つのもいいけれど、私のことがばれてしまえば、会えなくなる。
何より見つけた彼に迷惑がかかると思えば、待つわけにはいかなかった。
早く良くなって、と心配してくれた、黒髪で黒い目をした男の人。
打ち捨てられていた哀れな骸のような私を助けた、言うなればお人好し。
怪我のない私を、ここに連れてきてくれた。
この砂の壁と、石の壁の建物から出れば、春秋のような者はいるのだろう。
会ってみたいと、途方も無い口で呟きたい。
砂色の塊のような壁は白くて、光の反射だけは美しくできていた。
あとは、なにもできない。
歩けもしない、いまの私のようなものだ。
薄い氷のようなものの向こうは、外が見える。
ごつごつした、物騒なものが立ち並ぶ乾いた空気にまみれた光景。
これが、見える光景だった。
その光景に向かって、水滴が落ちては消える。
空から水を撒いたような雨が降ってきて、少しずつ空を暗くしていく。
気候が安定していないようだ。
リーベリーでは、大きな季節変動ごとに天気が変わるくらいのもので、雨は季節性のもの。
ここでは、何かしら常に変動している。
音が聴こえる。
女性達の靴の音のような、細かい音が外から聴こえて、少しずつ大きくなっていって、雨音になる。
雑音のような雨音。
水と石が不釣合いにぶつかる音。
もしかして、これは。
雨音に混じり、僅かな希望が抱かれる。
痛みに堪える足に鞭を打って、立ち上がる。
部屋の出入り口まで行って、外に出たいと言うまでもなく外に出れば、すこしはマシになるかもしれない。
白い扉を目指して、痛みを無視して歩く。
踵を地に根付かせないように、爪先だけで歩いて、出入り口の壁に手を差し伸べた。
腰にかかる体重と、考えたこともない足裏の摩擦に冷や汗を流す。
壁に手をついて、出入り口にある白くて冷たい棚のようなものに、もたれかかった。
ひやりとした石の塊のような棚には、銀褐色の棒状の何かが取り付けられている。
腕を伝う冷たい感覚に、胸が焦がれた。
頭から、水に飛び込みたい。
冷たいものに恋焦がれるように、銀褐色のそれに触れた。
下向きについた穴に手を翳せば勢いよく水が噴出し、飛んだ。
透明な冷たい水が手に触れて、一瞬で手の水かきだけが戻る。
潤う手と、這っていく鱗。
何故こんな石の塊から、水が噴出すのか。
仕組みは分からない、それに、海の水とは違うように思えた。
意図的に透き通らせた水が、延々と溢れてくる。
水質のことは、この際どうでもいい。
元に戻りかけた手で水をすくって、足に何度もかける。
足に水を打っていくうちに、痛みは引いて、足の鱗の隙間から水を吸っていっては乾きを潤していった。
痛みが響く足は薄まり、足元から水を感じた皮膚が鱗を取り戻していく。
それでも足の形を保ったままで、人の両足に薄い鱗があるような状態へと変化した。
やはり水質の問題だろう、完全な足には到底戻らない。
それに、乾きも早い。
どこでもいい、大きな水。
近くに大きな水源が、あるはずだ。
押せば水が出るようなものがあるのだ、砂漠ではあるまい。
砂の塊は立ち並んで、群れを為しているけれど、どこかにあるはず。
白い服の女性達が来る前に、ここから抜け出して、水の中に飛び込めば、痛みからは解放される。
それだけを目当てに、部屋の扉を開けた。
冷たく乾いた空気に目を細めたものの、足が保つうちに、ここから去らなくては。

薄い鱗を模したような足は、僅かに目立った。
たまにすれ違う男が、一度か二度は私の足を見る。
それでも、叫ばれはしなかった。
どの者も服を着こんで、肌を露出していない。
その理由は、すぐにわかった。
すれ違う女性たちの足は、薄い布に柄を描いたようなもので飾られていた。
一人が、あのストッキングすごくない?と言った。
足の鱗は、鱗だと思われていないようだ。
近くで見ればばれてしまうが、リーベリーの者ほど、目はよくないようだ。
濡れた服が、重い。
人が歩いてくる方向を辿って、ひたすら歩いた。
乾いた空気が迫ってくるうちに、水源を見つけないと。
同じ服を着た少女たち、着こんだ男、子供、数名とすれ違うものの、声はかけられない。
気を抜いたら、狩りにくるかもしれない。
いつ、なんと言われるか。
ネイバーだ、異世界のものだ、殺せ。
そんな状況は容易く想像できた。
進めば進むほど、人がいない。
確かに、人はこの先から歩いてきた。
それならば、人の集まるところがあるはずだ。
川でもいい、とにかく水を見つけて、そこに隠れるんだ。
そうすれば、足の痛みからは逃げ切れる。
暗がりの空が、すこしずつ明るくなっていく。
明るくなればなるほど、雨音だけが遠のいていった。
薄い感覚に足をくすぐられながら、地面を降りる。
土が水を吸っていて、幾分滑りやすくて好都合だった。
進み続けるうちに、地面が平行ではないことに気づいたものの、遅かった。
思い切り転ぶ。
予定にない転び方をして、顔をぶつける。
鈍い痛みが、頬を叩きつけた。
雨が止む気配は、ない。
硬い地面に埃と石の不快な匂いを感じながら、座り込もうとした。
目の前から、人の歩く音が聴こえる。
転んでいないで、早く歩かないと。
一度座り込んで立とうとした時だった。
足の鱗が、地面にひっかかって、剥がれる。
棘が刺さるような痛みに、足を動かせずにいると、通り過ぎようとしたであろう子供が、言った。
「おいレイジ!」
ついに、至近距離で声をあげられる。
この子供が私に気づいて、足の鱗を見て驚いているのなら、もうおしまい。
鱗が剥がれた痛みと、冷えた気配を感じながら、声のする方向を見る。
大きな帽子のようなものを被った子供が、雨避けの傘を持っている。
しかも四つ足の毛まみれの生き物に乗っていた。
まんまるな目を珍しそうにして、私を見ている。
大人を呼んだであろう男の子と謎の生き物、これはここの陸の生き物だろうか。
柔らかくなさそうな毛に、離れた顎。
この顎があれば、私の腕なんて簡単に噛み切れそうだと思った。
水の中にいる私からすれば奇妙でしかない生き物は、無愛想な顔をしている。
男の子の声を聴いた大人が、駆けつけた。
「どうした。」
低い、男の声。
雨音に混じって聴こえる声に、肝を冷やす。
低い声の主は、背の高いがっしりした男性だった。
大男という表現が合いそうな男性は、私と同じように雨に濡れている。
地面に崩れる私に駆け寄り、顔を覗き込む。
「大丈夫ですか?どうしましたか?」
平気です、大丈夫、それより海か川は近くにありませんか。
そう言いたかった喉は掠れた。
けひゅ、けひゅ、かは、と鳴る喉を、違和感と疑問たっぷりの目線で見つめる。
喉から流れる空気の音だけで、大男は気づいたようだ。
大男は、私の足の薄い鱗に気づく。
一目見て、気づいたのだろう。
大男の顔が、険しくなる。
足が痛いだけです、水の多いところに行けば、もう大丈夫です、自力で歩いていくので放っておいてください。
目で訴えても、伝わるわけがない。
足の鱗を見つめる大男の目つきが、段々と不穏な色を宿す。
ああ、これは、まずい。
この目つきと視線に覚えはなくても、嫌な感覚だけは分かる。
リングの合図が近づき、水面に上がろうとしているのに重苦しい気持ちだけが支配する、あの感覚。
またあの気持ちを味わうのか。
押しつぶされそうな状況に、考えもしなかった助け舟がやってきた。
四足の陸の生物に乗った男の子が、私を見て言った。
「レイジ、このお姉ちゃん、足が痛いんだって。」
男の子の無邪気な声に、度肝を抜かれる。
「足?」
胡散臭そうに、大男は私の足を見た。
男の子は、私の足を指差す。
「足が痛いのに、ここまで歩いてきたそうだ。」
大男は、虚しく空気が通る喉の掠れた音を出す私と、男の子を見る。
四つ足の生き物に乗った男の子は、疑いもなく話す。
「レイジ、抱えてやるんだ、おとこだろう。」
「お前もな。」
大男が、私の顔を今一度覗き込む。
鋭い目つきが、すこしだけ和らいだ。
男の子の言葉だけで、こうも緩むわけがない。
どうして、あなたは私のことがわかるの?どうして?私はまだなにも言っていない。
声に出さずそう言うと、男の子はまるで聴こえているかのように答える。
「うむ、おれには痛がってるようにしかみえないぞ。」
傘に帽子といった出で立ちの男の子は、私が装備しているようなピアス形状の調節機器もなさそうだ。
大体、いまの私と会話が成り立とうとしているだけで、おかしい。
あの偉そうな医者や白い服の女性達も、私の意図すら掴むことはなかった。
頭が良さそうに、偉そうにしているわりには何もできない人たちができなくて、突然現れた男の子ができている。
あなたは、だれ。
そう男の子を見つめて思うと、男の子は得意気に笑った。
「おれか、おれは陽太郎だ。」
笑う口をよく見たものの、舌にも調節機器はついていない。
もしやこの星の者は、リーベリーの者と会話ができるのか。
そうならば、大発見だ。
いや、でも、それなら一番最初に出会った春秋と会話ができているはず。
陽太郎くん、と復唱すると、陽太郎くんは笑う。
私と、なんとなく会話ができている。
男の子は、せいぜい5歳か6歳。
目を見て全てを察せるような心理的な技を持っている年頃だとは、思えない。
喋れない私と、話せている。
おそらく、サイドエフェクトだろう。
「お姉ちゃんの声が、よわっている!これはいけないぞ!レイジ!」
陽太郎くんは、大男に指図するような動作をした。
大男は、レイジというらしい。
疑いの目を向けてから、仕方ないといった具合に私に手を差し伸べる。
筋肉質な腕は、雨に濡れていた。
「怪我をしているのなら、手当てしよう。」








2015.02.20




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