ここは、どこだ?


重たい瞼を少し持ち上げると翡翠のカーテンが目に入った。ああ王の部屋か。すぐ理解して、この状況に至った記憶を掘り返した。たしか、酔っ払ったシンを介抱したら、そのままベッドに引っ張られて。それで訳も分からず抱き締められて、いつの間にか私は寝てしまっていたのだ。


体を包み込む温もりがなくなってしまえば、私はすぐ起きるだろうに、いつまでも私を甘やかす温もりのせいで一向に睡魔は立ち退かない。ぼんやりした意識の中で、鼻孔を擽った匂いをいっぱいいっぱい吸い込んだ。大好きな人の、匂い。


「……し、ん…」
無意識に名前を紡いでいた。


「ジャーファル、起きたのか。おはよう」
「……しん、しん?」
「あぁ、お前のシンはここにいるぞ」
「…馬鹿、言わないでください」


逃すもんか、と包み込む腕は逞しく、暖かく、強い。


「ジャーファル、お前また記録を更新しただろう。7徹か?一週間寝ずによく政務などこなせたものだ」


だめだ、甘えてしまう、離してほしい、仕事しなければ。
きっとシンはそんな私の思いを知って、私に意地悪する。全く気にもとめていないように、ぺらぺら、ぺらぺらと。ふとしたときにお前が傾いていると文官が心配していたよだとか、お前は催眠薬も効かないからなぁだとかなんだとか。シンの足の間に尻を沈ませ、シンの上半身を背もたれに私はすっかり身動きを制止された。睡魔もまだ引き下がろうとせずに、まだ瞼に乾いた接着剤が付着しているような感覚だ。


「ジャーファル、まだ寝なさい。せめて次の朝来るまでは寝るんだ」


ご機嫌がいいかと思えばシンは声を低くして私にそう命じた。結局はこの場所がどうしようもなく心地良くて、私はシンの胸に身体を預けてしまう。


「政務官が、王にこんな…情けないです」


溜まりに溜まった疲労と比例して襲ってくる睡魔、それを撫でてくれる温もりから離れられない。どこまでこの人は私を甘やかすんだ。私はまだ微睡みの入り口でうろうろしている。


「最近…よくうなされているよな。昔は毎日だったけど、しばらくしたらなくなっていった。バルバッドの件以来か?またうなされるようになった」


シンは私の耳朶に小さくキスを落とした。咄嗟に耳抑えて振り向けば、そこにあったのは真面目なシンの眼差しで、思わず目を逸らしてしまった。


「……私、うなされているのですか」
「あぁ、お前の口から、シン助けて、なんて初めて聞いたよ」


ぎゅ、と抱き締める力が強くなった。私がシンに助けを請うだなんて、死ぬ間際になっても絶対にないと断言できる。
それを寝ている私はあっさり口にしてしまっただなんて、みってもなくて、目を伏せた。嫌な夢を見ているのは、事実だった。


「この頃、人を殺す夢を見るんです」
独り言のように零した小さな声は、たしかにシンには届いたらしい。ぴくり、と僅かに反応した。


「…それはどんな夢だ?俺に全て聞かせてくれ」


シンの低い声は一文字、一文字、大袈裟なまでに私の鼓膜を揺らす。


私は一度息を吸って吐いて、微睡みの入り口から遠ざかって、ゆっくり、口を開いた。


「私の手が血まみれなんです。シンを守るための眷属器も血でべとべとで。」
私がもう逃げないだろうと確信したのか、シンは腕の力を抜いた。


「目の前で人が倒れていて、周りには誰もいない。鉄臭い、私の手。」


眷属器を着けていない腕はす、と楽に持ち上がった。まっすぐに腕を伸ばして、手のひらを広げてみせる。そこに赤い紐がなくとも、そのかわりに細いアザが私の腕に巻きついている。眷属器をはずそうが、私の身体は一生汚れたままだった。


「ただひとつ、私は官服を着ているしクーフィーヤも着けています。今の私が見ず知らずの人を殺すんです。」


「ねぇ、シン。また私は、人を殺すのでしょうか」


そうか、とだけ言って、私の頭を、そっと撫でる。
まるで壊れ物を扱うようにやさしい手付き。決して女性のしなやかな手なんてものではなく、ごつごつと角張った大きな手なのに、酷く柔らかい。


昔からいつもシンは、過保護なまでにやさしく私を撫でた。壊れてしまうと心配しているのだろうか。私はあなたと同じくらい毒に強いし、一部ではあなたより遥か耐性がある。ちょっとの怪我では悲鳴をあげないし、悲しいことにだって慣れてる。人殺しだって、手慣れたものだ。


あなたが、シンが、一番知っているじゃないですか。だからジャーファルは、容易くは壊れないんですよ。強くできているんですよ。だからどうか、そんなやさしくしないでください、どうか、どうか。


「……っ、…ぅ…ぅっ」
「よしよし…」


まるで私が泣くのを待っていたように、シンは話し始める。
私は必死に声を抑えることしかできなかった。


「お前はもう暗殺者ではないだろう?俺の大事な大事なたったひとりのジャーファルだ。眷属であり部下でもあるが、言葉では表せない程にお前を愛してしまっている。親愛の意味でももちろん」


「お前が嫌がるこの傷も、この傷も、この傷も、小さな身体を張って生き抜いてきた立派な証だ。」


腕や足、服のなかまでシンは躊躇なく私の傷跡をなぞった。熟知されている。その事実が私を恥ずかしい気持ちにさせる。服のなかに触れたときはまさかふざけているのかと一瞬思ったが、声色はただひとつ、真剣だった。


壊れないと思っていたのに、壊れてしまったようにぼろぼろの目の縁から零れる涙は止まってくれない。気持ち悪いくらいに白い肌を、濡らしていく。
泣きたくなったら、俺に言いなさい。お前は泣くのが下手くそだからなぁ。
記憶の片隅で、シンがそう言って笑った。


「そうだな…きっと夢のなかのお前は、俺を守るために戦っているんだな。いや、そうに違いない、」


私は涙の流し方がわからなかった。
もう細かいことは覚えていないけれど、シンに教えてもらったはずなのに、今でも私はそれがうまくできない。泣いたとき、必ずシンがそばにいた。私は、シンがいないと泣けないようにできているのかもしれない。しょっぱい涙は、存在意義を知らないまま落ちて落ちて、ただただシーツの色を濃くしていく。頬に上塗りされてく涙の後をさすると人肌と溶け合ったように熱かった。


あれこれ言葉を紡ぎながら、その間に何回も大丈夫、と頭を撫でる手が愛おしい。なにが大丈夫なのか、根拠もないその言葉に不思議なほど私は安堵するのだ。


「だって、お前は俺が大好きだからな」
「…っ……っば、か」
きっと今俺は、嬉しい。嬉しくて、嬉しくて、今までの寂しさを埋めるように泣いている。


「シン、シン、私、あなたについて来られて本当によかった」
「あぁ、知ってる」


「シン、すき、すきですよ」


シンが少し照れ臭そうに背中で笑った気がした。腕を振り解いて久しぶりにシンの顔を見ると、なんとまぁ、シンも涙を流していた。あなたが泣くことなんてなにもないのに。シンの涙がとても綺麗で、泣いているシンがおかしくて、一緒に涙を流してくれたシンが愛おしくて。この溢れんばかりの幸せを噛みしめるように、ぎゅっと抱きついた。
今、世界中できっと、私が一番幸せだ、なんて自惚れながら。


「泣きたくなったら、俺に言いなさい。……お前は泣くのが下手くそだからなぁ。」


聞いたことのある言葉に、小さくわらった。


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