全く女々しくて、ああもう笑えてくる。スケジュール帳に登録していたわけでも、カレンダーに記入していたわけでもない。だけれど、俺はきっぱりと覚えていた。


竹谷と兵助が付き合って、1年が経つ。いわば今日は、記念日というものだった。
兵助はおのずから舞い上がっていた。食堂で鉢合わせたタカ丸から、今日の兵助くんはなんだか機嫌がいいねえと言われる程。本人は顔に出していなかったつもりが、どこか無意識に浮き出てしまっていたのだろう。タカ丸の隣にいた綾部はいつもと変わらないように見えますが、そう零していた。


特別出かけなくたって構わない、ただ、久しぶりに2人でゆっくりしたいだけ。兵助はそんな思いで、ソファーに身を預けて竹谷の帰りを待ちわびていた。


授業がみっちりあったのはお互い様で、竹谷は部活もある。窓の向こうを眺めると当然太陽は沈んでおり、既に真っ暗だった。



ふたりでゆっくりした時間が過ごせれば、それだけでいい。なに、それは朝だって昼だって、夜だって構わないのだ。そして、重苦しくなく、軽い感じで、渡すのだ。この箱を。ようやく渡せるときが来ると思うと兵助は胸がうずうずして、竹谷のことになると本当に俺らしくなくなってしまうと苦笑をもらした。
そのために兵助は今日入っていたはずのバイトのシフトを友人に託していた。彼にとって祝日でもないその平凡な日にち。一言二言不平を漏らしてから、なんとか受けてくれた。かわりに夜中のシフトをふたつほど、差し出されたが。


もちろん竹谷も、部活の後は飲みになど行かず、真っ先に帰ってきてくれると兵助は思いこんでいる。意志が頑なで、賢いのになんだか頭が固くて、なかなか心を開かない。
あの兵助がここまで人を信じ、自分のために動いてくれるとの自信があるのは、それこそ1年間竹谷に絆されてきた証拠だった。


それにしても遅いな。そう思った兵助は竹谷に電話をかけてみた。コール音がぷつりと切れたかと思うと、耳に流れてきたのは雑音ばかりで兵助は眉を寄せる。


「兵助?どした?」
ようやく聞こえた竹谷の声に兵助は安心して、たずねた。


「はち、どこにいるの」
「えー…っと、居酒屋向かってるとこ。帰りは遅い方のいつも通りかな」


…ああ、まさか。…忘れている?


兵助が予想した言葉は、今駅だとか、帰り道だとか、そんなもので。


祝いごとは、盛大にしたがる竹谷のこと。この様子では、覚えていないのだと兵助はすぐに悟った。


途端に頭が真っ白になった。
つまりは、舞い上がっていたのは、ふたりでゆっくりしたいと考えていたのは、自分だけだったということで。なんて情けなくて、惨めで、情けなくて。…惨めなのだろうか。


ここで、帰ってきてほしいと、一言我が儘を言えばよかったのだろう。竹谷なら、なにがあったんだとすぐに駆けつけてくれるに違いない。
ただ、電話越しに聞こえる雑音のなかに、やたら女の声が目立つことに気付いて。もうこれ以上ないまでに兵助の胸を曇らせてゆく。たった一言が、沼に沈んでゆく。帰ってきてほしい。たったそれだけなのに、言えなくなる。


「ねえ竹谷くん、まだあ?もちろん帰るとか言わないよねー」


確かにはっきりと聞こえた、女の声。これだけ大きく俺の耳に届くだなんて、どれだけ密着されているんだ。想像するだけで、ああ、…ああ、もう。
それがもう、とどめだった。


「わり兵助、…なんかあったか?」


やはり優しさを滲ませた竹谷のその言葉が、ぐりぐりとあけられた傷口に染みてくるようだった。あっけらかんとした口調が、今はつらい。


…なんか、なんかって。なんか、じゃあないだろ。今日は、お前と、俺の。大事な、大事な。覚えてないのかよ。おい冗談だろう。その女と今すぐ離れろ。離れてくれ!


……その全てを、押し込んで。


「急ぎじゃないから、今度で構わないよ。じゃあな、飲みすぎんなよ」


兵助は一方的に電話を切った。声は震えていなかっただろうか。ちゃんと、いつもの自分だったろうか。呼吸を落ち着かせるように、息を深く吐き出す。電源を落として、携帯を机に置いた。


「…なにが急ぎじゃない、だよ…」


今日はもう、あと4時間もすれば終わるというのに。胸が握り潰されるように痛くて、痛くて痛くて、たまらない。
竹谷が女に媚び売られることだなんてしょっちゅうで、今まで竹谷に迷惑かけないようにと必死に我慢していた。こんな嫉妬、知られれば、迷惑かけてしまう。重荷になりたくない。今日ばかりは、その胸の痛みが何倍にもなって。本当に胸が壊れてしまうんじゃないかと疑うほど。ひとりきりの空間に、兵助はこらえきれずにじわりと涙が滲んでくる。


ああ泣くのは好きじゃないんだ。


しかも兵助がこうしてひとり涙を流すのは竹谷が必ずと言っていいほど絡んでいて。情けなくて馬鹿らしくて、悔しいのだ。


記念日なんていう綺麗な響きは、たちまち薄れていく。嫉妬やら忘れられていた悲しみやらが混ざって、もう涙は気付けば溢れ出していた。夜更けの空を零したような箱に、ぽたりと水滴が落ちる。こらえるのも涙を拭うことすら億劫で、兵助はソファーに寝転がり、顔をぐいぐい押し付けた。箱は、机の下にしまい込んで。
そうだ、これだって竹谷が友達から譲り受けたソファーだ。竹谷には、たくさん親しい友達がいて、その上忙しくて。覚えていなくたって仕方ない。それでもやっぱり。


「…覚えててほしかった、なあ…」


そんな独り言は、余計兵助自身の胸に刃物を突き刺した。










いつの間にかやら寝ていたらしい。
目が覚めて、兵助は目をこすりながら部屋を見渡してみる。竹谷はいなかった。かわりに、何故だか依然と三郎がいた。椅子に腰かけて、湯気のでているカップに口付けている。指先は、携帯に向かっていた。


「…三郎」
「なんだ」
「何時」
「大学なら諦めろ、もう午後になる」
「……嘘だろ…」


上半身を起こすと、骨が軋んだ。どうやらあのまま寝てしまったらしい。三郎がたった今つけたテレビを兵助は確かめてみれば、時刻はもう昼飯時だった。


「三郎、これ」
まだ眠たい兵助は、いつも以上に口数が少ない。兵助は身体にかけられていたブランケットをつまみあげて、三郎に見せた。


「はちだよ、はち」
「はち……っはち、はちはどこに」
名前を聞いただけで、こんな脳みそがぐらりと揺れるだなんて、…全くどうかしている。


「大学に決まってるだろう」


兵助はとりあえず立ち上がって、うんと背伸びをする。まだ骨が軋む。一体どれだけの間寝ていたのか、軽く二桁にはあがりそうだ。三郎は携帯を手放し、チャンネルを回していた。平日の昼間にテレビを見るのは久しぶりで、見慣れない番組ばかりだ。三郎は適当に4チャンネルで指をとめて、テレビをぼんやり眺めた。兵助はというと台所でうがいをしてから、コーヒーを作り初めていた。
部屋は静かで、テレビの音だけが騒がしい。兵助は出来上がったコーヒーに口付けながら、三郎の前に腰をかけた。


「んで、三郎、お前なんでここにいんだよ」


兵助はコーヒーのおかげですっかり目が覚めて、そういえば、と三郎に尋ねた。兵助も三郎同様、興味のない番組をおもむろに眺める。やっと目が覚めたか寝ぼすけが、と揶揄する三郎を兵助はうるさいとはねのけた。目を合わせることなく、どちらもテレビに視線がいっていて、第三者からすれば不仲に見えなくもない。ただふたりにとってはこれが日常、当たり前のことであり、不仲だなんてとんでもない。口先は無愛想でも互いに心を許した仲だった。これが、落ち着くのだ。


ただ、兵助の脳裏にちらつくのは、竹谷の笑顔。
…最近、ちゃんと見れていないな。


「おい兵助聞いてるか」
「…悪い、ぼーっとしてた」
「…だからな、俺が午後休もうかなーなんて言ったら、はちの野郎が兵助の具合が悪そうなんだ!ってうるさくてな。…俺んち行ってくれって、返事する前に鍵押し付けられたんだよ。」
まあお前んちはコーヒーもあるし快適だからいいけど、と付け足して、三郎はコーヒーを飲んだ。


「ん、これ」なにやら三郎に差し出されたメモを見てみると、お世辞にも綺麗とは決して言えない竹谷の字が並んでいる。


兵助おはよう。無理すんなよ。おにぎり冷蔵庫に入ってる。


一体どこで書いたのか、ただでさえ汚い文字はがたがたにずれていた。慌てて書いている様子を想像すると、兵助は笑えてきた。そんな自分に安心して、メモをポケットに突っ込んだ。


痛みなんて、ほんの小さな画鋲程度だ。大丈夫、大丈夫。兵助は胸でそう繰り返して、無意識にきつく結んでいた手のひらを開いた。


「お前のスマホの下に置いてあったzo」
どうせラインもきてるんじゃないかと兵助は三郎に促されてスマホの電源をつけると、言葉通り新着が来ていた。…だけれどそれは、勘右衛門と雷蔵、さらにタカ丸からのもので。兵助は、ああきてたよ、と思わず言い返してしまった。


「お前の旦那さんは過保護だなあ」
「…馬鹿だな、具合悪くなんかないのに」


静かに呟く兵助に、三郎は目を、耳を疑った。お前の旦那さん、はスルーなのか。いつもなら懲りずにとっかかってくるくせに!寝起きの兵助はいつもと違う様子になるのはとうに知ったことで(竹谷ののろけ話である)不審に捉えていなかったが、目の覚めた今、明らかに兵助はいつもと違った。


「…元気なら今から愛しの恋人に会いに行ったらいいんじゃないか」
「…ん、いい、」


おいおいどうなってるんだ。三郎は口元をおさえ俯き、笑いたくなるのをこらえる。これは、重症じゃあないか。いくらやたら敏感な俺じゃなくとも、これでは誰だって首をかしげるだろうに。兵助は、隠し事は得意のはずだ。


兵助はやおら立ち上がった。わざわざ電源をおとしたらしいスマホを机に置いてから、台所へ向かう。何気なくそれを見据えていると、ふとおかしなものが目に入った。


それはソファーにじんわり浮かんでいる、薄い薄いしみ。なにか零したのだろうかと三郎は怪訝に思う。ただやはり三郎は敏感な上勘が鋭いもので、なんとなく、それがなんなのかが検討ついてしまった。


「おい、三郎まさか」


台所から飛んできた声で、ゆるゆると目を離した。
椅子を後ろに傾けて台所を覗くと、冷蔵庫に手をつけて眉を寄せる兵助がいた。


「ああはちのくせに普通に美味かった」
「……くそ雷蔵が…」
「雷蔵の悪口みたいだからやめろ」
兵助は溜め息をついて、かわりに小さめの豆腐を取り出した。ふたをぺり、と剥がせば、そのままつっつけるものだ。


「兵助朝飯は?…というか昼飯だな」
「これ」
「はあ?お前できるんだから作れよ」
「身体だるいんだよ、おにぎり食ったの誰だ」
う、と三郎は言葉に詰まって、腕を組んだ。そして100歩譲って苦し紛れに提案をした。
「では私が作ってやろう」
「遠慮する」


兵助は即答である。


「お前ほんと可愛くないな!」






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