お礼を言うのにいちいち勇気を絞らなければならない俺がどうにかできるものでは到底ないけれど、懲りずに考えてしまう。デメリットとか、メリットとか、もろもろ。そして思うんだ。


あのう。なんであなたは、俺といるんですか。


その日は、大して栄えていないこの街がとても騒がしかった。夕日が沈めば沈むほど街は賑やかになっていく。俺はベッドに横たわり、なにを葛藤するというのでもなく、窓の外で絶えることのない太鼓の音をぼんやり聞いていた。眠気は充分にあるはずなのに、なかなか眠れない。ただ不快に寝返る。熱のせいで頭もぼんやりする。なかなか意識は落ちないで、また一段と大きな太鼓の音が街に響く。


しばらくそれの繰り返しだった。そしてどれくらいの時間が経ってくれただろう。まだ懲りずに意識を暗がりに引きずり込もうとしている最中、突然がたがた、たた、到底太鼓とは思えない音を近くで聞いた。不審に思い目を開くと、いるは図のない人がいた。


浜野くんだった。


ゴーグルをきちんと付けているのは、どうせ特に理由はないのだろう。その思惑どおり、浜野くんは自然にすぐゴーグルを額にずらした。なんでここに、とたずねる間もなく、「金魚、つかまえてきた」たった一言そう言って目の前に押し出されたのは、窮屈な袋の中で泳ぐというよりかじっと浮かぶことを強いられているような金魚。それもよく見る朱色をした艶やかな金魚ではなく、黒色をしていた心なしか、祭りでとった割には大きい気もする。部屋が暗くてもとっくに目は慣れていて、液体に垂らした墨のように不安定に揺れてる尾鰭がよく見えた。俺はそれを押しのけて上半身を起こすと、確かこう言ったんだ、なんで?、と一言。
それだけで浜野くんには珍しく全て伝わったみたいで、眩しいくらいの笑顔で、「速水に見せたくて!ちゅーか、速水いないとつまんねぇし……あ、不法侵入怒ってるん?だってさあー速水絶対いれてくんねえじゃんか」。


機関銃めいた速い台詞に俺は一体どんな顔をしていたのか、浜野くんはきょとんと目を丸くしてから近くの椅子を引きずり、ベッドのすぐそばに腰かけた。そしてまた、金魚を俺の目の前に差し出した。


「これ、速水にやる。」


気付くと手のひらにひんやりとした心地よい感触が、ずしりとのしかかった。手のひらが水に透けて、まるで金魚が俺の手の上にぽっかり浮かんでいるみたいで不思議な気持ちになる。


「な?


更に念を押されて、受け取りざるおえなかった。
そんなこと言われても、正直困りますよ。喉が乾いて、その一言すら億劫だ。大体餌だって買わなくちゃならないし、水槽だってうちにはないし、祭りの金魚は長生きしないし。死んだときが面倒だ、感情的にも行動的にも。ただ嬉しそうに、水ではちきれんばかりの袋を差し出してくる浜野くんを、俺は毎度ねように断ることができなかった訳で。


その後も浜野くんは色々楽しそうに喋って、満足したのか、じゃあな、と窓の向こうに姿を消した。しいん、という音すら脳内に響かない。部屋は静寂だった。なにも動かない音もしない沈黙が守られたこの空間で、カーテンだけが風に擽られて波を打っていた。ああ、それと、金魚の尾鰭が必死に動いていたな。


浜野くんがいなくなったあとの空間は、やけに暖かい。でも油断しているとすぐに襲ってくる冷たいものとそのうち混ざりあって、溶けきれる訳がないのに無理して混ざり込むものだから、俺の身体は混乱して、まず真っ先に胸が痛む。そして心臓の叫びは五臓六腑を駆け巡って、しまいには呼吸が辛くなった。痛みを収めるために何故か無意識に身体中は雫を求めて、でも涙は出なくて、俺ってやっぱ泣けないんじゃ、とふと考える。泣き言はいくらでも紡げるはずなのに。もう身体中の水分は枯渇してしまったのかもしれない。なにがなんだかよくわからない、とにかく身が捻れて焦げて裂けてしまいそうだった。


……痛い。ざわつく心を落ち着かせるように、袋をぶらさげて眺めると、それでも金魚はあまりに綺麗で、綺麗で仕方なかった故、ただそれだけで葛藤はあっけなく一
旦去っていった。本当に、あっけないものだ。


俺が具合を酷く崩してお祭り行くことができなかった、ある夏の晩のこと。正直言えば太鼓の音が耳障りでどうしようもなかった。その日の風の声も、子ども達のはしゃぐ声も、俺は知らない。












翌日、結局なにからなにまで浜野くんにいただいて、浜野くんに困らされて、浜野くん自身に解決された。渡された水槽は大きすぎて、さすがに違うものをと我が儘は言ったが、そしてから渡された水槽も金魚一匹飼うにはやはり大きめだった。苦笑しながら、受け取った。水槽に放した金魚は箱庭の菜かとはいえ自由になったからと、馬鹿みたいに泳ぎ回ることはしない。ゆうゆうと、感触確かめるように水中に浮かんでいた。それは牽制しているようにも、眠たいようにも見えた。


「綺麗ですね」


餌を水面に向かったばらまくと、ぱくぱくと金魚がせわしなく餌に食らいつく。今までの印象と相対して、その姿は少し間抜けに見える。


「だろ!?速水な、あんときひっとことも喋んなかったから、悲しかったっちゅーの」


ふと零れた言葉をすぐに浜野くんはいとも簡単にすくい上げてみせた。一言、も。俺は胸中で浜野くんの言葉をゆっくりと繰り返す、「え、ええ、一言、も?」と繋げながら。


「よっぽどしんどかったんだなあ。あ、なんで!?とは言ってた」
「あ、…は、はいすみません」
「ばあか謝んなくていーのいーの」


意識は確かにはっきりとあったはずだけど、改めて言われるとそうだっけ?と首を捻る。どこか、なにかが、ぼやけていて。…わからない。なにがわからないのかもなにもかも。頭が今にもパンクしそうで、考えるのをやめた。ただ、俺が彼にごめんもありがとうも伝えていないのは痛いほどわかっていた。


実を言うと、体調だってそこまで悪くなかった。俺は、逃げたのだった。浜野くんは、俺といるより他の子といる方が絶対楽しいって、そんな観念が俺のなかには力強い居座っている。俺といて、なにが楽しい?面白いジョークひとつ、言葉のあやも紡げない。でなければ、なにかメリットはあるのか?…否、そうは思えない。やっぱり浜野くんって、ああ、わからない。


だから祭りも、そうだ俺は逃げたのである。ひとりの部屋は酷く居心地がよかった。このままいっそ、軽い風邪をこじらせてしまえればいいのに。頭では抱え切れないほどのことを考えているのに、なにひとつ、やはり俺は口にしていない。今更ごった返す感情を押し殺すように、もう一度綺麗ですね、と静かに呟いた。浜野くんはまた嬉しそうに笑った。ああもうなにが嬉しくて、そんな綺麗に笑うんです!


そうだ俺は、風邪のせいで少し、おかしくなっていた!…と思う。そうに違いない。誰に迫られた訳でもないことに言い訳を並べ、独り合点した。水槽を軽くつつくと、金魚は驚いたらしく慌てたように向こうへ泳いでいった。ふふ。なんだか微笑ましい。
そうして、俺の部屋が少し、ほんの少し狭くなったその日から、俺は黒い金魚を一匹飼うことになったのだった。












「まさかね、鶴正が金魚好きだったなんて知らなかったわ」


隠していたつもりはないから、構わないし、驚いた訳でもないけど。あれから数えて2週間程してからお母さんはぽつりとそう言った。ただ俺が金魚好き、ということが心外で、すぐに言い返した。


「別に、好きなんかじゃないよ」


機嫌良さそうににんまりと口角をあげて、ふうん?と相槌する。なんだそれ。そしてまた掃除機の騒音が部屋を満たす。俺は無意識に寄った眉を戻すと同時な溜め息ひとつ吐いて、ヘッドホンを装着した。


ヘッドホンはいい。イヤホンと違って、よほどの衝撃がなければ音が零れ落ちない。まるで世界にひとりになったみたいに、耳をふさいだ上大好きな曲を聞いていられる。だから好きだ。


あの金魚は、俺にとってあの夏の日そのものだ。独りきりの部屋で、地味な蒸し暑さに夏を感じながら、そのヘッドホンを付けずとも心地よいはずの空間でひたすら不快に寝返りを繰り返して。浜野くんがこの金魚を持ってやってきた。浜野くんは俺のなかで誰よりかっこよくて、そのときも、今思えば浜野くんの輪郭は光って眩しかった。まるでヒーローだった。陳腐な例えだろうが、本当にそう見えたのだから仕方ない。暗闇のなか、余計にその姿が際立って、目の奥がじゅくりと痛んだ。


あのときよりも前からずっとずっと今まで、黒色でも充分に華やかな尾鰭は、自分の存在を主張しているようにいつだって揺れていた。本当に美しいものはいつか消えてしまうから美しいのだ。誰かがそう言う。その言葉に基づけば、あの金魚が美しくて仕方ないのは、金魚のあの尾鰭もいつかは消えてしまうということをありありと伝えているようだった。ぷちゃりと水面に垂らした墨のように、広がって広がって、最後にはぎたぎたに千切れてしまうのか。やがて水と同化して、透明になって、なにもなかったことになって。それとも、あるとき突然まるごといなくなっているのか。あるいは、金魚自体が水面にぽんわりと浮かぶのか。当然最後が正しいに決まっている。そして誰かがすくいあげるまで、口はだらしなくあけたまま、尾鰭も微動だにせず、ひたすら浮かんだままなのだ。


儚い。儚いってこういうことを言うのだろうか。中秋を感じる夕暮れ、とりあえず今日も黒い金魚は生きている。のうのうと、少し広すぎる水槽を泳いでいる。


「………さ………まさ…」


俺の名前を呼ぶくぐもった声が途切れ途切れに聞こえる。しぶしぶ反応してヘッドンをとると、お母さんが掃除機を片手に俺を見据えていた。


「あんたね、金魚が好きなんだったら海藻?とかも買ったらいいんじゃないの」
「だから好きなんかじゃないって」
「いや、本当に、これお祭りの金魚で」
向けられる不信の目に、さらに付け足す。


「あらやだぁ分かりやすい嘘ついて」


こんな黒くてでかい金魚祭りでとれるわけないでしょ?大体祭りのだったらすぐ死んだるわよ弱ってるんだから。ふふふ。嘘つくならもっとマシな嘘つきなさい。にしても金魚なんて渋いわねえ。いいと思うわよ金魚お。


返事はひとつも返していないのに、嬉々そんなこと言い続けながらお母さんは掃除機を引きずり部屋を出て行った。俺はただただ呆然とする。首もとで、ヘッドホンから漏れる音楽は自重を知らずにシャウトする。


ああ、なんてこと。


ようやくリンクした。


「……はあ、浜野くんも嘘をつけるんですか」


浜野くんは鈍く見えて誰をも包みこむ大きな身体を持っているから、ガキに見えて実はとても大人びていてから。俺が考えることなど、きっとお見通しなのだ。実は嘘だってつけることも今知った。俺だって、浜野くんの言いたいことも、この金魚の言うことも、聞こえる。けどわからない。どうしても。
なんであなたは俺なんかといて、笑ってくれるんでしょうか。


…なんて、やっぱり不甲斐ない俺は聞けやしないのだ。
まったく、この広くてちっぽけな世界にはどうしようもできないことがどうしようもないくらい多すぎる。


いつか浜野くんの隣に堂々と立てるまで、このくらいの我慢は当然の代償だったりするのだろう。ぶっちゃけそんな日来るのかなんてわからないし、今の時点で小さい俺にできるのはただひたすら足踏みをすることひとつ。一歩先が怖い俺の三歩先には必ず浜野くんが笑顔でいる。だから、とりあえず足踏みしながら、気付いたらその場所に辿り着いていたらいい、なんて。


(……金魚、黙っててあげよう)


なんだかんだ矛盾やら戯言を重ねておいてだけれど、でも確かにあのとき、ああここにいていいんだ、と、何かがすとんと胸にはまった。まるで呼吸をするかのように、しずかに、やさしく、やさしく、


私がそうっと還る場所/花洩/20130216
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