辻風

茹だる季節に根差す黒C

まだ明るいうちにシャワーを浴びて、身体についた血を落とした。
部屋でふて寝する気分にもなれなくて、寮の区画内にある自販機にジュースを買いに来た。……引き戸に手をかける前に気づけばよかった。外気の暑さを吸って熱を帯びた戸からそっと手を離したのに、自販機コーナーの中にいる七海と目が合ってしまった。カラカラ、と間抜けな音を立てる戸を引けば、少しだけ涼しい空気があふれ出てくる。

「髪はちゃんと乾かさないと痛みますよ」
「せめて風邪ひくだろくらいにしといてほしいな」

同じ学年なんだから仲良くすればって悟によく言われる。七海は頭がかたいから今のところは難しそう。無事に高専を生きて卒業できたらもうちょっと考えてみるけど、そんなの何年も後のことだから今はわかんない。間に灰原が入ってちょうどいい。そんな感じの救世主はあいにく今は現れそうになかった。

「何も買わないんですか」
「買わないとは言ってないじゃん」

早く出ていったらいいのに、封すら開けてないスポーツドリンクを片手に七海は立ったままこちらを見下ろしてきた。背が高いから普通に見てるだけなんだろうけどさ。白ぶどうのジュースと、サイダーの缶のボタンを順番に指でなぞる。ジリジリと唸る自販機の音と、遠くから聞こえる蝉の音が騒がしい。

「何を拗ねてるんですか」
「は、あっ?うわ、コーヒー押しちゃった」
「五条さんにでもあげればいいでしょう」
「……」
「いらないんですが」
「いいから貰ってよ。私コーヒー飲めないの」
「だからいつもみたく五条さんに、」
「いつ帰ってくるかわかんない人にとっておくの面倒」
「……普段なら、そんなこと言わないでしょう」

外の虫の音が騒がしく聞こえてくるのと同じくらい、私の心臓がどくどくと脈打つのがわかった。普段ならそんなこと言わない。全くもってその通りだった。

「あの人の平穏を祈るのなんて、吉川と夏油さんくらいだ」

押し付けるように渡した微糖の缶コーヒーを、七海はベンチにコトリと置いた。

「むしろ強さを盾にかき回す側の人間で、平穏を祈られる側じゃない」
「わかってるよ。私の力なんかじゃ、悟に追いつきもしないって」
「そんな土俵にいると思っていることが烏滸がましいって話でしょう」
「……」
「あの人から見た吉川は、力や立場なんて度外視した領域にいるはずなのに」

当の本人が力だ何だと縛られているなんて。続くはずの声は七海の口からはでなかったけど、想像するのは難しくなかった。没落なんて言葉が綺麗に思えるくらい、私の家の人間は処分を受けて、散り散りになってる。生き残っているのは私の価値を呪力の塊としか認識していない人たちばかりだった。そんな人たちから解放されてもうすぐ1年を迎えるというのに、私はまだ―……。





幼い頃に隠れていた、離れの傍のご神木。私が自分の手で壊したそこに代わる場所なんてそう簡単に見つからなかった。隠れられてはいないけど、ちょっとだけ眺めの似ている大きな木の下に座り込んで昔のように身体を預けている。眩しく輝く月はこっちの事情なんて露ほども知らずに照らしつけてきた。

「ひとりで外にいたら危ないよ」

砂を踏む音と共に現れたのは部屋着を着ている夏油先輩だった。月の光を眩しそうに浴びながら、ゆっくりと私のもとへとやって来た。

「……呪具は持ってないけど、いざとなったら潰せるくらいの呪力は持ってますよ」

侵入者が来たらどのみちアラートが鳴るんだし。昼間の事を思い浮かべながら答えると、夏油先輩は小さくため息を吐いた。

「高専の結界を破ることができるような相手には、ただのご褒美でしかないよ」

お土産は渡さないようにって言っただろう?と苦笑する先輩は、やっぱり眩しそうにしている。

「悟が君を捜してる」
「そうですか」
「携帯は?」
「寮の中に置いて来ました」
「なるほど確信犯だね」

私が携帯を持っていなくても傑先輩は持ってるだろうに、それを使って悟を呼び出す様子はない。私の視線に気づいた先輩は、目をさらに細めて笑ってから「私も置いてきたんだ」と悪びれもせずに言う。

「今日は色々あった。君も一人になりたいだろうし」
「私なんて何もしてないです」
「私こそ何もできやしなかった。それこそ死にかけただけさ」
「……」
「私は何も守れなかったけど、悟は死にかけただけで終わらなかっただろ?」
「なんだか別人みたいに見えました」

月の光を眩しがっていた目が驚きで見開かれた。私からその言葉が出るとは考えていなかったのかもしれない。いつもにこやかにしていて、悟といる時くらいは悪戯っぽい顔を見せる傑先輩しか見たことがなくてこちらも驚いた。……言わなきゃよかった。

「……君は、どう思う?」
「どうって、」
「悟は今回を機に大きく変わるだろう」
「もっと強くなるんでしょうね」
「そうだ。今まで以上に強くなっていく。強くなって、誰かの助けなんて必要のない最強になる」
「そうなったら……悟は私よりももっともっと遠い所に行ってしまって、追い付くことも背中を追うこともできなくなっちゃうんじゃないかって考えてました」
「それは、」
「七海から言わせたら、私は元からそんな立場なんかじゃないらしいですけど。それでも、思っちゃうじゃないですか」

この力があったから悟と出会えた。呪力が並の力だったなら、悟と出会う事なんてなかった。あの離れで死んでいたか、全く違う人生を歩んでいたに違いない。力なくしては構築できなかった関係だと思ってみれば、夢なんかない呪われた関係にすらみえてくる。嫌悪はしてないの。ただ、少しずつ変われたと思い始めた矢先に目の前に突き付けられた自分の思想に眩暈がした。お前の根っこの能力主義的思考は一族の誰とも違ってなんかいないぞ、と思い知らされた。嫌だと思っていたものが、自分の心の奥底に眠っていて、何ならじわじわと自分の中での価値観を蝕んでいることに今さら気付いたわけだった。力がある者はいつだって置いていけるんだ。うちの一族から見た私だってそう。散々暴れて、助けられて、あの家の存在を壊して出てきた。

「昔は何も考えずに一緒にいたいだけだったのに」

今となっては一緒にいていい理由を探さないではいられない。置いていかれないように、理由を探して、縋って、あの大きな背中を何とか掴んでいたのに今日の出来事で完全に手を離してしまった。ざわざわと強い風が吹いた。

「君が悟を好きだと思う事だけで充分一緒にいる理由を満たしていると思うとも」

顔にまとわりつく髪を直すのに気が取られて、傑先輩の声に反応するのが遅れた。ご神木の下から慌てて立ち上がったけど、さっきまでの姿はもうなくて、辺りを見回してもどこにもいなかった。ざわざわと音を鳴らす風の中でもひと際強い風が吹き抜けていく。

「紗希乃!!」

計ったように、風が悟を連れてくる。眩しそうに月の光に目を細めていた傑先輩とは違って、悟は色素の薄い目にたっぷりと光を蓄えていた。傑先輩の姿を探してきょろきょろしていたから逃げようとしていると思われたのかもしれない。思いっきり手を引っぱられて、悟の胸の中に閉じ込められる。ぎゅうぎゅうときつく私を抱きしめながら、悟はそのまま座り込んだ。出られないようにがっちりと足で囲まれる。血の臭いはもうしなくって、石鹸のやわらかな香りといつもの悟の匂いがして泣きたくなった。

「何しようとしてたわけ」
「何も」
「なんでまだ泣いてんの」

傷つけられて、傷つけて、昂っていた悟は少し落ち着いたみたいだった。顔をあげるように手で支えられて、大きな手で私の顔の形を確かめるように探られる。その目は、あの時の何を見ているのかわからない目ではなかった。

「怪我をしたのは悟のほうでしょ」
「治ったって言ってんじゃん」
「あんなの、あんなの見て心配しないわけが、」

心配しないわけがない。なのに、心配が必要じゃなくなったことも理解できる。前の悟と違うもの。六眼なんかなくたって、呪術をかじった人ならわかる。

「大丈夫って言っても安心できないならさ、紗希乃は俺がどうしたら安心できんの?」

どうしたら安心できるのか。急に問いかけられたそれに、すぐ言葉が出てこない。色んな言葉が胸の内を荒らしていくように駆け回る。さっきの月明かりに姿を消した傑先輩の声が、やけに残った。

「置いてかないで」

一緒にいたいって思うだけで傍にいる理由を本当に満たしているのだとしても、それだけでは不安になってしまう。家や力なんて関係ない手ぶらな状態で傍にいることが許されると思いきれない。だから我儘だけれども、ちゃんとした約束が欲しかった。

「私がどんなに弱くても、置いてかないって約束をして」
「……俺はずっと前から紗希乃が強かろうが弱かろうがずっと一緒にいるつもりだったけど?」
「だめ。足りない。私これから先も、悟が強くなればなるほど置いて行かれた気分になって、勝手に悲しくなって、勝手に泣くよ」

私の言葉に驚いて悟は息を呑む。綺麗な目を見つめていられなくて目を逸らせば、顔は逸らせないように悟に掴まれた。

「……俺が紗希乃を置いてくわけないじゃん」
「いらないって思うかもじゃん」
「そう思うかもしれない相手に生き汚くなれなんて言うかよ普通」
「そうだけど、」

顔を掴んでいた手が離された。それから、また抱きしめられたかと思うと、ポスンと背中をさすられた。

「今日さ、殺された人もいるし、俺も人を殺したよ」

知ってる。星漿体とその関係者を殺した術師殺しで有名だった人を悟は手にかけたと硝子先輩から聞いた。

「2人とも俺らより弱かった。あの野郎は一度俺を殺しかけたけど、結局俺に勝てなかった」

子供をあやすようでいて、やっぱり何か存在を確認しているかのように背中をトントンと一定の間隔で摩り続ける悟のされるがままにしている。

「弱い人だって置いてくじゃん。俺がお前を置いていくよりも、お前が俺を置いてく確率の方が高いわけ。だからさ、置いてかないでって言うのはお前じゃなくて俺の方だろ」

「俺は紗希乃を置いてかないし、俺を置いてくことは許さないけど?」

どう?と訊ねてくるくせに、返事なんて聞いてたまるかとでもいうようにきつく抱きしめられた。

「どんどん我儘になってしまうね」
「イイじゃん。もっと我儘になってよ」

お互いにとことん我儘になって行きつく先はどんな景色が広がっているのだろう。いつか、ただ悟の傍にいられるだけの日々に辿り着けますように。誰かに頼るように祈ってしまう癖が抜けない私はやっぱり我儘なんだろう。
 

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