「ようこそ帝光出版へ」
 不意打ちの一言にびくりと肩を跳ねさせて声のした方に向けば、そんなに驚かなくてもと彼はおかしそうに笑った。そう言われたって緊張しているのだ。何せ一生踏み入ることなどないだろうと思っていたオフィス群の高層ビル、きっちりと全員がスーツを身に纏ったサラリーマンそしてOL地帯に何故か自分はラフな格好で来てしまっている。まさか社内に入るなんて。
――五月も下旬、突然社長に呼び出されて帝光出版本社の目の前まで赴いたが、車内で待っていたらコールが鳴り響いた。電話に出たところであの人の第一声はこうだ。
『中に入れ。受付でオフィスクオーターと言えば案内してくれる』
 えっ、と目を見開く。今オレすげー適当な私服なんスけど、大した用じゃないとあんたが言ったから。
『なんだ、大した用だと言ったらスーツで来たのか? 言えばよかったな』
「……何の用っスか」
『それはお楽しみ。じゃあ後で僕も行くから、』
「待って、受付で素顔見せて平気?」
『我が社の若い受付嬢が人気メンズモデルを前にして対応を崩すとでも?』
「……とんでもない」
『結構』
 そこでぶつんと通話を切られてしまい、エンジンを止めた運転席で肩を竦めた。こちらの意見などまるで聞く耳を持っていないようだけれど、従わないわけにもいかないだろう。なぜ今日俺がオフであることを知っているのかはわからない。桃っちに聞いたか、彼女は久々の休暇を有意義に使っていると思うが。
 敷地内の駐車場に車を停めると案の定警備員に声を掛けられたものの、そこでもオフィスクオーターだと名乗ったら合点がいったように失礼致しましたと下がられた。自分が正午過ぎにここへ来ることは社長の一日の予定として回っているらしい。ということはつまり来客扱いか。やっぱりスキニーデニムにチャコールグレーのTシャツ、黒のレザージャケットでうろついていい場所とは思えない。
 入口の自動ドアが開く前で一度立ち止まり、天高く聳える建物を仰いで人知れず溜息を零した。


Mr.Perfect / Scene 03 - A part


 さすがは天下の出版社だ。社長の言葉を信じてサングラスを外し堂々と入ってみたら一瞬視線は集めた。ロビーに居た全員が俺の存在に気付いてぱちぱちと瞬きをしたが、しかし次の瞬間には各々の仕事に戻っている。へえ、と内心で口角を上げるほかない。芸能界と直に関わっていない他社において黄色い声が一切上がらない空間は珍しく、統率者の人柄が見事に滲み出ている会社なのだとすぐに実感する。確かにここは、赤司征十郎がまとめ上げる企業のようだ。ちょっとやそっとでは動じず、突然有名人が現れたからと言って己の仕事を中断するなどありえないのだろう。
 ベージュのジャケットスーツに紅色のスカーフを首に巻いた受付嬢は整った笑顔で自分を迎え、只今係りの者がご案内致しますので少々お待ちくださいませ、と頭を下げる。当然のように完璧な対応だ。清楚な微笑みは彼女によく似合っていて、美人が就職しやすいとは本当らしい。そこで数分暇を持て余した俺は本当に動じないのかと少し話し掛けてみることにした。まぁスキャンダルにもならない程度のちょっとした遊び心による暇潰しだ。
「ねえ、受付の仕事って五時に終わる?」
 周囲に聞こえないように声を潜め、わざと甘い雰囲気を作って尋ねる。すると黒髪の受付嬢は僅かに目を見張ったが、またしてもあの崩れない笑みを浮かべて言うのだった。
「申し訳ございません。オフィスクオーター様がいらっしゃったら高確率で口説かれるだろうけれど、無視しろ、と言い付けられておりますので」
 ……おいおいおい。
「あはは……そちらの社長のご指示ですか」
「お答えする必要はないかと」
 完全に先手を打たれている。予想の斜め上を走る社長の思考回路に完敗した俺は黙って引き下がるしかなかった。いくらそんな命令を下されていたとしても黄瀬涼太に声を掛けられて営業スマイルを崩さないだなんて教育が徹底しすぎているし、社長も社長だ、俺の行動をどこまで読んでいるのか全くわからないせいで迂闊に文句も言えやしない。
 くそ、恥ずかしい思いをした。小さく舌打ちをして吹き抜けのロビーで大人しく待っているとその直後に「黄瀬」と呼ばれ、振り向いた先で視界に入った緑色の髪に瞠目する。
「……緑間くん」
「案内するのだよ」
 こちらの反応などお構いなしにすたすたと足を進められてしまい、慌てて後ろを追い掛けた。どうやら彼が係りの者らしい。一番寄越さなそうな人間が来て驚きを隠せないが、これも社長の指示だろうか。『TiPOFF』の挨拶を交わしたあの日以来緑間くんとは少しも交流をしていない為、どうしても気まずい空気が蔓延るだけだというのに。
 一階のエレベーター乗り場には他にも何人か顧客と思われる男性とそれを持て成している社員の姿。全部で八つあるエレベーターのうち最初に扉が開いたものに乗っていったが、緑間くんが「次でいいか」と聞いてきたので黙って首を縦に振った。さすがにあんな大物に違いないスーツ軍団と同じ密室に入る勇気はない。
「……あの」
 次に到着したエレベーター内に乗り込んだところで中は自分とこの人であり、おずおずと口を開けば何だと返される。その横顔は相変わらずの顰め面で、一ヶ月ぶりの再会であっても俺に対する感情など何ら変わっていないようだ。
「俺、なんで今日呼ばれたんスかね……」
「知らん」
 ほら見ろ二秒で会話が終了した。……とは言え嘘はついていないのだろうし、社長の親友であり副編集長を担っている彼が把握していないなら恐らく誰に聞いてもわからない。諦めて質問をやめたものの、意外なことに今度は相手の方から話し掛けられる。忙しいんじゃないのか、と。上昇し続けるエレベーターは早くも十五階を超え、途中で人が乗ってくる気配はない。
「あー、今日はオフ日なんで」
「久しぶりのか?」
 階数の表示されたボタンが羅列している右端に寄った緑間くんは、背後に立っている客人に振り向きもせず問う。ガラス張りのエレベーターは後ろに視線を動かすだけで窮屈な都会が一望できた。いかにも高層建築らしい景色だ。どんどん遠くなっていく地上に目を遣りながら、あえて溜息と共に頷く。
「まあね。増版増版ってお宅がすげー勢いで『TiPOFF』売り飛ばすからこっちは大変っスよ。駅に書店に街中のデジタルサイネージ……広告用だけで何十回撮影があるか」
「種類別、地域別、一つも使い回しをしないのが売りなんだろう」
「そ。でも専属モデルだけは使い回してくれないと」
 考えたくもないブラックジョークを口にしてみると小さく笑ってくれたようだ。
「……だが光栄に思うのだよ。利益の半分はモデルへのギャラで飛ぶ」
「足りないくらいっスよ?」
「赤司に伝えておこう」
「ごめん」
 冗談を交わしている間に音も立てず昇っていたエレベーターは停止し、ウィン、とドアが開いた。
「四十三階って生まれて初めてかも」
 オフィスクオーターでも最上階は二十二だ。降りながら呟けば、一歩前を進む案内役が「ここは普段、赤司しか出入りしないのだよ」と答える。
 彼の返答の通り、周囲を見回しても誰一人として社員の姿はなくとても静かだ。真っ白な廊下の壁に沿って歩いていき、もしかして自分は今から凄いところに連れて行かれるのではと安易に立てた予測が当たってしまった。電話で用があるからちょっと来いと呼ばれた時はまさか、まさかこんな部屋に招かれるとは思ってもみない。
 一際重層感の漂う木製の扉の横に、社長室、と記されていたのである。
「……えっ!? お、応接室とかじゃないんスか」
 それでも大袈裟だとは思うが。遠慮なく扉をノックしようとする緑間くんに焦って尋ねると、こちらを一瞥してから視線を前に戻された。
「……喜べ。俺が知っている限り、あいつがこの部屋に自ら他人の入室を許可するのはお前で三人目なのだよ」
 気に入られている証拠だ、と、いやいやそんな不機嫌そうな顔で言われましても。
「入るぞ赤司」
 緑間くんが二回ノックをするけれど中から応答はない。すると遠慮なくノブに手を掛けてがちゃりと扉を開ける様子に目を見張った。とても自社の権力者に対する態度には見えないものの、二人の仲なら問題ないのだろうか。一方俺はと言えば全く心構えをしていなかった為に冷や汗を掻くほど緊張していて、己の事務所の社長と相見える時の倍ほどは平静さを失っていた。が、緑間くんの背後から恐る恐る顔を出してもあの人の影は見当たらず。
「……まだ会議から戻っていないようだ」
 ぐるりと室内を確認してからそう言われる。思わず胸を撫で下ろした。
「会議中だったんスか」
「ああ。ただ予定では三十分前には終わっているはずなのだよ。恐らく重役会議は終わったが何のためにもならない顧客との世間話が長引いているのだろう」
「……社長そういうの嫌いそうっスけど」
「付き合いだ」
 目を伏せて言い切られ、反論する余地もない。自分はオフィスクオーターとして来客扱いにはなっているが、用件自体はきっと社長個人によるものであり公式には受理されていないのだ。俺を言い訳に抜け出せはしないのだろう。通話の時にやたらと急いでいるように感じたのは会議が終了した少しの合間だったかららしい。
 待たせられることは特段嫌ではなかった。寧ろ息をつく暇が欲しかったくらいだというのに、入口のところで広い一室を眺めていると緑間くんが横を通って出て行こうとする。
「ここで待っていろ。そんなに掛からず戻ってくるはずだ」
 淡々と告げられた一言に頬が引き攣った。
「ちょ……ちょっと待って、俺一人で待つんスか。ここで!」
 社長室なんて部外者が居座るどころか本来立ち入ることさえ許された場所ではないのだ。尋ね返すとさも当然のように頷かれてしまい絶句するほかなかった。冗談だろう。実を言うと時間的にお昼ご飯を一緒に食べないか、程度の誘いだと思っていたわけで。ところが例えるなら綺麗な海でロケ撮影があるからと呼び出されて来てみたところあらあらビックリ、無人島だか樹海だかとにかく危険地帯に放り出された気分である。勘弁してくれ。
「心配しなくとも赤司以外は来ないし、一応お前は客人だ。好きに寛いで構わないのだよ」
「いや居心地最悪なんスけど」
「そうか。赤司に伝えておこう」
「……あんたそれ言えば俺が黙ると思ってんだろ」
「よくわかったな」
 それが最後の相槌だった。呼び止める間もなくばたん、と容赦なく扉を閉められた結果、このだだっ広い社長室に何故か自分一人。立ち尽くした俺は額に手を当てながら項垂れ、同時に零れた溜息が閑散とした空間に吸い込まれていく。今にも帰りたいがまさか逃げ出すわけにはいかない。ああ、こんなことなら桃っちも呼べばよかった。先にも言った通り昼食のお誘いくらいにしか考えていなかった為、当然彼女には声を掛けていないし、社長から連絡もいっていないようだ。こんな一室で一対一になったとして何を言い出されるのか。
「用件はお楽しみ、ね……」
 これほど恐ろしい台詞があるだろうか。
 詳細も聞かずに訪ねてしまった自分の愚かさを悔みながらもいよいよ腹を括るしかなく、一つ深呼吸をしてから冷静に部屋を見渡してみる。応接用の黒いソファーと木製テーブル、そしてその奥にある大きな両袖机が既にただならぬ威厳を醸し出していた。一見実用的ではあるもののいちいち金で装飾されているのがいい証拠であり、足元に敷かれた絨毯だって別格の踏み心地。
(ウール……じゃなくてシルクか……)
 普通、人の出入りが多い場には水や汚れに強い丈夫なウール素材をカーペットに使う。ところがここに広がっている黄土色に赤の刺繍が織り込まれた絨毯は触れたところシルクのようだ。シルクは前者の逆、デリケートな素材である為にあまり人が来ないところに敷かれるのが一般的である。つまり社長室に滅多に客人を呼ばないというのは事実なのだろう。だったら何故自分が招かれたのか尚更理解に苦しむが、単に気に入られているだけなら素直に喜んでおいた方がいいのかもしれない。
 脇の棚には高価そうな花瓶に真っ赤な薔薇が堂々と活けられ、隣の時計も一目でわかる一流ブランド品だ。落ち着いた配色の中でところどころに窺える紅色のポイントはあの人の趣味なのか、なかなか強烈なアクセントだというのにこれが似合ってしまうのだから侮れない。こじんまりとした社長の自宅が嘘のような厳かな光景に、気を抜いている時とは本当に纏うオーラが異なっているんだなと思った。
 唯一あのアパートと重なる部分と言えばデスクの上くらいである。一台のパソコンにはやはり画面の端に付箋がいくつも貼られていて、積み上げられた幾重ものファイルは厚みと量だけで人を圧倒するだろう。判子と書類も放置状態だ。俺が来るとわかっているのに置き去りにしていったのだろうか。
 入口から足を進め、使い慣らされた机上を指先で撫でた。ここでろくに休養もせず仕事に没頭している姿が安易に想像できてしまう。
「――黄瀬」
 その瞬間、息を呑んではっとなる。ブラインドを開けたままの窓から随分遠くの景色を眺めていたところで不意に聞こえてきた一声に、意識を戻された。
「……、社長」
「ようこそ、帝光出版へ」
 目を見開いたまま振り返れば、いつの間にか入室していたこの部屋の主が笑いを零した。「はは、そんなに驚かなくても」驚くに決まっている。考え事に耽っていたあまり、背後の重い扉が開いた音にさえ気付かなかったのだから。
「か……会議は終わったんスか?」
「ああ、遅くなってすまなかった。ここまで待たせる予定ではなかったんだが……少しは寛げたかな」
「そう見える?」
 眉を下げて聞き返すと社長は悪かったよと軽く謝り、こちらへと歩いてくる。そこでとりあえず座るように促された俺は躊躇いながらも二人掛けのソファーへと腰を下ろした。座っただけで上等な質であることなど容易に理解できる心地良さだが、どうしても緊張が抜けずに背筋を伸ばしてしまう。事務所の社長室でさえ腰を落ち着けた経験はないのだ。
 ぎこちない態度に苦笑されてしまうけれど、こればかりは仕様がない。当然だが向こうは手馴れている様子でデスクと向き合い、書類を引き出しに仕舞っているようだ。ふと、普段は赤い髪で隠されている右耳が視界に入る。
「固めてるんスね、髪」
 片側だけではあるものの、前髪を横に流して耳に掛けている姿を見るのは初めてだった。顔を上げた当人が変かな、と手は止めずに聞いてくる。まさか。
「社長が髪いじることあんまないから珍しいなと思って」
「今日だけだ」
 片付けを中断し、そう答えながらブラインドを閉めている。途端に見晴らしの良い景色がシャットダウンされ、外からも自分達の姿は完全に見えなくなっただろう。そして彼が俺の隣に回ってきたことには内心驚きを隠せなかった。てっきり向かい合わせに座って堅苦しく話を切り出されるんじゃないかと身構えていたのだが。
「今日は父さんが来たから……」
 右横に腰を下ろしながら小さく呟かれた言葉に思わず食い付いてしまう。
「え、会長ってもう復帰したんスか?」
 なんて口にしてから、しまったデリカシーのない発言を、と後悔した。赤司グループ現会長である社長の父親は病の為に一時的に降りているだけなのだ。まだこの人が全てを引き継いだわけではない。本当に復帰したのであれば――「僕はここにはいないよ」無理に笑っているのが察せる表情でそう告げられ、馬鹿、と心のうちで自分の失言を責める。
 上手い返答が思い浮かばずに口を噤むと、柔軟な背もたれに背中を預けて天井を仰いだ相手の静かな呼吸音だけが部屋に響いた。そのまま瞼を閉じた彼は、午前中、ずっと気を張っていたのだろう。神経質にならざるを得ない空間にも慣れているとは思うが、この様子だとまだ昼食も取っていないだろうし、働きづめでは人間限界というものがやってくる。
「……お疲れ様」
 電話ではわからなかったけれど今、社長は相当疲れが溜まっているに違いない。そういえば最近は――と言ってもここ二週間くらいの話だが――お互いやたらと忙しくて会うこともしなかった。
 やっと無駄な緊張が解れてきたように感じ、社長の肩を引き寄せて自分の方へと寄り掛からせる。そのまま優しく頭を撫でてあげると向こうも余計な力を抜いて身を委ねたのがわかった。素直で何よりだ。
「うーん……まさか俺、あんたを癒す為に呼ばれたんスかね」
「……悪い。甘えるつもりじゃなか、っん……」
 身を捩って離れていこうとする社長の後頭部を捉え、下から掬うように唇を重ねる。離さないで両眼を細めて見詰めればどこか居た堪れなそうに目を伏せられてしまった。ちゅ、ちゅ、と音を立てて吸い付くだけのキスを繰り返した後に下唇を撫ぜて舌を絡ませる。押さえ付けているせいでせっかく固めた右サイドの髪が崩れてしまうが、ろくな抵抗もされないし今更だろう。ところがもう片方の手を細腰に回して押し倒す途中で、後ろの肘置きに右手を突いた社長が逃れるように顔を逸らした。
「今は、だめだよ……黄瀬」
 濡れた唇で酸素を吸い、呼吸を整えながら僅かに目尻を朱くしてそんな台詞を呟くのだからタチが悪い。
「えー、せっかく俺オフなのに」
「僕は仕事中だ」
「こんな部屋に呼び出しておいて?」
「……さすがに社長室をホテルだと思ったことはないんだが」
 からかって口にしてみた一言が案の定お気に召さなかったらしく、む、と顔を顰められる。わざわざブラインドを閉めたのだってそういう意味ではないのだろうか。指摘したら更に拗ねそうだから言わないけれど。
 話があるんだ、と彼は一つ咳払いをして仕切り直すように言った。そして俺の腕の中からなんとか抜け出し、向かいのソファーへと腰を下ろして足を組んでいる。対峙したその姿は打って変わって凛としたものであり、こんなにも容易く自分から仕事へと意識を掴み戻されたことがなんだか癪だったとでも言えばいいだろうか。自分もきちんと座り直しつつ、口角を上げて聞いてみる。
「それってセックスしながらじゃできない話?」
「……フェラしながら喋ってあげようか」
 噛んでもいいなら、と不敵に笑みを浮かべて付け足されてしまえば心の中で両手を上げて降参である。この人は大体にして容赦がない。
「……すいませんっした。どーぞ本題に入ってください」
 これ以上は無駄だと悟り大人しく謝ると、浅く溜息をついた社長が「話は二つだ」と簡単に切り出した。昼中とは言え電気も点けず太陽の日差しを閉ざした室内はそう明るくなく、真剣な声色で告げられると雰囲気も相まって少しばかり体が強張る。
「だがその前に……まずはちょっとしたテストを受けてもらおうかな」
「え?」
 唐突な発言に耳を疑っている間にも、席を立った社長が自分の背後に設置された棚まで歩いていき、引き出しから何かを取り出し始める。背もたれ越しに後ろを見遣って彼の手の中を覗こうとするものの、少し大きめの箱が出てきただけであり中身は把握できなかった。そしてそれを持ったまま目の前に着席した社長は、にこりと微笑む。泣く子も黙る笑顔だ。
「あ、あの……社長それは一体、」
「問一。三秒以内に答えろ」
 頼むから聞く耳を持ってくれ! こちらの質問に全く応答する気のない様子に内心頭を抱えたが、そんな暇もなく箱の蓋を開けた彼が一つの物を取って見せた。「これの名称は?」――自分の眼前にいきなり提示された物を見てわけがわからずぱちぱちと瞬きを繰り返したが、三、二、とカウントダウンの声が聞こえ、反射的に口を動かしてしまう。
「ファ……ファンデーション?」
 折り畳み式の、パフが備えられたパウダータイプの化粧品。今社長が手にしているのはどこからどう見てもそれであり、単純明快な回答に質問者は満足したらしい。
「正解」
 かたん、とテーブルの上に置いて再び箱から次を取り出す。
「じゃあこれは?」
「マスカラ……」
「これ」
「アイライナー」
「そう。次」
「……アイリキッド?」
「正解。黄瀬とは縁がなかったか」
 瞼を二重にする為の用品は社長の言う通り使用した経験がない為、少し答えに自信を持てなかった。しかし言い訳する暇などなく、すぐに次の化粧品の名を求められる。コンシーラー、グロス、チーク、ツイザー、ビューラー、リップブラシ、口紅、フェイスパウダー、コントロールカラー、アイブロウなど、片っ端から答えていく度にメイクアップに関する品が机上へ並んだ。全く以て意図が読めない。とは言え、三秒以内と制限がついた時はどきりとしたがほとんどは普段自分に施されているものだ、冷静になれば間違えはしなかった。
「最後だ、これは?」
「アイシャドウ」
「満点。じゃあ問二」
「まだあんの!?」
「問一と言っただろう」
 おい何が最後だ嘘つき。予想外の展開に困惑するものの相手の勢いは止まらず、唖然としているこちらには目もくれないままテーブルの上に広げられた化粧品から何かを選んでいるらしかった。どんな問題が来るか最早予測の立てようもない。ただ何であれミスは避けたいし、難しくないものを、と願っていたところで社長が手に取ったのはフェイスパウダーだった。白いケースに収められたパウダーと付属のブラシを指して彼は言う。問二。
「このフェイスパウダーのブランドは?」
――願いが通じたのか微妙なところだ。アパレル系、特にメイクやフレグランスに関しては単純に興味を持っているから隅々までチェックしている。が、見たところ当然どこにもブランド名が記されていないオリジナルの容器ということは、恐らくこの為だけに社長が中身を入れ替えたのだろう。ケースやフォルムもブランドを表す重要な鍵である為そこを伏せられ、数多あるブランドの中から一つ選択しろと言われると。
「どうした、わからないか?」
「……触ってもいいっスか」
「もちろん」
 大きく頷きながら手渡されたそれをまずは目を凝らして観察する。ローズ色のパウダーには細かな偏光パールが含まれているようだ。端から見た色味や光具合だけでも大分絞れてきたが、しかしこれだけではまだ特定できない。正確に把握できたのはブラシを使って自分の左手の甲に少量塗ってみた瞬間だった。突然襲ってくる、ひんやりと冷たい感覚。
(あー……この液体みたいな感じ)
 粉状ではあるが肌に触れた時にスプレーで水を吹き掛けたような独特な感触が残った。加えて実際に使用してみるとわかる色合いが重要と言えるだろう。一見薄く大人しめな印象を受けるけれど、これはナチュラルなメイクに艶を足すタイプの上品な化粧品――ここまでヒントがあればあとは経験値と勘で勝負だ。
「……エスティローダー……の、サイバーホワイトシリーズ?」
「素晴らしい」
 ぱちぱち、ぱち、と足を組んだ膝の上で拍手しながら感心される。期待に応えられたなら何よりだがこれで終わりではないことは彼の表情ですぐに察せた。
「じゃ、次はこっちのグロスのブランド名を答えてもらおうかな」
「……ねえ、これちゃんと意味あるんスよね?」
「ないと思うなら棄権しても構わないよ」
 その言い方は卑怯じゃないのかと思わざるを得ない。この人の一言一句が無意味であることなど絶対にないのだ。それくらい俺もわかってる。ただ何を試されているのか理解できないまま探られている心地は少なからず良いとは言えず、つい不審気味になってしまうのだった。その笑みの奥に企まれている彼の思考が覗けない。
 しかしこちらからの質問にまともな返答を寄越す気がないことだけは明白であり、仕方なく相手の指示に従うしかなかった。否が応でも正答を連ねれば目的が見えてくるだろう。そう信じて指定のグロスを手にし、やはりブランド名が隠された黒のスティックを開けて柄の先に目を遣る。すると一目で意識を奪うようなラグジュアリーな紅色が視界に飛び込んだ。
「イイ色っスねー……」
 思わず呟くと、玲央のお気に入りだ、と返ってくる。なるほど今回はミブチさんが裏で手を回している可能性も高いかもしれない。
 グロスと言えば柔らかいピンクや艶だけを求める無色透明の商品も豊富であり、ここまで強く赤が目立つものはなかなか多くない。が、決してキツい印象は与えず、フェイスパウダーと同じように手の甲に塗ってみるととても美しく色が出るものだった。口紅に劣らないインパクトと輝きは安物じゃあ表せないだろう。ミブチさんのお気に入りなら尚のこと、一流のブランド物に違いないとは予測がついた。
 とは言え、元から肌に当てるフェイスパウダーと唇に塗るグロスでは見え方が異なってくるわけで。甲に付けて凝視しても答えがピンと浮かばず、赤いグロスを扱う高級ブランドの選択肢が脳内で増えていくばかりである。
「今回は難易度が高いと思うぞ」
 その通り難しい。当てずっぽうで言ったところで外れる確率は高いし、ここまで来たら意地でも間違えたくなかった。
(せめて実際に塗った様子がわかれば……)
 唇に乗った状態ならきっと正答を導ける――そう思い至った瞬間に閃いたのだ。
「社長、ちょっとこっち来てくれないスか」
 手の甲から視線を上げて目の前の相手に言うと、意図がわからないのか首を傾げられる。これは好都合だった。この時点で何をしようとしているのか気付かれてしまったら諦めようと考えていたが、珍しく察しが悪い。頭に疑問符を浮かべて何故と聞きたがっている彼を「いいから」と催促する。
 恐らく流れからして俺が正攻法ではない卑怯な真似をすると思っていないのだ。自分だってできれば記憶の中だけで賭けたかったが、誤答となるよりはどんな手を使っても勝負に勝ちたいタイプだし、許してほしい。
 不思議そうに瞬きをしながらも立ち上がって俺の隣に回って来た社長に、ぽんぽんとソファーを叩いて隣に座るよう促した。そして腰を下ろすと同時に左手で遠慮なく彼の頬を掴む。当然驚いて身を引こうとするが、がっちりと固定してしまえばこっちのものだ。
「うわ、ちょ、何するんだ……おいっ」
「動かないで」
 失礼します。小さく宣言して右手に持っていたグロスを、社長の唇へ。真っ赤なそれが下唇に触れた瞬間にびくりと体を強張らせて固まっている様子がなんだかいじらしく、目を丸くしたままろくな抵抗もできていないので存分に塗らせてもらうことにした。端から端まで、むらを作らないように丁寧に縁をなぞる。罅割れ一つない皮の上はメイクアーティストではない自分が触れてもわかるほどに乗りが良かった。モデルと違って特段ケアはしていないと思うから天然の産物だろう。通りで一度キスするとやみつきになるわけだ。
 薄く形の良い下唇を赤く染めたら次は上唇も同様にグロスで色付け、ふと視線を口元から逸らすと眼力の強い双眸と至近距離で目が合った。
「……そんな睨まないでほしいんスけど」
 不快そうに両目を眇められ思わず苦笑する。しかしグロスとおそろいの右眼に、髪色。こんなにも強烈な赤が似合う人は他に居ないと断言できるまで目を奪われていれば、ねめつけられたところで煽られているのかと勘違いしてしまいそうだ。
 俺は透明のグロスくらいなら割と撮影時に使用されることも多いから慣れているが、彼はもちろん違う。赤司グループの新商品や試作品はよく試していると言ってもまさか女性用の化粧品を日常的に使うわけがないし、唇を彩られるのはきっとこれが初めてなのだろう。違和感からか僅かに眉を顰めている。実際に自分に施されている経験があるおかげで我ながら上出来に塗れた為、ぷるんと潤う赤色の唇がまるで女の子のそれみたいだと言ったら殺されるかもしれない。
「いやー……なんつーか、こう、社長って見てるとほんとぐちゃぐちゃにしたくなるくらい整ってて綺麗な顔してるよね」
「お前のことはそのうち葬ってやる」
 慎重に言葉を選んだのにどっちにしろ殺されている。
「……余計な感想はいいから、これで、わかったのか。ブランド名」
 暴言を吐きつつも照れ隠しに近かったのか、だんだん恥ずかしくなってきたらしく俺を視界から追い出すように伏し目がちに尋ねられた。睫毛が影を作り、この上にアイシャドウを乗せて色白の頬にチークをまぶせば本当に女性のような美しさを保てそうだと感じる。眉は弄らなくていいだろう、十分整っている。
「んー? ちゃんと見せてくれないとわかんないっス。こっち向いてよ」
 顔を覗き込んでわざとらしく囁くと案の定体を引いて拒否を示された。そのままソファーの端に詰め寄って俺から距離を取る様子は可愛かったが、洗ってくる、と早口に告げて立ち上がろうとするのは芳しくない。せっかくの口元を手で覆うなんてもっとだめだ。グロスはテーブルに置いて手首を掴み腰を引き寄せ、もう一度、無理やりに座らせる。
「なーんで逃げんの。似合ってるのに」
 後ろから耳元に吐息を吹き込むとその肩が小さく跳ねている。
「やめろ、黄瀬。いい加減にしないと怒るぞ」
「グロス塗るの初めてっスか?」
「……当然だろう」
 社長の言い分を無視して聞けば、僕は女じゃないんだ、ときっぱり言い切られてしまった。へー、女役は進んで引き受けるくせにね。……なんていう反論は心の中だけで留めたはずだった。が、自分の意志に反してうっかり口に出してしまっていたらしく、慌てて閉口した頃にはとても不機嫌そうに視線だけこちらに向けられる。今のはさすがにまずい。
「ごめんごめん、ふざけすぎました。シャネルのルージュアリュールグロスでしょ」
 体を離して両手を上に、投降のポーズを取って答える。存外あっさりと解答できたからか、社長は目をしばたたかせて驚いているようだ。大きな双眸を丸く見開き、あっけらかんとして真っ赤な唇が少し開いている。
「……わからないと思ったのに」
「あんたの唇が女の子みたいだからわかっちゃった」
 はいはい睨まない。
「っていうのは半分嘘で、社長、ヒントくれてたじゃないスか。ミブチさんのお気に入りだって」
 だから思い出したのだ。初めて五人で飲んだあの日にミブチさんは私物の化粧品を広げて桃っちにいろいろと紹介していた。その中にこのグロスが入っていて、かなり重宝していたことを。
「あの時にブランドは見てたんで」
「ああ、なるほどな……迂闊に口走るんじゃなかった。正解だ」
 ミブチさんの名を出したのは俺が答えを導き出せるようにわざとなのかと思ったが、どうやら違ったらしい。お喋りな自分の失態に頭を掻いて苦笑した社長は立ち上がって「落としてくる」と言う。一刻も早く洗い流したくて仕方がないようだ。さすがにこの展開は予想していなかったのだろう、揃えた化粧品の中にクレンジングは入っていない。
 今度は引き止めなかった。少し勿体なくも感じるけれど彼は当然午後も仕事を控えているわけで、あまり強請ると本当に怒られてしまう。そもそもいい加減帰らなくては、貴重な昼休憩の時間を奪っているのではないだろうか。何の為に呼び出されたのか未だによくわからないが時刻を確認しようとスマホの画面を見遣った時だった。黄瀬も来い、と部屋を出ようとしている社長に声を掛けられる。
「俺も?」
「廊下で誰かに会ったらどうしてくれる」
 この階は彼以外に出入りしないんじゃなかったか?
「いいけど……ていうかどこで落とすんスか」
「洗面所に決まってるだろ。鞄は置いといていいよ」
 言うや否やこちらの返答も待たずに扉を開けて先に進まれてしまい、慌てて遠ざかる後ろ姿を追った。ソファーの隅に鞄を寄せると同時、振り返ればセンターテーブルの上には様々な化粧品が取っ散らかっている。この状態を他人が見たら何があったのかときっと疑問符を浮かべるだろう。



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