憧憬/降谷零


その後ろ姿はだれのもの


流石に降谷さんとのやりとりを明け透けに話すわけにもいかなくて、実際に話せたのは限られたところだけだった。
思い出したくないことは小さなことも大きなこともたくさん持ってる。脳は思い出せば思い出すだけ良かったところを美化して、悪かったところは都合の良いように塗り替えていくと言うけど、こればかりはちゃんと事実通りであったと信じたい。……信じたい、ってまるで他人事みたいな感覚なのは受け入れられてなかったからなんだろうな。


*

「やっぱりアンタ、あの姉ちゃんに看板が降ってきた時近くにおらんかったんやな……」

静かに扉を開けた先で向かい合っていたのは、服部と紗希乃さんだった。足元には手錠をかけられた男が横たわっている。そして、悪いうわさがあるという国会議員の男が、這いながら隣りの部屋へ続くドアへ手を伸ばそうとしていた。

「紗希乃さん!男が逃げるよ!」

振り向いた紗希乃さんがドアノブのすぐそばに拳銃を撃ち込むも、混乱しているらしい男はすぐにまたドアをこじ開けるようにして隣りの部屋へ転げ入った。追いかけようと駆け始めたオレは、さっき安室さんにやられたみたく紗希乃さんの手で後ろに引き戻された。あれ、後ろに立っていたはずの安室さんがいなくなってねーか?銃声が二発聞こえたら部屋に入る合図だって言ってたのに。

「コナンくん、いいよ」
「あの国会議員捕まえたいんじゃないの?」
「捕まえるよ。でもどのみちすぐに府警に引き渡せないからね。きっと他で追ってるから平気」
「どーせ、引き渡せないんやなくて、引き渡したくないっちゅー話やろ」
「はっ、服部?」

これやから公安は、と心底馬鹿らしいとでもいうような素振りで服部が肩を竦めてる。これまでの紗希乃さんを見定める様でいて突っかかるような鋭い雰囲気はどこかにいったみたいだった。

「あんなあ、吉川さん。オヤジの言う事なんか気にせんとオレと和葉に最初から言えば何もこじれることなかったんとちゃうか?」
「本部長に言われなくてもわたしは会うつもりなかったよ」
「……あの時、オレはすれ違ったアンタと、看板が落ちてきた直後に周りの人ごみに紛れとった女の人が同じ人物やと思った。その人は倒れたまま動かん姉ちゃんの姿見てから走って逃げよった。実際は人が倒れてんのに怯えて逃げてしもたんかも知れへんけど、それを見たオレは悔しくてしょうがなかったんや。あの人は、きっと戻ってくる言うて誰よりもアンタのことを待っとったのに、見ないフリして逃げた後ろ姿が忘れられんかった」

はー、と溜息をつきながら服部がしゃがみこんだ。

「足くじいた和葉をアンタがおぶってくれへんかったら、迎えに行こうとしたオレをアンタが止めてくれへんかったら、きっと二人して火ィ被ってたか、煙吸ってお陀仏や。その礼すらアンタは受け取らへんつもりか」

「アンタが自分でやったこと認めて受け入れんかったら、アンタを誇らしげにしとった姉ちゃんが報われへん」
「……そうかもしれない。けれど、わたしはね、受け入れるってとても難しいことだと思うよ、服部平次くん」

紗希乃さんは足元に落ちているバッグに拳銃をしまい、手錠をもう一本取り出した。それを持って床に横たわっている男の後ろにしゃがみこむ。いてて、と顔を少しだけ歪めた紗希乃さんにどこか怪我したのか聞いても困ったように笑うだけだった。

「はいわかりました、ってさ、納得できるものなら一番最初に受け入れてるんだよね」

後ろ手に両手を拘束されている男の足首を掴んで両足も拘束しながら紗希乃さんは言葉を続ける。

「受け入れたくないって意地張って突っぱねてる部分が多かったんだと思う」
「誰でも受け入れたくないことがあってもおかしないで」
「わかってる。誰にでもあるよね、わたしにも君にも他の誰かにも。」

よっこいしょ、と立ち上がった紗希乃さんはクラッチバッグから取り出したスマートフォンを数回タッチする。「そうだなあ……」と呟いてから服部に向かって、にっこり微笑んだ。

「きっといつかは受け入れるから、それまで和葉ちゃんと二人で大事にしまっておいてね」

バタバタと騒がしく聞こえる足音に身構えるオレと服部をよそに紗希乃さんはスマートフォンをいじっていた。音が大きくなると共に数人の男が駆けこむように入って来る。

「後はよろしくお願いしますね」
「かしこまりました」

警備員やウエイターの恰好をした男たちが、拘束されている男を担いで行く。男たちに促されて服部とオレも部屋を出ることになった。

「念のため怪我がないか見てもらってね。わたしが威嚇目的で撃った時のガラス片が刺さってましたとか笑えないから」
「刺さってるかもしれへんなあ。そうしたら、違う意味で礼せなアカンようなるで吉川さん」
「篠原、で呼んでもらえると助かるなあ」
「じゃあ紗希乃さんて呼ぶわ。ちゃんと礼できんのは大分先になりそうやし、これから何かと世話んなりそうやしな」
「あー無理。本部長がちらつくから無理!」
「あんなオッサン気にせんでええ言うとるやろ」

二人が言い合いしてる間に、そろり。部屋から出て行く一行から離れる。さっきからひとつ気になっていることがあった。紗希乃さんが男の足首を拘束している時、隣りの部屋から何か聞こえたような気がしてならなかった。紗希乃さんは反応してないし、あの瞬間以外に何も音は聞こえない。府議会議員が隣りの部屋に逃げ込んでも、その部屋の廊下に面するドアを開けてしまえば逃げることなんて簡単だ。だったら、あの時あそこに誰かがいたのだとしたら……

弾痕のあるドアをゆっくり手前に引いた。音を立てずに…そっと……。細長い隙間から見える様子に思わず目を疑った。警備服を着た男が府議会議員を片足で踏みつけながら拳銃を向けている。

「くっ……は、なせ……!」

かっちりと警備服を着込んでいるその姿は間違いようがない。この部屋に入る前までオレと一緒にいた安室透その人だった。

『僕らにとっての悪い奴が何なのか、君はもう少し考えた方がいい』

さっきの安室さんの言葉が頭から離れない。こちらに背を向けているせいで安室さんの表情は全く見えないが、恐怖に慄く府議会議員はガタガタと震えていた。

「隣りは終わったようですね。こちらも早急にケリをつけるとしましょうか」
「わ、私をどうするつもりだバーボン!」
「どうって、外で待機している大阪府警に引き渡しますよ」
「そっ、そないなことしてみろ!お前たちのことを全て話してやる!」
「ホォー……、全て、ですか?」

安室さんが煽るように男に顔を近づけた。

「例えば?」
「は、……?」
「警察に話すとしたら、貴方は僕の何の情報を持っていると?」
「それはお前が組織の一員で、バーボンという名で、か、金!せや、裏金を使って私たちに取引を持ち掛けよった!」
「へえ随分と知ってらっしゃる。では、質問を変えましょうか」

「その程度の情報でどうにかできると本気で思ってます?」

銃声が一発響く。男には当たっていないようだけど、ビクビクと震え続けている様子が隙間から見えた。

「組織の名前、知ってますか?ああ、通称でも構いませんよ。もし知っていたらの話ですけれどね。それと……まさかとは思いますが本名だと思ったりしていませんよね?仮の話ですが"バーボン"という名が、貴方と先ほど捕まった彼だけにしか通じないものだとしたら?それに、お金。誰も裏金だなんて言ってませんよ。裏金じゃないとも言っていませんが」

流れるように並べられた言葉に男が混乱しないわけがなかった。何が本当で、自分がどこまで知っているのか、知らないのか。何もわからなくなっていく。相変わらず男を踏みつけて、煽り続けている安室さんの背中から目が離せない。

「見すぎだよ」

後ろからの声に慌てて振り返ると、呆れた顔で紗希乃さんが立っていた。そっと開けたドアは思いっきり勢いよく閉じられる。安室さんにばれるじゃねーか!と慌ててると「どーせ気付いてるから」と溜息をつかれる始末。

「え、あっ、これはね、紗希乃さん!」
「好奇心に身を費やすのは結構だけど、ほどほどにしないと大変なことになるよ」
「……知ってたの?隣りに安室さんがいること」
「知ってるも何も、あの人の突入ルートは元からあっち」

はめられた。後ろにいた安室さんが突然消えたわけでもなんでもない。元からこっちじゃなかっただけだ。それに、あの言葉はオレに自分を気に掛けさせようと煽るために言った言葉だったらしい。クソ、まんまとはめられた!

「……殺さない、よね?」
「コナンくんは、悪いことをした人でも死ぬのはいけないことだって思うんだね」
「紗希乃さんは違うの?」
「わたしたちが守ろうとしてるのは個人じゃないんだよ、」

行くよ、と手を引かれる。先を歩く紗希乃さんの表情は見えない。殺しはしないから、と呟くように伝えられた言葉を信じていいものか不安になっているのは、明らかに組織のバーボンとしてあの場に立っていた安室さんの背中を見てしまったからだった。やめろ、と止めに入れなかったのは、どこかで公安として府議会議員を捕獲しているのかもしれないという考えが拭えなかったから。だけど、あの姿は確実に……


*

「さて、そろそろ迎えが来る頃でしょうね」
「う、あ」
「府警では好きなだけ好きなことを話して良いですが、おそらく無意味であるということを先にお伝えしておきますよ。ああ、そうだ。ひとつ言い残していたことがありましたね」
「っ……!」

「ひと悶着起こせとは言ったが、傷つけていいとは一言も言っていないんだが?」





その後ろ姿はだれのもの

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