あれ、今キスした?




ぼんやりとした意識のなかで、唇に慣れない柔らかさが触れた。墨に浸したように真っ黒な瞳が、みるみるうちに真ん丸を描く。なんで驚いてるの。驚くのは、こっちだと思うんだけど。


「……ひろ」



電気の明かりが睫毛にのしかかって眩しい。薄く開いた目で瞬きを繰り返すと、真ん丸に見開いた瞳も一緒に瞬きを2回した。


「今、俺」
「キスしたよね」
「……した」


昼間の月のように輪郭を持たない意識はまだ微睡みの入り口をさまよっている。やっぱ
り夢じゃなかったんだ。ゆっくりと働き始めた五感にそう理解したはいいけれど、目頭にまだ乾いたボンドは張り付いたままだ。目を擦ろうと横たわる腕にこめた力は、ゆるゆると跳ね返ってくる。視線を向けなくても、ヒロが私の手を握ってるんだってわかった。そこから馬鹿みたい高いヒロの体温が私の身体を浸食していく。


「ねーさん」


鼓膜を振動させて、すとん、と身体のなかに入ってきたまだ幼いヒロの声。


たった今。無糖のとことん酸っぱい私から見た世界は、ヒロにとってはもしかしたらとんでもなく甘い甘いピークの世界なのかもしれない。この格差は、なんだろう。溝は埋まるのだろうか、埋まるべきなのだろうか。私が干渉するべき?
答えの現れない自問自答をゆっくり心臓に沈めて、細く息を吐いた。


「なんで」
「…わかんねー」
ヒロは片手で頭をがしがし掻いて、どさり、と床に胡座をかいた。


「手、離してよ」
「えっと、やだ」
「なんで」
「わかんねー」
「またそれぇ……!」


寝起きのせいで途切れ途切れの言葉は、不思議と私自身を落ち着かせていく。なんだ、ヒロにキスされようと、よーく考えれば冷静でいられるんだ、私。みたいなこと考えて、それでもやっぱり自分にはごまかせなくて、私の脳みそを満たすのは罪悪感だけではなく少しの幸福感も入り混じっていた。それで、ああもうやっちまった気付いちまったぁーって嘆く。


あー私きっとヒロのこと好きなんだぁー!って。


いまさらだ。絶対、言わねー。


「ねーさん、俺ずっとさ」
「うっさいヒロ黙って」
「お願い、ねーまじお願いだから、言わせてよ」
「やだ、聞かない、聞かないし聞かないし、却下!」
「好きだ!」


ヒロは私の戒める声をも遮って馬鹿でかい声で叫ぶようにそう言った。直後、しん、となって、自動で起動を始めた暖房の、無機質な機械音だけが響いていた。私は居たたまれなくなって、咄嗟に耳を塞ぐ。
間もなく、好きだ!好きだ!好きだ!機関銃のように飛んでくる告白。私の声は一切無視。いくら耳を塞いでも、ヒロの声は指の隙間を通り抜けて、私の脳みそに直接突進してくる。好きだ!好きだ!好きだ!ただこねるようにずっとそれだけを言い続けている。拙くて、泣きたいくらいに真っ直ぐな言葉。好きだ、好きだ!


「うーるっさい!!」


強めに言ってもヒロは止まることはなくて、ずっと私を見てる、漆黒の瞳。私は外国人の血が混ざった、琥珀の瞳。ヒロの目のしたはぷっくりと膨らんでいて、やさしい笑顔を演出する。私は笑うと目したにほんの少し皺ができるだけ。全然ちがう、目。まるで姉弟じゃないよ、と事実を突きつけられているようで、唇を噛む。実際そうだけど、そうだけど。
言葉が見つからなくて、私はまた唇を噛む。好きだ好きだの連呼が止んだかと思うと、ヒロは肩で呼吸をしていた。ヒロの目がぎゅっと結ばれて、ひゅ、と涙袋がやさしく浮かぶ。そしてまた、淀みない瞳で私をとらえる。


私がさ、頷いたらさ、この先淀みだらけなんだよ。ねえ、ねえ、わかってるの、ヒロ。


「やめて」


もうお母さんにもあんたのお父さんにも迷惑かけたくないよ、


小さく呟いた、その声は効果覿面で、ヒロは、はっと口を噤んだ。口にしてから、私ってばどんな顔してたんだろうと後悔の念が過ぎる。愛おしいやら悲しいやら申し訳ないやら、情けないやら、脳みそに詰めれるだけの感情がごった返してる。


「…ねーさん、俺のこと好き?」
「…好きだよ、大切な弟」


またヒロは、口を噤む。ほのかに色付いた、薄い唇は噛みしめているせいで余計に色素が薄くなっている。


「ちょー、不満げなカオ」


ふは。うけるよ、そのかお。


…曖昧にするくらいなら、くっきり線引きをした方がいい。するべきだ。わかっているのに、嫌いのたった三文字が言えない。卑怯な私は弟としての好きだけを紡ぐ。臆病な私は曲がりくねった道が怖いから、嘘をつく。
それでも、そのうちこの気持ちも色褪せて透明になってくれる。それを首を長くして待てばいい、なんだって私は一途じゃないし。でもこれがもし、一生に一度の運命の出会いだったら、なんて珍しく乙女チックなこと考えると、私は神様を恨むことになるのだろう。同時に、今更彼氏の顔が脳裏を過ぎって、あ、そういえば、と苦笑する。もし運命なんていうものだったら、どうなるのかなぁ。一生苦しみ続けて、死ぬのかなぁ。それは、やだなぁ。
そしたらそのときは、おねーちゃんの気持ち伝えていいかなぁ、ヒロ。


まだ大学生になったばかりの、青い青い私にそんなことわかるはずはなくて、今はただ、少しでも早くこの感情が透明になることを願う。


「ヒロってば、さっきは寝起き襲ったくせにね」
「そっそれは、なんつーかさ……むらっと、」
「ばぁか」
「しょうがないだろっ、ずっと、す、す、すき、だったんだし、よぉ…」
「な…なに今更照れてんの」かああぁぁっと頬に浮かんだ朱色がヒロの顔全体に広がる。
「…あ、お母さんとお義父さん、帰ってきた」
「まじかよ」


戸を閉める音を境に、ばたばたばたばたと騒がしい足音が近付いてくる。私はおかえりの四文字を胸のなかに用意して、立ち上がった。空いている方の手で、そっとヒロの手をどけて。


「その真っ赤な顔いますぐどうにかしなよ」
「うそ、俺ヤバい?」
「あー、なんかりんごが食べたくなってきたぁ」
「てんめっ」


冷水でもバケツに汲んできてぶっかければ、じゅわーとか鳴って赤みは収まりそうだ。そうこうしている間に、リビングには二人分のただいまが響く。


「おかえり」


相変わらずりんごちゃんなままのヒロの後頭部を軽く小突いて、そしてまた4人の空間が始まる。ヒロと過ごしたたった4日間を振り返るより、とりあえずは再婚5周年旅行の土産話を聞くのも悪くない。


一瞬私を見たヒロの目元は、やさしく膨らんでいた。


願わくば、

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