長太郎のピアノから奏でられるやさしい音色は、繊細で本当に美しい。
聞き惚れ、時間も忘れるほどだ。





andante、
moderato、
allegro。

目まぐるしく変化していく速さ。

マズルカ、
ソナタ、
レクイエム、
ワルツ、
ポロネーズ。



滑らかに、軽快なハーモニーから始まり時折激しく渦巻くように流れ出す。その一連の流れが、耳に心地よく響く。
色彩豊かな旋律を紡ぎ出す長太郎の指先は、まるで魔法みたいだと柄にもないことを思う。
そして俺はやはり次の日の朝を迎える度に、毎日長太郎のいる教室へと誘われるようにして足を運ぶのだった。



毎日飽きもせず聴きに行って気付いたことは、長太郎が朝、最後に弾く曲だけは必ず変わらないということ。

大して音楽やクラシックに興味がなかった俺だけど、その曲名だけはどうしても知りたくなって、思い立ったら吉日、暇があれば片っ端からクラシックを聴きまくってその曲を探すようになっていた。誰の曲だとか全く分からないのに探すなんて無謀なチャレンジをしてるわけだが、どうしても見つけたくて躍起になって探した。
何だか自分が滑稽に思えたが、それさえも楽しかった。


授業中も自然と脳内に流れてくるそのメロディ。
これはもう、中毒だな。
頭から離れない。



部活が終わったあと、倒れこむようにして家に着いた。風呂から上がり、長い髪も乾かさないままにすぐに布団へと潜り込む。
今日のは相当ハードだった。ここ一週間はテスト期間だった為部活もなく(それでも自主練は続けていたが)、ようやくテストが明けた久しぶりの部活は今さら基礎体力作りの走りこみだとかで、監督にしごかれまくった身体が軋むように痛んだ。

先輩たちは、引退後もたびたび指導に来てくれている。高校でもテニスをするから自主トレのついでだと笑っていたが、それが先輩たちなりの優しさだということは皆気付いていた。
2ヵ月後には、大会を控えている。
今の俺なら、あるいは。

決意を胸に、枕元に置いてある目覚ましに手を伸ばす。
さも当たり前のように、以前までの俺じゃありえない朝早い時刻に目覚ましをセットしてる自分に気付き。ひとつ苦笑いして、ゆっくりと眠りについた。
明日も、聴けるだろうか。


夢には、長太郎のピアノ。




けたたましい電子音と共に目を覚ます。いつまで経っても鳴り止まないそれに苛立ちを感じ、起き上がると少し強めに力を込めて目覚ましを止めた。次にはっとして目を覚ましたときには、目覚ましをセットしてた時間から既に20分は経っていて。
一拍おいて、急激に目が冴えた。しまったと後悔しても遅い。
慌てて制服を掛けたハンガーに手を伸ばし、それを引っ掴み急いで着衣すると、玄関を飛び出した。




(昨日から走ってばっかだな…)

だんだんと校舎が見えてきた。ラストスパートの坂道を駆け上がり、真っ直ぐ校門を突っ切って行く。
何で俺こんなに急いでんだ。朝メシさえ食ってねえ。
普通だったら、今の時間だと漸く起きて顔洗ってるくらいだぞ。

心のなかで呟いた言葉とは裏腹に心は急き、更にスピードを速め学校へと急いだ。靴箱に辿りつくと、靴を脱ぐ時間さえも惜しく感じてロッカーに粗暴に詰め込んで更に加速させた。
目指すは、あの場所。
いつもの校舎の、廃れた古い教室へと近づくと、まだその音色は響いていた。
心底ほっとして、力が抜ける。

がんばった、俺。廊下の壁を背もたれにして、充足感で満たされる。流れてきたのはいつもの長太郎の演奏のフィナーレに弾かれる曲。
それを聴き終わったのを合図に、戸口から顔を引っ込ませて廊下へ出ようとしたそのとき。


「宍戸さん」



心臓が、跳ねた。




「宍戸さん、」
もう一度、ゆっくりと紡がれる俺の名前。



「…長太郎」
なんだ、とっくにバレてたのかよ。
気恥ずかしい思いで、初めてこの空き教室に足を踏み入れる。



「今日は来てくれないのかと思いました」
「ん…今日、寝坊しちまってよ」

内心混乱しながらも、とりあえず言葉を返してみる。
長太郎は穏やかに笑み、そのまま椅子に凭れ掛かった。


「俺、嬉しかったです」

ポロン、ポロン、とちいさな子どもが鍵盤で遊ぶ様に、人差し指で音色を奏でる。
いつもラストを飾るその曲の、主旋律。


「…なあ長太郎、」
訊きたいことはたくさんあるけれど。


「明日も、また来る」

それだけ言うと、長太郎は満面の笑みで頷いてくれたのだった。




(フィナーレは君に捧ぐ、)


やさしく、やわらかい音色が響くその教室の片隅には。
ピアノの隣に新しく、ちょこんと小さな椅子がひとつ仲間入りしました。







***
3年か4年前くらい前に書いたやつです。
長太郎が最後に弾いていたのはショパンの名曲。個人的にクラシックで一番好きな曲です(^^)
長太郎が朝ピアノを弾きに来ていた理由など、機会があれば続編として書くかもしれません*






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