とりあえず、わけのわからない抜き打ちテストでもきちんと本題に繋がるものであったことに胸を撫で下ろす。
「――化粧品のCM?」
 社長室に入ってすぐ、彼は二つ話があると言ったうちの一つ目を口にした。しかしそれはあまりに唐突で且つ正直予想していなかった範疇であり、ソファーには腰を落ち着けず奥の両袖机を挟んで社長と向かい合う。気になる詳細を黙って待つものの、当の本人は机上に積まれたファイルやプリントをがさごそと漁っていた。
「ああ……確かこのあたりに書類が……」
「……社長整理しなよ」
 掃除が苦手な自分が言えることではないけれど、それでもこの机だけを見ればなかなか酷い有様だ。俺の家の方が綺麗な自信がある。とは言え、一応契約を交わしている会社のトップの机に気安くは手を出せないし、小言を呟くだけに留めておいた。……その間にもついに書類が床に落ちてしまっているが。
「あ、すまない。拾ってくれないか」
 社長が立っている方とは反対側、つまり俺の足元にばさばさと落ちてきた数十枚の紙にしゃがんで手を伸ばす。
「ファイリングしないんスか?」
「してる暇がないんだよ」
「俺手伝うっスよ」
「お前は僕の秘書でも雑用係でもないだろう」
「……社長って秘書いんの?」
 はたと思い至ったことを目線だけ上げて尋ねた。そういえば知らない。帝光出版ほど大手ともなればあって当然と言えるような役職だが、もちろん仕える対象が必要を感じないなら設置しないポストでもある。手を止めて返事を身構えた分、「いないよ」とあっさり返されたことに拍子抜けした気分だった。
「いらないから?」
「まぁそうだが……秘書というのは二種類あるんだ。一般職以下の扱いを受けるただの雑用か、もしくは管理職クラスが抱えている問題や機密情報も共有する重要な人物だ。前者はお前の言う通り必要としていないし、後者に至っては余程信頼している人間でないと到底傍には置けない」
 つまりそれくらい絶対的な信頼関係を持った相手が存在しないか、もしくは社長自身、そこまで他人に踏み込まれることを嫌っているのだろう。無意識下だとしても。
 一方で内心ほっとしていることは否めなかった。散らばったプリントを数枚ずつ重ねながら黙りこくっている俺に違和感を覚えたのか、どうした? と聞かれる。
「……いやーなんか、もしセクシーなお姉さんが秘書だったら手出しててもおかしくないなって」
「僕が? 心外だな。というかドラマの見すぎだ」
「それが意外とあるもんなんスよ」
「なんだ、オフィスクオーターの社長か部長あたりが左手の薬指に指輪をつけているくせに事務所の秘書と親密な関係にあったか?」
「…………」
「……まさか図星とはな……」
 随分前に目撃したあれはなかなかショッキングな映像だったので忘れられない。別に他人の色恋沙汰など大して興味もないし、咎めるようなつもりはなかった。が、上司の不倫現場なんて見つけていい気はしないだろう。本気で言ったわけではなかったらしい社長もこちらの反応に目を丸くしている。
 しかしわかりやすくテンションの落ちた自分を気遣って、あまり気にするなよ、と声を掛けられたことは明白だった。
「上の痴情で部下が動いていいのは公私混同にした時だけだ。その時は構わず移籍しろ。馬鹿な経営者についていく必要はない」
 容赦のない正論を肝に銘じつつ、今の発言で脳裏に思い浮かんだ感想をなんとなしに口にする。「社長って浮気許さないタイプでしょ」言外にそう仄めかされた気がしたのだ。
「黄瀬は?」
「俺もだけど」
「それなら利害は一致しているよ」
 人差し指を立てておどけられた言葉に肩を竦めて笑い返した。怖い怖い、覚えておこう。
――そんなことを思っていた瞬間だ。
「床に落ちた書類はこれだけか」
「あ、待ってあと二枚……」
 不意打ちだった。社長の位置からでは死角となって見えないところに落ちていた最後の書類に手を伸ばし、偶然、本当に偶然、目に入ってしまったのだ。
 拾っている間も企業内の情報を盗み見るのは良くないと思い、あまり内容を視界に入れないように気を付けていた。が、表向きで落ちていたのだから仕方がない。ホチキス止めされていない一枚のプリントに書かれたそれを見受け、一瞬で手も思考も止まった。
(……え、)
 見間違いではないはず。
「――黄瀬?」
「あっ、ごめん、はい」
 眉間に皺を寄せて書面を凝視したものの頭上から声を掛けられて我に返る。咄嗟に二枚とも拾い上げて社長に渡したが、問題の文書を下に入れて重ねたのは反射的だった。
 今のは、一体――停止した思考回路が再開するなりぐるぐると憶測を巡らせてしまうが、それも目当ての書類を見つけたらしい社長によって中断される。現段階での詳細だ、と差し出された別の文書の見出しには覚えのある名称が並んでいた。
「――『Seyfert Ringer』新作化粧品のコマーシャル制作……『TiPOFF』とコラボ!?」
 端から読み上げ、思わず声を大きくしてしまうのも無理はない。文字を読むには暗いと思ったのか、ずっと閉めていたブラインドを操作しながら社長は相槌を打った。途端、この一室に日光が差し込んでくる。
 文面から視線を外して顔を上げ、考えるよりも先に口が動いていた。
「セイファート・リンガーって二、三年前にいきなり人気出てきたブランドっスよね」
「その通り。セイリンの愛称で親しまれて今こそ隆盛を極めているところだよ。レディース商品を中心としているから黄瀬とは直接的な縁がなかったかもしれないが……何せメディア展開が上手い、知らない奴はいないだろうな」
 スーツのポケットに両手を入れて突っ立っていた社長がプレジデントチェアを引いて腰を下ろす。座るなり足を組む癖はいつもの如くだ。
 書面に記された詳細と言えば先の見出しがほぼ全てを物語っているようなものであり、セイリンブランドがファッション雑誌『TiPOFF』の専属モデルとコラボして化粧品のCMを作りたい、という。表向きは共同制作だが要するに俺や他の七人のモデルを起用させてくれと『TiPOFF』主宰の彼に言ってきたのだろう。加えて撮影には雑誌で使われた衣装を、と条件にあった為、デザイナーの了承も必要なのかもしれない。
 提案としては全く不思議のないものだ。業界において注目を集めているエンタープライズ同士が結びつくことは決して悪い話ではない。寧ろそれで双方の業績が伸びるなら多少のデメリットが生まれようとも賭けた分だけの価値はあるだろうと思うが――今の時点で俺の頭にはいくつかの疑問が浮上した。
「セイリンってコスメ展開してたっけ?」
 まずはこれである。服飾や時計、アクセサリーなどの宝飾品は見たことがある、が。
 黙って首を横に振り、浅く溜息を吐き出した社長が何を言いたいのかなんて火を見るよりも明らかだった。
「これが初めてだよ。元々リスクを背負って幅広く開発を試みる傾向にはあったけれど、化粧品には手を出していなかった。香水も同様に」
 あくまで衣服や装身具に留まっていた期待の新星ブランドが、更に活動を伸展させようとしている。
「黄瀬、服やアクセサリーに対して化粧品と香水は何が違うかわかるか?」
「……肌に直接影響を及ぼすもの?」
「そう。端的に言って化粧品を開発するには薬事法が絡んでくるからそれなりの過程が必要だ。原宿で店を開いてたまたまヒットしたものをそのまま売り飛ばせる服とは違ってな」
 完成品が無害とは言い切れない、と説明されるけれど、恐らくこの人が気に掛けている根本的な問題はそこではない。コマーシャル制作の案まで持っていけたなら当然法律上のラインなんてクリアしているに決まっている。ただ今まで避けていたプロセスを乗り越えた、それ自体が重要なのだ。
 このブランドは近いうちに方針を変えようとしている。つまり代表が変わったのかと尋ねれば、察しが良くて何より、と少し険しい表情で返された。
「セイリンは年明けにファッションディレクターの後継者が現れた。書類の一番下にサインがあるだろう」
 彼の言葉を受けて手に持った用紙の最下部に視線を落とすと、丁寧な文字で印と共にしたためられた名前。
「相田、リコ……」
 目にしたままを声に出す。同時に、座ったままくるりと椅子を翻した社長は俺に背を向けて話を続けた。彼女が今のセイリンの代表であり、数ある障害を押し切ってコスメ展開を実現させつつあること。近々フレグランスにも手を出すだろうということ。数年前にメディアを利用して宣伝活動に専念した結果注目を浴びるようになったのは、ひとえに当時マーケティング本部のチーフを務めた相田リコの助力があったから、らしいこと。更になんということか歳は自分達の一つ上であり――そして。
「そして僕と彼女は驚くほど反りが合わない」
 えっ。
「……マジすか?」
「ああマジだ」
「だからさっきからちょっと不機嫌なんスね……」
 案外わかりやすい態度に苦笑を交えて小さく呟く。社長がセイリンからの依頼を快く受け入れる気配のない理由の一つを知った気がしたが、問題点は他にもあるはずだ。
「でも『TiPOFF』だってまだ創刊号発売したばっかりっスよ?」
「それは別に問題じゃない」
「お、おう……」
 コンマ二秒で解消された。半ば意地なのではと勘違いしそうな即答ぶりに、しかしそうではないのだと思い直す。この人が自社の判断でミスすることはまずないし、俺に話を持ち掛けた時点で企画を進める方向でいるのだろう。いくら相手方の代表と馬が合わないとは言えこんな好機を逃すわけがない。
「企画の第一弾として、コマーシャルの初シリーズにはお前をご所望だ。ものはアイシャドウ」
 回転式の椅子を反転させ、再び自分と向き合う形でそう告げた彼の右手には小さなアイシャドウ用のチップが握られていた。どこから出したのかと驚いたが、テスト中にそれだけ抜き取って持っていたのかもしれない。先端が紅色に染まったアイシャドウを俺に向けて伸ばし、視界には逆光により暗くなった彼の表情とその柄が重なる。
 お前にできるか、と触発するような笑みに一瞬怯んだことは否めない。しかしここで逃げ腰になればあとで後悔するのも目に見えていた為、豪語しようと口を開く寸前だった。ガタンと立ち上がって机に両手を付き、こちらの顔を覗き込んでくる社長の眼力に息を呑む。
「言われなくても――という目付きだな。やる気は認めるがちゃんと資料を読んだか? このCMに黄瀬以外の出演者は一人も予定していない。つまりお前が実際に塗られて宣伝するんだ」
 レディース向けの化粧品を。
 心臓に悪い近距離でこの依頼の本性を明かされ、眉を寄せて言葉を失った。ちょっと待て、理解が追い付かない。
「は……? セ……セイリンはメトロセクシャルでも狙ってるんスか」
「だと思うか?」
「……思わせて」
 頬を引き攣らせ苦し紛れの願望を口にするのが精一杯だ。それでも彼の両眼は揺るがなかった。
(本気なのか……?)
 十代、二十代の女性層をターゲットにしてきたブランドがいきなり男を視野に入れるとは考え難いが、例えば俺が誰か女性にアイシャドウを塗るようなコマーシャルだとしたらメンズモデルの起用も理解できる。事実そうだと思っていた。しかし今の話を鵜呑みにするなら施されるのは自分であり、『女性が買いたくなる化粧品』の宣伝を何故か歴とした男である俺に要求されていることに他ならない。
 上手く使えば男女の壁も構わず魅せられるアイシャドウ。しかし過去に撮影で使った時も衣装の雰囲気に顔を馴染ませる程度であり、さすがに女らしさを求めて塗った経験は一度もない。整ったパーツに自負心を抱いていると言っても輪郭や顔立ちは男そのものだ。それを無視してテレビに映そうだなんてはっきり言って、いや単純に考えて。
「無茶っスよ!」
 眼差しの強さに気圧されて僅かに身を引きながらも意志を訴えるが、社長は眉一つ動かさないどころか何がおかしいのやら笑っている。俺の返答は予想の範囲内なのだろう。
「そうか? メンズモデルが化粧品のコマーシャルを担うケースは今までにないわけではない」
 などと寝言を言いながら机の横を回って隣に並ぶ彼に抗議した。
「でもそれはスキンケアとかヘアケアの商品で……、少なくとも女性用のメイクアップ用品を男が宣伝するなんて聞いたことない」
「過去に例がないと途端に及び腰だな」
「もし失敗したらコラボなんて名目上『TiPOFF』の売上にも関わってくるから言ってるんスよ!?」
「そんなことは当然だ。失敗しなければいい話じゃないか」
「だからそれが無茶だって……!」
 噛み合わない二人の意見で正しいのは確実に自分の方だというのに、あまりに自信満々に発言を覆してくる社長の態度についムキになってしまう。冷静になれ、と肩に右手を置いて和められ、目を瞑って長く息を吐き出した。らしくない。どうして過敏な反応を示しているのか、企画の中身以外にも、この人にはもうきっと筒抜けだ。
「……黄瀬。とりあえず今は、コラボ内容については置いておこう。詳細を読んであとからじっくり考えればいい。それよりも僕がお前に聞きたいことは別にある」
 いつかは触れられるだろうと思っていた一言に少し視線が下がった。
「お前は今までにテレビ出演はおろか、CM出演もしたことがない。そうだな?」
 コマーシャル制作の文字を見た瞬間からあらゆる予感が頭を占めていたのだ。世間から集める人気とは不相応だと密かに囁かれてきた。オファーがなかったわけではないはずなのに、いつまで頑なに断って紙面から出てこない芸能人でいるのだと。この人だってそれを問い質したいに違いないのだから。
「――社長の言う通りっス」
 なら下手に誤魔化すのは、やめだ。
「過去に出ようと思ったことは」
「一度も」
「本当に?」
「……わかってるでしょ? 俺の仕事は全部、桃っちが管理してる」
 オファーを処理するのは必ず本人ではなくマネージャーであり、それは最早事務所のマナーと言っても過言ではなかった。けれども日頃“桃井さつきが操作している部分”を抜くことにより、彼が今、俺自身の意思決定を求めているのは明らかだ。
「……彼女を呼ばなくて正解だったな」
 独り言にしては随分当て付けがましい言い草だと胸中で笑う。
「桃井は必要以上にお前の仕事をセーブする傾向にある。お前達の間で一体どういった取り決めが成されているのかは知らないが……もうそろそろ、限界だと思わないか」
 モデル職を始めて八年。『TiPOFF』創刊号の表紙が絶大な効果を発揮し、ここにきて更なる注目を得て、どんな仕事であろうとむやみやたらと制限すべきではないと言われていた。しかし躍起になって一度でもこの仕事を引き受けようと食い付いた自分の甘さを今更思い知る。これでは桃っちと俺の間で趣意に相違があることを晒したも同然、社長が今日、俺だけを呼び出した本当の狙いにまんまと嵌まっていたのだから。
「愛想良く笑う紙面上の黄瀬涼太は、みんな見飽きた頃だよ」
 心を揺さぶる呼び声に、生ぬるく守られた足場が崩されていくようだった。
 火を付けられて、殻を割って。
「――挑戦しろ。新しい世界に」
 安穏とした静止画はそのうちに燃やされるのだろう。



2014.02.16
「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -