肌寒さを感じて目覚めた朝、カーテンを開けると眩しい陽光が目を刺した。 滋郎のところに世話になって、クリーニングしてもらった制服に袖を通す。皺になるから脱ぎっ放しにするなと母からよく怒られたのを思い出して、苦笑いをこぼした。 部屋を見渡すと、ガットが緩くなり使い古したラケットが目に留った。 ドアのすぐそば、ここが定位置。 それを手に取りベッドに腰掛け、足元に転がっていたボールを掬う。 このラケットもボールも、ずいぶん長いこと使ってきた。 一定のリズムで跳ね上げ遊びながら、氷帝学園でテニス馬鹿たちに囲まれ凌ぎを削りあった日々を思う。 何かに一生懸命に打ち込めるって、こんなに幸せなことだったんだな。 こんなときだからこそ、より鮮明に浮かび上がってくる。 巣立ちの日。別れの日。 今日は、卒業式だ。 前列の慈郎は、相も変わらず夢の中だった。 厳粛な空気と、その光景のそぐわなさ。全く以て、緊張感がない。 思わず笑いが込み上げてきてしまい、肩を震わせていると、隣の席のヤツにわき腹を小突かれた。自分も、大概緊張感がない。 でも、これで良いのだと思う。厳粛な空気など、俺たちには似合わない。 なあ、跡部。 「卒業生代表、跡部景吾!」 「はい」 さあ、キングのお出ましだ。 たくさんの羨望の眼差しを背に、深紅のカーペットの花道を通り壇上へとのぼっていく。 そして壇上に立ち、マイクを手に取った跡部を見て、俺は入学式のときのことを思い出していた。 「いいかお前ら。 今日からこの俺様が、氷帝学園のキングだ!」 まずはじめに、反発を覚えた。 それから、テニスのプレイに圧倒された。 いつしか、こいつの破天荒っぷりに高揚感すら覚えるようになって 気が付けば、恋をしていた。 こんなにやることなすこと滅茶苦茶で飽きないやつ、世界中のどこ探したって見つからないと思う。 いつだってお前は、眩しかった。 礼を合図に、はち切れんばかりの拍手が沸き起こる。 跡部らしい、前向きな答辞だった。 跡部は、これからもどんどん高みへ行くのだろう。人々の希望となり、愛されていくのだろう。 そんな日々の中で、いつか過去を振り返るときがきたら。自分のことも、そっと思い出してくれたらいいなと思う。 そんなささやかな願いを、跡部の背中に込めて。 「なあ跡部」 「何だ」 「これ、捨てといてくれ」 そう言って、式の最中にずっと付けてた造花を手渡す。 「アーン?何で俺様がそんなこと、」 「持って帰って、そんで捨ててくれ」 キッパリと言い切り、要望を短く伝える。 差し出された造花を怪訝そうに眺めた跡部はしばらく考えるような素振りをしたが、それでも受け取り右ポケットに仕舞ってくれた。 安堵して、ちいさく息をつく。 「ありがとよ!」 右手の拳で、軽く跡部の胸元を叩いた。 そうだ、最後だ。これでお仕舞い。 お前にお願いごとすんのも、これで最後。 捨ててくれ、この想いも一緒に。 言いたいことはたくさんあった。 伝えたいこともたくさんあった。 けれど、口にしてしまえばそのどれもが薄っぺらくなってしまうような気がして。 だから、餞の言葉を送る代わりに手を差し出した。俺たちに、改まった言葉などいらないのだと。 「じゃあな、跡部。元気で」 「ああ、元気で」 左手の握手は、別れの握手。 背を向け歩き出した跡部を見て、これで良いのだと思った。 感謝を込めて、その背に礼。 ものすごく、清い恋だったと思う。 誰にも、何にも侵食されることなく、そっとあたためてきた。 その眼が自分に向けられないかと、願ったことはないと言えば嘘になる。 けど、それでも。 「好きだ」 そう思える、その気持ちだけで充分だと思えたのだ。遠ざかっていく背中に、吐き出すように想いをこぼす。 聞こえなくても構わない。欲しいなどとは、思わない。 ぴたりと、歩みが止まった。 息が詰まる。 跡部が振り返る。 そして、口元が弧を描く。 夢を、見ているのかと思った。 「ようやく観念したか」 随分長いこと待たせやがって。 そう言って笑う跡部の姿にとうとう目頭があつくなってしまい、これ以上何も言葉にできなくなった。 おわりのはじまり |