嗚呼、何故あなたはシンで、ジャーファルはジャーファルなのでしょうか。シンが月を眺めている横で、私はどうしようもできないことを嘆く。シンドバッド王は王の器を持つ人間であり、私はそれに並ぶものでは決してない。
こうして隣にいることがあなたに許されても、私は生涯私を許せないでしょう。


「今夜はいつになく月が綺麗だな」


かく言うシンドバッドも、水でかなり薄められているとはいえ酒が手元にあるせいか、いつになく上機嫌であった。ジャーファルもまるで単純なシンドバッドに呆れるしかない。
この時間になると王室からは見事に月が覗けて、曇りさえしなければ美しい月夜が部屋を照らしてくれる。シンドバッドがジャーファルを呼び出すとき、月が雲に隠れていることは一度としてなかった。それはシンドバッドによって仕組まれたのか、ただの偶然なのか。仕組まれたとすればどういう意図が込められているのか。ジャーファルには知る由もなく、また、知る必要も無いだろうと思っていた。シンドバッドがなにもかもを払拭してくれそうだと言うあの月光には、たしかに不思議と気持ちは落ち着かされた。けれども、どうやらジャーファルの胸中は照らしてくれないらしい。シンドバッドと一線を超えてから、ジャーファルの胸の内が完全に晴れることはなかった。


シンドバッドは残り少ないグラスをじっと見つめて、顔を上げた。無意識にずっとシンドバッドを見ていたジャーファルは目が合ったことに慌て、ひとつ咳払いする。


「なぁ、」
「駄目ですよ」


これからシンドバッドが口にするだろう言葉が手に取るようにわかったジャーファルは、すぐにその言葉を遮ってみせる。全く揺るがないその口調にシンドバッドは溜め息をついて、背もたれに身を預けた。シンドバッドの耳でゆらゆらと大きく揺れる金色の輪が、月光を借りて更に眩しく輝いている。


(……どうも、酒に依存している、全く)


この僅か一杯の酒は、溜まりすぎた書類を処理する間、禁酒を命じていたのが見事それを破ることなく3日間仕事に励んだご褒美として許したものだった。あのシンドバッドが酒を強請ることなく3日間仕事に励んだというのだから、宮中の皆は目を丸くしたといいものだ。これを境に酒の量を減らせたらとジャーファルは企てるが、あのシンドバッドのことである。どうせいつか姿を消して酔っ払いと化しているだろう。そこまで酒に関して信用がないシンドバッドもシンドバッドである。毎度毎度ジャーファルの気を滅入らせるのだ。今にもそんなことを考えてジャーファルはうんざりしていると、また名前を呼ばれた。


「なぁジャーファル」
「なんです、だからお酒はもう」
「違う、酒はもう諦めたと言った」
「言ってませんよ」
「では、今言った」


そう言い切るとシンドバッドは残りを一気に飲み干した。物足りない顔をして、息をひとつ吐く。シンドバッドのへらへらとした声色が一変した。


「ジャーファル、またお前くだらないことを考えているだろう」


ジャーファルは心臓が小さく波打ったのがわかった。 直視するのに眩しいほどの月光と複雑に絡み合うお香の匂いに包まれる静かな空間で、幸せと不安エトセトラは尚ジャーファルのなかに安住を続けて、それでも時間は平然と進んでいく。やたら長く感じた沈黙を裂いたのはギシリと椅子が軋む音。ジャーファルが気付いたときにはもう手遅れだった。ジャーファルの足元が陰った。


「ジャーファル、」
「…なんのことでしょう」
「惚けるな、何年一緒にいると思っている」


顔をあげると、たちまち強い口調と真剣な眼差しでジャーファルは捕らわれる。こうなるといくら凝らした言葉を並べても、逃れられない。


「逃げるのか」
「…なにを仰る。このジャーファル、何年あなたにお供していると思ってるんです」


それを知って、ジャーファルはせめてでもとシンドバッドと似たような台詞を吐いみせた。確信犯であるジャーファルに、シンドバッドはそうだなとただ頷くだけ。


「…お前は嘘が上手い、当然のようにしらを切る。だが俺は騙されないぞ」
「知ってる、知ってますとも」


ジャーファルは目を軽く瞑って首を横に振る。なんだって、この人から逃げられないのはジャーファルが一番わかっているのだ。


「…水をやりすぎた植物は萎えてしまいます、わかるでしょう」
「…何が言いたい」
シンドバッドは眉を寄せて問うた。


「私はあなたに感情を授かりました。あなたになにからなにまで、いただいたのです。全てです」


ジャーファルの目は一直線にシンドバッドを射抜いていた。逸らす訳にはいかない。そんな気がしたのだ。


(まるで…今宵の夜空のようだ)


ぼうっとシンドバッドを見つめていると、ジャーファルはそんな余念を過ぎらせた。そんな余裕どこから来るのか、惚れた弱味というのは困りものだ。 ゆっくりと、ジャーファルは続けた。


「あなたから抱えきれないほど愛をたくさんいただいた。…私はもう抱えきれなくなってしまいますよ、シン」


ジャーファルが夜空に例えたヴァイオレットが僅かに揺れた。無表情のつもりが、そこに映るのは眉を下げて切ない表情をするジャーファル自身。ジャーファルはどうしようもなく情けなくなった。


「どうか私を枯らさないで。私はあなたのそばで生涯従事し、あなたを見ていたい。支えたいのです。」
「……捉え方によっては、プロポーズのようだが」
「いいえ、むしろ逆でしょうね」


シンドバッドはわからない、と言うように頭を掻いて、溜め息を漏らした。何を思ってか、そっとジャーファルをベッドに押し倒す。いつか聞いたギシリというスプリング音が響いた。


「…シン?やめてください」
小さい拒否がジャーファルの口から零れた。


「さっきはあれほど愛し合ったじゃないか」
「シン!私の話を聞いていましたか」
「もちろんだ、ジャーファル」


(…ああ本当にこの人は)


あんたに授かったこの名前を呼ばれるだけで、小さくて小さくて、形もあやふやな幸せな感情が生まれる。そんな自分が気持ち悪い。物心つく頃、あなたに拾われたのです、親みたいなものでしょう。だからなにもかも気付かないフリをしていたのに、それをあんたはアッサリと破壊する。清々しいまでにぶち壊してくれた。こんなのはいけないとわかっているけど、もっともっとと、我が儘になってしまう。もうこんな自分を見ていられない。身分も国も性別もなにもかもを重々承知していながら、あんたへ溢れるこの気持ちはどうしたらいい。これもきっとシンにいただいたのでしょうね。


シンドバッド王よ、私は政務官であり、男であり、そしてあなた様は一国の王なのです。何故わかってくれない。本当にあなたは酷い人だ。


喉まで溢れた言葉全てを飲み込むように、ジャーファルは唾を飲み込んだ。それで気持ちが楽になるはずはなく、ジャーファルの心臓はきゅうきゅうと締められる。


「何を言っても、無駄なのだろうな」
「……」
「だが、言っておく。俺はお前を逃すつもりなんてない。」


ジャーファルは一瞬目を見開いたシンドバッドはいつもジャーファルが言葉を失う屁理屈を並べるものだから、ジャーファルは冷静を装いつつ内心困り果てるしかない。本当に酷くて、ずるい人なのだ。
ジャーファルは形にならない反抗の言葉をふっと沈めて、静かに口を開いた。


「だから、…シン、私はもう十分なのです。私はあなたにもらったものをどうしても捨てられない」
「…どうして本音を隠すんだ…。お前は俺が好きだ、親愛でもなく敬愛でもない。違うか?」
「っ…シン、やめて、やめてください」


ジャーファルは初めてシンドバッドから目を逸らした。シンドバッドはそれを許さずに、無理に唇を奪う。「っ」ジャーファルは驚いて目を剥いた。ぎゅっと固く目を瞑って、手のひらでシンドバッドの胸を押すがビクともしない。ジャーファルの力が出なければ、シンドバッドは離す気もない。一体、ジャーファルの手のひらには何割の力が働いているのか。ジャーファルはこの王を突き放せないのだ。ジャーファルの手が届く場所にある金属器でシンドバッドに刃向かっても、シンドバッドは全く避けもしない。そんなシンドバッドを想像しては、愛しく思えてしまうのだろう。


シンドバッドはジャーファルを悟って、悲しく思う。思い詰めてるジャーファルを、救いたいと思う。だが、ジャーファルをそうさせているのはシンドバッド本人だ。


「っし、…っ、ん、」
「…、もう一回」
「ちょ、っむり…っ」


シンドバッドはあろうことか長い口付けから間もなく、また唇をジャーファルに重ねた。ジャーファルの思考がぼやける。何も考えられなくなる。尚も、ジャーファルは懊悩を繰り返していた。


私はシンドバッド王にこんなにも愛されている。余分なまでの愛をくださる。私が官女であったら、どこかの国の姫君だったらどんなによかったことか。何故私を自信満々に、誇らしげに愛すのか。わからない。「っ、ん、……っ」わからないんですよ、私は。


「……っ、…っ」
「そんな物欲しげな顔をしてくれるな…無意識なのはたちが悪いよ、まったく」


シンドバッドは唇を離すと、腕の力を抜いてジャーファルな抱きついた。していませんよと小さく零したジャーファルはまたもや驚かされる。


「シン、ものすごく、重いです」
ジャーファルがそう言うと嬉しそうに笑うシンドバッドが、やはり愛しい。


「…ジャーファル、何故あの日、俺を拒まなかった」


不意に耳に流れたそれは哀愁を帯びた声色だった。ジャーファルが懊悩するように、シンドバッドも傷ついていたりいなかったり。無理をするジャーファルを見て、胸が苦しくなっていたり。それを見るジャーファルは、また胸を苦しくしてみたり。所謂悪循環だった。


「あなたが望むのならば抱かれてもみせますよ」


さっきのシンドバッドの言葉を思い出して、私の嘘が見抜けるのでしょう、ジャーファルはそんなことを心で呟いた。何か言いたげなシンドバッドの唇をなぞるジャーファルは、どこか悲しい目をしている。


(ジャーファル、ジャーファル、そんな泣きそうな顔しないでくれ)


やはり悪循環だった。


性急に身体を繋げてみたけれど、肝心なものはどこかに置いてきてしまったらしい。長い間共にいてジャーファルのことをなにもかも知ってる気になっていた。現に、ジャーファルを一番知るのは俺だろう。ただ今になって大事なことはなにひとつリンクできていないことに気付いた。


もどかしい関係はジャーファルの服従で成されているのだろうか、それこシンドバッドはダウトだと唱える。否、唱えたい。ジャーファルが王の命令だと言ってすんなり許す訳がないのだ。そんな、あまりに悲しくて不謹慎なこと。なのにこの様だ。シンドバッドは考える。懊悩を繰り返すジャーファルにしてやれることはなんだろう。この関係を断ち切ればよいのか。そんなことも頭を過ぎった。けれど一度形だけでも手に入れたジャーファルを離せそうにない自分がいる。
王という身分のせいで俺は我が儘になってしまったのかもしれない。けれどこの場に及んでジャーファルを手放したくない。これだけは自身を持って言える真意だった。


「シン、シン様、もう」
「…ジャーファル、すきだ」
「…っ、」


人生のうちどれくらいの間、なにも悩みのないまっさらな青空のような気持ちでいられるだろうか。きっとそれは極々僅かなのだろう。どんな大きな幸せがあっても、片隅や少し先には不幸がちょこんと座っていたりする。ああ、悲しいかな。悲しいけれど、これが運命というものだろう。だが不幸と隣り合わせであると同時に、幸せがいつも隣で笑っていることを忘れてはいけない。


屁理屈かもしれない。どんな困難があろうと、ジャーファルのどこまでもお供しますという声ひとつでシンドバッドは幸せに思えた。一国の王であれども、人並みに感じる幸せは些細なものだ。


こんな関係お互い惨めで苦しくて仕方ない。その悩みを抱えたままでいいから、早く俺のものになってくれ。幸せな世界の断片にある悩みまで俺でいっぱいなんて、なかなか悪くない。


シンドバッドはやさしくジャーファルの頭を撫でた。ジャーファルの顔は見えない。同様ジャーファルからシンドバッドの顔も見えない。それでもたしかにシンドバッドは、鼻を啜る小さな音と、小さな小さなクスリという微笑みを聞いた。


全く、ジャーファルも俺も案外嘘つきなやつだ。


さみしいね、ってうすくひかる星々が雨のにおいに似て切ない/花洩


初シンジャ自己満お腹いっぱいいっぱい
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