全てをここに置いていかなければならない。頭ではわかってるつもりなのに、まるで現実味がなくて、恐ろしいとすら思えなかった。同じ未来を。


叶わないと知っていながら、どれだけ願っただろう。


「はち」


その声は虫の鳴き声かのようにか細く、されどしっかり竹谷の耳に届いていた。手を止めてその声がした方へ顔をあげれば、既に寝間着に身を包んだ久々知がいる。竹谷は少し驚いて目を丸くした。


「どうしたんだよ兵助、こんな時間に」


久々知は無言で竹谷にゆっくり近付く。竹谷は俺はなにかしでかしてしまったのかと慌てるが、垣間見えた穏やかな表情にほっと安堵した。機嫌は悪くないようである。竹谷は隣にあった金鎚を足元へ避けて、久々知は空いたばかりのその場所に尻をつけた。


「なんか、寝れなくて」


「勘は?」


「…実習」


久々知の重い口調に、ああ、と竹谷はなにも言えなくなった。


個人で実習が出されるのはごく当たり前だった。些細なものならよかったけれど、どうやら久々知が思うに今回尾浜がやっているのはよほどの生死を問うものなんだとか。そんなことも初めてではないが、なにしろ尾浜は実技で言うならばとても優秀で、言わずもがな、実習のレベルも高くなる。そのことをうまく隠しているようだったけれど、いつもと様子が違った。久々知が数日前そう言っていたのを、竹谷は思い出す。6年間同室だった久々知が言うのだから、間違いないだろう。


…ああ全く、愚問だった。竹谷は切なげに笑った久々知を見て、後悔した。


「…5日目かあ」


「ああ、そうだな」


あたりは明るい。すっかり夜は更けたはずが、やけに明るい月光のおかげで、互いの顔はしっかりと見えた。勘が笑顔で帰ってくるなら、こんな夜が似合う。竹谷は遠くを眺めた。久々知は、俯いていた。


「それ何」


久々知はむなしさを払うように、ふと目に入った見慣れないものを指してぽつんと零した。久々知の視線は、竹谷の足元に刺さっている。そこには板でなにかが組み立てられようとしていた。


「あー、えっと、犬小屋」


「犬小屋?」


「おう。あいつだよ、茶色いでっけーやつ」


久々知は毛むくじゃらの犬を浮かべて、少し嫌そうな顔する。あの犬とはいい思い出がない。一体俺がなにをしたというのか、久々知は忌々しくて仕方ない激情ですら抱いたことがある。いきなり襲ってきたり、顔をべろべろ舐めてきたり。お世話にもいい匂いとは言えないし。


決して嫌われてる訳ではなくそれが愛情だということをわかっていない久々知に、竹谷は笑った。…豆腐、食われた。未だ根に持ってるらしいことをぼやいた久々知に、竹谷はごめんと言って、また笑った。


ああなんとやさしい時間であろうか。


久々知は不意に泣きたくなったのを、ぐ、と抑える。


久々知は思い知ったのだ。ひとりで向かう、命がけの任務。その、重さに。孤独に。既に久々知はそのような実習は終えていた。特に豪語することでもないから話してはいないけれど、どうせ気付かれているだろうが。久々知の実習は完璧だった。実習など、何度もやってきたのだ。
ひとりの実習だって、何度目だろう。人を殺すのだって、ざらなこと。


だというのに、不意に久々知は、ぞくりとした。血にまみれた死体を目の前に、ただ呆然として。ああこれが、俺の未来かと。


実習前、卒業はすぐそこじゃぞ、ただそれだけの言葉をかけられただけで、こんなに違うものか。


この間二人組で実習に出て人を殺したとき、この間クラスの実習で人を殺したとき、あのとき、あのとき。…は、なんともなかったのに。


初めて人を殺したときは、震えが止まらなかった。それとはまた違う、どうしようもない恐ろしさに襲われたのだ。
自ら選んだ道だ。ずっとわかって、進んできた。…つもりだった。なのに。


「兵助」


肩を強くつかまれ、久々知ははっとして顔をあげた。慌てて久々知は「用具委員に頼めばいいじゃないか」と先程の話題を繋げる。だがしかし、竹谷の眉間にしわは寄ったままだった。


竹谷は答えない。


「兵助、お前大丈夫か」


肩をつかんでいた手はするりと腕を滑って、久々知の手をそっと握る。やはりその手は冷たくて、竹谷はどうしようもなく暖めてやりたい衝動に懲りずに駆られる。両手でその両手を包みこんで。ぎゅっ、と痛いくらいに握りしめた。


「…なにがだよ」


「…いろいろ」


そのいろいろは、竹谷にもわからない。よく、わからない。けれど、竹谷だって自分が大丈夫ではないだろうことは知っている。
こんなに愛しい存在がいていいのか。竹谷は暖かくなってきた手のひらが、愛しくて仕方ない。


忍には、必要のないものだ。


「俺ら、どうなるんだろうなあ」


ここは居心地がよすぎて、色んなものを拾いすぎた。それを全て置いて、ゆかなければならない。


これが、最後の試練だというのか。今まで志してきたなにかになるために、この暖かい日だまりの淵から出て行く。そしてこの場所がどんなに守られていたのか思い知るのだろう。…残酷だ。


去年見た、6年生たちの背中はどうだったろう。久々知はぼんやりと思い出すが、少なくとも和気あいあいと喋っている様子はひとつもなかった。旅立ちの日、残っている印象は、とても静かだったこと、6年生の誰ひとり涙を流さなかったこと。


「お前たち無言で手握りあって、かなり気持ち悪いぞ」


突然降ってきた声に、ふたりは慌てるでもなく、しんみりと名前を呼んだ。
すっかり忘れていたが、ここは竹谷の部屋の前の、縁側だ。すぐそこは、顔の同じ二人組の部屋。寝間着姿のその部屋の本人が姿を表してもおかしくない。


「おいおい…なにやら感傷的すぎるぞ、そんなんでは忍者になれるまい」


妥当すぎて久々知も竹谷は何も言い返せない。その言葉からして、今までの会話も心の葛藤も全てこの人物に筒抜けらしい。呆れるくらいに、心地よい関係。
声の主である鉢屋は竹谷の隣にずかりと腰をかけた。遅れて部屋から出てきた不破も、その隣に。


すると尾浜がいないのが余計に際立って、4人も揃ってしんみりしてしまった。無言だというのに、この以心伝心はなんだというんだ。


…寂しいな。ああ寂しいよ。でも寂しくちゃ、いけないよね。そうだな、いけないな。でも、寂しいね。


こんなにも愛しいもの、捨てることなどできようか。いつか、この場所を忘れられる日は来ようか。
暖かすぎた、この場所を。


「ばかだね…三郎ったら強がっちゃって」


「雷蔵大好きだよ…」


「僕たちは、本当に忍者失格だ」


不破は鉢屋を何食わぬ顔で無視して、眉を下げて笑った。月光の眩しい夜は、真っ暗闇な夜よりも静かに感じる。そんな空間に、私は本当に寂しくなんかないぞ、と、俺も寂しくない、二人の虚勢が今度は声になってぽつんと聞こえた。竹谷は苦笑を零す。寂しくて寂しくてたまらない!


堂々言ってやりたかったけれど、竹谷は口を一度結んでから、同様に虚勢を張った。寂しくなんかねえよ。


「ええい、そんなことより、はち、それは何だ」


鉢屋がそう言って指したのは、先刻久々知が指したものと同じものだった。
この雰囲気が鬱陶しくて、鉢屋は随分と不格好だな、といつものようにからかってみせる。


久々知はまだ、遠くに思いを馳せてるようで。遠くを長めるものだから、余計に美しく睫毛の影が白い肌に写っていた。


なんだ今晩は、突然みんなして、か弱くなって。女じゃあるまいし。
鉢屋は自分たちに、胸中で嘲笑った。


「ああ、犬小屋作ってんだ」この話は聞いてなかったのか、と竹谷は苦笑を浮かべて答える。


「ばかめ、用具委員に任せればいいだろう」


「いや、自分で作りたかったんだ、用具委員みたいにはできねーけど」


「なにそのこだわり」


「や、最後くらい…みたいな?」
ふーんと不破は相槌を打つ。じいっと鉢屋は未完成の犬小屋を睨んでいた。


「でも、放課後やるのはもったいないからな」
その意味も、言わずもがな伝わっているだろう。


「そうだね、三郎もきっと喜ぶよ」


「…っああ!あの、忌々しいでか犬の小屋か!私と同じ名前した、やけに雷蔵になついている!」


「うるざいざぶろう…」


「おほっ?兵助、急に鼻声」


「んん、…なんか鼻水出てきたかも」


「まったくお前は寒がりだな」


さすがに鉢屋も、寝る間は身体はなにも塗っておらずまっさらで、その肌にはぶつぶつと鳥肌がたっていた。不破はそれ見つけると、思わず笑った。お前もなかなか寒がりだよね、と。


もうそろそろ、生温い風が吹く季節だ。とは言え寒がりにとっては、充分身を縮ませる寒さだ。不破は間違えたふりで、そっと鉢屋の手のひらに、自分の手のひらを重ねてやった。可愛いもので、鉢屋はびくっと反応すると、不破の手のひらをわざわざどけてから、ぎゅうっと包み込んできた。手の甲いっぱいに鉢屋の固い手のひらが触れている。不破はなんだかそれだけのことが嬉しくて嬉しくて、たまらなかった。


「ああもうこれから寝ようと思っていたのに、すっかり目が覚めてしまったなあ」


「僕もだ」


口々にそう言えば、あっという間にこれからの行動は決まる。寝れない夜に集まってしまえば、もう解散の選択は抹殺された。月見でもしようか。鉢屋のその言葉に、竹谷が勢いよく賛同し、ふたりも頷いた。


「兵助、ほんとうに鼻水がひどい」


「そうでもない」


「大ありだ!」


「僕ちり紙持って…ああ、切れてた気がするなあ。はちは、」


「…俺もねーわ」


不破は考える素振りを見せて、早くも面倒になったらしく「じゃあもう厠から持ってくればいいや」と立ち上がるった。反応よく鉢屋も立ち上がり、不破の背中をついていく。久々知はずるずると鼻水をすすりながら、これどうにかなんないのかと嘆いていた。確かに、忍びがそうずるずる言っていては、情けなさすぎる。


「そうだ学級委員の部屋に寄ろう、菓子があるはずだ」


「もう、勘ちゃんに怒られても知らないよ」


「あいつなんか知るもんか。そうだ、部屋にも寄らなくては」


「ちり紙ちり紙ーちり紙ー」


「上等な酒…は、とっておくとして、酒は私が用意しよう」


「ノリノリじゃないか三郎ってば」


曲がり角にかかったふたりの姿が消えるまで、竹谷はじっと見つめた。静かな夜に、ふたりの声はよく響いた。ふたりが消えた縁側は、酷くむなしく見えた。


「……やっぱ寂しい」


「お前な…」
我慢ならずに竹谷は呟いた。


「あと、お前は俺なしでやってけんのかなあーってな」


「…」


「絶対、無理」


「…お前なあ」


「豆腐が恋しくなっちまったしてな、きっと」


「いいことじゃないか」


尾浜はある城に勤め、久々知も同様、そして不破と鉢屋はふたりでフリーの道をゆくのだとか。竹谷も就職先は決まっている。迷うもなにも、もう、先は決まっているのだ。この愛しい日々の記憶を置いて、振り返らずに、ゆくのだ。悔やむことなどない。怖がることなど、なにもない。あとは手のひらを空にして、ひたすら、忍として生きるのみ。


「……俺たちは、忍になるんだ」


ちり紙と酒と菓子を持ってあのふたりがやってきたところで、始まる。ひとり足らない晩餐会。


「俺たち大丈夫だよな」


去年みた背中のように、最後は無言で別れよう。


そのための準備と名付けて、今夜も、あとひとりが帰ってきたその夜も、あとせめてもう1日くらい、子供でいさせて。それと、思い出のなかから選りすぐりのものを3つほど選んで、持ち歩かせてほしい。それから半信半疑でも輪廻転生を願ったあのとき、お坊さんにもらったおそろいの紐もどうか身に付けさせてくれ。それでこの手のひらはもう空になったと見なしてくれないだろうか。もう目の前のドアの鍵は受け取れる、と。


「酒に菓子も持ってきたぞ!」


「はっや!!」


「あとちり紙もね」


僕らはゆける。もう拭いあえない誰かの涙と引き換えに、愛しすぎた記憶と引き換えにして。


「さあ飲むぞ!」


子供たちの声が、月夜に明るく響いた。
幼い笑顔が、たしかにまだその声に残っていた。




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