憧憬/降谷零


深い呼吸で息づくあなた


『そろそろ時間よシンデレラ。その場でカボチャの馬車を待っていなさい』
「了解」

ベルモットとの通話を切る。足元には気を失っている公安の男と女が横たわっていた。

「このまま座っていれば組織に戻れる、か……」

女のジャケットの中で細かく振動する音が聞こえる。手を入れて黒のスマートフォンを取り出すと、番号だけが表示されていた。この女はバーボンこと安室透、いや、正確には降谷零の部下だ。記憶を取り戻した今になって思うのは、あのような男でも心から慕われることもあるのだということ。外面だけでみれば騙される者も少なくないだろう。けれど、ここにいる女はきっとそうじゃない。警察病院でのこの女からの鋭い視線をはっきり覚えている。あれは明確な殺意だった。公安という立場がなければ、きっと私はあの場で手にかけられていたに違いない。そう断定できるほど私への憎しみが溢れていた。そんな彼女に降谷零が慕われていると思ったのは、警察病院から水族館へと向かう車内でのこと。男が誰かと通話しはじめた途端に、あの殺意が和らいだような気がした。それも記憶がない私でも戸惑ってしまうほど。気を張りつめていた女の呼吸が次第に深くなっていく。人間は緊張すると自然に呼吸が浅くなる。意図して深くし始めたのか、自然に深くなったのかはわからない。それでも、電話の向こうの相手が生きていることを知って安心できているのだと気付いて、どうしてたった一人の人間の安否がわかっただけでこんなにも変われるのだろうかと不思議でしょうがなかった。左太腿から血を流している女を横目に、鳴り続けるスマートフォンの画面をタップする。聞こえてきたのは聞き覚えのある少年の声だった。

『紗希乃さん聞こえる?!僕だよ、コナンだ!組織の奴らがすぐそこに来てるみたいなんだ!車軸に無数の爆弾が仕掛けられていて、いま安室さんが解体を……ねえ、紗希乃さん?聞こえてたら返事をして!』

あの少年は公安と繋がりがあったのか。ベルモットとの通話で、この少年が私のスマートフォンを使ってラムに連絡をとったことは知っている。この少年は一体なんなのだろう。必死にこの女の名前を呼び続ける声がまるで呪文のようにゴンドラに響いた。

「ごめんなさい」
『……え?紗希乃さん?いま何て、』

無意識に口から零れた言葉にはっとする。それからポケットに入っていたイルカのキーホルダーを取り出して見つめると、自然と笑顔が沸き上がってきた。

「……さあ、降谷零はまだ頑張っているよ。だから、貴女も頑張らなければ」

この女を撃った私が言うことではないことは百も承知だ。最後のわずかな時間でできることしかないけれど、罪滅ぼしくらいはしてやる。元々威嚇目的で撃ったのだから当てるつもりはなかったんだ。そこに転がる男を庇うような真似をしなければ無駄な怪我をせずに済んだのに。男が首にしめたネクタイを抜き取って、女の左太腿に巻き付けて縛りつけた。完全に止血できているわけじゃないが、無いよりマシだろう。致命傷ではない傷でショック死するほど軟な女ではないことはあの鋭い視線を思い出すだけで嫌でもわかる。

「私は何色にでもなれるキュラソー……」

この女のように何かを守れるような、そんな色に染まってみたかった。ふと浮かんだ考えに、ふっと笑みがこぼれる。私がこんなことを思うなんてね。私に優しくしてくれた子供たちの顔が浮かんでは胸が温かくなる。生きて、降谷零と会えたらいい。あの殺意がボロボロに崩れていく様を目にしてみたい気もするけれど、それを見るのは私の役目じゃない。

「さようなら」

そして、ゴンドラから飛び降りた。




深い呼吸で息づくあなた

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