忙しくなる。『TiPOFF』の表紙に選ばれた以上、仕事が増えることは確実だ。暫くはこんなところに出向くこともないだろう。彼の連絡先を知っているとは言え、会うことを約束して遊ぶような仲ではない。たまたま会えたらゲームでもするか、くらいの関係だからこそ十年経っても昔と変わらないのだから、次にいつ会えるかなどわかったものではなかった。
「じゃあね、ショウゴ君」
 またねとは言わない。煙草をすり潰した彼から返事はなく、相手にしてもらえなくて不満げな顔をしている女達には「また今度」と笑って手を振っておいた。こういった嘘は大得意だ。
 そして地下から階段を上って扉を開けば入ってきた時と同じように、大音量の電子音がクラブ内に反響している。まだ時間的には日付も跨いでいないのだ。寧ろこれからが本番と言ったところだろう、最初にドリンクを作ってくれたバーテンダーにはもう帰るのかと声を掛けられた。
「うん。勝負ついたから」
「あら早いじゃない。どっちが勝ったの? ……なーんて、聞くまでもないかしら」
「今地下行かない方がいいよ」
「行けないわよ、あんなとこ」
 彼女はそれ以上何も口を開かず、別のカップルと思しき二人に酒を提供していた。さすがにここで何年も働いている人間であれば遊戯場の存在を知ってはいるようだが、一生足を踏み入れる気はないらしい。それが正しいだろう。
 耳も鼓動も漸くこの爆音に慣れてきたものの、DJブースの周囲に集れたのはここに来たばかりの頃までだ。行き交う派手な男女の姿と交差する煌々としたライトの眩しさを目に焼き付け、フロアを後にする。エントランスに行けば受付嬢がロッカーから荷物を取り出してくれた。楽しかった? と尋ねられるが、やはり必要以上にべっとりと塗られたリップが好きじゃないと思った。
「楽しかったけど、当分は来ないかな」
 鞄に入れていたサングラスを掛けながら答えると経営主の娘はあからさまに口を尖らせる。また私の相手してよお、と間延びした口調でねだられた。
「そのうちね」
「涼太、いつもそうやって言うわ」
 だってその気がないんだから仕方ないだろう。嫌だとはっきり言っていいなら遠慮なく拒絶させてもらうが、そんなことしたら泣くのはそっちだ。あんたを悲しませない為に濁しているのだから感謝してほしいくらいだと図々しく考えた。
 彼女は以前はもっと後腐れを嫌うようなさっぱりとした性格だったはずだが、久々に再会できて興奮しているのだろうか。別れようとしたところでカウンター越しに手を伸ばされ、綺麗なピアス、と左耳に触れようとされたのが決定的だった。
「触らないで」
 一瞬にして募った不快感が気付けばその一言を生んでいて、眼前の女性がぴたりと指先を強張らせた様子を見て我に返る。ああ、怖い顔をしていたかもしれない。
「……ごめん。でもこれはダメ」
 口角だけでも上げて笑みを作り、極力優しく告げたつもりだった。付けたばかりの高価なピアスは視界に入れば誰もが食い付くほどの、万人の目を引くような美しい芸術品であることはわかっている。これを選んだあの人のセンスも財力も、俺への期待も、最早言うまでもなかった。「――あなた、変わったわ」どこかで見た海外映画のように彼女は眉を下げて笑った。
「昔の方が優しかった」
 それはきっと、一人に絞らず満遍なく愛を振り撒くことのできていた黄瀬涼太を指しているのだろうとわかってしまい、何も言い返せない。俺だってこんなつもりではなかったのだ。
 優しかったんじゃない。優しくできる相手が一人じゃなかったというだけだ。けれど彼女からすれば今その一人に選ばれなかったことだけが不服なのであり、未練がましい熱の籠った視線から目を逸らした。これまで器用に生きられていた自分が、少しずつ崩れていっているような予感はしていた。
 クラブを出るとちょうど入れ替わりで知り合いが入場するところだった。あまり仲良くない事務所のモデルだ。軽く会釈を交わし、月明かりが雲に塞がれ電光掲示板が辺りを照らす外へと目を向ける。相変わらずの曇り空だが、予報は外れて雨は降っていないらしい。ネオン街の夜は長くまだまだ終わる気配はない。本当ならばエントランスでタクシーを呼んでもらうのが常だったが、それをしなかった俺は歓楽街の端を少し歩いた。
 着込んだコートにフードはなく、今日はキャップも持っていなかった。目元を隠しただけでは所々で人の目線を集めたような感覚があったものの、ここでふらついている人間など大抵はアルコールで酔っているし大々的に注目される方が少ない。寧ろ芸能人がうろつく通りであることで有名なのだ。湿った空気に身を包ませてなんとなしに足を進めるが、行き先は特に決めていなかった。自宅はこの方向ではない。
(何してんだか……)
 ショウゴ君に言った通り明日は朝が早いのだ。都内から離れた『TiPOFF』関連のロケ撮影。こんな夜遊びをした結果調子が悪いだなんてことになれば俺のところの社長にも帝光出版の社長にも締められてしまう。良い表情を作るには欠かせない睡眠を怠るわけにはいかないな、と思い直し、溜息をついて踵を返した。この通りを抜けたらタクシー会社に電話を掛けよう。
――しかし来た道を戻って顔を上げた瞬間だった。まばらに視界を遮る人影の合間から、数メートル先に見えた男。あの背丈にあのスーツ姿は、と瞠目する。サングラスのフレームに手を掛けて少し下げてみれば、はっきりと輝いたネオンに紛れて見覚えのある柘榴色に瞬きを繰り返してしまった。
 灰崎祥吾と会えた時点でとてつもない確率だと驚いたが、こんな場所であの人を見かける方が意外すぎて理解が追い付かない。けれど先ほどショウゴ君から聞き出した話が脳裏に思い浮かび、心中はやけに冷静だった。
 たった今姿を現した赤司征十郎がこちらに歩み進めたのを見て、反射的に物陰へと隠れてしまうのも仕方がない。
「……あの店……」
 社長が出てきた店を俺も知っていたのだった。看板の無い小さな入口だが、あそこはラスベガスに本店を構えている本物の賭場だ。日本では金銭を賭けたカジノは合法化されていない。だから自分が通っているクラブもわざわざ地下に設置してその存在を公にはしないのであり、摘発されれば次の日には潰れているだろう。
 カジノゲーム自体は違法ではない。おかげで金ではなくメダルを賭けるような場所はこの通りにもよくあり、それらは軽い気持ちで入っても楽しく遊ぶことができるはずだ。が、昔一度だけあのカジノに足を踏み入れたことがあるけれど、プレーヤーからディーラーまで揃ってゲームに容赦ない米人ばかりだったことをよく覚えている。いわゆる在日の溜まり場なのである。正直に言って居心地は悪く、明らかにカジノ以外の違法も横行している空間だった。
 三年経ってどう変化したのかは知り得ない。しかし少なくとも、清い場所とは表現できないだろう。
 路地の壁際に寄って息を殺すとちょうど社長が横の道を通り、どこかへ向かおうと、否、恐らくもう帰ろうとしているのかもしれない。こちらの存在には微塵も気付いていない彼の横顔は、綺麗な世界だけを見てきたように思えていた社長の姿とは違っていた。煙草を咥えていることに驚いたのだった。普段は持ち歩いてはいないはずだが、その一本も賭場で貰ったりしたものだろうか。
(歩き煙草は良くないっスよー……)
 と、心の中で呟いておく。
 スーツも手に持った黒い鞄も普通のサラリーマンと変わらない格好なのに、どこに居ても映える赤い髪だけは世界中を探しても彼しか似合わない色素だと思った。灰色の煙が夜の暗さを更に濁している。社長が五メートルくらい先を進んだあたりで俺も路地から出て、後をついていこうという思考に至った時には明日の予定など頭から抜け落ちていた。
 悪い考えが働いてしまったのだ。ポケットに入れていたスマホを取り出し、電話帳の一番上を選択する。足音を立てないように前を歩く彼の背後を辿りながら耳に当てると、二コール鳴ったところで相手も着信に気付いたらしい。右手にあった煙草を反対の手で鞄と一緒に持ち直し、携帯を開きながらも立ち止まることはなかった。
『……もしもし?』
 十二時を回ったからだろう。意外そうな声色が響き、一度唾を飲み込んでから自分も口を開く。まさか尾行しているだなんてバレないように。
「あ、社長っスか? すんません、こんな時間に」
『大丈夫だが……どうした、何かあったのか?』
 さすがに数メートルの距離感があれば電話口の声が直接聞こえてくるということはなく、見失わない範囲でなるべく離れて通話をした。
「あー……いや、特に用はないんスけど、なんか社長の声聞きたくなっちゃって」
 それだけの理由で真夜中に電話を掛けるのは非常識だろうと自分でも思うが、今回は相手が確実に起きているのだから免責だ。『なんだそれ』くすくすと小さな笑い声。
『明日も早いんじゃないのか? 無理はするなよ』
「うん。社長こそ今平気? 仕事は?」
『終わったから大丈夫だ』
「家に居んの?」
『ああ』
 ふうん。
「……嘘つき」
『え? 悪い、聞こえなかった』
「なんでもないっス! 家に居るならもうすぐ寝るよね。よかったー、またホテルで仕事とかしてなくて」
 会社から出ても自宅に直帰しないというのはやはり彼の習慣なのだろうか。この時間に歓楽街をうろつき、朝を迎えれば業界を代表する出版社のトップの顔に戻っているのだ。社長の生活サイクルが目まぐるしく変化していることにはいい加減慣れる必要があるのかもしれない。知れば知るほど、赤司征十郎という男は多面的であり、且つそれを隠そうとする人間だ。
『心配性だな、黄瀬は』
 携帯を肩と耳で挟んだ彼は右手に持ち替えた煙草に一度口付けたらしい。客引きをしている居酒屋の店員に捕まりそうになったのを無視して通り過ぎていた。明らかに団体ではなくお一人様なのに声を掛けるのか、客引きも大変だなあ。と、思っていたら俺の方にまでその店員が寄ってきたので左手を軽く上げて断る。
「そりゃあ心配もするっスよ。社長、いつ気抜いてるのかわかんないし、帝光もだけどいろんなブランド背負ってるし」
『ずっと表に立っていなければならないお前よりは楽だと思うよ』
 そんなわけあるか、と即答したくなるのを抑える。彼だけは絶対に失敗できないなんて緑間くんの台詞が頭に過った。そしてショウゴ君がゲーム終了後に教えてくれた社長の話もこびり付いて離れない。
「健康とかさあ、ちゃんと気を付けてね。煙草も程ほどにするんスよ」
『はは、なんか医者みたいだな? 大丈夫だよ。毎日吸ってるわけじゃない』
「そうかもしんないけど、ほら、今って法律的にも結構厳しいし」
 このまま通話を終えて何事もなかったかのようにそれぞれ帰るのが最も良かっただろう。けれどこうして淡々と会話を交わすだけでも今日一日感じていた蟠りが徐々に消えていくのが嫌でもわかる。声を聞きたかったから、というのはあながち間違っていなかったのかもしれない。
 幼稚な嫉妬心に続いて心を占めた感情が、もっと構ってほしいという更にくだらない独占欲なのだと気付く頃には口を衝いて出ていた。
「歩き煙草も、最近じゃ違法扱いっスよ」
 口角を上げて告げると同時、彼の足がぴたりと止まる。さっすが社長様だ。歩き煙草“も”の一言で、先程までのカジノという違法行為を目撃されていたのでは――と敏感に察したらしい。それに自分は彼が喫煙者であることは知っている。が、あの様子だと恐らく外で吸うこともあるとは誰にも教えていないのだろう。俺がビジネスの上で最低限のマナーは守れる奴だと思っているからか、いくら親しい関係とは言えやはりこんな時間に電話を掛けてきたことに対しても、拭えない不審さがあったようだ。
 案の定、こちらを疑うように立ち止まった社長は通話を切らずに振り向いた。その一歩手前で再び路地裏に隠れる。
『……黄瀬、お前今、どこに居るんだ?』
「え、どこ? どこって……家っスけど」
 意趣返しだ。予想通りの質問にけろりとした声で答えると、『……そうか』ととても納得したようには感じられない口振りで返事が聞こえてきた。それでも考え過ぎだと自分に言い聞かせたのだろうか。体は出さずに目線だけでちらりと窺ってみれば、彼は後戻りせずまた歩き始めている。けれど今度は、追い掛けない。路地裏の薄汚れた壁に寄り掛かった状態で話し続けた。
「どうかしたんスか?」
『いや、何でもないよ。歩き煙草は……そうだな、気を付けるとしよう』
 コートのポケットに片手を突っ込み、説得力のない一言に肩を竦めた。建物と建物の間に挟まれた一メートル程度の幅は通り道としては機能していない為、自分以外の人影はない。ただし一歩出ればネオン街の大通りだ。騒然とした雑音は嫌でも耳に入った。
「そういえば明日からロケ撮影なんスよ」
 広がりのない夜空を見上げながらなんとなしに呟く。ああ、と相槌を打った社長がどこを歩いているのかはもうわからなかった。
「多分一週間くらい帰ってこれないんで、暫く会えないっスね」
『ちょうど良いんじゃないか? お互い仕事に集中できる』
「えー……俺は寂しがってるんスよ」
『心にもないことを』
「本当だって。だからもっと優しい言葉かけてよ」
『は? 優しい言葉って……頑張れとか言えばいいのか』
「そうじゃなくて、なんかこう、何かしてほしいとか」
『……行かないで?』
「もうちょっと可能な範囲でお願いします」
『早く帰ってきて』
「あ、そんな感じ』
『毎晩電話かけてほしい』
「喜んで!」
『いやいいよ』
 自ら言ってきた割にばっさりとそう突き返されたことに思わず笑ってしまった。やっぱ男を相手にしてるんだなあ、と変に実感する。
 不意に下を向くとどこかから野良猫がやってきた。その珍しさに興味を引かれ、俺の足元で一度止まったそれに触れようとしゃがみ込む。鞄を横に置いて手を伸ばせば、茶色い毛並みの、ふわふわした手触りが気持ち良かった。
「……社長は寂しくないんスか」
 顎のあたりを撫でてやりながら通話口に向かって尋ねる。
『黄瀬に会えなくて?』
 確認を取るように聞き返されたので頷くと、なんということか肯定の返答。寂しいなんてまさかあの人の声で聞けるとは思わずに目を見開けば、野良猫の大きな両眼がちょうど俺を見詰めた。その目力の強さが彼の金色と赤色の瞳を彷彿とさせる。
『寂しいから僕にも優しい言葉をかけてくれ』
「あんたが言うとなんか嘘っぽいっスよ」
『……まぁ嘘だからな』
「ひどっ!」
 なんだよちょっとは可愛い面もあるじゃないスかーと自惚れた時間を返せ。しかしわざとらしく不貞腐れた声を漏らした瞬間、「実際に会えてるのに、」と電話機からではなく肉声として聞こえてきた呆れ声にはっとなる。

「寂しいわけないだろ。このストーカー」

――あ。
 しゃがんだまま顔だけ上げれば、大通りからこちらを見ている赤髪の姿。いつ潰したのやら煙草はなく、こちらと目が合うなり大袈裟に溜息をついて携帯を閉じられる。同時に耳元でツー、ツー、と通話が切れた音が鳴り、俺もスマホをポケットに仕舞って笑った。
「……あーあ、見つかっちゃった」
 ま、あんたなら最後の最後まで疑って、俺を探してくれると思ってたけどね。
「見つかっちゃったじゃない。ふざけるな、からかっていたのか」
「からかってたのはそっちもでしょ? なんで家に居るなんて嘘ついたんスか」
「……歓楽街ふらついてますなんて言えないだろう」
 ずっと騙され続けていたのが相当頭に来ているのか、細道には入ってきてくれたものの腕を組んで顰め面だ。触られても大人しい野良猫の両脇を抱えるように持って立ち上がり、社長の顔に猫の鼻先を近付けると眉を寄せて舌打ちされてしまった。
「そんな嫌がらなくたって。嫌い?」
「猫は嫌いじゃない。が、ストーカーは嫌いだ」
 あらら、予想以上にご立腹である。
「ごめんごめん。嫌がらせのつもりはなかったんスよ、ほんの出来心で」
 弁解しながら野良猫を地面に放してやると、すぐに路地の奥へと走っていった。向こうの方は電灯もなく真っ暗だ。
 出来心でというのは本当のことだった。尾行に特別な意味はなかったし、普通に声を掛けてもよかった。ただ少しだけこの人を翻弄できたのが楽しくて、つい向こうから見つけてもらおうと調子に乗ったのが悪かっただろうか。
「しゃーちょう、眉間に皺」
「……お前は随分嬉しそうだな」
「ん? まあね、やっとあんたで遊べたし」
 ここで濁してもきっと見抜かれてしまうことはわかっていた為、躊躇わずに正直に言ってやった。すると不機嫌そうな態度であることには変わりないが、この人も根からの負けず嫌いだ。左手に持っていた黒い鞄を押し付けられて何かと思い受け取れば、俺のサングラスを勝手に外し、そのまま空いた両腕をするりと首に回されてさすがに驚く。
「――それならもう少しだけ、遊ばれてあげてもいい」
 不敵に笑む唇が誘っている。いくら夜に包まれ閑散とした路地裏だとは言え、外でそんな風に囁かれるとは思っていなかった。こうなったら精神的に自分を優位に立たせようと考えたのか、あまりに捨て身な作戦に内心で笑ってしまう。
 熟れた舌先が薄く開いた口の間からちらつき、色素の違う両眼は辺りの暗さに相まって尚更輝いて見えた。いつ見ても宝石みたいな瞳だ。伸びた前髪が瞼まで掛かり、整った目鼻立ちを控え目にしている。
 ある意味彼こそ『自分の魅せ方』をよくわかってるんだろうなあ、と最近思うようになった。計算なのか天然なのかまではわからないし俺の予測では多分後者に近いが、こうすれば相手を落とせるという意識は少なからずあるのだろう。だってやっていることは色仕掛けと一緒だ。それにまんまと引っ掛かっている俺の理性も随分安いと自嘲するしかないが。とても同じ性別の人間が纏う雰囲気とは思えない蠱惑的な表情に、くらりと眩暈がする。
 一度目の晩を忘れようとしていた自分はもういなかった。
「……可愛い」
 腰に手を回して引き寄せ、頬に軽く口づける。
「酔ってんの?」
「……酔ってない」
「本当に? これで明日になったらまた忘れてるとかナシっスよ」
 でもまぁ足取りはしっかりしているし、両目もあの時のように潤んでいない。アルコールは入ってないと信じていいとは思うけれど、だったら顔が赤いのはなんでだろうね。
 キスも最早抵抗はなかった。クラブに居た時は女の肌に触れることさえ厭ったというのに、社長相手なら唇を重ねるのも舌を絡めるのも全くすんなり出来てしまう。なるべく優しく、上顎や歯列を撫ぜるように、しかしわざとらしく唾液を混ぜて水音を立てると彼の睫毛が僅かに震えた。
 次第に相手の体を壁に押し付けて深く口づければ、互いの口腔に苦い味が広がる。喫煙者とキスするのも悪くないな。自分には先程まで近寄ってきていた女性達の強い香水の名残があるだろうし、煙草の匂いと女の匂いと紛れた甘い誘惑に、頭は確実にのぼせ上がっていた。
 結局受け取った鞄も地面に放して抱き締める腕に力を込めると、その直後、カシャンと嫌な音が小さく響く。原因に気付いた俺は舌を引き抜いてキスをやめた。彼はと言えば酸素が足りなくなっていたらしく、乱れた呼吸を整えながら口の端から顎へと伝った唾液を拭っている。
「あーもう……俺のサングラスは落とさないでよ」
 これがないと街中歩けないんだから。
 勝手に奪われたそれがコンクリートの上に転がっているのが視界に入り、割れていないか拾おうとした時だった。しゃがむよりも先に首に絡んでいた両手で頬を挟むように捉えられ、驚いたことに向こうからキスをされる。触れるだけのものではあったが、明らかに焦がれている視線と交わって笑みを零さずにはいられない。
「そんなに急かなくたって、逃げたりしないから」
「……うるさい」
 余裕ないね、と俯く顔を覗き込めば、紅潮した肌と逸らされている潤んだ目線に悪戯心が湧いてくる。地面に落ちたものは放置してもまぁ大丈夫だが、こっちは放っておいたら駄目そうだ。
 ネクタイはもちろん会う前から緩められていた。首筋に顔を埋めて強く吸うと、目を見開いた社長に後ろ髪を引っ張られてしまう。「平気だって、襟で見えない」と適当に理由を付けたはいいが実際危ない位置だった。
「つーか別にいいじゃないスか。社員にキスマークがバレても、恋人に噛み付かれたとか言っとけば」
「いいわけないだろ……僕はそんな浮かれた行為は、」
「しない? 冗談だよね」
 自分から誘っといてそれはないだろうと首を傾げると、さすがに説得力がないことを理解したのか論点をずらしてきた。
「そもそも、僕に恋人はいないんだ」
 寧ろ最初にそこから否定されると思っていたのだが。
「俺は?」
「……え?」
「俺のことはどう思ってる?」
 余計な話をくっちゃべって萎えさせるつもりはない。ずっと細腰に回していた左手を少し下ろし、スラックスの上から薄い尻を愛撫するとびくりと体を強張らせたのがわかった。その隙に両脚の間に膝を割り込ませて中心を軽く押せば、いよいよ行き場を失くした社長が息を詰める。
 黄瀬、と僅かに焦ったような制止する声を無視し、五センチもない距離で目を逸らさずに問い質した。
「ねえ社長……俺のこと好き? 嫌い? ただの友達だと思ってる?」
 彼の喉がごくりと上下する。
「所詮ビジネス上の付き合い? それとも恋人ごっこの相手役? 気持ち良いことしたい時にだけ誘って、仕事のストレス忘れる為にセックスして、そんで飽きたら俺も捨てんの?」
 わざと声を潜めて一言一句をゆっくりと焦らすように告げれば、赤かった顔色がだんだんと青褪めていった。恐らくこの先に用意された台詞を、社長は簡単に予測できてしまったのかもしれない。「……もしかして俺、友達にすら思われてなかったり?」俺だって言いたくなかった。

「――あんたがアメリカでたくさん作った遊び相手みたいにさ」

 耳元に唇を寄せて熱の籠った吐息と共に囁くと、瞠目した相手の動揺ぶりはまさに図星を指されたと表現して不足はないだろう。ピアスの時の仕返しだと言わんばかりに、ちゅ、と右耳にキスをする。しかし本人はそれどころではないようだ。
「な、なんで……」
「あ、セフレじゃなくて元カレって言った方がいいっスか? 散々思わせぶりな態度取ってから切り捨てた奴とか多いんでしょ」
 相手の意見を遮って追い打ちをかけると、さすがに癪に障ったか「言葉に気を付けろよ」ときつく睨まれた。その声がほんの少し震えているように感じた。けれど自分としては不機嫌にさせてしまおうが何だって良く、ただ真実が知りたかったのだ。でなければ――あいつとのゲームに勝って、この人のことを教えてもらった意味がない。
 俺はずっと、業界切っての人間という赤司征十郎のレッテルの裏は白紙だと思っていた。傷も汚れも何も無く、影響も受けず、裏返したところで純潔な白を想定していたのである。だから真っ直ぐに前だけを向いて強く生きていられるのだろうと、表面的な立場だけで判断していた。それが可能だから社長なんだと思っていた。
 でも甘く考えすぎていたらしい。
 彼は常に完璧な仕事ぶりだ。が、威厳を保つ為に変わるのは夜が更けてから――オフィスを出た後。たっぷりと睡眠時間を確保して明日に備えるというのが普通に考えられる生活サイクルだとするならば、彼の場合は違う。ただ眠るだけじゃあ疲労は取れても溜まりに溜まったストレスと、赤司グループの令息であるが故のプレッシャーは抜くことができない。だからそれらを全て忘れさせるくらい強い刺激が必要だった。抱え込んだ幾つもの暗く鈍い思考を一時的でも払拭させ、頭を真っ白にできるような、そんな時間と、ステキな遊び相手が。
 その度に何が犠牲になってきたのかはわからない。プライドは捨てただろう。太陽が昇っている間はきちんと尊厳を取り戻す代わりに、息苦しい生活からの脱却と称して性欲に身を任せた。
 この人にそんな一面があったなどと他人に言われなければ気付けなかったように、確かに一見美しい白紙を維持できているのかもしれない。が、それは濁った色の上から白いインクを塗り重ねているだけであり、決して透明ではなかったのだ。
「最初は女の子誑かしてたけどだんだん口封じとその後の関係が面倒になって同姓相手にし始めたんだって? 相手も男なら他言されずに済むから」
「……っ、誰に聞いたんだ」
「こっちの質問に答えてくれたら教えてあげるっスよ。結局俺のことはどう思ってんの? ……あー、それと、今まで何人に抱かれてきたのかも知りたいかな」
 下を向こうとする彼の顎を軽く持ち上げ、なるべく責めないように聞いたつもりだった。しかし相手はこうして指摘されたこと自体なかったのか、瞳を左右に揺らして動揺する様子はまさに初めて見るもので。口を噤まれてしまい、焦れた俺はもう片方の手で太腿を撫で、示唆するかのように指先で尻の割れ目をなぞった。その付近は一段と敏感であることを知っている。ねえ、と催促しながら、さっき野良猫の顎を撫で上げたように真っ赤な彼を可愛がって。
 ベルトも外していなければシャツのボタンだって上から下まできっちりと締めている状態で、舌を絡ませて深い口づけを繰り返し、首筋を食まれ、肌を撫でられ、挙句下半身を弄られては、いくら着衣の上からとは言えたまったものではないだろう。元々おかしいことにそっちの素質の方が高い人なのだ。それでもスーツを脱がせたりはしなかった。ただ壁に追い詰めて固定し、わかりやすく熱の溜まった股間をぐり、と足で乱暴に刺激すれば、顔を赤く染めた社長が弱々しく俺の服を掴んでくる。
「んッ……待て、黄瀬、それ以上は……」
 こんなところじゃ無理、とか言い出すつもりか。自ら快楽を強請っておいてよく言えたものだ、俺がキスだけでやめてあげるような優しい男だったら泣き付くのはそっちだろうに。
「はぁ……やっぱりここに隠れて正解だったっスね」
「え……?」
「ラブホなんスよ。あんたの後ろの建物」
 驚くほど予想通りの展開になったことが面白くもあり面白くなくもあり、つい溜息が零れてしまう。けれど顎で指して相手の誘いを見透かしていたことを明かすと、かあっと血が上って羞恥に苛まれている姿は可愛いと思った。
 やっぱり俺この人なら全然抱けるなあ。
「ほら、質問に答えて? じゃないとちゃんと触ってあげないし、離してもあげない」
 遊ぶように尻を揉んでスラックス越しに窄まった入口の浅いところをぐにぐにと押す。んっ、と抑え切れなかったいやらしい声が熱い吐息と漏れた。こんなものでは最終的な官能とは程遠い小さな刺激にしかならないが、奥を攻め立てられた時に感じる気持ち良さで彼の頭の中をいっぱいにするには十分だろう。口を塞ぐわけにはいかないので舌で上唇を舐めたきり、瞼、頬、鼻先、額、耳、首筋と至るところに口づけ、そして最後に服を握っている右手を掬って手の甲にもキスを落とす。
 どこもまともには触っていないというのに、上擦った声で俺の名前を呼ぶ社長の思考力は見るからに崩れ落ちていた。なんとなしに衣服の上から中心まで掠めれば、ふるふると小さく頭を振って拒絶を示される。が、そんなのは無視だ。唇は濡れ、目尻には涙が溜まり始めている変化に生唾を飲んだ。こういう時に限ってじっと見詰めてくるのやめてくんないかな、ドキドキする。
「はぁ……っ、黄瀬、頼むから……」
「そんなにつらいなら早く言っちゃえばいいのに。もしかしてM?」
「ち、が……言いたくないだけだ……!」
「どうして」
 まだ睨むだけの余裕はあるらしい社長は、こちらの一言に一瞬口を結んだ。しかし自分の置かれている状況が圧倒的に不利であることなど今更であり、観念したように伏し目がちに返す。
「だって……お前、怒ってるじゃないか」
――怒ってる? その自覚はなかったな。好き勝手に弄っていた手が不覚にも止まったが、ああでも、彼の言い分はあながち間違いでもないのかもしれない。無視できない、心中に渦巻く焦燥感。
 原因はこの人が処女ではなかったからだろうか。けれどそれは初めて抱いた時からなんとなくわかっていた。じゃあ自分を犠牲にして夜遊びを楽しんでいたから? 良いとは言えないが失望はしていない。赤司グループのトップを任された身がどれほど重苦しい環境なのか知り得ない以上、軽々しく咎めることなんてできないのだから。でもだったら確かになんで俺はこんなに必死なんだ――そう考えて、沸々と滲み出る感情が昼間の苛立ちと似ていることに気が付く。
「おい、黄瀬……、ッ!?」
 壁に押し付けていた体をぐい、と自分の方に引き寄せた。支えるものがなくなった彼の足元はふらつき、俺に凭れる形となったところで互いの体温の熱さを知る。それから急に責めるのを中断した自分を不審げに見上げた社長の唇を噛み付くように奪った。
 夢中で相手を貪る頃には煙草の味もほとんど感じなくなっていて、その代わり、俺だけの味を教え込もうと思っている自分を知らぬふりでは済まされない。
「ふ……っ、んんっ」
 酸素を取り入れる間も与えずに粗雑なキスはあまりに性急なもので、ずっと痴態を見せつけられて余裕ぶっていたのが丸分かりだ。ねっとりと吸い付くように何度も角度を変えて舌を這わす。背中を反らして逃れようとすればするほど深くなっていくキスに、社長は理解が追い付いていないのかされるがままだった。肺ごと潰しているも同然の荒々しさは彼の眉根を寄せ、どちらのものかわからない唾液を咀嚼する暇さえなく首筋を伝っていく。少し離した瞬間に、きせ、と稚拙な呂律で呼ばれるのがたまらない。
「もっと呼んで……」
「ぁ……、も、苦し、っん、ぅ……!」
 どれだけ激しく優しさの欠片もない口づけを繰り返しても、彼はなんだかんだ目を瞑って応えてくれるのだった。悪戯に前歯を使って口外で相手の舌先を食むと呼吸はできるようになるものの、舌を出したまま口を閉ざせなくなった為に乱れた息遣いがダイレクトに伝わる。は、は、と大きく空気を吸う様子が餌を前に出された犬みたいだと声には出さず思ったが、そんな思考が伝わってしまったのか社長の両目にじわりと大粒の涙が浮かんでいた。辱められていることへの悔しさや憤りよりも、いよいよ羞恥と興奮に全ての理性が陥落したようだ。
 意地の悪い男だなんて自分が一番わかっている。
「は……はなひへ、」
 離して、と舌を噛まれているせいで満足に喋ることもできない社長に泣きながら縋られるのは心底、悪い気分ではなかった。この状態だと嫌でも顔を離せない為に、互いに至近距離で見つめ合う。
 瞬きをした瞬間に長い睫毛が目尻の涙を落としたらしい。紅潮した頬を伝う透明な雫がその肌の色を透かし、ほんのりと桃色に染まっている。まるで彼の眼の色素が滔々と溢れ出てきたような光景に、本物の美しさを垣間見た気がした。
「んっ……」
「あーあ……キスだけでそんなエロい顔されたら、そりゃあ誰が相手でも落とせちゃうよね」
 長い時間重ねていた唇を漸く解放してあげると、一筋の銀糸が垂れてぷつりと切れた。肩口に額を当てて必死に呼吸を整えている彼。自分はと言えば、抱き締めた手でその頭を撫でながら、もう正直に告げるしかなかった。
「社長、俺は別に怒ってないよ」
 苛立ちを発散して無くなるような感情ならそっちの方がマシだったんだ。
 でも、と喉から絞り出す。
「……ごめん。妬いてるかもしんない」
 赤い髪に顔を埋めながら呟いた声は自分でも信じられないほど焦がれたもので。
 飽きたら俺のことも捨てるのかと最初に聞いたけれど、捨てられなくなるくらい、己を売り込める自信があった。今まで培ってきたこの職の特性も生まれ持った容姿や性格も全てを活かして、仕事の上でも、――そして恋愛の上でも、赤司征十郎の方から俺を求めるようにさせたかった。させるつもりだった。でもこれじゃあ全然駄目だ、自分が相手を欲してる。
 俺はあんたが捨ててきたような奴らとは違う。俺ならセフレなんて肩書きじゃあ満足できなくなるまで、本当の、最高の恋愛を教えてあげるよと言おうとして、やめた。
 まだ独りよがりの感情だ。
「わかった。……全部、話すから」
 何が原因で彼の気が変わったのだろうか。もう一度首に両腕を回して髪を掻き抱くように引き寄せ、「だから今は……最後まで犯して?」と、濡れそぼった唇と扇情的な息遣いで煽られたらいくらなんでも我慢できない。熱の溜まった腰を揺らして下半身に押し当てられる。エロいなあ、と男の本能で思った。
 酔ってなくてこれだ。否、寧ろ素面だからこそ俺を取り込む台詞を計算して囁いているのかもしれない。

――全てが終わってから社長が隠している秘密を教えてもらうという約束なら、負けてやってもいいだろう。



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