赤司は瞠目した。じっとこちらの反応を窺っている相手の瞳と手元にある袋を交互に見ながら、告げられた言葉の意味を咀嚼しようと頭を働かせる。が、俊才と謳われた脳を使っても甚だ理解し難い内容であった。彼は今、何と言ったのだ。
「……友達?」
 という部分は聞き間違いではなかったと思う。眉を寄せたまま首を傾げると、黄瀬は目を輝かせて大きく頷く。
「だめっスか?」
「駄目も何も……僕は対価を望めと言ったはずだが」
「え? うん、だから、これ受け取る代わりに俺の友達になってください」
 さも当然のように平然と言ってのけられていよいよ頭痛がしそうだった。赤司は他人に金を渡そうとされた事実が同情を買ったようで許せなかったのだ。しかし彼の行動がひとえに厚意故のものだということもわかっていた。家まで送ってくれた親切な人間に、僕は苛立ちのあまり失礼な発言を浴びせたはず。憤慨して出て行かれ、珍しく楽しいと思えた一晩の時などなかったかのように忘れ去られるのだろうと、そう考えていた。
 ところがどうだ。どこまで親切なのかただの馬鹿なのか、それとも純粋にお友達募集中なのか。全部足して三で割ればこんな人間が出来上がるらしい。
「……お前は友達を金で買うのか?」
 反応に困った赤司はついに真顔で聞いてしまっていた。しかしその直後、衝撃を受けたように目を見張る黄瀬のリアクションにしまったと後悔する。馬鹿が馬鹿なりに対価を考えた結果なのだとしたら、またしても相手の感情を踏み躙ったことになる。齢十九でありながら人より優れた頭脳を持ち、同い年の眼前の男をこの三十秒間で“平和ボケしている馬鹿”というカテゴリーに登録した赤司にも悪気はなかった。黄色は平和の象徴と呼ばれることが多い。
 友達を金で買収などと、黄瀬の頭は全くそんな風には捉えていなかったようだ。要するに雇えと言って仲良くなりましょうと返してくる奴である。慌てて弁解しようと口を開くものの、上手く言い訳が思い付かないのか結局何も返せずに俯いてしまっていた。そこまでしおらしくされてはさすがの赤司も疑う気が起きなかった。
「あ……いや、すまない。別に不快なわけではないよ。少し驚いただけだ」
「……だめっスか」
 先程と同様の台詞を、けれど今度はわかりやすいほどにしゅんと落ち込みながら呟かれる。あまりに素直な様子に思わず口元が綻んだ。つい数分前まで感じていた憎悪が嘘のように薄れ、徐々にいつもの落ち着きを取り戻していく。同時に冷たく鋭かった赤司の両眼も本来の暖色らしい穏やかさを映し出し、わかった、と自然に了承の言葉が零れていた。
 涼太と名乗った彼は確かに自分とは違う。どんなに心優しい人間でも他人に己の資金を無償で手渡せるだけの余裕があるという時点で、こんな空間で一日一日を生き抜く為に必死に食べている貧困層とは決して相容れない存在だろう。どれほどの上流階級なのかは赤司にも知りかねたが、それでも彼個人の人柄は身分差を後回しにできるほど好印象だった。だから赤司も、あえて黄瀬の家について聞こうとはしなかった。
 赤司の返事を聞いた黄瀬の表情は途端に明るくなり、幸せそうだ。互いにそれぞれ友人はいるものの、こうして偶然夜の街で出会い一晩で分かち合えたという奇跡もなかなか珍しいだろう。それはひとえに二人を結び付ける強い運命があったからなのかもしれない。
「ありがとう! すげー嬉しいっス」
 屈託のない笑顔はその髪色も相まってまさに太陽のようだった。幼少の頃から暗く先の見えない闇に包まれて生きてきた赤司とは正反対の輝きに、一瞬羨望の視線が混ざる。しかし願いが叶って喜んでいる黄瀬はその僅かな変化に気付くことなく、じゃあこれ、ともう一度袋を渡すのだった。
「どうぞ」
「……でもやっぱり、あんまり良い気はしないが」
 眉を下げて苦笑しつつも、交換条件と押しに負けた彼は底まで金銭が詰められた袋を受け取る。そしてきちんと手に持ったそれは、重かった。手の平が少し沈むくらい圧し掛かってきた重みが同時に赤司の心もずしりと潰してくる。実際に中身を見なくともわかってしまったのだ。この中には自分が昼も夜も懸命に働いてやっとのことで手に入れた一ヶ月分の安い給料よりも、遥かに超える額が入っていること。この男は、それだけの富を持っていること。
 上流階級に対する憎悪や憤りとはまた違った感情だった。ただきっと、今手にあるだけの金が十年前のあの日にあったなら、あんな別れはやってこなかっただろう。自分も両親も同じ空間で笑って暮らしていただろう。そう思うと息が詰まって苦しかった。たったこれだけで良かったのだ。小さな袋一つで足りる金貨さえ恵まれなかった赤司に、現実を突き付けた黄瀬の厚意は一方で酷なものだった。
 久々に下級市民ではない人間と触れ合ったからか、赤司本人も自覚のないうちに情緒が不安定となっていたらしい。悲しい、羨ましい、濁った感情が渦巻き出し、その結晶が知らぬ間に形となって表れた。
「えっ、ちょ……赤司っち?」
 なんで泣いてるの、と顔を覗き込んで心配そうに聞かれた一言で、漸く己の頬に一筋の水滴が伝っていることに気付く。しかし黄瀬以上に赤司の方が驚いていた。まさかこの歳にもなって涙を流す日が来るとは思っていなかったのである。
 赤司は生まれ持った聡明な脳と耐え抜いてきた環境の中で身に付けた強さを武器に、弱気になることなど滅多にない。心は常に気丈であり、でなければこの九年間を独りで闘えたわけがなかった。目も当てられないほど荒れ果てた街の姿に希望が消えていこうと、人間の薄汚い欲望に犠牲を増やそうと、双眸から徐々に光が失われていくだけで涙など一切出ない。ところが黄瀬の赤司に対する純真さはそれを覆した。拭えない溝と、捨てたはずの理想を掘り起こされた赤司は数年ぶりに瞳に光を映す。それは黄瀬の眩しさそのものだった。
「ご、ごめん、俺のせい、だよね……」
 反対に、黄瀬はわかりやすいほどに狼狽えていた。何せ愛された王子である彼は生まれてこの方誰と接しても喜ばれるだけだったのだ。国民にとってはあの涼太王子と対面できる機会などあれば一人余さず喜色満面の様子であり、涙を見せるとするならそれは歓喜によるものに他ならない。しかし今、呆然としている赤司の両目から止め処なくはらりはらりと零れ落ちる透明の雫は、どう見ても悲しみから来るものだ。自分が渡したものを受け取って泣かれればさすがに理由は明確である。黄瀬もまさか――赤司が憤って声を荒げた時も思ったが――まさかこの程度の金で精神が揺らぐほど己と生き方が異なった人間だとは予想していなかった。
 この程度の金。そう自然に考えてしまう時点で、二人は完全に別の世界で生きているという現実を、黄瀬はまだ理解しきっていない。
「違う……お前の、せいじゃない。すまない。……こんな、みっともないところを」
 涙腺が元に戻らないのか途切れ途切れに謝られ、いよいよどうにかしなければと焦り始めていた。そんな情動から勝手に体が動いたのだろう。みっともないところを見せてしまってと赤司が全て言い終える前に、手を伸ばした。次の瞬間には黄瀬より一回り小さい赤司の姿は彼の腕の中にちょうど良く収まってしまう。
 二人の体に挟まれた袋の中で、互いの価値観の違いを象徴する金貨がかちゃりと音を立てた。
「涼太……?」
「見られたくないなら、この方がいいでしょ。……それに、ほら、友達だし」
 いきなり抱き締められてびくりと肩を強張らせるものの、宥めるように頭を撫でるその人肌は温かく、優しかった。慰め方を知らない黄瀬の下手な言い分に小さく微笑み、ありがとう、と呟く。冷えた部屋の中で心地良い体温に赤司も身を委ね、静かに流れ出る涙を無理に抑えることなく彼の胸で暫く泣いていた。


 ◆


 黄瀬の一日が変わった。否、正確に言うと、夜の過ごし方が限定的になった。今までは城を出て足を進める方向など一定ではなく、その時の気分で街をふらついていた。が、最近は向かう先と言えばかなり限られている。そしてそのほとんどが彼の居る場所――赤司の自室だ。集合住宅だとは思うのだが赤司以外の人間と周辺ですれ違ったことはなく、隣人の部屋は自分が来る頃にはいつも真っ暗だった。しかし当然だろう、何せ黄瀬が外へ出るのは決まって夜が更けてからだ。普通は皆寝ている。彼だって夜中はこうして出歩いているものの朝方には城へ戻って黒子に起こされるまでぐっすりと眠っているし、用が無ければ昼間や夕方でも割かし睡眠を取っている。しかし赤司は日が昇っている間は働いていると聞いた上、どれだけ遅くなっても窓から漏れ出る明かりが目印となっているのだった。じゃあ一体いつ寝ているんだ?
「眠い時は寝てるよ」
「そ、そうじゃなくて」
 淡々とした返答は思っていたものと違った。もう何度かこの部屋に出入りしている黄瀬は、今日も薄いベッドの縁に腰掛けた状態で赤司に話し掛ける。
「夜は俺と会って、昼間は仕事してるんでしょ? 寝る時間なくね?」
「そう思うなら来る頻度を考えてくれ」
 ご尤もな切り返しに、う、と言葉を詰まらせた。赤司の言う通り、三週間前に出会ってからというもの、黄瀬はかなりの頻度で彼のもとへ訪れているのだった。三日に一度は必ず会っているし、赤司にいいと言われたら連日で居座ることもある。――そう、ここへ来る為には赤司の許可が必要なのだった。明日はいいよ、明後日はだめ、その次の日は、まあ、いいかな。と、別れ際に赤司は思案する。まあいいかなとなんとなく返答を濁した時は翌日にもう一度確認を取り、確実に可のサインが出た日にだけ黄瀬は赤司の家を訪れた。
 だめと言った日の、来てはならない理由は知らない。本人が明かそうとしないことをわざわざ聞き出せるほどまだ距離は近くなく、大人しく納得して了承の相槌を打つのみ。ただ黄瀬は睡眠の為だろうと安易に考えていたのだった。そりゃあ毎日真夜中に会うのもおかしいだろう。だからと言って昼間は黄瀬は城から抜け出せない。絵の具を塗りたくったような濃紺の夜空に幾個の星が瞬いている間だけが、彼らの逢瀬。もっとも、ただの友人同士にその表現は相応しくないのかもしれないが。
 黄瀬は赤司のことを自分でも意外なまでに気に入っていた。城内の面積の百分の一もあるかわからない小さな部屋には娯楽用品など一つも無く、いつも座っているこのベッドだって特別心地の良い肌触りなわけでもない。快適さで言えば比べる方が馬鹿馬鹿しいくらい王城が断然勝っているだろう。しかし居心地の良さで言えば、もしかしたらこちらの方が上なのかもしれなかった。城の中ではどこを歩いていても王子への熱い視線が集まり、少しでもらしくない行動をしようものなら咎められる。形式ばった式典、マナーを叩き込まれた食事、多岐に亘った勉強に訓練、いくら慣れているとは言え外へ出た瞬間に尚更城での息苦しさを思い知る。
 そんな中で赤司だけは黄瀬を王子としてではなく一人の人間として、一人の友達として接してくれていた。もちろん赤司自身、黄瀬の正体に気付いていないのだから当然だ。王女や王子の姿形は国民の前に出る儀式の際にだけ垣間見ることができるものの、どうやら赤司はその類には一切顔を出していないようだった。これはなかなか珍しい。新年の迎えや国の体制が新しくなった記念日など、民に愛された黄瀬王家が礼装を身に纏い城外へと足を踏み出した時には、ほとんどの人々が国の中枢である大路に整列して王家へと手を振る。この時ばかりはフロート車に乗って現れる現国王と王妃、そして二人の王女と一人の王子に対し頭を下げず見上げることを許されているのだった。王族直属の軍楽隊が先頭を率い、大柄の旗手が最前と最後尾の二か所で黄瀬王家の紋様が描かれた巨大な旗を翻す。要するに一種のパレードだ。華やかな祭典は年に何度か行われ、それも国民を愛している黄瀬の父親の意向であった。王家と市民たちの距離を縮め、手を取り合ってこの国を隆盛させていく為に。そう謳われた式の間は黄瀬が唯一民の顔をまともに眺める瞬間であり、そこに居る国民の顔は皆一様に幸せそうに見えていた。
 だから黄瀬の顔も市民に広く知れ渡っているのだ。そう思っていた。しかし赤司は違い、何度会っても彼がこの国の王子であるなどとは少しもわかっていない様子だった。黄瀬涼太、の名は恐らく聞けば認識するだろう。赤司の部屋に存在する膨大な書物の中には国の歴史や政治に関するものも多量に含まれている。けれど最新と言える書籍は見当たらない為、十五歳となって漸く正式に表に出られるようになった黄瀬の写真はどこにも載っていないはずだ。そして涼太という名前自体は言うほど珍しい部類ではなく、顔を見たことがないとなればその上に続く苗字が黄瀬だとは全く考え付いていないらしい。まあ、たまたま出会って話が弾んで友達になった同年代の男が、実は一国をまとめ上げる王家の第一王子などとは思うまい。黄瀬にとって赤司が自分の素性を知らずに居てくれることは有難かった。
「この本は何?」
 本棚にびっしりと詰められた数々の書物はどれも紙が少し縒れていて、黄ばんでいるものもある。そのうちの一冊を引き抜くと背表紙に加えて表紙までもが薄れて見えなくなっていた。タイトルがわからない。
「それはおとぎ話だよ。大きな国の王子様と、貧しい村の娘が恋に落ちる話だったかな」
「あー、ありがちっスねえ……ていうか赤司っちってそういう物語も読むんだ」
 ぱらぱらと中身を捲りながら黄瀬の意識は内容よりも赤司へと向いていた。二度目にこの部屋に立ち入った時から本は好きに読んで構わないと許された彼は、時たまこうして気になったものを取り出してみるのだった。初めは頭が痛くなるような読書なんて全く興味を持っていなかったものの、何せここにはそれくらいしか物がない。そしておずおずと手に取ってみると必ず赤司がその本について話してくれる。隣に並んで、本を開く黄瀬の手元に目を遣りながら。
「普段はあまり読まないけどね。その本は……昔好きだったんだ」
 だから捨てられなくて、と眉を下げて微笑している。赤司は会う度に思いの外いろいろな表情を見せた。お堅い思考の持ち主ではあったが、黄瀬の言葉にはよく笑い掛け、世辞のない反応を返す。禁句として胸に仕舞っている童顔さも相まってか、ふと自然な笑みが零れ落ちる時の赤司の表情はいくらか無邪気な子供のようだ。
「身分違いの恋っスか」
「まあ、そうだね。王子様はずっと自分の正体を隠して娘と会っていたから、それがバレてから上手くいかなくなってしまうんだ」
「えー……なんでバレちゃうかなあ」
「馬鹿だからだろ」
 躊躇うことなく一言で片付けられて黄瀬は苦笑した。でも、と赤司は続ける。
「娘はそれでも、馬鹿な王子様のことが好きだったんだよ。一生、一緒に居たいと思ってた。なのに二人の仲を裂かれたことがどうしても辛くて、苦しくなって……」
 そこで口を噤み、肝心な部分を濁されてしまう。こうも焦らされては気になるというもので「苦しくなって?」と促したが、本から視線を外した赤司は黄瀬を見上げながら言った。
「秘密」
「えぇ!?」
「オチを言ったら面白くないだろう。それ貸してあげるから、読んでみたらどうだ?」
 口角を上げて楽しげに提案され、反対に黄瀬は不服そうに小さく口を尖らせる。読書家でないことは赤司もわかっているはずだ。が、あんな中途半端なところで止められては続きが知りたくなるし、物語なら小難しい専門書を読むより大分楽だろう。迷ったもののそう結論付けた黄瀬は、言われた通りその本を借りることにした。
 本人によれば本棚の中におとぎ話というのは確かこれしか残っていないらしい。あとは見るからに現実的な書物ばかりである。嫌々ながらも日々勉学をさせられている黄瀬とは比にならないくらい、赤司は頭が良く、そして博識だった。どの分野においても人並み以上の知識と思考力を得ていることは徐々に黄瀬も実感するようになり、情報自体は彼が自ら集めたものだとしても、物事を的確に判断し見極める力については生まれ持った才なのだろう。赤司は絶対に間違わないのだ。城が雇っている家庭教師に毎度出される宿題が鬼のような内容で、大学の課題が進まない手伝ってほしい、と赤司に泣き付く回数も増えた。
「お前な……そういうのは自分でやらないと意味がないぞ」
 その度に彼は呆れたように溜息をつく。
「わ、わかってるっス! でも今回のやつマジで難しくて、俺だけじゃ絶対終わらないし明日提出だし今こそ赤司っちの力が必要っていうか……ほんとお願いします、今回だけ!」
 ぱん、と両手を合わせて頼み込むと、赤司は目の前に出された白紙の課題プリントを手に取って黄瀬の頭をぺしんと叩いた。
「毎回そう言ってる」
「うっ……すいません」
 肩を落として項垂れる。さすがにいつもいつも同じ言葉を並べていては効力も薄れて当然だ。今度こそ無理か、と諦めかけた心で引き下がろうとしたが、十数枚のプリント全てに目を通した赤司は暫く考える素振りを見せてから口を開いた。
「……いいよ。この程度なら僕も教えられそうだ」
 聞こえてきた救いの一言に黄瀬の顔が明るくなる。
「ほ、本当に!?」
「ああ。夜中に僕と遊んでいたら本業が疎かになった、なんて言い訳をされたらたまったものじゃないしな。……ただし、教えたことはちゃんと覚えろよ?」
 心底困ったように笑っているが、なんだかんだ引き受けてくれる赤司の優しさが黄瀬は好きだった。うん、ありがとうと破顔して返し、嬉しさのあまり赤司に抱き付く。動物が懐くような彼のスキンシップは今に始まったことではなく、最初こそ驚いたものの赤司も少しずつ慣れていった。「はいはい、早く始めるぞ」自分より大きな背中を軽く叩いて声を掛ける。
 この程度、と赤司は言ったが実際黄瀬に与えられる課題というのは大学に当てはめても驚かれるほど難解なものだ。しかしそれを赤司征十郎の脳では赤子の手をひねるかのように扱われるのだった。一体どんな問いだったらこの程度のレベルから脱せるのか、黄瀬には想像もつかない。
 ちなみにでは黄瀬は今までの課題をどうしていたのかと言うと、それこそ手懐けた賢いメイドに頼んだり、黒子に助言を得てなんとか解いていたくらいだ。もちろん後者においてはミスも多く、家庭教師には厳しい評価を浴びせられていた。勉強が全く出来ないわけではないし頭の回転で言えばかなり優れているものの、次期国王を任せられた身としてはまだまだ学力が足りていない。しかも本人に向上心はあまり見られない。頭を悩まさせていた教師からすると、ここ最近の黄瀬のきっちりと期限を守った課題提出とその正答率は大変喜ばしいものであった。――が、その実、並外れた頭脳を持て余している天才の友人に頼っていたなどと知られたらどうなることか。
 怪しんだ家庭教師が抜き打ちで試験を実施することもあったが、それくらいは予想の範囲内であった黄瀬は、赤司に教えられたことは解き方も含めてしっかりと覚えるようにしていた。彼の解説はとてもわかりやすく、丁寧だ。基礎を叩き込まれれば多少の応用は可能である。その為黄瀬の記憶力と勉強態度だけは文句の一つも出ないほど好ましく、だからこそ赤司も教えてあげるのをやめなかった。過去に培ってきた学才を誰かの為に――友人の為に使えるのなら素直に嬉しい。
 机と椅子が一セットしかない赤司の部屋で、二人が課題を広げるのはベッドの上である。本の表紙を下敷きにしてペンを走らせ、赤司は黄瀬が理解するまで何度も説明を繰り返す。
「ここまでわかったか?」
「ん、大丈夫っス。次は自力でいける」
「……よし、やっぱりお前は飲み込みが早いね」
 いいことだ、と満足そうに笑みを浮かべ、向かいに座っている黄瀬の頭を撫でる。柔らかな金糸のような髪が赤司の細い指に絡んだ。リップサービスではない本心からの褒め言葉と、口元が綻ぶ様子を見る度に黄瀬は嬉しくなる。
 結局、今回の課題は一時間程度で済ますことができた。黄瀬一人では一晩かけても終わらない可能性が高かったものの、赤司の協力があれば大抵は夜が明ける心配もなく早めに終わらせられる。腕時計に目を落とすも日が昇るまでにはまだたっぷりと時間が余っていた。
「今夜は月が綺麗っスねえ」
 ふと、赤い頭部の背後に見えた満月に目を遣って呟く。この部屋に窓は一つしかなく、カーテンは付けていないようだった。ベッドから降りて硝子製のそれを開けると真っ暗な夜空にぽっかりと浮かぶその光は、城で眺めるよりもどことなく美しく琥珀色の両眼に映る。王城の中には磨かれた装飾品しかない為に、ここまで際立って輝いては見えないのかもしれない。つられて振り返った赤司が驚いたように感嘆の言葉を漏らした。
「珍しいな……」
「珍しい?」
「ああ。この辺りは普段、あまり綺麗に夜空は見えないんだ。工場が多くて、たくさん煙を排出しているから」
 瞳を丸くして見上げている横顔はぼんやりと月明かりに灯され、白い肌とのコントラストが黄瀬の脳裏に焼き付いた。そういえば彼が暮らしているこの街のことを、何も知らない。王家の敷地から四十分ほど歩けば辿り着くけれど、決まって暗くなってからの外出となると周囲に何が存在しているのか黄瀬は少しも把握していなかった。会いに行っていい日は真っ先にここへ向かうし、駄目な時には全く別の方面で遊んでいる。広大な領土を有したこの国の景色など見たことのない地域の方が多く、しかし彼はこの街で毎日を過ごしていて、黄瀬の知らない光景をその双眸で受け止めている。そう思った瞬間に、はたと好奇心ゆえの提案が口を衝いて出ていた。
「赤司っち、ちょっと外出てみないっスか?」
 まだ帰らなければならない時刻まで余裕はある。思えば赤司と一緒に居る間はこの部屋から一歩も出たことがないのだ。今のままでも十分楽しいが、たまには二人で散策するのもいいのではないかと、そんな軽いアイディアのつもりだった。ところが黄瀬の明るい声を聞いた赤司は途端に眉を顰め、それは駄目だ、とはっきり返す。
「この時間は危ない」
「大丈夫っスよ。危ないって言っても男二人だし、それに俺、あんたが暮らしてる街を知りたい」
「……お前には関係ないだろう。とにかく駄目なものは駄目だ」
「なんでっスか?」
 黄瀬には頑なに拒まれる理由がわからなかった。か弱い女子供が相手なら気を配ってそう言うのもわかるが、もう成人も間近の男同士だ。ちょっと夜に出歩いたって誰も咎めはしないだろう。訳も告げずに言い張ってくる赤司の態度は黄瀬の主張を無視したものであり、ついむきになって聞き返してしまう。しかしそこで赤司も正直に理由を言えなかったことが、失敗だった。
――ここはお前の予想を遥かに超えて治安が悪い、と。上流階級の人間には理解できない、貧困層の民が集合した街にしか起こらない惨状を口にできるだけの勇気がなかったのだ。黄瀬に対して徐々に壁はなくなっていったものの、やはり身分の差だけは付いて回る。恥ずかしいと感じてしまったことが赤司を苦しめた。所詮自分が住んでいる街も誇れない下流階級なのだと。しかし唇を噛み締めて噤んでいると、焦れた黄瀬が赤司の手首を捕まえて顔を覗き込む。
「大丈夫だから」
 黄瀬の言葉は赤司を安心させる為のものではなかっただろう。彼だって一概に馬鹿ではない。相手の生活環境を見れば恵まれない側の国民であることは容易く察せるし、同時に街自体が裕福でない現実は明らかだ。工場が多い、それは恐らく町工場を指していて、つまり貴族や豪族に雇われている下請け業者に他ならない。
 そこまでの予測は正しかった。が、固く守られた王城の中で生温く成長してきた黄瀬は、本当の廃れた街というのを、その目に映した経験がなかった。裕福ではないと言ったって、皆それなりの幸福は得ていることだろう。だって式典の時に上から見下ろす国民の姿は、一様に幸せそうだ。由緒正しき黄瀬王家のもとに成り立つ我が国に、民が怯えるような恐ろしい空間などあるわけがない、大丈夫だと、己に言い聞かせたのである。
 赤司の返答も聞かぬまま半ば強引に手を引っ張って外へ向かう。何と言われようと自分の我儘を貫く癖は、厳しく育てられた一方で存分に甘やかされてきた故か。わかった、と玄関のところで後ろから少し焦ったような声が聞こえた。
「わかったから、約束してくれ。絶対に勝手な行動はしないと」
 色素の異なった赤司の目は真剣だ。その気迫に一瞬気圧されたが、無言で頷きを返す。二人で並んで街を歩くのは初めて出会った時以来だったが、あの通りに工場は確か一軒も見当たらなかった。つまり隣町か、とにかく赤司が普段暮らしている地とは別ということだ。これから行くところは恐らく違う。
 扉の外へ出て赤司が鍵を閉めている横で、黄瀬は茶色のローブを被る。その右手には赤司から借りた一冊の古びた本――身分を隠して求愛し続けた王子様と、それに応えたかった貧しい民の恋を描いた物語が握られていた。


2013.11.21
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