くろはえ

まずい。まずいまずい。色々とまずい。自問自答しながら毎日机にかじりつく。日本と違って9月に学期が始まるアメリカでは5月に授業が終わる。当然6月に入った今は終了していて、夏期講習のようなものに参加してるけれど、それもひと月程度で終わってしまう。終わりが見えてきた今になっての焦りようは一体なんなんだと周りから心配そうに眺められながら、短くなっていくこの生活を続けてる。最後の最後でこんなに焦るとは自分でも笑えない。持っていたシャープペンシルを机上に投げ捨てて、ベッドにうつ伏せに飛び込んだ。

「どうしたいのかわかんないから焦っちゃうんだよなあ」

日本にずっといると答えは見つけたつもりだったのに。賢二くんと水谷さんが並ぶ姿を思い浮かべただけで簡単に揺れてしまった。揺らいだ気持ちを信じたくても不安が勝ってどうしたらいいかわからなくなる。わたし、自分で選んでここにきたの。だけど勉強の他にも大事だったものが日本にあったことに気付いた。そう、わかっちゃいるんだけど。それが、わたしの欲しい形でなくなった時にわたしが日本を選ぶ理由は……

「わたし、すっごい我儘いってる……」

水谷さんのこと嫌いじゃないんだよ。良い子なのも知ってる、勉強熱心で、ちゃんと芯もあって、人のことを思いやれる人。なのに賢二くんが好きだった人ってだけでしなくてもいい意識をどうしてもしてしまうし、彼女が吉田くん以外に靡かないってわかっていても不安でしょうがないの。賢二くんは彼女のことをすぐに諦められないって言ってたもん。どうして来た頃はこんなこと考えもしなかったのに今になって悩んでるんだろう。

『吉川さんはヤマケンくんのこと優しいって言いますけど、夏目はそう思いませんよ。実際やさしいフリして、はっきりさせてくれてないじゃないですか!』

前に夏目さんが言っていたことを思い出した。あの時はそれでいいと思ってたけど、ほんとは良くなかったね。最後の最後に、こんなにモヤモヤしてしょうがない。こっちに来てからの賢二くんはやさしかった。日本にすぐ帰りたいって思えるくらい、優しかったよ。だけどそれがだめだったね。勝手に好きでいて、ちゃんと終わったことにすることができなくなっちゃった。仲の良い幼馴染に収まろうと思っていたのに、気付いたら収まってなんかいられない気持ちの方が大きくなってた。

どうする、わたし。


*


もうすぐ梅雨がくるこの時期は毎日じめじめしてうっとおしい。そういえば夏期講習やマーボたちの家に泊まったりしてたのもあって家でゆっくりするのは久しぶりかもしれない。リビングのソファに腰かけて、何となくテレビをつけた。ふと目にはいったのはテーブル」の上に置いてある、伊代とお袋がこの前行った旅行のお土産。

「あら。いたのお兄ちゃん」
「いちゃ悪いか」
「ううん。ずっとお願いしたいことあったのにいっつもすぐ下衆共のとこに行くんだもん。ちょうどよかった、プリンターの調子が悪くって」
「はぁ?先月紙詰まりさせてただけだったろ」
「うーん。インクがちゃんと出なくて、クリーニング?ってのをやったら動かなくなっちゃった」

持って来るから待っていて、と伊代が隣りの部屋にある小型プリンターを取りに行く間にテーブルのお菓子をつまむことにした。……これ、どっかで見たことあるな。個包装されてるチョコレートは成分表示が全部英語で書かれていた。バタバタと伊代がリビングに戻ってくる。

「おい。この前の旅行どこに行ったんだ?」
「どこって、お姉さまのところだけど」
「はあ?!」
「お兄ちゃん聞いてなかったの?!伊代、ママが言ってると思ってた!」

もしかして行き先聞く前に断ったんじゃ……、と青い顔をした伊代が恐る恐る尋ねてきた。旅行に行く前のお袋との会話を何度思い浮かべても全部断った覚えしかない。行き先なんて言ってたか?夏期講習があるからと伝えれば自然と誘われなくなっていったから特別気にかけることもなかった気がする。

「あさ子先輩たちにも行き先は秘密で行ったから漏れなかったのね。もーお兄ちゃん、行く前に行き先聞いて!お姉さまに寂しい思いさせちゃったかもしれないじゃない!」
「お前、オレが来ない理由アイツに何て言ったんだよ」
「そのままよ。いつもの夏期講習があるから来ないそうですよって」
「夏期講習のせいではない」
「だって伊代はそうだと思ったんだもの!」

皆に秘密で会いに行ったから、今度とっておきの宝物として何かの交渉に使うために写真に印刷するのだとスマホを片手に伊代はふんぞり返っている。「お兄ちゃんにも見せてあげない!」……頭が痛い。ていうことは何だ、アイツは変なこと勘違いしてるんじゃないのか。

「訂正するならお兄ちゃんからしたら?だってお兄ちゃん、伊代の話はいつも最後まで聞いてくれないし、今回だってお兄ちゃんが伊代のこともっと気にかけてたら早くに気付けたことよ」
「訂正がわざわざ必要ってことはお前余計なこと言ったんじゃねーの」
「伊代は事実を言っただけ!……でも、お兄ちゃんが来れないってこと言わない方がよかったのかもって後から少しだけ思ったわ」
「……なんで」
「お姉さま、悩んでるみたいなの。一見クールに見えて、気にしいな所も心配性なところもあるじゃない?ちゃんと決めてるなら、伊代からの日本にずっといてねってお願いに何かしらのお返事くれるでしょ。それが、とっても曖昧だったから」
「…あいつ、卒業したら向こうに行くのか」
「断言はしてないけど可能性はゼロじゃないもの」
「あいつ、向こうで楽しそうにしてたか?」
「うーん。どちらかというと老後みたいな感じ!」

静かにまったり読書しているあいつの姿が目に浮かぶ。これは本格的に向こうでの暮らしを考えててもおかしくねーぞ。いや、そもそも紗希乃が日本での生活を選ぶと無意識にそう思い込んでいたけど、本人からその答えを聞いたわけじゃない。戻って来て半年過ぎたら再び旅立つなんて想像していなかった。向こうの一体何が魅力的なんだ?勉強できる環境がそんなにいいのか?なんて思ったけど、逆にこっちの魅力って一体何があるというんだろう。時間と金さえあれば会いに行けて、何だったらネットを介して連絡を取る。今の距離感であいつが満足してしまっているなら向こうを選んでもおかしくない。

「お、お兄ちゃん……?」
「なんだよ」
「すっごく怖い顔してるんだもん!そんなに嫌なの?」
「あ?」
「お姉さまが日本に残ってくれないかもしれないこと、嫌なのかしらって」

伊代が意外なものを見た、とでも言うように目を瞬かせている。オレは相当顔を顰めていたらしい。誤魔化すように眉間を伸ばしてみるけど、伊代はますます怯えるばかりだった。

「……お前こそ嫌なんだろ」
「嫌なものは嫌よ。けれど、伊代がお姉さまの大きな選択の鍵になることってないんだから」
「そうか?」
「うん。伊代はイヤイヤ言うけれど、それにお姉さまが応えてくれるのは大した事じゃないことの方が多いわ。どっちかっていうとお姉さまの道を左右するのはお兄ちゃんの方じゃない!」

そんなことないだろ、と言い切れないのはやや思い当たることがあるからかもしれない。幼い頃に家庭教師を呼ぶだけだった紗希乃が幼等部に通うようになったのはオレと会ってからのことだ。それに、頻繁に家に出入りしていたのがパッタリ来なくなったのもオレと喧嘩したからで。高校を選ぶのだってばあさんの提案だとは言ってたけど、海明と繋がりの多い音羽女子に進みたくなかったからかもしれない。

「伊代はお姉さまとずっと一緒にいられないってわかってるから、お姉さまの選択が伊代の嬉しいものじゃなくても応援するの。だけど……」

伊代は少し言うのを躊躇うように口を閉じて、それから思いっきり深呼吸をした。あんまり見ない妹の姿に少しだけ身構えてしまう。

「お姉さまがどんな選択をしても、お兄ちゃんは応援できる?」








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