身体が痛い。
凝り固まった首を回すと、ぼんやりとしていた視界がだんだんにはっきりとしてきた。
「ゆ、め…?」
柔らかい革張りのソファ。きらきら輝くドレス。真紅の絨毯。
確かにそこにあったのに。
目の間に広がるのは、夢で見ていた煌びやかな世界とは反対の簡素な部屋。
木造で、物はなにも置いていない、数日前に初めて足を踏み入れたばかりの仮の家。
「いてて、」
あぁ、そうだ。昨日、ルノラータの仕事を片付けた後にガンドールさんたちがここのアパートまで送ってくれた。そして部屋に入って、そのままドアにもたれ掛かって眠ってしまったんだ。
渇いた血のせいで服がぱりぱりと乾燥していた。
「……眠い」
最近は夢を見ることなんてなくなっていたのにな。まだバキバキと鳴る肩をほぐしながら立ち上がる。シャワーを浴びずにベッドに潜りこんで眠ってしまおうか。服は脱げばいい。しかし髪にも血が付いていてバリバリいっている。あー、もう面倒だな。このまま寝よう。
大きな音を立ててベッドに倒れこみ、微睡みはじめる。
意識が完全に落ちるようとしたその時、家の前に人の気配を感じた。
「……」
身動きを取らずに瞼だけを開く。ここにわたしがいることを知っているのはマルティージョの人かガンドールさんだけ。仕事の後で敏感になっているのか、一気に覚醒した頭は、もしもの時を考えて動き始める。
コンコン。
軽いノックの音が、殺風景な部屋に響き渡る。
「リア。わたしです、起きていますか。」
「……起きてるよ」
起きている、とだけのわたしの返事を聞いた声の主は、控えめに音を立てながら部屋に入ってきた。
「何て恰好で寝ているんですか!」
「だって眠いのよ」
「ベッドも汚して…、今お風呂を沸かしますから寝るんじゃありませんよ」
慌てたように捲し立てると、風呂場の方へ駆けてゆく。
彼は、夢の中のあの頃よりとても丸くなった。まるで別人かのように。
バタバタと忙しなく湯を沸かしたり、血で汚れた床を掃除してくれている。
わたしはそれをぼうっと眺めながらベッドに横になっている。
「お風呂が沸きましたよ。ほら、いつまでも汚い恰好でいないでさっぱりしてきなさい」
「一緒にはいろ」
眼鏡の奥の細い目がさらに細まる。やれやれとため息をこぼすが、手や足が殴りかかってくることはない。
「冗談言うのはなしですよ。髪はわたしが洗ってあげますから」
そう言うと、顔に付いた血や汗を流してくるようにシャワールームに押しやられた。
べたべたする汗を洗い流し、皮膚に付いた汚れを洗い流す。そして、湯船に浸かり彼を呼んだ。
「こら、タオルで隠しなさいと言ったでしょう」
ばさっと上から降ってきた大き目のタオルは、湯船にぷかぷか浮いているわたしの身体を隠した。
「一緒に入るのなんていっぱいあったじゃない」
「子どもの頃の話でしょう」
湯船の端に頭を預けたわたしは、温かいお湯に浸る。バスタブの端から零れるように流れる髪の毛をすくって、いい香りのするシャンプーでふわふわと洗ってくれる。
「まるでメイドだね」
「カモッラにこんなことをさせるのなんてあなたぐらいですよ」
「ふふ。ねえ、アイル」
「………これはまた、随分と懐かしい呼び方で」
「ね、懐かしいね」
思い返すことなんて滅多にしないのに。突然夢にでてきた。何でだろうか。
「二人に久しぶりに会ったからなのかなあ。懐かしい夢を見たよ」
「夢ですか、わたしはもう夢にさえ出てきませんよ」
「二百年も経ったらそうだよね。でも、何でか出てきたの。夜会に行く前だったのよ」
「夜会ですか…いい思い出はありませんね」
「マイザーにとって、ロットヴァレンティーノでいい思い出なんて無いんじゃないの」
「あの日々が過去になった今なら、案外そうでもなかったような気がしてしまいます。」
「人の思い出なんて、思い返すたびに美化されて脚色されていくものですよ」
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