辻風

薄墨沈んで色濃く染まる

息絶えた人の素肌に触れるのは2回目だった。生き物は死んでもすぐに冷たくなるわけではない。作り物のような冷たさと、ざらつく傷の残った肌を触るのは初めてだった。

「死んじゃったの、灰原」

返事はない。底冷えする部屋の中に安置された同期の姿は冷たくて、固くて、偽物のように思えて仕方がなかった。頬に残る大きな裂傷が、頭の中に浮かぶいつもの柔和な彼を引き裂いてしまう。

*

今日の任務は2級案件だった。七海と灰原に私。いつもの3人で向かった、実力相当の任務のはずだった。事前情報通りの呪いを見つけ、処理を終えたと思ったその時――足をとられた。地面に縫い付けられたようにびくともしない私に最初に気が付いたのは灰原で、七海を突き飛ばすように離れさせてから私を庇った。七海がバランスを崩しながらも得体の知れない呪いに向かっていく。跳ね返され続けていたけれども、わずかに切りつけた拍子に私の身体は自由になった。そこからいつものように3人で連携して敵対したけども、手応えがない。遊ばれている、そう気づいた時にはもうすでに私たちは傷だらけだった。3人の中で戦闘向きな七海を灰原と私でフォローしつつ応戦するのが最近の定石となっていたけれども、目に見えて肉が削られていく様に誰もが焦ってた。おかしい。こんなの2級じゃない。明らかに自然発生する呪いの中でも上級だった。

「土地神か!!」

七海の声に合わせて、呪霊がニタリと口角を吊り上げた。気付いたところでもう遅い。黒い、斬撃のような波紋が襲い掛かってくる。命からがら逃げだす。運が良いのか悪いのか、ここの土地神はズリズリと身体を引きずっていて機動力はなさそうだった。ばらけて逃げようが、まとまって逃げようが、今の状況はどちらにせよ芳しくないんだから合流を目指しながら山を下って、この土地を離れるのがいい。声には出さないけれど、七海と灰原と意見が一致したみたい。直線状に飛んでくる斬撃をジグザグに走って避けながら走る。整備されてない山道に足が取られて、転がってしまう。呪具が柄の部分から折れてどこかへ飛んでいった。

「吉川!!」

頭がくらくらする。苦し紛れに掴んだ石に呪力を込めた。地面に転がったまま、その石を土地神の方へ無理やり投げ飛ばす。本体に当たるわけなんかないから奴の攻撃の一端に掠りさえすればこっちのものだ。運よく黒い波紋に掠ったそれは勢いよく爆発する。相殺できるほど精度もなくコントロールも悪い。爆風に飛ばされていく中で七海が私の腕を引っぱって回収してくれた。掴まれた腕はたぶん折れていた。ぶらり、とぶら下がっているそれの痛みを感じている暇なんかなくて、深く息を吸って吐いて誤魔化す。一番大きい山道から少し逸れたところに古ぼけた記念碑のような大岩をみつけた。それの陰に隠れるように二人でもたれ掛かる。汗と血が流れ過ぎて、全身不快でたまらない。爆風に巻き込まれなかった灰原を追っているのか、音は遠くで鳴り続けていた。

「さっきの、この岩でやれますか」
「七海がバラすって言うなら……」
「当然です。十劃呪法に吉川の呪力が上乗できれば、さっきの波紋ごと足止めできるかもしれない。相殺できなくとも爆風をうまく使えば距離もとれて逃げ切れる可能性が高くなります」

灰原がこの岩の前を走り抜けると同時に七海が敵の波紋に合わせ拡張術式を使ってこの岩を砕く。その間に灰原と合流して先に離脱することになった。岩に背中を預け乱れた息を整えながら、岩面に両の掌を添わせて呪力を篭め続ける。

「いいですか。この山は麓に川があります。川の向こうはあの土地神の領域ではないはずです。奴の干渉しにくい領域にさえ辿り着けば下山できます」

灰原が必死に走りながら逃げてくる音が近づいてきた。大岩の陰にいる私たちから見て正面に胡桃の木が続いていることに気が付く。並んだその木の列が不自然に途切れている部分があった。……日は経っていそうだけど、明らかに人の手が入っている。手入れのされてない脇道があるかもしれない。となりで息を整えている七海の制服を引いて、その場所を指させば彼は小さく頷いた。

「山の中腹は過ぎているから、直線距離でいけばおそらくそっちの方が川に近いでしょうね」
「ちゃんと下まで道の痕跡が残ってればね」
「木さえなければ最悪の場合転がれば下には着く」
「全身ボロボロコースじゃん」
「そういうことです。川で溺れないように」
「あはは、先生かって」

正面の道の方が麓に辿り着くには道のりが長い。疲れ切った体じゃ走り切れる自信もないから都合が良いのかもしれない。正面から余裕をもって敵対するには距離がいる。愛想はないけれど「生きて会いましょう」と言う七海を残して動き出す。岩から道に出ると、灰原が波紋に反撃しながらもこちらに向かってくるのが見えた。

「吉川!」

雑草に隠れながら手を振る私の姿を見つけて喜ぶ灰原もボロボロだった。灰原がここまで来たら、脇道まで精いっぱい引っ張る。じりじりと動かない私に何かあるのかと灰原は視線を寄越した。そんな灰原越しに土地神の本体を盗み見る。あれは、ぶるぶると身を縮ませてから波紋を吐き出してた。動きが鈍くなった今、また攻撃を繰り出そうとしているのか、今も身を震わせている。……一連の動きがやけに長く感じる。辺りが急に静かになった。灰原はまだ走ってる。だったら音がするはずなのに、何かおかしいな。灰原がすぐそこまで近づいてきて、互いに手を伸ばす。あと少しで伸ばした手が届くかと思った時だった。

「……?」

ふと目の前に影が差した。なんだろう。帳の中でただでさえ薄暗いこの場で、何かが影を濃くしていく。

「灰原!吉川!逃げろ!」

上空に浮かぶ大きな土の塊。七海の叫ぶ声と同時に、足が弾かれたように動き出す。逃げなきゃ。私たちは"あれ"には立ち向かえない。地面が割れるような音が鼓膜を揺さぶるのを最後に、繋がれた手がほどけて、目の前が黒く塗りつぶされていった。






上空から迫りくるおおきな塊からかろうじて逃げ切って、それの落ちた勢いに吹き飛ばされる。玩具みたいに投げ出されて、地面に着くか着かないかと言ったところで意識が引き上げられた。……夢だ。あれは夢だった。悪い、夢だ。手術着のようなものを着たまま、冷たい床に足を降ろす。歩けばぺたぺた音がした。大丈夫かと聞かれたら大丈夫だと答えられる。しんどいかと聞かれたら、しんどいと答えてしまうだろう。重たい脚を急かすように動かした。ねえ、誰かいないの。2人はどうなって……

「もうあの人だけで良くないですか?」

パーテーションの向こうで七海の声がした。あの人。七海の言うあの人といえば悟しか思い当たらない。その問いかけに答えず、「ちゃんと休むんだ」と傑先輩の声が聞こえる。パーテーションを動かそうと持ち上げた左腕が上手く上がらなかった。ギプスがはめられている。仕方なしに隙間を作って、滑り込むようにして動いた。ぺたぺたと歩く音に、驚いた顔の七海と目が合った。傑先輩の姿はもうなかった。目元が赤い七海の目が自然に逸らされて、台の上に移動していく。ぺたぺたと近づけば近づくほど理解したくないものが目に入ってくる。

「死んじゃったの、灰原」

めくった布の下にあった、顔は冷たくて固い。ざらざらしてる。柔らかく笑う姿はもう見えない。

「産土神信仰……あそこは地割れや土砂崩れの被害が多い地域でした」

めくっていた布をそっとかけ直す。腹から下は厚みもなく、そこにあるのは布だけだった。

「半分しか連れ帰れなかった」
「……」
「吉川も死ぬところでした」
「生きてるよ」

冷たくなった灰原の胸をとんとんと撫でた。呪いの見える妹が幼かった頃、お腹をポンポン鳴るくらい撫でて、大丈夫だと言い聞かせて寝かすのが習慣だったと聞いたことがある。お腹はほとんど残ってない。胸で勘弁して頂戴ね。

「おやすみ灰原」

ごめんね、ありがとう。もっと一緒にやりたいことが……あったけど、それを伝えてしまうのは灰原にも、七海にも酷でしかない。

「君は、力の足りなさを嘆きますか?」
「そりゃあ。強かったらとは思う」
「勝ち目なんか全くない相手でも?」
「相手が強ければ強いほど私は思ってしまうかも」

弱い私が勝ち目もない敵を実際に相手にした結果がこのザマだ。無理だと諦めてしまう心もあれば、何かできたんじゃないかなんて傲慢な想像を膨らませてしまったりもする。矛盾してるな。だけど、この矛盾にすぐ決着をつけられるほど、仲間の死は軽いものじゃないし、そんな大人でもない。

*

強さのゲージは天井知らずなわけではないけれど、限界を知れる人間もさほど多くない。自分で限界を決めることはただの諦めでしかないものの、目じゃ見えない限界を目指してひたすら前に進み続けるのはとっても難しい。バス停を下りてから雲ひとつない青空の下を歩き続けること20分。蝉の鳴き声がずっと止まない。黒い日傘が熱を吸って、私も茹で上がりそうだった。抱えている花束が萎れてしまわないか少し気になる。階段を昇ってしばらく石畳を歩くと、思いがけない姿を見つけた。

「七海ィ?」
「……」
「なにその顔」
「……年々あの人に似てきてませんか」
「どの辺?」
「軽いところが」
「久しぶりなのによく言うじゃん」

長袖シャツの袖を捲って桶に水を汲んでいた七海にハンカチを差し出せば、自分のがあるので、と真顔で断られる。相変わらず可愛くない奴だなあ。桶を持とうとすると、代わりに差し出されたのは紫色の花束。元から持っていた花束と一緒に持つと、暑さに負けないくらい濃い香りが鼻先をくすぐった。畳んだ日傘も小脇に抱えて一緒に歩き出す。

「サラリーマンどう?」
「少なくとも貴女には向いてないですね」
「七海に向いてるものが私に向いてるわけなくない?」
「……」

私ですらクールビズという言葉を知ってるというのに、この男は脱いだジャケットを左に持って桶を右手で運んでいた。暑すぎる。全身真っ黒の私が言うことじゃないんだけど、素材は涼しいから私の方が夏らしいってことにしておく。高専を卒業して、4年と少し。いわゆる一般人となった七海に会うのは初めてだった。黒くない七海。真っ黒なままの私。細かな砂利の敷かれた道を高専卒業以来に並んで歩く。

「今年は早いんですね」
「ん?確かに早いけど……毎年先に来てるのは七海の方じゃないの?」
「今年は偶然です。私はいつも盆の暮れにしか来ませんよ」
「ふーん……他にも誰か来てるのかな」
「五条さんは?」
「この時期は大抵忙しいから落ち着いてから来てるよ」
「……家入さんとか」
「硝子先輩もこの時期忙しくてしんでる」
「……」
「というか、私が毎年来てるってよくわかったね」
「その無駄に豪勢な花には見覚えがあります」
「あぁ、これ。仏花とか詳しくないから、最初に買った花を毎年同じく包んでもらってるの」
「花は安くないですよ」
「金の使いどころがそうそうない」
「これだから金持ちは……」
「毎年1日しか会いに来ないのだからこれくらいなんてことないでしょ。七海のこの花も別に安くないの知ってるよ」

周りと比べて新しめの石はとても綺麗に磨かれている。どれくらいの頻度で人が訪れているのかとてもわかりやすかった。傷んでいない花が既に挿し込まれていて、そこに足していいものかどうか毎年悩むのだけど今年はガラスの花瓶が置かれていた。青い綺麗なガラスだ。ばしゃばしゃと石の天辺から容赦なく水をかけている七海から手釈を借りて、花瓶に水を注いだ。

「今年も暑いねぇ」
「そっちこそ見た目が暑い」
「七海に言ってないしー。大体さぁ、七海のカッコの方が暑い。ジャケットいらないよね」
「会社の規律で必要なので」
「会社といえば平日のこんな時間に墓参り来れるって珍しいんじゃないの」
「仕事帰りです」
「……今は朝の9時なんですけど?」

仕事前ならまだしも仕事帰りってなんだ。日を跨ぐ任務はクソだって散々言っていた七海が日付どころか翌日の朝日まで浴びているなんて。頭の中で悟がケラケラ笑ってる。「七海が社会に揉まれてるとかウケる」って言ってる。私も同意だけども、一般社会出てない私が言うのはちょっとな。

「灰原にお土産あるよ」

ちょっと待ってね、と言って小さめのショルダーバッグの口を開いた。少しだけ包んで持ってきたお線香を七海に渡すと、彼は自前のライターを取り出した。七海は1束まるまる持ってきたらしく、それを全部炙ろうとしていた。多くない?燃えてるじゃん。

「じゃーん今年は京都土産です。綺麗な砂糖菓子〜」
「旅行ですか」
「ううん。実家のいざこざの延長線!」
「……」
「すっごい顔してるね、ウケる」
「明るく言うものじゃない……」
「しんみりする時期はもう越えた、かな?楽しくはないし不愉快なのは変わらないけど」
「不愉快なのに付き合いは続けるんですか」
「自分がやりたいようにだけやれたらいいんだけど、そうもいかないじゃない?だから、できる範囲の付き合いだけは続ける」
「できる範囲なんて逆に難しいでしょう」
「そうなんだよねぇ。でもさぁ、キッパリ判断するのも難しいんだよー」

七海は呪術師をやめると決めて違う世界に行ってしまったけれど、私はきっとそんなこともできないんだよな。燃えていた線香の火が落ち着いて、ゆらゆらと煙が上に昇っていく。やっぱり多い。墓石の正面にある線香置きに横たえると煙で墓石の文字が隠れてしまった。互いに無言のまましゃがんで墓前に手を合わせる。

「……私はいっつも灰原に最近の事話してるんだけど、七海は何話すの?」
「別に何も話しません」
「そうなの?」
「そうです」
「なーんだ、つまんないの」

お供えした砂糖菓子はビニール素材の透明な包装紙に包まれたまま。置いてくとお墓が汚れちゃうからいつもちゃんと持って帰っている。今年は七海がいるから七海にもあげよう。三つ並べたそれの一番端を指で引っかけて取る。隣りにしゃがむ七海の膝の上に置けば、水色の砂糖菓子を手に取ってしげしげと眺めた。

「砂糖の塊」
「疲れた体には糖分でしょ」
「また五条さんみたいなことを……」

自分の分も手に取って包装をぺりぺりと剥く。いらないと突っぱねるかと思えば、七海も包みを剥がしている。

「来週三者面談でさ〜」
「三者面談?」
「そう。本当は夏休み前の面談予定だったのに、悟が行きたいって言って延ばしてもらっててさ。結局本人が忙しくって私が行く事になったんだよ。だったら初めから先月に行ったし、そうしたら例年と同じ日にここ来てた」
「……子供いつ産んだんですか」
「はぁ?産んでないよ。悟が後見人なってる子の話だよ」
「あぁ……何かそんな話あったような」
「産んでたとしても三者面談が成り立つ年齢まで育ってるわけないことに気づいてよ」
「呪術師の家系はよくわかりませんから」
「七海アタマ大丈夫?仕事し過ぎでヤバいんじゃない?戻ってくる?」
「……戻りませんよ」
「呪術師は万年人手不足だからいつでも歓迎だよ。七海の鉈もちゃんととってあるし」
「本当にあなたのストックにしたんですね」
「私の呪具コレクションのひとつだね。七海と私の術式がちょっと似てるだけあって馴染みは良いよ。欠点は重くて継続して振り回せないとこ」
「そもそも近接苦手だったでしょう」
「冥さんに特訓してもらって前より良くなったよ」
「階級は?」
「準1級」
「あがったんですか」
「去年ね!上の人たちはうるさいわ、京都方面もざわついてたけど今は黙らせた」
「五条さんが?」
「そうそう。そういや結婚もした」
「もうしてたようなものでしょう」
「私が高専2年の冬に婚約したじゃない?そんで、今年の春にとりあえず事実婚ってことで誰にも言わないで届けだしたんだよね。そしたら色んなとこの爺様ブチ切れ」
「……それで五条さんに仕事が集中してるのでは?」
「大当たり〜〜」
「ここまで我慢してたのだからもうすこし我慢すればよかったでしょう」
「ん〜。どうなんだろ。我慢し続けたらさ、きっと死ぬまで一緒にはなれないだろうなって思って」
「……」
「とはいえ本当に一緒になる勇気があるかというと五条家のことを考えたらまだなくってさ」
「あなたは結婚したらしたで順応しそうなものですが」
「そうかなぁ。まぁ、とりあえず今面倒見てる子がもうちょっと育って高専にちゃんと入れたらまた考えようかと思って。私達以外に助けてくれる人とか、仲間とかそういうのができれば外野がうるさくてもなんとかやっていけるはずだし」
「うるさいのは前提というわけですか」
「こびりついた腐った思想はそう簡単に落ちないもんよ」

口の中にいれた砂糖菓子の形がゆっくりと崩れていく。ざくざくと咀嚼すればひたすら甘さが広がっていった。

「ねぇ、灰原。今年はちょっとだけ賑やかになったね」

煙が昇って散っていく。あんなにたくさんあったのに、半分以上が燃え滓になってしまった。刺すような日差しから逃げるように、存在を忘れていた日傘を広げる。帰りくらいはもってやろうと手を伸ばした桶はやっぱり奪われて、手持無沙汰になった。かつての同期と並んで歩いた砂利道は数年前がまるで昨日だったかのように思えるくらい懐かしさとは程遠い気分。なんでかな、歳を取ったからなのかな。それとも……思い出はちゃんと胸の内にあるから、振り返る必要などないと彼が言ってくれているのかもしれない。

涼しい風が吹き抜けた。偶然がまたあるのなら、こうやって並んで顔くらい見せに来るよ。だからまた話を聞いてくれたら嬉しいな。
 

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