相変わらず閑静な廊下をすたすたと歩いていく社長の横に並び、ねえ、と尋ねた。
「これでテストは終わりっスか?」
 社長室は四十三階の端に存在し、向かっている場所は正反対の方角に位置するらしい。一直線の廊下を突っ切りながら、こちらの問いかけには首を横に振られる。まだあるのか。
「次が本当に最後の問題、そして一番重要だ。言っておくが問二まではお遊びだよ」
「え、俺すげえ真剣だったんスけど」
「それは何より」
 もしかして問二あたりはマジで棄権してもよかったのか。愉快そうに口角を上げている横顔を目にし、この人の思考回路はつくづく読めないと実感する。唇に真っ赤なグロスを塗っているせいか色白な肌とのコントラストがいつにもまして妖艶に見え、人知れず視線を逸らした。
――最終問題、と歩みを止めることなく切り出されて身構える。が、そこで二の句を継ぐより先に何故かぴたりと立ち止まった相手の方を振り向けば、目を見張って動揺しているようだった。「社長? どうしたんスか」と、言葉尻はもう一方の声音に掻き消されていただろう。
「何をしているのだよ」
「おわっ!?」
 び、びっくりした。声のした前方に向き直れば、階段から上ってきたらしい緑間くんがいつの間にか自分の目の前に。もうその口調にもいい加減慣れてきたことが恐ろしい。
「赤司?」
 ……なるほど廊下で誰かに会ったら、ってこういうこと。何も喋ろうとしない社長は緑間くんから身を隠すように、素早く俺の後ろに回って背中に張り付いている。さすがに女性用の派手なグロスを使用した姿なんて社員に見られるわけにはいかないようだ。社長の行動を不審がって背後を覗き込もうとする緑間くんに対し、ぎゅうう、と俺のジャケットを握って縮こまっている二人の間に挟まれている自分はなんだ、盾か。
「あ、あのー……なんか社長、今は人前に出られないみたいで」
 ははは、と乾いた笑いを零しながらなんとか誤魔化そうとするが、相手はこんな適当な言い訳で納得するような人間ではない。案の定、眉根を寄せて問い質された。疑う標的を社長から自分に変更して。
「お前が何かやったんじゃないのか」
「えっと……」
 いやまぁそうなんですけどね。俺が勝手にグロス塗ったんですけどね。痛い痛い社長謝るから背中つねらないで。
「と、とりあえず俺が用件聞くっスよ」
 前からの精神的な威圧感と後ろからの物理的な攻撃に耐えつつ、この場を切り抜けようと苦し紛れに笑う。するとただでさえ俺のことを気に入っていない緑間くんは相変わらず不機嫌極まりない顰め面だが、理由はどうあれ意地でも顔を見せようとしない社長の強情さは理解しているのだろう。観念したのか小さく溜息をついて本題を口にした。
「赤司に昼食をどうするのか聞きに来た。まだ食べていないだろう、注文があるなら出前を取るのだよ」
 自分を壁にしていても声は届くはずだ。ちらりと肩越しに背後を見ると、気まずそうに下を向いている赤い頭がふるふると左右に揺れる。
(……食べないのかよ)
 と、俺は一瞬目を見開くものの、「いらないの?」なんて小さく確認を取っても顔は上げずに頷かれてしまえば伝言役である以上そのまま伝えるしかない。
「昼飯いらないって」
「赤司……食事を抜くと午後が持たないぞ。今日は会食があるわけでもないはずだ」
 こちらの返答を聞くなり心底困ったように額を右手で押さえてそう諭している。心配性な親のようだと感じつつもその言葉には同意だ。食が細いイメージはなかったのだが、緑間くんから受ける印象では今までにも何度かこういう経験があるのではないだろうか。社長はモデルでもなければ己の体型を特段気にするような人でもなく、寧ろ仕事の為に食生活のバランスには気を付けている、と以前自ら話していたのに。
「大丈夫だ」
 漸く物を言ったかと思えば、理屈も何も見られない気丈な一言のみだった。俺の背後に隠れたまま、それ以外の選択肢は受け付けないとでも言うように。
 姿は現さずとも彼の返事を直に聞いた緑間くんはわかったと静かに返す。とても受け入れた表情には見えなかったが、その瞬間、後ろではほっとしたのかジャケットを掴んでいた力が緩められたことも自分にしかわからない仕草だった。用件を済ませた社員は踵を返して階段を下りようとする直前、一度こちらに振り向いて口を開く。
「人前に出たくないのなら電話くらい繋ぐのだよ、赤司。……多忙な芸能人との貴重な逢瀬を邪魔するのは俺も気が引ける」
 あはは、逢瀬?
「緑間くんってそういう冗談言えるんスねえ」
 嫌味ったらしく告げる様子に肩を竦めて笑い返した。社長の名を呼んでいたって最後のは明らかに俺に宛てた敵意であり、はいはい大事な彼の時間を奪う迷惑な芸能人でゴメンナサイと内心舌を出す。が、それに対する返事はなく階下へと姿を消した緑間くんを余所に、やっと隣に出てきた彼は素で疑問に思ったようだった。「真太郎は何を言ってるんだ?」と。この人は変なところで鈍い。ね、ほんと、なに言ってんだろうね。そう返す俺の口振りが自嘲気味だったとは認めないことにしよう。
「それより社長、食欲ないんスか?」
 気を取り直して話を変えるものの、あまり掘り返してほしくない部分だったのか少し居た堪れなさそうに目を逸らされてしまった。やはりこういった事態は今日だけの話ではないようだ。
「お腹すいてなくてもなんか口に入れた方がいいっスよ。頭の回転鈍くなるし、疲れてるなら尚更」
 まさか日頃から寝ない食べないのコンボではないだろう。あんまり心配させないでくれという気持ちで助言するが、緑間くんに諭され俺にまでお節介を焼かれ、うんざりとでも言いたげに瞼を伏せられた。
「食欲がなくなることは滅多にないよ」
「……ならいいけどさ」
「真太郎は大袈裟なんだ。今日は、……いや、」
 何かを口にしかけてなんでもないと言い直した態度が引っ掛かり、社長、と続きを促すように多少語気を強めて呼んだ。するとしまったと思ったのだろう、小さく舌打ちが聞こえてくる。俺がこの手の話題に敏感なことはもう知っているはずだ。仕事の為に自分を犠牲にする癖だけは本当に好きじゃないと、もちろん、健康状態も含めて。
 他人より大切に思っているからこそ譲れなかった。二人とも押し黙った静かな空間で意地を貫けば、わかったから、と諦めたように彼は呟く。しかし面と向かっては言いづらいのか再び目的地へと歩き始めながら、社長は淡々と口にした。
「別に体調を崩しているわけじゃない。久々に父に会ったせいで気圧されて胃が死んでるだけなんだよ。今は何を食べても吐きそうだ」
 言いたくないことを言わされているせいで少し自棄になったのか、珍しくぶっきらぼうな口調でそう言い切られた。包み隠さず明かしてくれて純粋に嬉しい。が、自分から聞き出しておいてそれはとても反応に困る内容だった。
 社長室と反対の位置に設計された洗面所に着くと、誰も居ないそこで立ち止まる。無駄にスペースを取ったトイレは大袈裟な表現ではなくここで生活できるのではと思えるほど清潔だ。こんなところにまで宗教染みた絵画が飾られ、鏡の縁にも華やかな模様が描かれている。正直なんで社長しか使わないはずなのに個室も含めてトイレが二桁の数あるのかわからない上、隣の女子トイレなんて一体誰が使用するというのだろうか。
「……社長ってさあ、赤司グループの……会長の秘蔵っ子なんじゃないんスか」
 洗面器の前で広い鏡面と睨めっこしながらグロスを落とそうとしている彼の横で、壁に寄り掛かって尋ねた。さっきの続きだ。本人に聞くようなことではないかもしれないと躊躇ったが、しかし一番明確に答えを持っているのも本人に他ならない。ジャケットのポケットに両手を入れて返答を待っていると、鏡を通してこちらを見た社長と目が合う。
 ところが案の定この質問は無粋だったか、僅かに眉を顰めてすぐに視線を逸らされた。蛇口を捻り、流れ出した水を手で掬っている。
「逆に聞くよ。黄瀬の中で秘蔵っ子というのはどんなイメージなんだ」
 前屈みになって透明な液体を口元に運び、ばしゃばしゃと洗いながら聞き返す声は酷く冷淡なもので。
――どんなイメージ? そりゃあ、
「親に可愛がられて、愛されて育った子供とか」
 とにかく大事にされ、更に才能を持った子ならそう呼ぶのではないだろうか。少なくとも久しぶりの再会の末に食べ物が喉を通らないなんて考えられない。
「じゃあどのくらいまでが“可愛がられている”のか説明してくれ」
「……は?」
「例えば十六歳で門限が七時というのは可愛がられているからなのか?」
「え、それは……ちょっと厳しいっつーか、過保護でしょ」
 高校生の頃には一人暮らしを始めていた自分にとってそもそも門限の感覚がない。しかし七時の時間帯と言えば大抵はまだ外で遊んでいて、駅前なんて学生で溢れ返っていたはずだ。偏見だとしても正直に告げると、社長はそうかと頷いた。
「それなら我が子の自由を束縛する過保護な親とその拘束を受ける秘蔵っ子は何が違う」
 唇から剥がれていく真っ赤なメイクが、水に混ざって洗面器を微かに染める。
 一方で、俺は言葉に詰まり口を噤んでしまった。
「……学校から帰ってやりたくもない習い事をさせられるのは?」
 その瞬間、両手を台に突き、下を向いて零された一言があまりに小さな声量であり聞き流してしまいそうだった。赤い前髪が邪魔をして横からでは表情を把握できない。けれど蛇口も止めず留まることなく溢れる水音と、閑静な室内に反響する彼の言葉の数々から徐々に様子の異変を感じ取る。
「出来たところで褒めてももらえない勉学を必死に続けたのは……、友人が少し悪ふざけをしただけで縁を切れと叱ってくるのは? 外出するとなったらどんなに近場だろうと付き人がついてくるのは。何もかも父さんに可愛がられた結果か」
「……社長? ねえ、」
 例えそれが難解な論理でも、相手がきちんと理解できるようにこの人の語彙は工夫されている。だから聞き手が混乱することなんて滅多にないのに、今は、どうしてか何を言っているのかわからない。壁から背を離して近寄ったところでこちらも見てくれず、そもそも俺の声がまるで聞こえていないかのようだ。
「自由を奪われ、世間にもろくに顔を出せず、生まれ育った土地の言葉遣いを禁じられることも僕が秘蔵っ子だったからか。便利な単語だな……全てが良く聞こえるよ。『過保護な親の為』なら非難されるところを『可愛がられた子の為』なら正当化されるんだ。将来を押し付けられたことだって、オレの夢を潰されたことだって、」
 嘲りながら訴えられる一言一句の咀嚼に手間取った。――社長、あんたはもっと冷静で、利巧で、聡明で完璧な人間だろうと一瞬でも考えてしまった自分が正直信じられない。いたく身勝手な理想の強圧が彼を追い詰めているのだと、今、まさに今、体感しているというのに。
 憤りからか僅かに手が震えているように見える。
 何が地雷だったんだ。会長? 秘蔵っ子? “可愛がられている”なんて偏愛か? 常に視野を広くして物事の判断に長けている彼が誰も視界に映さず一人取り乱す姿を目にするのは半ば恐怖に近く、心は茫然としていた。鮮血を吐いているかのように唇からぽたりぽたりと重力に従って落ちていく赤い水滴だけが、時の流れを感じさせている。
 そして聞き逃すわけもない。
(……『オレ』の、夢……?)
 それを言わせてしまったこと自体が、タブーだったのか。何一つとして事情を知り得ない自分には何もできなかった。支えることも、慰めることも、労わることも。ちゃんと話を聞いてあげることさえ。
 こんなに近くに居るのに。
「今日も同じだったよ……父さんはいつだって僕の言葉を無視して、僕の意志を――オレの夢を、無下に、」
 これ以上口にさせたら駄目だと本能的に思った。「ねえ待って、社長」しかし咄嗟にその名を呼んでも全然、
「……はは、秘蔵っ子?」
「社長落ち着いて。ごめん、俺が余計なこと聞いた」
 少しも、
「笑わせるなよ。自分が愛された子供だなんて思ったことは」
「言わなくていいから……っ」
 君の心に届かない。

「一度だってないんだ」

――もうやめてくれ。
「ッ……」
 口で告げても無駄だとわかった以上、その声を塞いでしまうしか方法はなかった。強張った肩を掴んで無理やりこちらに向かせ、相手が驚く間もなく湿った口に乱雑なキスをする。水に濡れたそこはまだ落ち切っていないグロスのせいでいつもとは違う感触がした。心なしか涙の張った双眸が大きく見開かれ、一度離して下唇を舐めるようにゆっくりと舌を這わせば漏れ出る吐息が震えている。
 どん、と胸板を押して抵抗しようとする手を捕まえて握ると、冷水を掬っていた肌はとても冷えてしまっていた。
「ンっ……嫌だ、黄瀬、なんでっ……!」
「……まだ自分を苦しめるつもりなら、このまま続けるっスよ」
 こんなの脅しだ。愛しさを覚えた人を苦悶から解放させる為のやり口が無理強いのセックスしかないだなんて自分でも呆れる。でも今の俺にはそれ以外の術がなかった。親しい仲と自惚れていたところでろくに過去も現状も知らないようでは、全てを吐き出させて楽にしてあげることよりも逆に抑え込む手段しか選べず、己の無力さに腹が立つ。
 動揺しながらも口を閉ざして俯いた社長は静かに深呼吸を繰り返し、そして漸く我に返ったのか、洗面台に寄り掛かった俺の肩口に額を押し当てた。その様子にとりあえず胸を撫で下ろしつつ後ろ手で蛇口を閉める。反対の手の平で赤髪の揺れる頭を撫でると、小さく鼻を啜る音が聞こえた。
「……落ち着いた?」
 打って変わって宥めるように尋ねたら、すまない、と心底申し訳なさそうな返事。少し掠れた涙声だったが、それでもいつも通りの声色にほっとする。
 腕の中で彼は身を捩り、スーツのポケットからハンカチを取り出して濡れた口元を拭いていた。顔は上げようとしないものの、おかげで自分より一回り細身の体は相変わらず抱き締めやすい。ふと、手を止めてこう呟く。
「……いきなりごめん。お前は関係ないのに……僕は最」
「低だ、とか言いそうなあたりが気に入らないっスね」
 そんな謝罪は求めていないことくらいわかるだろう。
「何があったのか……聞いても平気?」
 タイミングを見計らって優しく、しかしはっきりと口にすると、片腕で抱いた肩が微かに跳ねた。導火線に火を付けたきっかけは自分にあるが、元々の原因は違うはずだ。今日、赤司グループの会長――彼の父親が帝光出版に顔を出し、社長と接触したとは聞いている。しかし父子として再会したのか、それとも現会長と次期会長候補という立場のもとに対面したのかさえ俺にはわからない。あんたが保身している領域に軽々しく踏み込んではならないのかもしれない。プライドを裂くような真似に出ればそのうち後悔するだろう。何であっても完璧に築き上げた尊厳を崩した後の読めない恐怖は、きっと仕事に限った話ではない為に自分も理解しているのだから。
(それでも……)
 社長がここまで怒って、泣いて、自分を見失った理由を知りたいのだ。ただのエゴだと言われれば否定はできないにしても、これは単純な興味や好奇ではない。心を開いて、体を許して、そのまま俺のものになってしまえばいいのにと思った。今の状態じゃ満足できないのは自分の方だ。何より関係ないと言われたことが最も堪えている俺にとって、この人の存在はもうとっくに、特別なのだから。
 ところが意地でもこちらを巻き込みたくないのか相手はすっかり黙りこくってしまっている。受け入れられていない現時点では妥協するしか道はなさそうだ。
「……わかった。言いたくないなら、今日は見逃してあげるっス」
 でもこれだけ答えて、と耳元で囁いて。

 出会った時から惹かれていたことは認めていい。特別視も、していた。初めは仕事に対する執着と誇り、そして実力世界に埋もれない才気が眩しく思えただけだったが、却って垣間見える隙に一層付け込みたくなった。知れば知るほど、否知らされずとも、その深遠な魅力にどうしようもなく引き込まれてしまう。
 腹を括っただろう。くだらない恋と呼ばれたあの日に、それを否定してやるのだと。
 覚悟しただろう。世界中を敵に回すことも。逃げられないことも。
 もう向き合え。


 惚れたら、最後だ。


「――あんたは俺に、いくつ隠し事してる?」
 易々と手に入れられるような人ではないことなど頭ではわかっている。だからこそ熱く燃え上がる情も色欲も理性を諦めろと訴えてくる。馬鹿みたいだ、なんて目覚ましい恋だろうか。
 きっと彼の世界の頂点には会長が君臨しているのだ。笑えるほどに厄介であり、そもそも相手は赤司グループのご令息などと再度感じたところで今にも血の気が引きそうだった。けれど俺の質問に一度俯いたきり何も喋ろうとしなかった社長がやっと顔を上げ、伏せていた睫毛がぱちりと瞬きをする、そんな一瞬の動作だけでも目を奪われる。初めて言葉を交わした瞬間からその視線に射止められて恋に落ちたのだから、当然なのかもしれないが。
「隠し事なんて……数え切れないほどあるよ」
 先程まで弱っていた人間とは思えないくらい明瞭な声色でそう言い、双眸に浮かんでいたはずの涙など跡形もなくなっていた。す、と細められた両眼にこの身を捉えられる度、背筋が粟立つ。
 数え切れないほどの隠し事、なるほど全て、暴いてみせよう。代わりに俺が彼に隠している本心は一つだけだ。自分の過去など最早いくらでもバレて構わないが、さすがにこの人生最大とも言えよう重く甘い隠し事だけは等価交換として取っておこうと思った。

――好きだよ、社長。

 声には出さず左の瞼に口づける。顎を持ち上げると唇は大分元の色へと戻っていたが、照明の当たり方によってはまだうっすらとグロスが残っているように見えた。
「ねえ、ちなみにその隠し事全部、俺に打ち明けてくれるご予定は?」
「気が狂わない限りないだろうな」
「ふーん……」
 じゃあ試してみよっか。
 体を反転させて強引に社長の腰元を洗面台に押し付け、覆い被さるように首筋に噛み付く。突然のことにバランスを崩した彼は肘から後ろの洗面器の縁に突く形となり、顔を背けて逃れようとするところを押さえ付けて深いキスを強いた。性急に口を割って酸素を奪っていく。相手は勢いに負けて後ずさったせいで半ば台に乗り上げているも同然の格好だ。火照った口腔を何度も嬲り、奥へ引っ込めようとする熱い舌を絡ませた。ん、ん、と鼻孔を通る息遣いに更に興奮して暫くやめないでいれば、今度は口の周りが唾液で汚れてしまっている。
「は、……ちょっと手どけて、もっかい」
「だめだ……しつこいよ」
「んなことないっス。ほら、グロスもちゃんと落ちたし」
 自分の目の前に広がる鏡を指差すと、社長はそのまま背中を反らし、頭を後ろに落とすようにして銀鏡に映る己の顔を逆さに見ていた。「……ほんとだ」と呟く声が聞こえてくる傍ら、おかげさまで俺の視界には白く柔らかそうな喉元が飛び込んでくる。ほぼ無意識のうちにそこを食んでしまうと、びくん、と組み敷く体が大きく反応した。
「っ……おーい、黄瀬……少しは理性を保ってくれ」
 僕はお前の餌か? なんて苦笑混じりに呟く社長の様子はもうすっかりいつも通りだ。余計なことばかりしているから大分思考も落ち着いたのだろう。
 社長、覚悟しててね、と口角を上げて宣言した。吐息がかかる距離で覗き込んだ瞳は綺麗に透いてその奥まで見えそうだ。が、決して腹の底は窺い知れない。この人が脳裏で一体何を考えているのか、どうやって生きているのか、生きてきたのか、道筋を暴く方法は恐らく一つしかないのだろう。
「じっくり時間かけて、狂わせてあげるから」
 そしたら隠し事を教えて。何ヶ月でも何年でも、赤司征十郎が自ら秘している心を手に入れられるなら幾星霜をも懸けてやる。これは長期戦なのだ。わざとリップ音を立てるようにして唇に吸い付くと、挑発的な態度が気に入られたのか心底愉快そうに笑んでお返しのキスを頬に贈られた。
「ああ、楽しみに待ってる」
 なんて言っちゃって、どうせ本気にしてはいないんだろう。上等っスよ。
「それじゃあ楽しみついでに最終問題といこうか」
「……覚えてたんだ?」
「免れると思うな」
 笑いながら広い化粧台の上に座り直すように腰掛けた社長は、意外と行儀の悪いところがある。俺より僅かに目線が高くなった位置から見下ろしてピッと人差し指を立て、最終問題、などと仕切り直しだ。なんとなく嫌な予感がしたから掘り返さなかったのに。彼の脚の間に挟まれてどうにか話を逸らせないものかと逡巡していると、余所事を考えているのがバレたらしい。「見事全問正解できたらご褒美として、お前の言うことを一つだけ聞いてあげるよ。なんでもね」――それは卑怯でしょう社長様。
 一問目はメイク用品の名称を片っ端から挙げていくものであり、二問目はその中から選び抜いてブランド名を答えろと言われた。あくまで本題に入る前のテストとされているはずのこのやり取りから判断する限り、恐らくメイクアップに関連する話題が眼目だろうとは予測がつく。しかし自分に想定できる範囲と言えば所詮その程度であり、身構えて問いに耳を傾けると彼の口は確かにこう紡いだのだった。
 問三。

「人が化粧をする意味は?」

 これでテストの合否が決まる――。
(……意味!?)
 わけだが、なんでいきなりそんな具体性に欠ける質問になったのだ。ここにきて記憶力や知識の勝負ではなく頭を使って考えなければ到底答えを導けない展開に、俺は眉根を寄せつつも焦って思考を巡らせた。学校のテストでも確実に記述式よりマークシートの方が好きだった自分にとって今までとは比べ物にならないほど難易度が跳ね上がっている。問二だって数は膨大だが、ブランドという項目が選択肢として頭の中に存在していた。しかし今回は既にあるものから選ぶのではない。自ら探して主張する必要がある。
 とは言え、いくら考えたところで化粧をする意味なんて至極単純なものしか思い付かなかった。綺麗になりたいから。素顔を隠したいから。他に何があると言うのだ。他愛ない会話の中でなら躊躇わずそう口にしただろうけれど、何せこれは社長が試験官の考査である。へたなことは言えない、が、気の利いた台詞なんて簡単に浮かばない。ふと視線を上げれば、すっかり考え込んでは困惑している俺を余所に随分楽しそうに目を細められた。
「わからないか? ……五、四、」
「え!? ちょ、待って」
 時間制限があるなら先に言ってくれ。
「さーん」
「えぇ……意味……?」
「にーい、いー」
「き、」
 タイムリミットによって負けるのは癪で正答の確信など持てないまま口を開いた瞬間、カウントダウンは停止した。じっとこちらを見詰めてくる彼がどんな答弁を求めているのか、全く読めないけれど。
「綺麗に、なる、為」
 短絡的な頭ではこれが限界です。何の面白味もない返事を告げると、社長は一度瞼を伏せた。そして言う。
「不合格だ」
――ブランド名の問いも苦労したのだからまさかこの程度で褒めてもらえるなどとは思っていなかったが、やはり言葉で聞くとなかなかキツい。そもそも問題の意図を理解していない状態ではこうなることは目に見えていた。気分は落ちたものの、しかし思いの外、社長の様子はがっかりしていないどころか相変わらず含み笑いを向けてくる。
「落ち込むことはない。テスト自体は合格だよ、エスティローダーとシャネルを当てた時点でな」
「えーでもなんか……スッキリしねえっていうか……まぁいいっスわ。そんで正解は?」
「正解?」
「人が化粧をする意味」
「自分で見つけろ」
「はあ!?」
 もっとスッキリしない! 意味深長な問題を吹っ掛けるなら正答も教えてくれないと困るだろう。気になって仕方がないし、当分は悩むハメになる。そう抗議したら「悩め悩め」と軽く言いやがった。もう冷たくはない両手で頬を包むようにして少し上を向かされ、拗ねた自分を宥めるように社長は優しい声色で紡ぐ。
「悩んで答えがわかったら、きっと成功するから」
――成功?
 成功するって、何が? 主語を伏せられて尚更眉根を寄せたが、彼は構わずに手を離して腕時計に目を遣った。そしてもうこんな時間か、と呟いて化粧台から降りている。昼休憩の終了時刻が近いのかもしれないが、半端なままで話を終わらせないでほしいし、大体。
「続きしようよ」
 俺の横を通って出て行こうとする後ろ姿に声を掛けると、さすがは社長、主語がなくてもわかってくれたようだ。いや続きという時点で主語になり得るだろうか。こちらを一瞥して、呆れたように返される。
「清掃員の前でするつもりか?」
 どうやら気にしていたのは休憩の時間ではなくここに誰かが来るかもしれない可能性だったらしい。個室あるじゃないスか! なんて試しに提案してみれば、発想がエロガキだな、とすげなく跳ねられてしまった。まぁもちろん初めから期待はしていない。
 怒らせるような文句は口にせず彼の斜め後ろをついて洗面所を去る。すると社長室に戻る途中で清掃用具を収めたカートを引いている清掃員のおばさんとすれ違い、ご苦労様と声を掛ける社長は先ほどまで戯れていた人間の姿とはまるで違うように見えた。自分も軽く会釈をして再び二人の足音だけとなったところで前方から聞こえてきた一言。
「そもそもお前、全問正解できなかっただろう。だからご褒美はなしだ」
「……あんたのご褒美ってセックスしかねーの?」
「他に望みが?」
 ナイデスケド、と心の中で口を尖らせた。



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