憂き世に愛はあるかしら
憂き世に愛はあるかしら




あの日、たこ焼き鍋と二人っきりにされた日からどれくらい経っただろう。ぼんやりとしか思い出せない。けど、まあまあ経った気がする。そもそも死んでから時間の流れというものが曖昧になってしまっていた。必要ないっていうのが理由だけども。

「もうすぐだよ」

木に実った淡いピンクの実は触ると何だかちくちくした。向日葵なんてもう一本も残っちゃいない。種だけになったそれらは既に鳥たちのご飯になっている。もうすぐ美味しく出来上がるのに、肝心の彼がまだ帰って来ない。っていうかさ、行ってきますって言ってたけどほんとに帰ってくるのかなあ。なんであんな風に消えたかもわからないし、戻るにもここがわかるんだろうか。疑問は考えれば考えるほど深まって増えていく。いくら君よりも長くここにいるとしても、おねーさん分からんよ。なんて言ってやりたい。いないから言えないのだけど。

何本かある桃の木の前に広がるラベンダー畑から少しずつ摘み取る。ジャムにするのとは別に乾燥させてポプリでも作ろう。カゴを持って、ラベンダーを摘んでいく。風が吹き抜けると、いい香りが鼻をくすぐった。早く帰って来ないかなあ。

「陽太くんが帰ってくるまで頑張るんだよお前たち」

ラベンダーや桃の葉が答えるように風になびいている。うん、大丈夫そうだ。しゃがんでいた腰をあげて、カゴに集めたラベンダーを適当にまとめた。このくらいで今日はおしまいにしよう。

日が暮れるのが本当に早い。家に引き上げてきてから、空は足早に緞帳を降ろし始めた。カーテンを開けて、窓から見える星空はあの日陽太くんを吸い込んでいった空と何にもかわらなくて、おかしいなあ。と一人呟いた。ほんとに、どうやって消えたんだろう。カーテンを開いたせいで窓辺からひんやりとした空気が漏れてきた。ぶるり、と身震いしてから、寝る前に冷やしてどうすんだと自分に文句を言ってから温かいパジャマに着替える。そうして、ふかふかのベッドに潜りこんだ。

あんまり夢は見ない方。見てもときどき。現世に遺した親の最近の出来事をちらりと見るくらい。いつ見ても彼らは元気でわたしのことを思ってる。それなら、別にこそこそと様子を探る必要もない。だから陽太くんみたくあえて見ようとはしない。そんな中で、久しぶりに夢を見た。夢の中でパチリと醒めた目で周りを見回すと、こたつに入った両親がみかんを手で剥きながらテレビを見ていた。テレビの中では、美人な女優が涙を流しながら笑っている。

「あの子も、元気でやってるかしら」
うん。やってるよお母さん。
「きっと、また何かを育てているよ」
その通りです、お父さん。
「寂しくて泣いてないかしら」
ちょっぴり寂しいけど、泣いてはいないよ。
「泣いてるかもしれないな」

両親の間にちょこんと体育座りして、ひざに顎をのせた。両親の手先をじっと見る。顔は見えない。鮮明に覚えている自分の記憶の中よりも皺が増えたその手は、相変わらずオレンジ色の果物の皮を剥いている。

「泣いてないよ」

わたしが声を出しても、両親は気付くことなくみかんを剥いて食べている。皺の増えたそれがぼんやりふやけてピントがずれていく。生暖かいのが膝にぽたぽた垂れてきた。泣いてない。泣いてなんかなかったよ、ずっと。寂しいなんてずっと忘れてたんだよ。それなのにさ、突然現れて突然いなくなって、全然帰って来ないんだもん。突然ってやつは何でも悪いことを持って来る。わたしが死んだ原因だって突然で、死んだのも突然で、陽太くんが来たのも突然で、いなくなったのも突然。どうしてそうやって、やって来ては奪っていくのかな。泣いてなんかいないけど、目から出てくるそれをべちゃべちゃに垂れ流したまま、コロンと後ろに転がる。大の字になって、ずびずびいって詰まる鼻を無理やり擦った。鼻かみたい。ぼーっと天井を眺めていくうちに歪んだ視界の真ん中で肌色の何かが見えた。それは、陽太くんを連れて行った手にも見えたし、何だか見たことがあるような気もしたし、とりあえず嫌じゃなかった。掌がゆっくり降りてくる。それに抗うこともなく、わたしは目を閉じて、掌が触れてくるのを待った。

「泣かないでよ、紗希乃ちゃん」
泣いてなんかないってば。
「どう見ても泣いてんじゃん」
そう見えてんだったら放っとけ。
「せっかく帰ってきたのに、泣いてるんだもん」

吃驚するじゃん、と声は目の前から聞こえる。閉じていた目をゆっくり開いた。おでこをゆっくり撫でているその人が見えたと思ったら、また視界がぐらぐらと歪んで動いていく。

「わ、また泣いてる」
「うるざい」
「泣いてるって認めなよ〜、ぐっちゃぐちゃじゃん」
「じらない」
「さっきからちゃんと言えてないよ」
「ぐすっ、」

枕元にあるティッシュを掴んで思いっきり鼻をかんだ。やっとかめた。とてもすっきり。引かれた気がするけどそんなの知るもんか。通った鼻で目一杯息を吸って、ベッドの傍に立ってる真っ黒い彼の顔を見た。

「おかえり!!」
「ただいま」

鼻をかんだティッシュもろとも真っ黒くて長い腕に引き寄せられて抱きしめられた。

「ただいま」

確認するみたいにもう一度降ってきた言葉に答えるように、陽太くんの頭をなでた。おかえりなさい、陽太くん。ちゃんとまた会えたね。


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