ただ一人の命綱





花屋敷さんリクエスト
・ケニーと一時期一緒に暮らしていたけれど、殺人悪夢を見る部下ヒロインのシリアス







眼窩を砕く音がすれば、そこで目が覚める。
浮いた歯が、そのまま喉に張り付くような不快感のある音が、時々の目覚ましだ。
耳から脳に焼き付けられて取れないそれが、眠りから覚めると同時に逃げてくれる。
現実に引き戻される感覚が自然にやってくるだけ、有難い。
目玉の奥は悲鳴をあげたまま、朝を迎える。
動くだけの人形のように、のろい手つきで髪を整え、着替えた。
他の隊員の気配がないのを察するに、ケニーが朝から買出しと掃除を言いつけたのだろう。
自分以外が暇をするのを、許さない人だ。
いつも通り支度をして、現実の色味の無さに溶け込む。
これでいい、と何度も言い聞かせた現実では、どんどん内側から蝕まれている。
解決しなさそうな悩みは、埃のように積もっていく。
誰かが掃除をするか、吹き消すか、何かをすれば消える。
でも、そうはならなかった。
ただ一人、私の心の溝色を薄めてくれた人だけが、この埃を吹き消す力を持っていたのではないかと信じて疑わない。
私は今日も、その人に仕える。
おはようございます、とケニーの前に現れれば、相槌の間もなく頭のネジに火薬が染みこんでいそうな声が放たれた。
「なんだ、おい、なまえ、朝飯と間違えてクソでも食ったか?」
ケニーが私に向かって、残しておいたか残っていたか正体不明なパンを投げる。
寝起きの鈍い手でパンを掴んで、軽く匂いを嗅ぐ。
齧ってみると、外側が少し硬かった。
咀嚼をしながら、ケニーを見つめる。
「寝覚めの悪い面して、俺の前に出てくるな。」
あっちにいけと言わんばかりのケニーが、磨き油くさい手を振った。
今にも黴そうな机の上には、コレクション用とも見れる小さい銃と悪臭を放つ磨き油が居座っている。
あの近くに行けば、鼻をやられそうになるのは見えていた。
咀嚼して、飲んで、水が欲しくなる。
「なによ」
唾液の少ない舌を動かすと、思いのほか喉が詰まった。
「じゃあ、前みたく寝かしつけて」
半分甘えた声を出してそう言うと、いつも通り交わされた。
「馬鹿言え。」
「何とでも言って」
「淫売って呼ばれたいか?」
「違うからやめて」
「知ってるぜそりゃ、そんくらい。」
「ならいいのよ、わかってるんならいいの」
「あーあーうるせえ!うるせえ!その感じ、なまえがようやく起きてきた感じがするな。」
「気合でも入れたほうがいい?」
「朝からダルそうな声しやがって、なまえは男子部屋の掃除でもしろよ。」
「嫌です」
「おう、口答えすんのか!年々誇らしいクソ女になっていくじゃねえか!」
「男子部屋の精液掃除は御免です」
ははは、と笑ったケニーに、懐かしい面影を感じて、つい呼んでしまう。
「ねえ、ケニー」
慣れ親しんだ呼び方を口にすると、ケニーは口元に笑みを浮かべたまま薄汚れた動物でも見るような目で私を見た。
抑制を忘れた声で、呼びなおす。
「アッカーマン隊長、調達するものはありますか」
「なまえはここにいろ、留守番。」
それだけ言って、また銃に向き合う。
人よりも、銃のほうが好きなのだ。
一緒に暮らしていた頃から、知っている。
その頃から、一番多く言いつけられる仕事が留守番だった。
夜な夜な人を殺しては諸々引っ掛けてハイになって帰ってくるまで、家主のふりをする。
アッカーマン隊長と呼ばれる今は、皆と同じように呼んでいても、二人きりのときはケニーと呼ぶ。
それすらも、最近は顔色を変えられてしまう。
毎日引き戻される現実は色を変えていくのに、頭の中から離れないものだけは変わりもしない。
嫌気の差す事実にパンを吐きそうになりながら、別の部屋に足を運ぶ。
扉を開けても、人気のない冷たい空気と埃臭さが鼻をつくだけだった。
パンを齧りながら、椅子に座る。
結局、水は飲んでいない。
独房生活のような振る舞いをして、眠気の残る瞼をこじ開けようと皮膚の下を動かす。
みっともない顔になるだけで、何の徳も無い。
ケニーが言うことに、嘘はなくて、夢から覚めた私は酷い顔をしているのだろう。

料理をしていたナイフで人を殺したのは、ケニーと会う前だった。
仕方なかった状況だったことを覚えている。
飲まず食わず、食ってもドブネズミか草くらいにして影みたくふらふらして野垂れ死ぬ予定だったのを狂わせたのはケニーだ。
得体の知れない奴なのはお互い様だったから、そのまま暫く一緒にいたのだと今では思う。
ケニーと会って、一緒に暮らして、今はアッカーマン隊長と呼ぶ位置にいる。
目を閉じて、嫌な夢を見たときはケニーのところへ行く。
寝れないならついてこい、足手まといになるんじゃねえぞ、と言うケニーについていくと、必ず殺しの現場を見せられた。
ぱっくりと切れた傷口から溢れて流れる血は、どんな水路よりも綺麗で炎よりも見目麗しい赤色。
それをケニーに言ったら、なまえは詩人にでもなれと一蹴された。
いくつも転がる死体は、夢に出てこない。
何度見ても、何度やっても、夢に出てくるのは自分が手にかけた初めての殺しだけ。
そいつだけは私を何度も追いかけては、迫る、私は逃げる、それでも追いかけられて再度殺す。
手足を切り取ってから首も切り取ろうとすると、顔を捕まれる。
死体が動かないなんて、誰が言った。
そいつは元々生きているんだ、頭の中のものがぶちまけられたら動かなくなるだけ。
元々、みんな、生きているんだ。
ひき肉になった人間が、喋りださない保障なんて、どこにもない。
首の付け根の奥が、ぞっとするくらい冷たくなって、何度も足掻く。
目の裏が焼けそうな気がして、何度も涙を流そうとする。
どうやっても乾いたままの空気と同化した自分しかいなくて、迫り来るものの正体だけでも暴こうとした。
薄い自意識と、突き詰められる無我。
ようやく開いた瞼が、重い。
頬には、覚えのある手が添えられていた。
「留守番をしろとは言ったが、寝ろとは言ってねえだろ、ねえよ馬鹿。」
聞き覚えのある声の主は、わかる。
ぼやけた頭がすぐに引き戻され、ケニーと目を合わせた。
「寝言、クソが出なくて呻いてる奴の声とそっくりだった。寝ながら垂れるんじゃねえぞ。」
「夢、いやだったから」
「どれだけ嫌な夢なんだよ、呻きすぎだ。」
私に触れるこの手は、何百人も殺している。
「なにこれ」
頬に添えられた皺の目立つ手に、そっと触れる。
切りそろえた爪のおかげで、指の腹から体温を感じた。
「はあ?なにこれって、なまえがあんまりにも呻いてうるせえから起こそうとしてやっただけだ。」
ケニーの手が頬から離れて、体から熱を失う。
ようやく、自分の体が冷たいことに気づく。
私が只の通行人なら、知りえない人間なら、この手は殺しにかかってきただろう。
留守番で居眠りをする馬鹿はいらない、と殴られてもおかしくない。
独房で延々暴行を受けるように、他の隊員が戻るまで蹴り続けられて肉の塊になっても、不思議ではない。
訓練射撃の的にされても、隊長の言う事は絶対だから仕方ない。
「いやだ、もう」
本心の欠片を漏らしても、拳は飛んでこなかった。
ケニーは、ただ、私を見ている。
「嫌い」
「俺が?」
「違う」
「何が嫌いなんだ、言ってみろ。」
「全部」
「耳から指つっこんで脳みその位置を直すか?」
「そうしてよ」
「なまえ、俺より早くボケたとかぬかすなよ。」
名前を呼ばれて、ぼろぼろと涙が溢れ出す。
だらしのない、醜い姿。
それでも、ケニーは怒りもしない。
一緒に暮らしていた頃から、破天荒極まりなく気のずれた血生臭い人だった。
一人ぼっちで血まみれだった私の心の溝色を、唯一薄めた人に違いない。
「ずっと前に、会ってたらよかった」
垂れ流している涙が、口に入る。
しょっぱくて苦手な味が涎と混じって、気分が悪い。
「前って、いつのことだよ。」
「ずっと前、ケニーに会う前、小さい頃、殺し方なんて知らなかったの」
ようやく、ケニーが怪訝な目をした。
一番向けられたくなかった視線を一身に受けて、背筋が凍りつく。
凍りついた背筋の更に裏から、溢れ出た汚泥のように涙が流れては落ちる。
ズボンに涙の染みができて、肌に触れた。
水の入った袋のようなものとなりそうな目に、しっかりと映るケニーが、腕を組んで今にも怒鳴りそうな顔をした。
もうだめだ、そう思ったのを見破ったのか、ケニーはすぐにふざけた口調で唇を歪める。
「あー、だからなまえは俺を見ても動揺しなかったわけか。」
「はあ?」
「普通よお、変なおっさん見たら逃げろって教わるだろ、普通ならな。まあ、普通じゃないと思ったからなまえと暮らしたんだがな。」
「それ教わった」
「いや、そこじゃねえよ、チビで面倒みなきゃ死にそうな奴が怯えを知らない時点で普通じゃないってことだ。」
喉の奥が、きついくらい締まる。
自分だけが知る思い当たることが、ざわっと脳内を巡った。
「今気づいたの、ばか、ケニー、ばか」
「ああ?そんなこったろうなと思ってたぜ、俺は。何がおかしいんだ?」
「違う、違うの」
「頭でもやられたか。」
弱々しく握った拳を、ケニーの腹に叩きつけた。
ぽふ、と間抜けな音がして、拳から人の温かさが伝わる。
どれだけ体が冷えているか分かるだけになって、気が抜けて上半身がずるずると崩れて、ケニーに寄りかかる体勢になった。
座り込んだまま、腰が折れる。
「なんでさあ、なんで私が」
掠れ始めた声は、もう止まらない。
床に落ちる涙の数を数えて、やめる。
「なんで私が間違いを犯す前に、私の前に現れなかったの?」
一息おいて、ケニーが私の拳に触れた。
皺だらけで年老いても逞しさだけが残る手に温められる自分の惨めさに、身が痛む。
「ケニーのナイフ捌き、綺麗よね、首とか一瞬じゃない、なんで」
力の無い指で、ケニーのシャツを握り締める。
こうして抱きついて、泣いてもいいのかと誰も教えてくれなかった。
私の心の中が汚くなってしまう前に、誰も逃げ方のヒントもくれなかった。
きっと、私は逃げ方を探ろうともしていない。
こうなる前に、ずっとケニーが側にいたからだと分かっていた。
「なんでもっと早く私に教えてくれなかったの?」
最高に我侭なことを吐き捨てても、ケニーは黙りこんだまま。
大きな手が私の頭を掴んで、ゆっくりと起こし、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔がケニーの眼前に晒される。
潤んだ視界のど真ん中にいるケニーは、見慣れた顔をしていた。
寂しい心を抱えたまま縋りつく私に、珍しくまともな口ぶりが聴けた。
「綺麗な殺し方があると思ってんのか?殺しを間違いだと思ってるんだろ、なまえ、頭ん中にあるのは道徳か?技術か?それとも哲学か?」
「自分のこと」
「なまえ、やっぱお前クソ女だな。」
「そうね」
「ったく、俺の言う事くらい否定してかかれよ、いきなり泣きやがって。正しいことなんか存在しねえって顔して、自分の助けだけは一丁前に求めるわけか。」
そうしてケニーは私を撃ち殺しました、と終わってもいいような空気に、打ちのめされるはずの心が鎮まっていく。
冷たい体に、熱い涙と濁った心。
諦めない理由は、目の前にいる人がいるから。
「全部投げ捨てて遠くにいっちまえ、俺の知らないとこにまで消えろ、俺には泣いてる感覚が到底わかんねえんだよ、なまえのことを知らない奴らに出会って、自分らしく生きてみろ。
女らしく花でも育ててろ、飯でも作って愛想振りまけよ、なまえのツラと体が好みだって奴は大勢いるから気に入った男とガキ作って育てろ。
それでまだ同じようなこと抜かしてんなら、言えよ、ブッ殺してやる。」
言葉が突き刺さることはなく、私の頭と体を通り過ぎていった。
言われたことをひとつひとつ汲み取り、ひとつの答えだけが真っ先に浮かんだ。
「ケニーがいないのは嫌」
「駄々っ子か、つれえなあ。」
冗談ばかり言う酔っ払いにでも遭遇したかのように、ケニーは蔑んでから、笑った。
優しい微笑みとは言えない笑顔のまま、私の頭を撫でた。
「寝起きに泣きつかれたら、たまったもんじゃねえ、一人で寝ろ。」
ケニーの体が離れて、体温が遠ざかる。
瞼が、落ちるように閉じた。
暗い視界を手に入れて、ケニーの言葉を自分に突き刺そうと、必死で思い出す。
内臓が岩のように重い私を置いて、部屋から立ち去ろうとしたところで、ケニーが私をもう一度撫でた。
「まあ、どうしてもってんなら、膝の上か俺の腕の中くらいは貸してやる。」
聞こえるか聞こえないかの瀬戸際のような声で、そう言って、大きな手が私の頭から離れ、足音が扉に向かい、その向こうに消え、扉が閉まる。
暗い視界を、そっと開ける。
床とズボンに落ちた大量の涙の染みと、泣き腫らした目の私だけが、部屋に残った。
私の心の溝色を薄めることができる、ただ一人を、私は信じて疑わない。






2014.12.18




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