かれその

「…あれ、水谷さん」
「今日は家庭教師の日じゃないの?」
「留学が決まってからすこし減らしたんだ。準備とかいろいろあるからね」
「吉川さんはいつも大変そうね」

留学の手続きのことで職員室で放課後の半分を使ってしまった。職員室を後にしたら水谷さんが職員室の前に置いてある簡易応接スペースで数学のワークを広げていた。水谷さんの向かいに座って、机に広げられたワークを覗き込んだ。

「それって冬休みの宿題?」
「そう。少し気になるところがあって先生に聞いてたの。吉川さんのクラスは範囲言われた?」
「今日言われたよ。早く教えてくれるだけいいよねあの先生」
「夏目さんたちはあの先生の課題は量が多いって嫌っているようだけど」
「はは!だから早く教えてくれるのにねえ」

ワークの傍に置いてある英単語の単語帳を手に取り、ぱらぱらとめくった。相変わらず、範囲を先取りするの好きだなあ水谷さんって。そう思っただけだったのに気付けば口に出していたようで、かるく溜息をつかれてしまった。

「それに気付けるのはあなたも同じことしてるからでしょう。ハルだってそうだ、わたしが必死に勉強したことも『それ、ちがう』とか『おー、今これやってんのかー』って」

水谷さんは決して怒るわけでもなく、やれやれと言った様子で吉田くんとのやりとりをしてみせた。わたしも先の範囲を勉強したりするけれど、吉田くんほどやっているわけではないし、彼は規格外だと思っているから同じに扱われても困る。

「認めるのは癪だけど、ハルの知識が多い所はすごいと思うし羨ましい」

寂しげな表情でぽつりと呟いた水谷さんは、間違えた途中式を消しゴムでひたすらにこすり続けていた。認めたくないけど羨ましい、その気持ちを掻き消そうとしているようだった。


「……わたしは水谷さんが羨ましいよ」
「…は?」

ぽかん、クールな水谷さんの間抜けな顔を正面から見ることができるなんてそうそうないんじゃないかな。それくらい気の抜けた表情だった。

「それはまた…随分と面白いことを言うのね」
「冗談だと思ってる?そんなことないよ」
「だって羨ましがられる事なんてひとつも思い浮かばない。家が大きな会社で、毎日勉強する環境が整っていて、交友関係も充実しているあなたがわたしの何を羨むの」
「どれもわたしの意思はないんだもん。こうやりたい、こうなりたい。そういうのがわたしに無くて、水谷さんにはある。お母さまのようになりたいんでしょ?そのために勉強して、家族のために家のことをやって、……自分で吉田くんを選んで。そうやって自分で選んでいくことってとても素敵だと思う」

賢二くんの件で、水谷さんという存在が以前よりも認識せざるを得ない存在になっていた。気にしないようにしていても名前が上がるだけで気にしてしまうのだから重症だ。そうやって気にしていると、水谷さんみたくなりたかったなあ、という思いがふくふくと膨れ上がってくる。水谷さんになりたいんじゃない。水谷さんみたくなりたい。彼に好かれるような、強い人になりたかった。

「でも、羨むだけじゃだめなんだよね。羨むだけだと、いつしかただの羨望から憎たらしく思えてきてしまって。可愛さ余って憎さ100倍みたいにね?いつからだったかなあ、きっとあなたのこと避けていたと思うの水谷さん」
「……」
「表立ってそうしているつもりはなかったんだけど、思い返すと水谷さんから離れていたなあ、と思っちゃって…」
「何となくそんな感じはしていたけど、嫌われているようでもなかったし、何より勉強のことで有意義な会話ができていたから特に気にしてはなかった。あなたは伊代さんと古い仲だし、似たような夏目さんなら気が合うんだろうと思っていたから」
「はは…、気が合うというのかな。弱みを握られたというのが正しい気もするわ」
「そういえばよくナイショ話をしているけど…もしかしてそのこと?」

本当ならこんな一方的に恋敵のように感じていたことは最後まで隠し通すべきなんだろう。けれどいつかきっとばれてしまう。それなら、わたしの口からちゃんと話すべきなんだ。

「わたしねえ、水谷さんのこと人間としても羨ましいって思っているけれど、それよりももっともっと羨ましかったことがひとつだけあったの。あった、というより今も羨ましくて、それで遠ざけたくなってしまっていたのね」
「え?」
「こんなに忘れられなくなるくらい、思考の一部に溶け込んでしまうくらい彼に好かれている水谷さんがとっても羨ましかったの」

わたしが何かを言えば、水谷さんのようだと言ってみたり、水谷さんとはちがうと言ってみたり。彼の中には確実に水谷さんが住みこんでいて、そんな風に思ってもらえるなんて本当に羨ましかった。

「あなた、ヤマケンくんのこと、」
「うん。小さい頃からね。ただ、忘れようとしていて蓋をしていた時期があって、その間は賢二くんに会いもしなければ話もしなかった。そうしたら、いつの間にか彼には好きな人がいて、わたしは初恋をこじらせたままだったんだよね」
「でも、わたしが好きなのはハルで、付き合っているのもハルだ」
「わかってるよ。あっ、でも少し揺らいだって聞いてびっくりしたんだからね?」
「いや、あれはヤマケンくんが交渉を持ちかけてきたからで…」
「そういえば買収されそうだったって聞いたけどまさかお金でもだされたの?」
「センターの情報交換ができると言われた」
「……」

待って。さすがにこれは似てないでしょ。わたしはセンターの情報交換で釣られそうになったりしない。それはない。

「なんだか馬鹿にされているような気がするのだけど」
「いや…水谷さんに似てるって言われるんだけど、さすがに似てないなと思って…」
「似てるの?わたし達が?」
「勉強に関してはよく言われたけど、これで断言できるわ。わたしと水谷さんは似てない!」

水谷さんは似てると言われたことに未だ引っかかっているようでわたしが断言してもまだ頭を傾げていた。


「まあ…似てるかどうかはわからないけれど、ヤマケンくんのことなら安心していいよ。わたしと彼は友人だから」
「…そうだね」

きっと、はっきり終わった後も賢二くんは水谷さんのことを思い出すんだろう。そう簡単に忘れられたら苦労しないんだよ。水谷さんにそう言ってやりたいけれど、吉田くんと幸せそうにしているのを見ると言わない方がいいんだろう。

「ひとつ気になったことがあるんだけど、」
「なあにー?」
「どうして、ヤマケンくんのことを言う気になったの?これまでみたく夏目さんたちとこっそりしていることもできたのに」
「いつかはばれちゃうしね。だって夏目さんだし。それに…これからはちゃんと選ぼうと思って」
「選ぶ?」
「羨ましがってるだけじゃだめだって気付けたの。自分で何かを選んで決める。それがこの先必要だってね。賢二くんのこともそのひとつ。まだ勇気が出なくて言えてないけどさー…」


留学に行くことを決めたのもわたし。この先の進路を選ぶのもわたし。わたしは選ばなきゃいけないことがいくつもある。それをどう選ぶかは難しい所だけれど、しっかり考えて悩んで選んでいきたい。

「親の用意したレールの上をただなぞっていくだけなんだと思ってきたけれど、少しでもいいから選ばないといけないんだよね」
「なぞることを選んだのも自分だと思う」
「え?」
「反発しようと思えばできるのにしないでなぞっていくのを選んだのも結局は自分でしょう。気付いてないだけで、これまでも選んでいたんだと思うけど」


やっぱり水谷さんには敵いそうもないな。でも、これでいいのかもしれない。ないものねだりじゃなくて、見えてくるものもあると思うから。

羨ましい存在はそのままでいてくれなくちゃね。

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