遊ぼうよと誘えば真っ先に舌打ちが返ってきた。
「冗談じゃねえ。俺よりよえー奴相手に遊べるか」
「誰のこと言ってんスか? 冗談はそっちだろ」
――灰崎祥吾、こんなにも気に入らない奴はいないというのに何故だか既に十年以上の付き合いとなる腐れ縁の友達だ。いや友達と言えるほど仲良くはない。
 この程度の言い合いは序の口であり、三年ぶりだからと言って互いに余裕ができるわけではなかった。相手の俺を見る目も以前と何ら変わらず、まさに邪魔者を蔑むような視線だ。この空間を有意義に使い女を侍らせている彼の時間を邪魔しに来たのだから別にそれが悪いとは言わないが。
「何でもいいっスよ。ルーレットでもビリヤードでもポーカーでも」
「勝手に話進めんな。随分と暇なんだなァ、スーパーモデル君は」
「はぁ? 暇じゃねーよ、だから手っ取り早く済ませてえの」
 ビリヤード台付近の壁に立てかけられたキューを見やりながら答え、一つずつ触りながら質の良いものを選ぶ。何でもいいとは言ったが、俺達が遊ぶ時は大体ビリヤードだった。運任せのカジノゲームは二人とも好き好んで手を出さず、己の実力で白黒はっきり付けられるこの競技が最適だからだ。
 これが一番いいかな、とキューラックから一本取り出し、先端をショウゴ君の方に向ける。
「ナインボールで三セット先取。俺が勝ったらそこに居る女の中から一人頂戴」
 ざっくりと賭けの内容も伝えれば途端に群がっている彼女達が騒ぎ出した。自分の顔を知らないわけがないし盛り上がるのはわかるが、俺からすれば興味を引くような人間は誰も居ない。ただ上書きしたいのだ、あの一晩を。
「テメーが負けたら?」
「ありえない話するの好きじゃないんスけど……んー、モデル仲間紹介するってのは?」
「売れないグラビアかAV女優だったら断るぜ」
「そんな安い女いるわけないでしょ、俺の知り合いに」
 鼻で笑うと目の前の複数人の女のうちいくらかは肩を強張らせたようだ。安い女と自分達に向かって嫌味を言われたとは、さすがに理解しているらしい。


Mr.Perfect / Scene 02 - F part


 灰皿の中で煙草をすり潰したショウゴ君は、なんだかんだ俺から挑んだゲームを断ったことがなかった。同じくらい負けず嫌いなのだ、煽られれば黙ってはいられない。単純な性格をしているのは自分もまた同様であり、だからこそいくら喧嘩をしても適当につるむことができるのだった。殴り合いにまで発展した過去もなくはないが、まぁ本気でやり合ったのはせいぜい学生の頃までだっただろう。
 ビリヤードの球を撞くのに必要なスティック――キューを握り、もう一度形式を確認する。カクテルドレスに身を包んだ女性達はいったんショウゴ君から離れていた。
「テキサス・ルールで三先、勝者ブレイクでいいっスか」
「五先じゃねーのか」
「俺明日早いんで」
 五セット先取までやってる時間はないと言っていることはわかるだろうが、賭けの条件から見れば自分が勝った時点で早寝をするつもりはないのだ。その矛盾に彼は僅かに眉を顰めたものの、指摘すればこちらが勝利する可能性を認めることになる。案の定、好きにしろ、とだけ返された。
 ナインボールはビリヤード界における最もポピュラーなゲームであり、一番から九番までのオブジェクト・ボールを最小数から順にポケットへ落としていく競技だ。最終的に九番の球を落としたプレイヤーがそのセットを勝ち取るわけだが、これらの基本的なルールを定めたものを米国初出の『テキサス・ルール』と言った。日本で考案されたローカルルールでも遊んだことはあるけれど、変則的で少し面倒な為、大抵はこれを適用している。
 まずはバンキングで先攻を決めなければならない。ビリヤード台の短い底辺に二人並び、ヘッドラインからほぼ同時に手球を撞いた。向かいのクッションに当たり、跳ね返ってきた球がより自分に近い位置へ止まった方に先攻の権利が与えられる。
「――先攻は俺だな」
 バンキングはほんの一センチの差で負けた。小さく舌打ちをし、後攻である俺がラックを用いてボールを並べていく。一番と九番の的球のみを決められた配置に乗せ、残りの七つは菱形になるようきっちりと詰めて置いた。
 ナインボールにとってどちらが先にブレイクするかはかなり重要だ。ポケットに球を落とせなかった場合、またはその他のファールが起こった時点でプレイヤーは交代となるが、運良く九つ全てのカラーボールを失敗せずに落とせれば後攻が撞くことはなくなるのだから。先攻が相手にショットさせず九番までポケットして勝負を終わらせるこのプレイをブレイク・ラン・アウトと呼ぶ。プロなら割と容易く出来てしまうものでもあるそうだが、俺達はあくまでアマだ、そこまで上手くいくことは珍しい。
 初っ端のブレイクショットは九個のボールを一撞きで動かす為に、強烈なパワーが必要となってくる。プレーキューからブレイクキューに持ち替えたショウゴ君はフォームを作って白の手球を見据えた。
 そしてオープニング・ブレイクが放たれ、切れ味の良い音と共に対戦が開始される。
 テーブルから一歩離れたところで相手のプレイを眺めていると、不意に一人の女性が自分にブランデーグラスを手渡してきた。必要以上に距離を縮めてアピールしてくる図々しさは全く以て好ましくない。が、ここで断れば白けてしまうことはわかっていたし、大人しく受け取ってブランデーの香りを嗅ぐ。
「久しぶりっスか? ビリヤード」
 一番をポケット、次いで二番のボールを狙うショウゴ君に話し掛ければ、端的に肯定の返事を寄越された。
「ああ。ここに来たのも半年ぶりだっつーのに……」
「え、マジで? うわー俺めっちゃ運良い」
「ふざけんな」
 すごい確率で当たったもんだ。
「……でもそっかぁ、久しぶりなんスね」
 わざとらしく口角を上げて言えば、「……んだよ」と不機嫌そうに横目で睨まれる。それを流しながら右手で揺らしたブランデーを一口だけ飲み、持ってきた彼女に返してキューを握り直した。
「いや? ちょっと下手になったんじゃないかなーって、ショウゴ君」
 揶揄すると同時にショットを受けた的球がテーブル上で停止する。どのポケットにも入らなかった――ということはつまり後攻と交代だ。クソッ、と露骨に悪態をついて台から離れた彼に代わり、落ち損ねた二番のボールを捉える。
 難しい位置にはなかった為に力を抜いて正確に撞けば簡単にポケットできた。そのまま三番、四番とバンクショットを使って連続で入れていく。
「前ならこれくらいは落としてたでしょ」
 滑り止めであるビリヤード専用のチョークをティップに塗り付け、五番の球を七番に当ててキスインさせた。これで残りは四つだ。調子は悪くない。
「うるせえな。ハンデに決まってんだろ」
「……まぁ何でもいいっスけど」
 早速女に手を伸ばして下半身に触れている様子はとてもじゃないが見ていて気持ちの良いものではなく、視線をキューの先端に戻しボールに集中する。一つポケットする度に甲高い声を上げる彼女達は一体どちらを応援しているのかわからない。この中から一人を選ぶというのは正直なところ苦行であり、勝負を吹っ掛けたのは自分でもあんな賭けは毛ほども望んでいないことだった。顔やステータス目当てに近寄ってくる女を抱くなんて面倒で仕方がないのだ。ぶっちゃけもう普通に家に帰って寝たい。――が、そうも言っていられないのは当然今日の自分の言動と、そして感情の変化にある。
 俺の調子が狂い始めたのは社長に出会ってから。そこは認めよう。しかし正確に言えば一度だけ体を重ねたあの夜、あの人と二度目のキスをした瞬間から、俺は妙な意識をしたりそのせいで上手く立ち回れなかったりと確実にペースを崩されているわけで。
 雰囲気に流されて彼を抱いたことが全ての始まりであり終わりだったのだと、ならば脳裏にこびり付いて消えない記憶を上書きすればいいと、そう考えるしか方法はなかった。そもそもあの人は男なんだ。根本的におかしい、間違っている。誰でも構わないから適当に異性と寝れば自分の理性は矯正されるだろう。まさか両性愛者でしたなんて――というよりは、否、美人で顔が良くて色気もあれば男でもいけますなどという無節操な人間には今更なりたくない。そんな性癖は認めない。
 コン、と最後に九番の球をポケットし、内心でほっと一息ついた。一セット目は勝ち取れたのである。
「よかったなァ、リョータ。どうせあとで泣くんだし、今のうちに喜んでおけよ」
「負け惜しみっスか」
 ショウゴ君は全く動揺する素振りも見せずにやにやと笑っている。予想の範囲内なのだろう、ハンデというのはあながち間違っていないのかもしれない。
 テーブル上には八番のボールが残されていた。七番を撞く際に同時に九番をポケットしたのだ。初めから最終ボールを狙うのではなく、九番以外の的球に当ててから九番の球を落とすという手法は一般的である。その時にはテーブル上にどれだけ他のオブジェクト・ボールが残ってても反則ではない。
「つーかテメーも久しぶりじゃねえのか」
 ゲームを始める前に確認したルールで勝者ブレイクと決めておいた。つまりセットを取ったプレイヤーが次の先攻であり、後攻となったショウゴ君はオブジェクト・ボールを菱形に並べながら聞いてくる。
「そっスね」
「やっぱりな。今度は何があったんだよ」
「え」
 想定外の一言に息を詰まらせた。すると「リョータがここに来る時は大体くっだらねーことで悩んでんだろ」と続けられ、返答を濁すほかない。間違ってもこいつは心配しているわけではなく、ただ純粋に面白がっているのだ。俺がゲームしようと言ったならその日は必ず何かあり、気分が優れないから自棄になっていることを知っているが故に。
「……別に何もないっスよ」
 昔から一番変わっていないのは俺かもしれないと思った。ブレイクキューに持ち替え、菱形の手前、フット・スポットに置かれた一番のボールを目がけて強く撞く。ブレイクショットで二番までポケットできたはいいものの、四番を狙ったところで本日初めてミスショットを出してしまった。図星を突かれたことに内心動揺でもしたのか、最悪だ。大人しくショウゴ君に代われば、今度は俺が暇を持て余しているこの女達の相手をしなければならない。
 クラブに出入りするようになったのは二十歳になる前だった。最初は事務所の親しい先輩モデルに連れられ、上の階で騒いでいただけ。未成年にもかかわらず酒を飲み始めたのはバレれば芸能生命の終わりだったが、元々芸能人に寛容なこの店はそういったことには目を瞑ってくれたのだった。寧ろ先輩に勧められて飲まないなんて失態で興醒めさせるわけにもいかず、吐いたこともあるとは言え、アルコールに対する耐性は成人になるより以前から付いていたと断言していいだろう。
 その頃の自分はちょうどモデルとして本格的に売れ始めたあたりで、とにかく調子が良かった。今ほどではないがそれなりに仕事は貰えていたし、夜になれば好きに遊べたおかげでストレスも溜まらない。順風満帆に人生を謳歌していたわけだが――人の目というものは、簡単に目移りする。三年前だろうか。一言で言って、俺の人気はいっきに低落した。
 世代交代が叫ばれ、年下の後輩モデルが注目を浴び出したのだ。いつかはその瞬間が来ることも全く予見していないわけではなかった。そして若いライバルと対抗するには、新しい黄瀬涼太を作らなければならないことも。しかしそこで躓いた。数年かけて定着させたイメージ像を変化させるというのは決して生易しい話ではなく、意識しすぎるあまり今までの自分さえ魅せられなくなったのである。いわゆるスランプだ。桃っちは必ず抜け出せるからと諦めないでいてくれたものの、なかなか脱却は難しかった。
 一度低迷したステータスを持ち上げられなければ自然と仕事は減り、反比例するようにここに入り浸る回数は多くなっていく。生活的に余裕がなかったのも原因だっただろう。一人暮らしを始めて既に五年以上は経っていたが、それまで家の諸費を支払っていた親が突然離婚し、資金も尽き、にもかかわらずクラブで気を紛らわすことはやめられない。酒を飲む量が格段に増えた。他にも都内のクラブをいろいろと回っているうちにようやっと金銭面を懸念するようになり、相談したのだ、ショウゴ君に。
 その時なぜ彼を頼ったのか明確な理由はもう思い出せない。
「ショウゴ君、今何やってんの?」
 二セット目も中盤、ミスせずに一つずつポケットさせている対戦者にふと尋ねる。擦り寄ってくる女は心底鬱陶しく、こんなに負の感情を抱いていて本当に平気なのかと言われそうだがセックスとなれば別だ。想いが伴っていなかろうがそっちの相性さえ合えばどうとでもなる。
 まだ誰を相手にしようかなど少しも考えていないけれど、後々の為に服の上から体に触れて腰を撫でてやるくらいのサービスは必要だった。さすがにこの場で直に肌を触るのは気分が乗らない。向こうは何を勘違いしているのか背伸びしてキスをせがんでくるものの、「あとでね?」と人差し指を唇に当て、上手いこと笑って誤魔化しておく。香水キツすぎるしこの女はやめよ。
「あ? 何って」
「仕事」
「お前知ってんだろ」
「え、まだ続けてるんスか? 彫師」
 とっくに無職かと、と小さく付け足すと睨み付けられた。
「意外っスね、マジで本職なんだ」
 ショウゴ君は大学には通っていたらしいが、その傍らで本格的に師の教えを受けて彫物について学んでいたと聞いたことはある。が、そのまま手に職を付けていたとは驚きだ。仕事と称せるほど技術を持っていたのかと、半ば馬鹿にしたような感想が浮かんでしまうのも仕方がない。
「家継げばいいのに」
「気色悪ィこと言ってんじゃねーよ」
 この話題を出すと一蹴されるのはいつものことだった。彼の家庭は母親が経営主となってジュエリーショップを展開しているのだ。チェーン店ではないものの、高価な宝石を扱う日本のブランドとしてはそこそこ名の知れた宝石商である。せっかくその息子として生まれたのだから相続して悪いことはないだろう、過去にも何度かそう言ったことはあるものの、依然として本人の意志が変わる様子はなかった。まぁ実際、ショウゴ君がジュエリーショップで働いているところなど想像もつかないし確かに気色悪いのでありえないとは思うけれど。
 母親は一人息子が勝手に彫師になっていて了承したのか知り得ないが、彼の家も結構な放任主義だったように記憶は留めている。「見て見て。これ、祥吾が彫ってくれたの」不意にロングウェーブの茶髪を揺らす一人の女性が俺に背を向け、髪を分けて肩甲骨のあたりを見せてきた。そこに大きく描かれた昇り龍と蓮の花。生でタトゥーを目にしたのは初めてだった為に少なからず驚いたが、背中の開いたドレスに対しその柄は綺麗に映えている。
「うわー……すごいっスね。日本人でも入れる人いるんだ」
「なんだその認識……普通にいるぜ。まぁ向こうほど多くはねえけど」
「向こう?」
 聞き返せば、淡々とプレイをしていたショウゴ君がやっとミスしてくれたようだ。六番のボールをポケットするところから俺の番になる。
 アメリカ、と返された一言に目を見開いた。
「行ってたんスか?」
「一年だけな」
「英語すげえ苦手だったじゃん」
「テメーよりはできたっつの」
 馬鹿言え、どっこいどっこいだったろ、と中学の成績を思い浮かべながら撞く。入学して二日後だった。こいつと出会ったのは。関わってすぐに反りが合わないと互いに察した自分達は極力近付かないように避けていたものの、何故か三年間同じクラスという驚異の不運に頭を抱えたのである。毎年クラス替えがあったにもかかわらずだ。おかげで喧嘩はよくしたし、一方で女の子付き合いについては利害が一致することもあった。アドレスを交換したのも確かその流れだっただろう。
 高校は別であり卒業後は疎遠になっていたものの、俺から再び連絡を入れることになるとは過去の自分もまさか思っていなかったに違いない。二十歳過ぎ、生活が苦しくなっていた自分が彼に相談し、紹介されたのがこのクラブの地下――本物の遊戯場だった。
 ビリヤード台は今使用しているものを含めて四台。対角に置かれたそこでは見知らぬ男性二人が同じようにナインボールで対戦しているが、ビリヤード場と呼ぶには小さく、もっと奥に広がるカジノゲームがここのメインである。
「あっ、やべ」
「バーカ」
 何個かポケットしてから最後の最後、撞く寸前に手元がほんの数ミリぶれてしまい、九番のボールがクッション付近で止まってしまった。しくじった。絶対に外すことなどありえないポジションでショウゴ君と代わり、二セット目は譲る羽目に。これで一対一の同点となり、さすがに自分の腕も鈍っていることは実感せざるを得ない。
 モデル業をなんとか持ち直した後はクラブ自体にあまり顔を見せなくなった為、最後にビリヤードをプレイしてから一年は過ぎているだろう。久々に足を踏み入れた地下はやはり見るからに富裕層の人間ばかりだ。会員の中でも遊戯場の存在を知っている者は少なく、入場するには特別なコネを利用するか洒落にならない額を支払うかのいずれからしい。俺は前者だったが、ショウゴ君がどうして六桁の暗証番号と例のパスワードを得ているのかは知らなかった。
 群がっている女性達もほとんど彼の遊び相手だから入れているだけだ。本当の金持ちではない。そして都内に数あるクラブの中で俺がここを一等気に入っている理由と言えば、このビルの上の階がホテル仕様になっているからであった。クラブで出会った人間と外に出ず行為に及べるよう、部屋とベッドのみを提供される言ってしまえばただのラブホテルだ。スキャンダルを気にする芸能人に配慮した構造なのだろう。おかげで、この空間で出会った女との写真が世に出回った経験はまだない。
――カジノで金を稼げばいい、相談相手は俺にそう言った。試しに始めてみたダイスもルーレットもそれなりに上手くいき、自分が意外にも博才を持っていたことを驚いた思い出は鮮明だ。ポーカーに関してはまともにやってたら負けるぞと言われ、見様見真似でちょっとしたイカサマ術も身に付けた。そのうちに困窮した日常からは脱却でき、今の生活まで復活できたと言っても過言ではない。
 ショウゴ君と仲良くできる気はしないが、当時の自分を救ってくれたことについては感謝している。
「タトゥーってさぁ、入れる時すげー痛いんでしょ?」
「あ? あー、まあ、人それぞれだよ。全然痛くなかったって言う奴もいるし」
「へえ」
「気になんなら彫ってみれば」
「いや俺モデルだから」
 ありえねーよ、と笑う。モデルでなくともありえないと答えただろう。
 三セット目のショウゴ君はブレイクショットから見てわかるほど慎重だった。先に二セット先取できるかどうかは大きいし、故に今回も途中で交代になったというのに九番まで落とせなかった自分に舌打ちする。結局三セット目も相手に勝ち取られてしまった。
 さすがに焦燥感を覚え始めるが、ここで冷静さを欠いたら勝率が下がることは明らかだ。「次で決まりだな」四セット目が始まる前、口角を上げて宣言された一言を無視して挽回すべくプレイに集中した。そしてショウゴ君が珍しく最少番号以外のボールに手球を掠め、苦虫を噛み潰したような顔でテーブルから離れた今がチャンスである。六、七、八番を抜かし、五番のボールをポケットする軌道上でキスショットを利用し九番を落とした。
「二対二っスよ」
 危ない。賭け云々以前の問題としてこいつ相手に敗北など絶対に味わいたくない為、内心は必死なのだ。漸く本気になり始めたのか真剣な目つきで睨む彼は最終セットにおいて後攻となり、ラックにオブジェクト・ボールを詰めていく。もう女は目に入っていないだろう。俺もキューの先端に丁寧にチョークを塗りながら精神を落ち着かせた。というのに、不意打ちでジーンズのポケットに入れていたスマホが振動し、張り詰めた静寂を破られる。
 こんな時に何なんだと胸中で悪態をつきながら取り出して確認すると、一通のメールが届いていた。差出人が実の姉である時点で良い予感はしなかったが、溜息をつきつつも本文を開けば。
『あんたの冷蔵庫何もないんだけど』
 知らねーよ……。
 あまりに意味のないメールにがくりと項垂れる。なんで冷蔵庫の中身など問い詰められなければならないのかわからないしそもそも今うちに居んのかよと突っ込みたい気分である。まだ結婚していない次女は二つ離れた駅で自分と同じように一人暮らしをしているが、前触れなく俺の家に来訪することは珍しい話ではなかった。そして勝手に食糧を漁っていく図々しさも。
 買い物行ってない、とだけ打って送り返した。十倍くらいの文句になって返信が来る気はしていたが、そんなメールが届くよりも先に「おい」と声を掛けられる。
「早くしろよ」
「あーごめん」
 慌ててスマホをポケットに仕舞い直し、ブレイクキューを握ろうとした時だ。
「落としたよ、涼太くん」
 周囲で観戦していた女性の一人が自分に向かって手を差し出す。彼女が床から拾い上げたものが何か最初はわからなかったものの、右手に乗せられたその小さな石より放たれる強烈な輝きに、ああ、と理解した。
――ダイヤモンドのピアスだ。同じポケットに入れていた為、スマホを取り出す時に落としてしまったのだろう。「すごく綺麗なピアスね」「ダイヤなんスよ、本物の」笑みを浮かべて拾ってくれた相手と話していると、ふと視界の隅に映ったショウゴ君が丸く目を見開いたのがわかった。
「……お前、それ」
 心底驚いた様子でぽつりと呟き、しかし言葉の続きはない。疑うようにまじまじと細められた視線の先にはピアスがある。よくわからない反応に首を傾げて「なんスか?」と聞くと、少なからず困惑したように眉を顰めるのみだった。
「いや……、そのピアス、お前のか?」
「え、あー、うん」
「……いつから」
「い、いつから? えっ、……昨日くらい……?」
 先の読めない会話の応酬にますます疑問符は絶えず、つい馬鹿正直に答えてしまう。するとショウゴ君は衝撃を受けたような反応を一瞬ちらつかせつつも深く溜息をつき、リョータ、それさあ、と頭を掻いた。
「……赤司から貰ったろ」
 え。
 今度は俺が驚く番だ。
「な、……え、そうだけど、え? なんで知っ……」
 てるんスか、と言い掛けて口を噤む。ピアスの中心には百万は超えているに違いないトップランクのダイヤモンド。社長に渡された時、こんなものをどうやったら一晩で手に入れられるんだ、と俺は確かに考えた。そして眼前に居る男の家ではジュエリーショップが営まれている。
 至極単純に思考回路を動かせばこれだけで大方の裏事情を把握できてしまうくらいだが、まさかこう繋がるとは、まさか。いやそんなまさか。
「も、もしかしてショウゴ君の家の……宝石? これ」
 恐る恐る尋ねてみると、相手も信じられないと言った様子で口を開いた。
「……多分な」
 マジかよ。
「俺は関わってねーからよく知らねえけど、すげえモンが売れたとか言って家からなんかメール来てよ」
 そう喋りながらご丁寧に添付画像を示され唖然とした。そこに写っているのは紛れもなくこのピアスであり、そして隣に並べられた買い取り証明書に赤司征十郎と直筆でサインが成されている。印鑑が朱肉の色ではなく黒く印刷されている為、恐らくこちらはコピーだろう。
「早朝に店来て普通のピアス見せられて、これの複製品を作って宝石だけ最も高価なダイヤモンドに変えてくれ、今夜までに、っていい笑顔で言われたらしいぜ」
「お、おお……」
 あの人なら言いそうだと思ってしまったではないか。その後も話を聞くところによれば、灰崎家のジュエリーショップもやはり赤司グループとは切っても切れない縁らしい。無闇に断るわけにもいかず最善を尽くして店頭に並べることもなかったダイヤを埋め込み、約束通りその日の夜までに完成させてみせた。するとそれを見た社長が経営主――つまり彼の母親に敬意を表し、予想を遥かに超えた額を小切手に記したのだとか。
 さすがに貰い過ぎだと店の方から値下げを要求するレベルで。しかし一日で無茶をさせた、開店時刻よりも早くに押し掛けてしまった、僕の個人的な用件だというのに、等々変なところで変に律儀な社長の言い分により見たこともない金額が口座に入ったと言う。
「それで家のローンとか俺がちょっと抱えてた借金とか全部払えるらしくて、俺にも連絡が来たんだよ」
 なるほどそういうことか。と、一連の流れは理解できたが。
――いや待ってくれ。
「け……結局いくら出したんスか、あの人」
 ダイヤモンドのみの価値なら数百万と踏んでいたが、これが特注品であることはもちろんだ。そして今の話を聞いてしまうとゼロがもう一つ、いや、ふた……つ……?
(じょ、冗談っスよね……さすがに……)
 押しに負けて簡単に貰ってしまった自分は事態を甘く見ていたのではないだろうか。血の気が引くと同時に、はっと思い至る。
「ていうかショウゴ君、社長のこと知ってんの?」
 俯き気味だった顔を上げて尋ねると、彼は露骨に眉を顰めた。
「あ、社長って、赤司征十郎のこと」
「ああ……昔ちょっとな」
 あの人の立場をわかっていて呼び捨てにできるということは何かしら関わった過去があると考えていい。俺からすれば純粋な問いだったが、それに答えたショウゴ君は顔を逸らしてどこか気まずそうだった。実家の宝石商と赤司グループという関係なら一つの疑問も抱かないというのに、まるでそれ以外に何かがあるような濁し方。
――昔って? 曖昧な単語に思考を巡らせ、そして先ほどショウゴ君の口から聞いた一言が脳裏を掠める。アメリカに一年行っていた、と。
「ほらさっさと始めろよ」
 社長自身の話を根本的に嫌がるかのように試合の再開を促されたが、それを無視して聞いた。
「ロスに居た社長と何かあったんスか」
 そう言い切った声が思ったよりも低いトーンとなっていて、心のうちでは自分でも驚いてしまう。ああ、まただ。昼間、緑間くんに対し感情をぶつけてしまった時の感覚と似ている。俺が知らないことがあるのが気に入らない。二十数年生きてきて初めて覚えたような幼稚な嫉妬心が、重く頭を占めていくのが嫌でもわかった。
 何もねーよ、とショウゴ君ははっきりと返してきたが、それを信じるだけの余裕が既に消えていることに我ながら引くしかない。何の為にここに来たんだ、何の為に上書きしようと思ったんだ、客観的に自分を見詰めればまだ理性は残っているのだ。それでも、明瞭な形を持ち始めた己の欲求に本能が負けていた。
 とうに整然と並べられた九つのオブジェクト・ボールに目をやり思考する。対戦は次で最終セット。俺の先攻、これで勝てばショウゴ君が連れている女の中から一人貰うという約束だったが、こうなったらそんなものはどうでもいい。
 右手に持っていたダイヤのピアスに視線を落とし、意を決して、左耳へと付ける。自分に相応かどうかは判断し兼ねたが、いくら躊躇っていたって似合う男になるしかないのだ。
「ショウゴ君、ちょっと賭けの内容変えていいっスか。俺が勝ったら――」
 とん、と手球をビリヤード台に乗せながら告げた。
「赤司征十郎と何があったのか教えて」
 睨み上げるようにして発した台詞にショウゴ君は顔を歪めるものの、俺が一度決めた意志を取り下げないのはよくわかっている奴だ。二人だけで身内話をしていた為に放っておかれていた女を引き寄せながら笑みを浮かべている。
「勝てたら、な」
 挑戦的な両眼は変更の了承を表し、今一度細く深呼吸をしてからキューを握った。女を賭けていた時よりも格段に闘志が燃えているのは最早否定できない。一か八かではあるけれど、この状態から絶対に勝利する最高のプレーが一つあるのだ。
 ブレイク・ラン・アウト――先にも言った通り、一度もミスをせず一番から九番まで全てのボールをポケットし、相手にキューを持たせないまま勝ち抜けるやり方。プロではない自分が成功する可能性は決して高くない。が、やるしかないだろう。
(……これじゃあ社長を餌にしてるようなもんだな)
 指でブリッジを作ってフォームを定め、撞く瞬間に頭に浮かんだ一言だった。



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