ここはたくさんの人に守られていて、きっととても安全で、ご飯も美味しくて、暖かいひとがたくさんいる。なのに、落ち着かないのは何故だろう。足はしっかりと固い地面についているはずなのに、いつだって足元がふわふわと浮かんでいる感覚。


誰かに、シンドバッド王に、守られている。アラジンに言われてそのことに気付くだなんて、本当に俺は馬鹿でちっぽけで、変わらないなと思った。いや、無意識に目をそらしていたのかもしれない。どっちにしろ、情けなくて仕方ない。


月光が雑草を照らして、はじけるように光っている。いつもはろくに目をやらない、絵の具ひとつで表せそうな明るい黄緑が今はとても美しく見えた。


「…アリババくん?こんな時間にどうしたんですか」
「ジャーファルさん、」


少し首を回すと、ジャーファルさんと目が合った。柔らかい灯りが手のひらからぶら下がっている。歩いてきた方向からして、白羊塔に居たのだろう。俺は慌てて、あぁっ、えっと、はいっちょっと、あはは!なんて下手くそな言葉を並べた。ひとつも質問の回答を成していない。ジャーファルさんはくすりと小さく笑って、「寝れないんだね」からかう訳でもなく、やさしくそう言った。


「…えっと、少し考え事してて」


苦笑混じりにそう言うと、ふっと橙色の淡い灯りが消えた。ジャーファルさんを見ると、僅かに弧を描いている口元にランプがある。暖かい灯りはどこにもなくて、ただ煙だけが出ていた。


「隣、いいですか?」
「あ、はい」


かた、静かにランプを置く。そしてまたジャーファルさんの手のひらは袖のなかに消えてった。


寝れないのなら、少し話をしましょうか。ジャーファルさんの薄い唇が、また僅かに弧を描いた。


「…今日も残業ですか?」
話題を探す訳でもなく、俺は小さく頷いてからたずねた。話によれば、ジャーファルさんは仕事が趣味のような人らしく、そりゃあ毎晩毎晩残業ばかりだと言う。なるほど、頷ける。おかげでジャーファルさんの目元にはうっすらと隅が安住していた。


「ええ、シンが近場…ではないですね、少し遠いところに出掛けた際、また大層迷惑なお土産を持ち帰って来まして」


ジャーファルさんは心底呆れたように、けれども少し楽しそうに話した。


「また、ですか?」
「あの人、本当に自由で…以前は難民を300人程連れて帰ってきたことがあったんですよ」
「さ、さんびゃくにん!?」


さすがに絶句した。同時に本当にあの王様はお人好しで器が大きいと、またひとつ改めて思わされた。きっと、いやいや、間違いなく、あの人こそ王の器の象徴だ。彼に厚い信頼を寄せるのがわかる。俺だってそうだ。


前だったら、妬んで、悲しんで、投げ出したくなっていたけれど、今の俺は違う。耳にすす、と指の腹を滑らせる。耳朶にぶら下がる俺のものとは違う、黒い、それ。俺は、変われたはずだ。


(なぁ……そうだろ?)


ぎゅっと、拳を握り締める。未だ俺はこいつを思い浮かべると、うまく笑えない。俺は俺の葛藤に夢中で、ジャーファルさんが俺を見ていたことに気付きはしなかった。


「シンは、アリババくんが思うより、欠点がありますよ」


ぎょっとした。心を見透かされたのかと、思わず自身の胸を手で隠すようにして覆った。


「本当に女ったらしで、酒癖はとことん悪い」


袖からすらりと白い手のひらが顔を出して、人差し指をぴんと背筋を伸ばした。ジャーファルさんは思い出すように、あのときだとか、この間も…と指示語を乱用した。


「そ、そうなんですか…?」俺はいまいち信じられずに尋ねる。
「見たでしょう?祭りのときのシンを」


あんまり記憶にないのは、はしゃぎすぎていたからなのか。でも記憶の狭間に垣間見るシンドバッドさんの酔っ払った姿は、今思えば心なしかとてもだらしなかった気がする。俺も酒が入っていたし、言われてみればそんな気がする、だけだけれども。
深く溜め息を吐くジャーファルさんに俺はお疲れ様です、と失笑した。


「まあ、偉大で強いお方であることには変わらないのですが、酒癖、女癖、この二点については改めてほしいですね」
「さけ、と、おんな、」
「それに、」
「……?」


…それに、ずるい人ですよ。


風に攫われてしまいそうな小さな声は確かにそう言っていた。愛情やら哀情だかを含んでいるように、どこか切ない声色。きっと俺には踏み入ることのできない、計り知れない、箱庭が在るのだろう。アラジンにモルジアナ、白龍や紅玉も、きっと師匠なんかも、みんなみんな、誰しも。それを全て分かち合える日は来るのだろうか。分かち合うべきなのだろうか。それらを受け止められる大きなひとに、俺はなれるだろうか。返事のおとずれない自問自答に、俺は泣きたくなった。


大鐘が、鳴り響いている。深夜0時を告げていた。 しばらく風の音だけが鼓膜をほんの少しつっついて、またジャーファルさんの落ち着いていて、高くも低くもないアルトがするりと内耳を滑ってきた。


「…シンドバッド王に、夢を失いましたか?」
「いいえ、不思議と、全く」
「……そうですか」柔らかい笑顔だった。


「君は、シンのようにはならなくていいんですよ」


その声がやさしくて、たくさんのものが伝わるには充分すぎて、また泣きたくなる。


王になるな。強くなるな。信頼されるな。女たらしになるな。どれでもない。そのジャーファルさんの言葉は、ずっしりと胸に沈んでいった。


「ああ、シンの話なんかどうでもいいんですよ。なんの話を、」
「ジャーファルさん、俺、もっと聞きたいです!」
「…え?…シンの話を?」


ジャーファルさんは怪訝な表情を浮かべる。しまった、と言ってから気付く。頭に僅かな後悔の念が過ぎった。


「あ、すみませ、ジャーファルさん疲れてんのに、」


俺は咄嗟に立ち上がり、手をずい、と前に出してシェイク、シェイク。自分から言っておいて、NOのジェスチャーを無意識にした。


「何を謝ってるんです。全然いいですよ、」
「…!」


表情はよく見えなかった。あの、と俺は言いかける。ジャーファルさんは構わず続けた。


「ただ、ここは少し冷えますね。あなたが体を壊しては困ります。」


あなたが、と特定してしまうところがなんだかジャーファルさんらしい、勝手にそう感じた。


「アリババくんは布団で横になってください」
「あ、あぁ、えーっと…?」
「寝れるまで、私がそばでシンの千夜一夜を少しばかりお話し致しましょう」


ピアスひとつすら揺れないような、弱い風が頬を撫でる。


どんな心境にあっても、この小さな島に吹く風は優しい。これからもそうであってほしいと思う。少なくとも、あの人が国を治める限り、きっと穏やかな風は吹き続けるだろう。


「さぁ、アリババくん」
「そんな!悪いですよ!」
「ええ、ええ。むしろ私もなかなか眠くならないので、こちらからお願いします」
「…いいんですか、」
「君、なかなか往生際悪いね」
「おっ、おうじょう…」


絶対嘘だ。なのに矛盾して全く疑う心がないのは、この人が嘘をつくのが上手いからなのか。今はどうでもよかった。


「じゃ、じゃあ、お願いします!」


耳の縁に、する、と指先を滑らせる。ピアスはきんと冷えて冷たい。はずなのに。何故か指先がじわりと熱くなって、不思議と簡単に笑っていた。


金色のあひるの子/花洩
20121221


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