自分が幸せである必要はないことに初めて気が付いたのは、高校生となって遠距離恋愛というものが開始されてからだった。恋はお互い幸せでなければ成り立たないと思っていた幼い持論はとうに消え、あの人が幸せそうならいいや、と、自棄ではなく心の底でその思考に至ってしまう。電話越しに聞こえる穏やかな声が、たまに届く手紙の落ち着いた文面が、数ヶ月に一度会える変わらない姿が――見ていて苦しくなさそうであれば俺はほっと息をつく。恋人の幸福をひたすらに願う自分を客観的に覗くとなんだかおかしかったが、つまるところそれが本心なのだから仕方がない。繰り返す。俺は別に幸せじゃなくてもいいのだ。理由は簡単、今の状態で十分な幸福を得ることは単純に無理だから。二年以上続ければ遠恋も慣れたし我儘だって少しは我慢できるようになった。それでも、最愛の人が数百キロも離れて過ごしているなんて現状で、俺は満足できるほどいい子じゃないことも、事実である。
 赤司っちが京都で楽しそうに暮らしている報告を聞くたび、恋人として嬉しく感じると同時に、どこか悔しく、どこか寂しくもあるわけだ。自分がいなくたってあの人は確かな幸せを掴めるだけの人間性を持っている証拠。どんな時でも強く気高く前を見据え、己の道を迷わずに突き進む背中に惚れて追い掛けた俺が言うのだから間違わない。断言しましょう。赤司っちはこの俺が隣で支えていなくても絶対に幸せになれる。それをこの数年間、京都へ行くには新幹線で往復二万以上かかる神奈川なんて不便な地から、ずっと願い見守ってきた。でなければいつこちらへ強引に連れ戻したかわからない。
「でも……今度は俺が、赤司っちを……し、あわせに、してあげたいっス。ちゃんと隣で、ずっと」
 俺が幸せである必要はないけれど、というかそう思わなければ遠恋なんてやってられなかったけれど、本音を言うと君に幸せをあげるのは常に自分でありたいのだ。この先いつまでも俺の隣で笑っていてほしい。十五歳から十八歳まで抑えてきたんだし、ちょっと欲張ってもいい、よね。だから、何が言いたいってその、あのですね。
「そ、卒業したら……」
「一緒に暮らそうか」
「待ってなんで先に言うの」
 今すごい真剣に言葉選んでたんスけど! と文句を口にすると、赤司っちが吹き出すように笑った。
「ごめんごめん、じれったくて」
 空気を読むのは得意なくせにわざとそんな風に言うのだからタチが悪い。計画が崩れた俺は途端に気恥ずかしさが込み上げ、口元を手で押さえながら笑い通しているひどい恋人を思い切り抱き締めて誤魔化すしかなかった。肩口に顔をうずめ、内心で溜息をつく。すると俺の背中に両腕を回した赤司っちが弾んだ声でこう続けた。
「僕はもう十分、幸せなんだけどな。……幸せすぎて、怖いくらいだ」
 抱き締めているせいでそう告げる彼の表情は窺えなかった。ただ二人の意思が通じ合って、想い合って、未来を約束できたことが嬉しくてたまらない。進路を決定しなければならない夏を迎える前に同棲を決めた高校三年生の自分達はとにかく互いに夢中で、友人にはこのバカップルがと鬱陶しがられたこともある。些細で、でも大きな幸せに、浮かされていたのだろう。
「……ねえ赤司っち。プロポーズは、俺から言わせてね」
 まだ口にしたことはない一世一代の愛の誓いは二人とも結婚できる歳になったらにしようと、自分の中で取り決めていた。もちろん世間は同性婚を認めないが関係ない。相手も十八になったら、俺から、きちんと向き合いたい。
 ぴたりとくっついたまま甘く囁けば意味を理解した赤司っちが一瞬驚いたように目を見開き、それから左右に瞳を泳がせた後、二、三回瞬きをして結局俯いてしまう。すっかり伸びた前髪が被ってよく顔が見えないが、真っ赤な髪から覗く耳が羞恥に染まっているので疑う余地もないだろう。あまりの可愛さに胸がくすぐったくなる。気を緩めれば今すぐにでも愛を口走りそうなものの、まだ七月。まずは都内の国立大学に指定校推薦として枠が決まっている赤司っちの近くに少しでも居られるよう、(さすがに国公立は無理だけど)同じ区内にある私立校に入学すべく猛勉強をして、進路の心配を無くすのが優先だ。それから新居を決めて、贈り物も用意して。
 冬まで待っててと、恥ずかしさに下を向く相手を掬うようにキスして言うと、滅多に泣かない赤司っちの双眸が微かに潤んでいるように見えた。それでも気のせいということにしておいてあげなければならない。へたに指摘したらまた俯かれてしまうから。
「ああ……待ってるよ。涼太」
 僅かに震えた涙声でそう呟いた恋人は、相変わらず十五センチ以上ある身長を埋める為に少し背伸びをして口づけを返してくれた。
 その宝石のような両眼に浮かんだ涙の意味を、まだ知らない、幸せな夏だった。




こ の 恋 が き み を 傷 つ け な か っ た と き が あ っ た な ら



「――は?」
 事の起こりは唐突である。それは高校最後のウィンターカップが終わり、海常のユニフォームを脱いで丸一日が経った頃だった。
 バスケの道を将来の選択肢から外した俺はスポーツ推薦では進学できなかった為、過去の先輩達と同じように引退した途端に勉強三昧の日々である。第一志望のレベルは担任にやめておいた方がいいと忠告されるほど高かった。それは俺もわかっていた。目も当てられない自身の評定平均では推薦など始めから通用しなかったし、試しにやってみたAO受験も面接は高得点だったが案の定、小論文で落ちた。だからやはり一月の入試に全てを懸けるレールしか自分の前には敷かれず、それでも模試の結果では未だにA判定を貰えたことが一度もない。はっきり言って、このままではかなり厳しいだろう。
 努力した上での浪人なら咎めないと赤司っちは言ってくれた。安定した成績を得られていない俺が志しを高くし、上の大学を目指すことに対しても――お前が本気なら諦めずに挑戦するべきだ、とも。でも、それでもし番号がなかったとして、あの人が大学を卒業する時に(一浪の場合)やっと四年生になるなんて遅れはきっと自分が許せない。何が何でも合格して来春にはちゃんと大学生となりたい、なるんだと決意すれば、嫌で嫌で仕方なかった問題集と向き合う時間も自然に増えていく。
 幸いにも、バスケでさえ記憶力を利用してプレーをコピーするスタイルを貫いてきた俺はそれなりに暗記が得意だった。おかげで世界史や古典常識、英単語については毎朝の電車内で詰め込めばどうにかなるのである。英語は中学の時に唯一赤司っちに褒められたことがあるくらい、主要教科の中ではマシな方だ。もちろんセンターに立ち向かう以上長文読解や速読力が必要になってくるわけだが英単語に強いだけで大分違う。そんなわけで英語はいい。国語と世界史も許容範囲だ。問題は真面目に勉強を始めた夏からの課題である理数が今になっても完全に克服できていないことであり、年末はそれに費やそうと勉強机に過去問を広げた瞬間――不意にスマホから音が鳴り、通話に出た時の話である。時間制限を設ける為に隣に置いておいた時計は午後六時を回っていた。
「え……? な、なに……冗談っスよね?」
『冗談じゃないわ』
 機械の向こうから聞こえてくる一言は女口調でありながら男の声だ。元洛山の選手であり、今は大学一年生の実渕さん。電話帳に登録していない非通知表示の彼とまともに話したことなどほんの片手で数えるほどだった為、電話に出るなり何の用かと驚いた。しかし用件なんて、聞くべきではなかった。聞きたくなかった。
 淡々と、けれど真剣な声色が事態の重大さを伝える。耳を疑って聞き返した俺は目を見開いたまま、きっと顔が不自然に強張っているだろう。衝撃のあまりスマホが右手から滑り落ちなかっただけ上出来だと思う。
『黄瀬ちゃん。落ち着いて……しっかり、信じてね』
 やめてくれ。
『征ちゃんが、』
「ま、待ってください」
 聞きたくない。言わないでくれ。
『聞いて! 私だって何度も言いたくないのよ』
 相手の声も震えていた。

『――征ちゃんが……今朝、事故に遭ったわ』

 痛いほど静まり返った室内に響く一言一句に、さあっと血の気が引いていく。目の前の問題文などすっかり霞んで視界から追い出されていた。ぐらぐらと眩暈がし、面白いくらいに頭が回らない。二回言われても全く咀嚼できない。――赤司っちが、赤司が。
「…………事、故……」
 やっとのことで喉から絞り出した二文字をこのスマホはなんとか音として拾ったらしく、そうよ、と相槌が返される。しかし信じることなどできるわけがないだろう。口の中が乾き切って呼吸がしづらく、二つの肺を締め付けられているようだ。
『東京からこっちに帰ってきて、寮に戻る時にね……。子供がボールを追い掛けて道路に飛び出したのを、征ちゃんが、止めようとして――』
 何も耳に入ってこなかった。経緯も理由も。ただ脳が嘘だ冗談だと反発するばかりであり、事実を受け入れることを放棄しようとする。だって赤司っちが、ありえないだろ、そんなこと。昨日までウィンターカップの会場で会っていたんだ。いつもと変わらない姿をちゃんとこの目で見ていたんだ。実渕さんがどこで俺の電話番号を得たのかも、何故あの人の恋人であることを知っているのかもわからない。赤司っちに聞いたのだろうか、あれだけ他人に知られることを嫌がっていたのに。
 どうでもいい思考にしか辿り着けないほど脳裏がぐちゃぐちゃになっていたところで、『あなたには……最初に言っておいた方が、いいと思ったの』という言葉だけは鼓膜にきちんと届いた。ああやっぱり、俺達がそういう関係であるとは認識しているらしい。
「だ……大丈夫なんスよね……?」
 まだどうにかしてそこまで深刻な事態ではないはずと希望を寄せている自分がいた。この期に及んでと思われるかもしれないが、いきなり事故に遭ったなんて言われたって、無理だ、わけがわからない。頼むから大丈夫だと言ってくれ。ちょっとした接触くらいの事故で、別に大した傷は負っていないと。元気にしていると。
――ところが僅かな希望は無残にも捻じ伏せられたのだった。『大丈夫、だけど、』と続けられた返答に恐ろしいほどの不安が募る。いつの間にか握り締めていた左手がかたかたと震え、全身が嫌な汗を掻いていた。
『命に別状はないし、今のところ外傷自体はそんなに重くないから、手術をする必要もないだろうって……でも……』
「…………」
『でもね、……記憶が――』

 ばたんっ! と自室の扉を勢いよく閉めて階段を駆け下りていく。そのまま玄関に向かうと、いきなり家中に鳴り響いた騒音を不審に思った姉がリビングから顔を覗かせた。
「ちょっとどうしたのよ! もうすぐ夜ご飯できるから――」
「ごめん、京都行ってくる」
「は!?」
 無駄な会話をしている余裕はなかった。
「えっ、ちょ……待ちなさい、涼太!」
 呼び止める声を無視して家を飛び出し、焦っているせいで履き切れなかった靴に無理やり足を押し込む。鍵を閉めなければなど頭の片隅にもない。真冬の六時過ぎ、太陽が落ちて暗くなった町を全速力で走って最寄り駅まで急ぐ。吐き出す息は真っ白に染まっていた。
 通勤帰りのサラリーマンが地元へと戻ってくる中、俺は逆走するかのように定期で自動改札機を通って桜木町行の快速電車に乗った。その途中の新横浜駅で人混みを掻き分けて降り、空いていた券売機で新幹線の自由席券を購入する。まだ動揺が収まらないまま、ボタンをタッチする指が震えそうだった。ちょうど五分後に発車する予定ののぞみ249号。片道一万二千八十円のそれを選択し、支払って出てきた特急券と乗車券を握り、再び改札へ。
 階段を上った先のホームは凄まじい状況だった。年末、帰省の時期ともろに被っている為、アナウンスでは乗車率が百五十パーセントなどと伝えている。それでも構わずに乗り込むと通路の間で大量の人に押し潰された。周りの家族連れや一人暮らしをしていそうな大学生が皆キャリーケースを引いているのに比べ、俺は鞄すら持っていない。ジーンズのポケットに財布と定期、それからスマホしか、あの状態で手に出来るものはなかったのだ。財布に万札が偶然入っていたのは幸いだったのだろう。カードで下ろせばあるが、今の中身では往復分のチケットは買えなかった。
 練習中でも出さないような力で走り切ったおかげで乱れた呼吸を徐々に整え始めた頃、漸くコートさえ着忘れていたことに気付く。長袖のシャツにウールの黒カーディガン一枚なんて、暖房の効いた部屋ではいいにしても十二月の外出にはいくらなんでもそぐわない。先程から周りの視線をなんとなく集めている理由はモデルだとバレ始めていることに加え、その点も重なっているようだ。しかし車内は暖かかったし大衆に混ざっているせいか、肌寒くは感じなかった。
『病院名を教えてください』
 電話番号を知らなかった実渕さんのアドレスなど更に知り得なかった俺は、着信履歴から彼の番号を選び、ショートメールを使って端的にそう送った。
 とにかく冷静になる必要がある。まずは、赤司っちに会おう。最悪の予想を避けるように頭を振り、深呼吸をして嫌に心拍の速い胸元を右手で押さえ付ける。そして、そういえばどこの病院だか聞いていない、と思い至ったのだった。あの通話もろくに理解できないまま切ってしまったし、今ここで電話ができそうな空気でもない。
 固唾を呑んで待っていると返信はすぐに来た。初めて目にしたその名前を検索に掛けたところ、京都駅から近いとある総合病院らしい。アクセスページを開き道のりを頭に入れてブラウザを閉じる。これ以上、病棟や診療について載っている画面を見るのが恐ろしく、ましてやあの人がどこの病室に居そうなのか考えることなど出来やしなかった。ぎゅ、とスマホを握り締め、俯いて祈るように目を瞑る。
(赤司っち……)
 声が聞きたい。顔が見たい。触れたい。昨日までこの視界に映り、笑っていた大切な姿を思い浮かべ、苛む焦燥感を紛らわすことでしか正気を保てそうになかった。実渕さんの話を咀嚼することが怖いのだ。まだ自分で確認するまでは信じたくない。――京都まで二時間。名古屋駅を過ぎた頃には座っている乗客のほとんどが眠りに落ちていたが、俺は静かな空間で車窓から過ぎ行く景色を見詰めながら、最愛に起こったことがどうか悪い冗談でありますようにと切に願い続けた。

 八時半過ぎに京都駅に着くと、人混みに流されるがままにホームから抜けたようなものだっただろう。容赦のない寒気に身が震え、改札を出て数ヶ月ぶりの京都を目の当たりにした瞬間に一度立ち尽くしてしまった。ずっと逃げ続けた思考が冷酷に現実を伝えようとする。これから俺は病院なんて一生関わりたくもない場所に、信じたくない出来事を確認する為に行くのだ。じゃり、と一歩踏み出した右足が恐怖に竦んでいるのが何とも格好悪い。覚悟も勇気も萎んでいる。
 新幹線の往復分を買わなくてよかったとさえ思った。もし今、財布に十分なお金があるか、帰りの券を持っていたなら、会う前に逃げ出していたかもしれない。
「……行かないと……」
 決意を固める為に一つ息をつき、車内で脳にインプットさせた地図の通りに歩みを進める。ゆっくり、自宅から最寄り駅まで全力疾走したのがまるで無駄に思えるかのようにとてもゆっくりと足を動かした。余計なことを考えると立ち止まってしまいそうで、前は向かずに地面を見続けて歩く。自分でも思っている以上に足取りが覚束ないせいか、何人かにぶつかっては顔を顰められた。
 そして病院までの道を間違えずに辿り着けたのは、京都の駅周辺をそれなりに知っていたからだろう。高校二年の頃には遠恋に耐えつつも会いに行く頻度は増えたし、それもほとんど俺がこちらに出向いていたのだから当然だ。長期休暇の時にのみ帰省する恋人と違って自分は会いたくなったら前触れなく訪ねることも多い。部活がオフの日は日帰りでも神奈川を離れた。一ヶ月に二回会いに向かった時は交通費やら何やらで怒られたりもしたけれど、赤司っちの傍に居られるならそんなものは一つとして厭わなかった。
 三年になってからはさすがに受験勉強が食い込んできたおかげでなかなか会えなくなってしまったものの、それでもこの辺りの土地は覚えている。いつもデートの為に並んで歩いていた街を、まさかこんな鬱蒼とした気分で横切る日が来るとは思っていなかったが。
 実渕さんに教えてもらった名前通りの総合病院が、眼前にそびえ立つ。これほどまでに病院を恐ろしく感じたのは生まれて初めてだろう。病棟と思しき窓の明かりはところどころ消え、真っ暗な夜空に不気味なほどに溶け込んでいた。
 入口の自動ドアをくぐり受付に着くと、大分疲れ切った表情の看護師が俺に目を遣り用件を待っているようだ。
「あ、の……」
 からからに乾いた喉をどうにか唾液を飲み込むことで潤し、意を決して切り出した。「ここに、赤司征十郎って……いますか」笑えるほどに蚊の鳴くような声だったが、張り詰めた閑静さを保っている病院内では聞き取ってもらえたらしい。
 ファイルか何かを確認してから、はい、と返ってきた一言が心臓に重く圧し掛かる。
「……会いたいんです、けど……」
「申し訳ありませんが、本日の面会時間は終了してますので」
 そう言われるとは思っていた。時間制限の存在に気付いたのは病院のサイトを開いた時であり、八時が面会終了時刻では絶対に間に合わないこともわかっていた。でもこのままどこかで一晩を過ごして明日まで待つなんて出来なかったのだ。無理だと断言されても、最初から引き下がらないつもりだった。
「五分でもいいんで、お願いします。一番大切な人なんです。俺にとって……多分、向こうにとっても」
「ご家族の方でしょうか?」
 淡々とした質問にぐっと息を詰まらせてしまう。ここで首を横に振ったら今日は確実に会えないだろう。カーディガンの裾を強く握って、答えた。
「……は、い」
 相手の目を見てしっかりと言えば、「少々お待ちください」とその看護師は席を立って奥に居る上司と思しき人間に相談しているらしかった。これで通らなかったら諦めよう。ただ、将来家族になる予定なんです、俺の中では、否、多分あの人の中でも、と先程と同じような主張を内心で付け加えておく。
 渾身の嘘はあまりに強引なものであり、結果は期待していなかった。おかげで数十秒経って受付に戻ってきた看護師の返答に目を見張ることとなる。
「――お待たせしました。ではこちらの面会名簿に必要事項を記入して、面会カードを首から下げていってください」
「えっ、い、いいんですか」
「はい。赤司さんの病室は五階の個室ですので、他の患者さんを起こすこともないでしょう。それに夕方、意識が戻ったばかりなので……夜中はご家族の方が近くに居た方がご本人も安心されると思います」
 彼女の説明に眉を寄せるほかなかった。――意識が、戻ったばかり。本人の状態を直に見ていないというのに外から与えられる情報に益々頭の中が鈍く麻痺していく。そのまま半ば呆然とした思考でボールペンを持ち名簿に記入してしまったからだろう、氏名欄に『黄瀬』と書いてしまい、しまったと思った。別に家族が必ずしも同姓である必要はないけれど、見たところ同年代でありながら外見で一致する部分が全くなく、それでいて異なった苗字というのはあまり良くない。嘘がバレる。
「あ、えっと……家族っていうか、その、従兄弟で」
 関東に住んでるんですけど事故ったとか言うから飛んで来たんスよ、などと焦ったあまり無駄なことを喋れば喋るほど不審げな目を向けられた。が、それ以上は黙って全部書き、カードを受け取ってすぐにそこを離れれば引き止められることはなかった。

 彼の病室は角部屋だった。エレベーターに乗って受付で知らされた号室の前に辿り着くと、赤司征十郎、と書かれた名札が目に入る。当然のように個室を用意できるのはやはり金銭的な絡みだと思うが、この中に事故に遭った赤司っちが一人で居ることを考えた途端に眩暈がしそうだ。
 白いドアと向かい合って一度深呼吸をする。本来の面会時間を終えた廊下には看護師が一人歩いているくらいであり、物音一つない中で自分の細く息を吐き出す音だけが耳に響いた。自宅を飛び出した時はきっと会うまで立ち止まることはないだろうなんて簡単に決め付けていたけれど、近付けば近付くほど足の運びは重くなっていく。ドラマのように病室に駆け込むことなど出来なかった。ただひたすらに恐ろしく、怯えているのだ。これが全て杞憂だったらいいのに。
 ぎゅうと目を瞑ってから真っ直ぐに前を見詰め直し、震える右手を戒めて取っ手を握る。ドアをノックするという配慮は緊張のあまり頭から抜け落ちていた。
――そして、恐る恐る扉を開け、その先のベッドで横たわった人影に思考が停止した。

「…………あか、し」

 赤司っち。そこに居るのは紛れもなく俺がこの人生において最も大切にしてきた、いつでも恋心を寄せた、好きなひとだった。
 嫌になるほど穢れのない真っ白なベッドの上に寝て、奥の窓の外を眺めていた瞳が呼び声に応えるようにこちらに向く。赤い髪に包帯が巻かれていた。病室に足を踏み入れ、立ち尽くしたままその双眸と視線が交じる。琥珀色の、柘榴色の目が、俺を見てゆっくりと転瞬した。
 何か、言わなければ。
 大丈夫? 無事? 人助けして事故とか何やってんスか、馬鹿、でも部活引退したあとでよかったね、不幸中の幸いってやつっスね、といろいろ、たくさん用意した言葉があっただろう。こうならないように――向こうから名前を呼んでもらえない静寂を破る為に。なのになんで何も言えないんだ。なに泣きそうになってんだよ。
 動揺が思考力を奪い、じわりと視界が滲んでくるのを耐えるしかなかった。ただ微動だにせず見詰めてくる両眼から目を逸らすことはできず、呆然として昔自分が惹かれた目力の強さに俺は何度でも釘付けになるのだろう。たったの数秒が酷く永く感じられた。けれどどこか相手も意志に欠けるような、俺が来ても少しも反応のない、できない状態であることに指先まで冷えていく。それからやっと沈黙を解いたのは、赤司っちの方だった。
 唇を小さく動かして、紡がれた言葉。

「……君は……?」

 聞き間違えるわけもない一言に頭部を鈍器で殴られたかのような痛みを覚える。いきなり交通事故に遭ったなんて連絡が来たから飛んできてやったというのに、なんだよ、それ。君は? あんたの恋人だよ。わかってんだろ。知ってんだろ。
 ちゃんと俺の名前を呼んでよ。
 涼太って呼んで。

――でもね、記憶がないの。

 瞬間、実渕さんの言葉が脳裏に過る。この世の何もかもを忘れたようなまっさらな瞳を向けて答えを待っている赤司っちを見ながら、止めようもなく、頬に涙が伝った。

――はねられた時に頭を強く打ったらしくて、その衝撃で自分の氏名とか年齢とか、基本的な情報以外のことを全て忘れてるわ。まあ、一言で言うなら、……記憶喪失よ。私達洛山のことも……信じたくないけど、覚えてない。バスケをやっていた自分も、キセキの世代も含めて、過去の思い出全部。

 あの時は頭に入ってこなかったはずの一言一句が鮮明にフラッシュバックしていき、それはしぶとく信じていた希望が容赦なく打ち砕かれていくような、絶望的な感覚だった。

――ただ、医者が言うには、一時的なものの可能性は十分にあるって。徐々に思い出していく場合も、あるいは突然全ての記憶が蘇る場合もあるから、諦めないで。今まで一番征ちゃんの傍に居て、隣で笑っていた黄瀬ちゃんなら……あの子の記憶を引き戻すきっかけになるかもしれない。それと忘れないでほしいのは、交通事故に遭って生きているだけでも奇跡ってことよ。どうか、征ちゃんを責めないであげて。……もちろん言うまでもなく、


――あなたと征ちゃんが恋人同士だった記憶も、失くしているけれど。


 ぽたりぽたりと滴る透明な水を拭うことさえできずに動けない俺を見た赤司っちが、あからさまに驚いて上体を起こそうとする。怪我が響くのか痛みに眉を寄せながらも、彼はこう言うのだった。
「す……すまない。友人が言うには、今僕は記憶を失っているようで、何も覚えていないんだ。君は、その……僕の友達だったのか? できれば名前を、教えてほしいんだが……」
 必死に伝えようとするその態度に、余計に涙が止まらなくなった。赤司っちが赤の他人を呼ぶ時に使う『君』も、俺のことを『友達』と言う声もまるで足元を縛り付ける呪いのようで、茫然自失しながらいっそ何も喋らないでくれとすら思った。
(俺の、名前……?)
 笑わせんな、そんなものあんたの記憶の中にあるだろ。自分で思い出せよ。
「……っざけんな……」
 震えた声でぼそりと呟いた言葉は相手に聞こえなかったらしく、ただ不安そうにこちらを見上げられる。俺の存在を一切合切忘れたその純真な両目に映った自分の泣き顔は酷いものだった。見るに堪えず、腕で乱暴に拭ってどうにか涙腺を元に戻さなければと鼻を啜る。
 ごしごしと目元を擦り、下唇を噛んでなんとか涙を止められた。まだ瞳の表面に水が張っているような感覚は残っていたが、体を起こしたことによって布団に隠されていた彼の上半身の状態がまざまざと現実を突きつけたのだ。左腕を骨折したのかギブスで仰々しく固定され、右手を付いて起き上がるだけでも背中に負担を掛けないように苦しそうにしていた。何より頭部の包帯なんて見れたものじゃない。こんな怪我人じゃなければ憤りと悲しみが爆発して今にも殴り掛かっていたかもしれないが、交通事故に遭って生きているだけでも奇跡――その一言も確かに、俺の涙腺を脆くさせていただろう。
 やっとのことで一歩二歩と彼の傍に近付き、ベッドの横でしゃがむ。赤司っちの目線の高さより下になってシーツに置かれたその右手を、包み込みように両手で握った。
 寒空の中、着込まずに外を歩いてきた自分の冷え切った指先に比べ、彼の手は思いのほか温かい。触れ慣れたはずの人肌が随分久しいものに感じ、じわりと心臓が落ち着いていくのがわかる。
(――ちゃんと、生きてる)
 右手を握ったまま自分の額と合わせ、ごく自然にそう思った。あまりの衝撃に大事なことが抜け落ちていたが、まずはこの肌がきちんと体温を持っていることに喜ぶべきなのだろう。
 たとえ記憶を失っていても。
 たとえ俺達が、恋人同士ではなくなったとしても。
「赤司っち」
 ありったけの愛しさを込めて優しく呼ぶと彼は少し首を傾げた。きっとこの呼び方が聞き慣れないのだ。過去の日々を忘失してしまったなら、独特と言われるこの呼称に自分がどれほどの意味を含ませているのか知りようもない。
「……俺は、黄瀬涼太っス。すげー仲良かったんスよ。赤司っちの、一番の友達」
 上手に笑えているだろうか。戦慄く口角を無理やり上げて微笑みかけながらそう言うと、赤司っちはいくらか安心したように強張った頬を緩ませた。「じゃあ親友か」なんて納得したらしいけれど、その言い方なら本来はきっと緑間っちや洛山の人達の方が相応しいだろう。俺はあくまで恋人としてこの人の大切な存在でいたかった。恋人として、幸せをあげたかったのだ。でもまさか二度目の告白なんてできなくて。
「うん。……そんなところかな」
 頷きつつも曖昧に濁す。すると瞬きをした拍子に目尻に溜まっていた最後の涙がつう、と流れ落ちてしまった。慌てて握っていた手を離して拭おうとすれば、それよりも先に赤司っちが右手を伸ばして指先で俺の涙を掬う。
「……ごめんな、黄瀬。思い出せなくて」
 数年ぶりに呼ばれた黄瀬の二文字に一瞬目を見張ったが、ああ、そうか、と心に言い聞かせるしかなかった。いくら仲が良かったと言われたところで今のこの人にとって自分は初対面の人間なのだ。名前でなんて、呼んでもらえるわけがない。
 眉を下げて心底申し訳なさそうに謝られた時、胸の奥では途端に抑え付けていた感情が込み上げた。好きだ、好きだよ、と何度も想う。生きててよかったと、その体を引き寄せて腕の中に収めたかった。
 相手の人差し指に乗った水滴を見てせっかく堪えた涙腺がまたしても簡単に壊れてしまいそうだったが、顔を見られたくない時に赤司っちを抱き締めて誤魔化すという手段はもう使えない。だって、彼は友達なのだから。友達を恋心で抱き締めることはできない。
 手を握ったまま奥歯を噛み締めて、必死に笑顔を取り繕うのが限界だった。


この恋がきみを傷つけなかったときがあったなら(1)
2013.12.20
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