店に戻っても思っていたより割と暇だった。予約やらを含めて店内は既に満室。カウンターで申し訳ありませんと頭を下げる後輩の姿を、することもなくじいっと眺めていた。注文はいつもより忙しなかったけれど、予想は下回る。俺はクリスマスのカラオケを過剰評価しすぎだったのだろう。実際、店内は確かに普段より大賑わいだ。


俺と倉間先輩はふたりして壁にもたれかかり、ぼうっと時間を浪費していた。暖房のよくあたる場所で倉間先輩はかじかんだ指先をこすりあわせている。俺はさっきのことを思い出していた。


「お前なついてたよなぁ」
「なんの話」
「中学だよ中学」
そう言われて、あああのひとのことかとわかってしまう自分も憎たらしい。欠伸をひとつ、そしてから適当に返事をした。


「んー、なんか無意識に、霧野以外に壁作ってる感じだった」
「…忘れた。てか、別に仲良くないし」
「なに、お前らあれだけ仲良くて、今すっぱり関わりないわけ」
全く心から不思議だ。倉間先輩の顔にはそう書いてあった。


「かれこれ中学卒業してから全くだよほとんど、時々見かけたりはしたけど」
「は、意外」


話題は霧野蘭丸にあった。
再び美容師の言葉が脳裏を過ぎる。そんなカップルの自然消滅のようなものではなくて、俺のなかには確かな意志があった気がする。


俺が、確かに霧野先輩を避けていた。
避けようとせずとも自然と離れていたかもしれない。その可能性は否めない。
でもだからと言って、距離を保つ方法だなんていくらでもあった。メールするなり、そこらのファストフード店でたわいない近況報告をするなり、それこそ街で見かけたならば声をかけるなり。そんな交わりが続いているのが自然だというくらいに俺たちは仲が良かったはずだ。でもどれひとつ、しなかった。俺には固い、意志があった。


「あ、やべ客きた」

倉間先輩は小走りでカウンターに向かう。エプロンのひもがだらしなくひらひらと舞っていて声をかけようとしたけれど、既に手遅れだった。
俺は暖房のよくあたる倉間先輩がいた位置に移動して、ポケットから今朝のプリントを取り出した。背中はほんのりと暖かい。端がくしゃくしゃになったプリントを広げると、予想通りの文字がそこには並んでいる。同窓会のお知らせ。その下には丁寧な挨拶文などなく、日時と場所、そして最後に自由参加と綴られていた。


「おおい!おい!狩屋あ!」


ああもううるさいな。ゆっくりさせてくれよと倉間先輩の方を見ると、必死に手招きをしている。俺の後ろには当然誰もいなくて、俺は渋々とカウンターに出た。結んでいなかったエプロンに指先を添えながら。


「よう狩屋」


そして目を剥いた。不意に後ずさりたくなった足を、咄嗟の思考で引き止めた。


「狩屋?…まさか忘れた?」


そこには霧野蘭丸がいた。


髪は随分と短くなっていて、むりやりに後ろでひとつ結びをしている。釣り目で、睫毛が長くて、瞳の色はまるで外人のセルリアンブルーで。美術の時間、先輩の瞳の色によく似ていると発見してなんだか嬉しくなったのをよく覚えている。変わっていない、変わっていない。あまりに綺麗な瞳が、目の前の人物が霧野蘭丸であることを俺に知らせた。


「まさかぁ。俺たちちょうどお前の話してたんだぜ」
「はあ?なんの話だよ」
「…ん?あれ、なんだっけ狩屋」


一斉に向けられる視線。霧野先輩と、倉間先輩と、霧野原先輩の横にいる知らない人。中学の頃、あれだけ心を開いたひとが、目の前にいる。落ち着いていいはず。
なのに、吐き気がするほどの酷い違和感は、拭えない。


「え、…ああ、…えっと」


俺が言葉を濁してる間に、霧野先輩の隣にいた知らない人が、なにやら霧野先輩に耳打ちして、この場を後にした。彼がドアを開けたのだろう。ただでさえ騒がしい店内がほんの一瞬ボリュームを増して、また戻った。


「……っ」
俺の頭は、真っ白だ。


「狩屋まじどしたんだよ、なに照れてんの」
「まあ随分と久しぶりだもんな」
「ああそっか、そうそうそんな話してたんだよ」
「そんな?」
「まあ、色々ー?」


その会話に俺は交えなかった。なにひとつ、言えなかった。
ただ偶然手のひらのなかに居合わせたプリントを、ぎゆゅうっと強く強く握っていた。霧野先輩の表情を伺う余裕なんてありはしない。霧野先輩の声を聞く度、喉の奥が詰まるようだ。これは、吐き気ではない。


なにか、ずっとひそんでいたものが、湧き上がってくるような。


「…とりあえず俺行くな、みんなが待ってる」


霧野先輩は軽く手をあげて、ひゅるりと俺に背中を向ける。その背中が消えるまで、ずうっと、じいっと見つめた。短くなった髪が小さく揺れて、静かに昔を思い出させた。


何が、仲良かった、だ。


俺はいつだって、霧野先輩の憎たらしく跳ねるツインテールを必死で追いかけていた。ひたすらに、追いかけていた。人気者の彼は、気がつくと故意でなく俺の隣からいなくなっているから。


ふたりっきりになった空間で、ようやく倉間先輩は不思議そうに俺の名前を呼んだ。だめだ、取り乱しては。ハッとしてあげた笑い声は、情けなく乾いていた。


「さーせん、ちょっと目眩がして。休憩とらして」


無理やりすぎる嘘だ。俺の特技と言えば誇れることではないけれど、嘘をつくこと、なんだけどな。おまけに一体俺はどんな表情をしていたのか、倉間先輩は黙ってしまった。いつもだったら、威勢良く暴言を吐くのに、ただ黙っていた。俺はやっちまったなあと後悔の念を頭によぎらせながら、更衣室で固い長椅子にゆっくりと腰かけた。賑やかなフロントとは大違いで、とてもとても静かな空間だった。


俺は霧野先輩に会った。
その事実はまるで嘘のように、たった先刻のことなのに遠い昔のように記憶が曖昧だ。すっかりくしゃくしゃになったプリントをさらにぐちゃぐちゃに丸めて、適当に放り投げるとロッカーに当たるり間抜けな音をだして、あっけなく床に転がった。ほんの少しの物音は静かな空間に沈んでゆく。
そこには、枯れたはずの感情が、まだ残っていた。


初めて俺が心を開いたひと。それはもしかしたら、霧野蘭丸かもしれない。


雷門に入学する以前に俺をよく可愛がってくれた変わり者がいた。
どんなに無愛想でも壁が分厚くとも、あの人は幼い俺から離れなかった。ときには強く叱ったし、慰められたこともあった。金魚の色に似た、朱色の髪の彼。でもどうも彼にすら、心を開ききれない部分があったのだ。彼は俺のことをあれだけ信用していてくれたのに、俺はいつでも胸の片隅で彼を小さく疑った。疑う癖がついていた。そのうち俺は物心が濃くなって迷惑かけないようにと遠慮するようにもなった。なにより、彼は人気者だった。
俺が5年生になるころには、彼は偉い人になったらしく、施設に来れる回数はどっと減った。施設には俺以外にも、それぞれの事情を抱えたたくさんの子供がいる。施設に来れた日、彼はたくさんの子供に取り囲まれた。俺はその中に入れなかった。それで彼になにかと心配かけるのが嫌で、彼に見つからないように必死に身を隠していたのだ。俺は別に寂しくなんてなかったよ、って。
それがどう伝わったかは、今でもわからないけれど。幼い俺のただの自己満足だ、知らなくて構わない。


きっかけは霧野先輩。霧野原先輩と出会って。そしてから俺はようやく朱色の彼にも全部心を預けることができた。俺は幸せ者なんだって知ったから。もっともっと彼に感謝しなければならないと知ったから。


後にわかったことだけれど、俺みたいな悲しい過去を抱えた子供じゃなくとも人に心を開くのはとてつもなく難しいことなんだと。
彼にありがとう、初めてそう言った日、彼は子供みたいに泣いた。そして俺はもうひとつ知ったことがある。彼もたった今、俺に心を全て見せてくれたんだと。俺と彼は、血の繋がった親子以上ではないかと、とても誇らしく嬉しくてたまらなくなった。


そのきっかけをくれたのは紛れもない霧野蘭丸だ。悔しいけれど先に心を開いたのは。きっと、霧野先輩だった。


「……はあ」


溜め息つかずにはいられない。なんだって、昔の部活の先輩に再会して、こんな思いしなければいけないのだろうか。あの訳のわからない不明瞭な感情はとうに枯れたはずだったのに。


親へ向ける感情じゃなくて、尊敬する気持ちでもなくて、清らかな友情でもなくて。知らない感情を、俺は霧野先輩に抱えていた。逃げるなと、耳にたこができる程あちこちで教師やら大人に臭い台詞をいわれた。だから俺は立ち止まって考えたんだ。でも、わからなかった。
だから俺は、逃げた。


間違っていたとは思わない。高校で馬鹿みたいに笑える仲間もいたし、部活だって楽しかった。俺はもう、普通の子になったのだ。ああ、そういえば合宿の二日目の夜は最高だったし。あの試合で負けたねは、悔しかったなァ。


霧野蘭丸がいない日々にも、思っていたよりすぐに慣れた。連絡もすっかり途切れて、街で見かけようが声すらかけなかった。かけられることもなかった。そうだ、彼女も作った。それなりに俺はモテたし、童貞だって捨てた。胸は、大して痛まなかった。
よく考えてみれば、いくつもある関係を保つ手段を霧野先輩もとらなかったのは、きっとそういうこと。当時の生活が、俺なしでも十二分に充実していたのだ。全部全部、俺の世界から霧野蘭丸を消すための、作業だ。ああ、それでも俺は。なんて厄介なんだろう。


たった一回きり、久しぶりに顔を見ただけで鮮明に蘇ってしまった。単に、奥に奥に隠してしまっていただけで、今思えばずっとわかっていたことだろう。考えても考えてもわからなかった。そんなの逃げるための口実で、わかりたくなかっただけ。


そしてあの頭が真っ白になった瞬間、嫌な位に輪郭のはっきりした感情が浮かんで
きた。




あー、好きだな。


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