紫原っちが帰ってから隣の第二会議室を覗いてみれば、桃っちと帝光出版はまだ話し込んでいる。俺はその様子を横目に踵を返した。二社で話し合って今後の予定を整理しているらしいが、スケジュール管理に関してはマネージャーに一任している為に自分の出る幕はないのだ。
 三人が部屋を移動する際にお疲れ様とは言ったものの、打ち合わせが終わる頃にもう一度挨拶した方がいいだろう。とりあえず喉が渇いた。難なく済ませられたはいいが心の中では少なからず緊張を覚えていたことに変わりなく、一人になった途端に気が抜けて脱力してしまう。何せインタビューにはやはり表紙に選ばれてどう思うかという、俺にしか聞かれない重要な質問も含まれていたのだ。こういった場面に備えてそれなりの話術は身に付けているつもりだし、今までの経験から不慣れだということはないものの、少しぎこちない返答をしてしまったのも事実だった。
 恐らく近いうちに表紙の撮影がある。オーディション時の写真も本誌に載せると聞いているが、それとは別に自分だけはページ増量で周囲の倍以上は撮影時間を設けられているのだった。他のモデルも衣装を変えてあと一、二回は『TiPOFF』用の撮影を行い、巻頭ポスターを含め数ページは八人揃ってのシーンも入る。その時が初めて全員で撮る瞬間となるだろう。
 数回の撮影のうちのどれかは街頭ポスターに使用するそうだ。既にこの間帝光出版から発売された同系の雑誌において『TiPOFF』創刊号の宣伝は大きくされ、世間でも着々と注目を浴びつつある。ただしあくまで“創刊号だから”興味を持たれているのであり、日本で売られてきた過去のファッション誌に比べると取っ付きにくいコンセプトであることは明らかだった。世間様の反応を見て思ったのが、寧ろ若い日本人は今回起用されたモデルの中でよく知っているのが俺くらいだということ。他はほとんどが海外で活躍しているブランドモデルだったり、あるいは舞台俳優業を本職としている劇団出身の人間だったりと、この国において名の知れた定番のモデルというわけではないのだ。
 そう考えると自分が表紙に選出されたのは初回でも手に取りやすいからかな、と思い至ったりもしたが、社長の言葉に嘘はない。ただ俺が一番の評価を得られたのだと再思する。
 合格者モデルの中で純日本人は俺ともう一人しかいない。外人との混血は少し失敗しようとやはり海外デザイナーからの信頼が高いのか、オーディション撮影時に自分の前に撮られていた女性も結局受かったようだ。あの時は上手くいかなかったとしても毎度毎度苦手としているパターンの衣装を与えられるわけではない。さすがに、普段の功績も考慮されてはいるのだろう。
(とにかく俺が看板ってことだよなあ……)
 自分に与えられた役目はこれ以上ないほどに大きかった。その現実を噛み締める度、背筋が震えるような思いをする。
 会議室の階下には喫煙室を兼ねた休憩室が存在し、そこで桃っち達の打ち合わせが終わるのを待つことにした。立ち寄ってみると人影は一つもなく、備え付けられた自販機で飲み物を購入するべく足を踏み入れる。そして小銭を入れ、コーヒーを選ぼうとした時だった。
 同時に目に付いたそれに、ボタンを押そうとした手が止まる。
「……おしるこ……」
 なんてあったっけ。
 いつもコーヒーが並ぶ段しか見ないから全く知らなかったのだ。視線を動かせば最も右端に温かいおしるこのサンプルがぽつんと表示されていて、空中で人差し指が彷徨う。紫原っちに言われたことが頭に過り、しかしそのままなんとなしにそのボタンを押してしまったのは不覚だったと言えよう。
 がらん、と音が鳴って落ちてきた缶をしゃがんで取り出す。……買ってしまった。別に自分が飲みたいわけでもないものを。そもそも缶入りのおしることか自販機にあるんだな、とその程度の知識である。
 項垂れながら溜息を吐き出し、すぐ隣に設置されたベンチに座った。購入した以上捨てるのは勿体ないし、とりあえず飲んでみよう。プルタブを開け、そしてどろりとした液体が口に入ると。
「あっま……」
 げんなりした。味わい深いなんて名目で和菓子に使用されるようなとてもとても甘い餡子を押し込まれている気分だ。口の中が少しも潤わない。一口目はまぁいいが、これを三百四十ミリリットルなんて飲めるわけがあるか。滑らかさを邪魔をしてくる小豆もあまり好きではないし、何故こんなにも甘ったるいものが飲み物として発売できるのかわからない。
――と、思い付く限りの批判を無闇に脳内で浮かべたところで、特に理由もなく買ったなんてらしくもない行動が無くなるわけではない。目を瞑って壁に頭を預けた。二口ほど飲み込んで残りをどうしようかと考えた末、いいや流して捨ててしまえと先ほどの思考をあっさりと忘れて自棄になる。しかし立ち上がろうとしたその瞬間、休憩室の入口に見えた人影に思考も動きも一度停止した。
「……ミ、ドリンさん」
 無意識に零れ落ちた呼び名に、こちらへ入ろうとして足を止めたのだろう彼が露骨に顔を歪めさせる。しまった。
「……何度言えばわかるのだよ。その呼び方はやめろ」
「あー、すいません……桃っちが最初にそう言ってたから印象強くて」
 気まずさから堂々と出て行くこともできずに再びベンチに腰を下ろした。会話が弾むわけないだろう。緑間くんは逡巡したように見えたが、無言で休憩室に入ってきて、俺の横にある自販機の前で止まる。
 痛々しい沈黙に耐え切れず、打ち合わせ終わったんスか、と苦し紛れに話し掛けることにした。
「ああ。桃井と黒子はまだ上でくっちゃべっているのだよ」
「意外と早かったっスね」
「スケジュールと契約の最終確認だけだからな。紫原は?」
「終わって先に帰ったっスよ。あと伝言なんスけど、データは夕方に紫原っちの方から送るって。なんか回収を待ってられないとかで」
「……勝手なことを……」
 低めた声で呟きながらお金を投入している。しかし言葉のやり取りなどそれくらいのものであり、再び張り詰めた静寂に肩を強張らせては早々に休憩室を出て行った方が良いだろうと思わざるを得なかった。が、なかなかタイミングが掴めない。手に握った温かな飲み物を口にも運ばず黙っていると、不意に彼は言う。
「お前も飲むのか、それ」
 それ、って。
「えっ、あ、これ?」
「ああ」
「……た……たまに?」
 苦笑いを浮かべ、冗談もいいところな返答が口を衝いて出ていた。そうか、と端的に相槌を打って目を戻され、俺は自分の手元に視線を落とす。缶入りのおしるこなんて初めて飲んだっつーの。
 おかげで、ちらりと見やればなんということか緑間くんもおしるこを買っていたことには心底驚いた。紫原っちの発言は本当だったのか、こんなにおいしくもないものを好き好んで得るなんて。
「……甘党なんスね」
「お前がか」
「いやあんたが」
「俺はそうでもないのだよ」
 ど、どこがですか。缶を開けるなり平然と飲んでいる様子を見て言い返したいのをぐっと堪える。
「あ、もしかしておしるこも仕事中ないと駄目とか? ラッキーアイテムみたいに」
 笑って戯言を口にしたつもりだった。ところが予想に反して真顔で肯定の返事が寄越され、誰かこの人との上手な会話のキャッチボールの仕方を教えてくれと思う。クマのぬいぐるみを持ち歩いて甘すぎるおしるこを飲んで仕事に励んでいるというのか。その仏頂面で。自分には到底理解不能な光景であり、あの三人の中ではやっぱり彼が一番まともじゃないように感じた。
 居心地の悪さに身じろいでいると緑間くんは自販機の前に立ったまま、「人事を尽くしてこそ最良の仕事ができるのだよ」とはっきり告げる。どうやらそれが矜持のようだ。
「熱心っスねえ。帝光出版の人って皆そんな感じなんスか?」
「どういう意味だ」
「ほら、社長も仕事第一だから」
 悪い風に言っているわけではない。俺だって仕事は大事にしている。ただまるで彼らは命よりも仕事の方が大切だと言うかのような働きぶりであり、もう少し肩の力を抜いても、くらいのニュアンスでおどけたつもりだった。しかし途端に緑間くんは眉間に皺を寄せ、不快に感じたとでも言いたげな表情でこちらを睨む。
「……お前には一生わからないだろうな。社内評価の為に朝から晩までデスクワークをこなすしかない人間の気持ちなど」
 その言い方がほんの少し頭に来たのは事実だった。自虐なのかもしれないが、同時にこちらへの嫌悪感もあからさまであり、目を細めて無言で強い視線をぶつける。数秒どちらも黙り込んだ後、不意に顔を逸らした彼が呟いた。
「……俺と赤司は違う」
 下唇を噛み締め、何か悔しがるように。
「赤司の仕事に対する執着心は熱心なんてものではないのだよ。あいつの一言一句は業界に影響し、一挙一動は業界を変化させる。ひとたび失敗すれば居場所が無くなることなど火を見るよりも明らかだろう」
「……居場所?」
「ああ。赤司グループに居られなくなる、失敗すればな」
「でもあの人は会長の秘蔵っ子なんでしょ? ちょっとミスったくらいじゃ……」
「お前は馬鹿か? あいつは“赤司の血を継いでいるから”お気に入りなんじゃない。“今まで失敗してこなかったから”気に入られているんだ」
「…………」
「例えば実はあいつは母親の不倫相手の子で会長の血は混ざっていませんでしたとなっても、あいつは勘当などされやしない。血の繋がりなんて、ビジネスに全てを費やす赤司グループからすれば至極どうでもいいからな。……代わりに一つでもミスをしたならその時は、」
 緑間くんは一つ息を吸って言い切った。容赦なく切られる、と。
「赤司は……、赤司だけは、命に代えてでも失敗を許された身ではないのだよ」
――社長に関して喋る彼は見違えるほどに流暢であり、まるで赤司征十郎のことなら自分が全部知っているとでも言うような物言いだ。俺はどうしてか、それが癪だった。確かにあの人が父親と家の名誉の為に働くことへ、どれほどの覚悟を要しているのかなど知り得ない。仕事に対する思いや情熱というのも、軽く捉えていたのかもしれない。けれど、けれど社長だって。
「仕事の為だけに生きるべきじゃないっスよ」
 なんでそう言ってしまったのか自分でもわからなかった。はっと気付いたところで遅く、口から出てしまった言葉はもう戻らない。
 案の定、こちらの言葉を聞いた緑間くんはついに堪忍袋の緒が切れたようで、ふざけるなと声を張り上げて怒りを露わにする。
「あいつは今、大事な時期だ。お前のように世間に持て囃されて金が入れば満足するような、生半可な生き方をしている奴に赤司の立場などわかるわけがないのだよ!」
 俺は何と言われようと構わない。しかしさっきから社長の何を案じているのか知らないが好き勝手に主張する彼の意見がところどころ気に喰わないのは確かであり、思わず立ち上がって反論してしまった。むきになっているのは相手だけではなかったのだ。
「そういう考え方があの人の立場ってものを苦しめてるんじゃないんスか。あいつは失敗しない、させてはならないって、一番そう思ってんのあんたじゃん」
 右手に握った缶に、ギリ、と力が籠る。緑間くんは一歩も引かず、俺達は互いに睨み合った。
「『出版社の社長』となった赤司の身を守る為には、それくらいの意識で傍に居なければ駄目だということだ。お前も同様に」
「はあ? なんで俺がそんなこと気にしなくちゃいけないんスか」
「お前のせいで赤司の気が緩むようでは困るからに決まっているだろう」
「なにそれ、まるで俺があの人のこと誑かしてるみたいな」
「そう言っているのだよ!」
 思い切り遮って訴えられ、不覚にも息を呑むともう一度彼は告げた。そう言っているんだと、今度は静かに。怒りからか悔しさからか、僅かに声が震えているように聞こえたのは、きっと気のせいではないだろう。
「……俺はあいつを十年見てきた。この目で、誰よりも近いところで……だが初めてだ。たった一人の人間に、あんなに、夢中になっている様子を見るのは」
 十年。
 瞬時にして紫原っちの一言が頭に蘇る。そして同時にその意味も理解したが、俺は奪うつもりなんてないと――言い切れないのが、笑えなかった。
「何故お前なのだよ、黄瀬」
 そんなことを言われても知らない。けれど自分が社長を、誑かしている? 冗談じゃない。
 いいよわかったと彼の方へ一歩近付き、言いたいことは全部言うことにした。今更後に引けなかった。俺のせいであの人の気が緩み、万が一の話、仕事で何か失敗したとして、居場所を失くして、追い出されるような事態になったらどうしてくれるというのが彼の言い分なら。
「『出版社の社長』は緑間くんが好きに守ればいい」
 適任だ。でも、と視線が交じったところで真っ向から断言する。誑かしているなんて冗談じゃない――本気だって言ったら?

「でもその代わり、『赤司征十郎』は、俺が貰うよ」



 緑間くんは何も返してこなかった。両目を見開きこちらに向けられた憤りから避けるように、彼の横を通り過ぎて出て行く。
 全く以て口に合わなかったおしるこの残りは近くの手洗の洗面台に捨てることにした。どろりと流れ落ちていくそれを眺めるのははっきり言って不快だったが、飲み干す方が無理な話だったのだ。こんなところに流していいのかもわからない。缶を握る手に力を込めて中身が空になったところで、蛇口を捻り排水溝へと綺麗に送る。洗面台に手を突いて顔を上げれば、鏡に映った自分の表情はとても見れたものではなかった。
――なんであんなことを、言ったのだろうか。
 緑間くんに向かって宣言した一言。忘れられるわけもなく、幾度も反芻しては頭も心も淀むばかりだ。自ら告げた言葉を理解できないなんて馬鹿じゃないのかと自嘲しているうちに苛立ちが募り、ついに勢いに任せて空き缶を鏡に向かって投げ付けてしまった。ガンッ、と派手な音が鳴った直後に呆気なく床に転がる。鏡面には容易く一筋の傷が付いた。
 吐き出す吐息が震えるほど、とにかく腹が立っている。理性が欠けて口走ったわけではない。寧ろ愛想笑いも浮かべず目の前の人間と真っ直ぐに向き合い、冷静に考えた状態で言った台詞だったのだ、あれは。しかし感情に任せていた部分も無いと言えば嘘であり、向こうの返答も待たず逃げるように休憩室を出てきてしまった己の狡さを尚更認めたくなかった。あれじゃあ身勝手に我儘を喚き散らしただけの子供同然だろう。
 理性で訴えたし、本能で睨んだ。そう考えれば今までなかったはずの独占欲に目が眩んだ理由など否が応でもわかってしまい、自分の思考からは逃げられない。
 紛れもなく、俺は本心を口にしたんだ。あの人を貰うと。
「何考えてんだよ……」
 大袈裟に溜息をついてすぐに舌打ちもした。自身の勝手な言動に苛まれるなんて笑えないほどおかしく、普段の爽やかで明るいモデルのイメージ像などその片鱗も見られないだろう。周囲に誰も居ないから感情のコントロールができていない、する余裕もない。
 どういうつもりで明言したのかまで整理できず、いくら考え抜いてもそこで詰まる。少なからず社長を特別な目で見ている節はあったし、意識もしていたが、まさかあんなにも大きな存在になっているとは我ながら予想を超えていたのだった。
 貰うって、貰ってどうする気だ。俺は何がしたいんだ? 明確な答えを出せずに仕方なく消去法を取れば、真っ先に仕事が消える。あの人が仕事に打ち込みすぎて自覚なく自らを犠牲にしている姿は好きじゃなかった。プライベートなら俺と居る時くらい楽にしてほしい。俺は彼に対して『赤司グループのご令息』も『大手出版社の社長』も求めていない、それだけは確かだ。
 あの人の着飾らない一面が見たい。誰にも見せたことのない表情を引き出したい。知らないことを教えてあげたい。その為に、一緒に居たい。でもそんな欲望で自分ばかりが思い悩むのは嫌だった。だからあの人にも同じくらい俺のことを考えてほしい、というより、俺のことだけを考えてほしい。俺だけでいっぱいになってほしい。緑間くんが社長についてよく知っているのも、一番近くで十年間見てきたと断言されたことも、正直に言って気に入らない。どこの馬の骨だかわからない奴が社長の夢を知っていて、きっと本人は俺には教えてくれないのだろうという予感にも腹が立つ。
――本当に子供だ。独占欲に加えて嫉妬心まで揃っているなんて自分は一体どうしてしまったのだと頭を抱えるほかなかった。紫原っちに言った通り、一ヶ月。まだ一ヶ月しか経っていないのだ、出会ってから。
 それでも、もしも『赤司征十郎』を俺のものにできたら――あの時、微かに脳裏を掠めた欲がだんだんと形になっていくことが怖かった。理由も理屈も、まどろっこしい考えを全て抜きにすれば欲しているものはほとんど理解しているけれど。
「……あー……あああもうほんと……」
 冗談も程々にしてくれよ黄瀬涼太! ぐしゃぐしゃと頭を掻いて項垂れる。
 理性が信じたくないだけなのだ。だって今の状態で認めてしまえばもう、後戻りできない。誤魔化して忘れてあの感情は一時の気まぐれでしたと笑い飛ばせる自信がなかった。そして社長の前で、自制心を保てるかどうかも。
 だから自覚するわけにはいかないんだ。いい子でいる為には。


 ようやっと冷静になった頃にはトイレにずっと引き籠っているのも馬鹿らしく思え、髪を整えてから外に出た。床に落下したままの缶は拾ってごみ箱に捨てておく。
 恐る恐る休憩室を覗いてみても人影はなく、内心で胸を撫で下ろした。しかし依然として頭の中は重く濁り、僅かに覚束ない足取りで廊下を歩いていると突然、背後から呼び止められる。
「きーちゃん! 探したわ」
 振り返れば桃っちが長い髪を揺らしてこちらへ走ってきていた。「携帯繋がらないし、どこ探してもいないんだもん……帰ったのかと思っちゃった」困ったように笑って言われ、そういえばスマホの電源をインタビュー前にオフにしたままだったことを思い出す。ごめん、とそれだけで苦笑した。
「黒子くんはもう帰ったんスか?」
「うん、さっきね。そういえばきーちゃん、ミドリンと何かあった?」
 不意打ちだ。唐突に先ほどまでの出来事を指摘するように尋ねられ、心臓が跳ね上がる。
「え、な……なんで?」
 露骨に狼狽えてしまったものの、大した理由じゃないんだけど、と桃っちはあまり気にしていない様子で答えた。
「テツ君が帰る時にミドリンにもちょっと会って、きーちゃんの居場所聞いたらすっごい不機嫌そうに知らないって言われたから……あ、何もないならいいの!」
「そっ、か……いや、なんもないっスよ。ただちょっと苦手なタイプだなーって、お互いね」
「あはは、二人とも全然性格違うものね」
 こちらの言葉を半分以上は冗談だと思ったのだろう彼女は簡単に笑っている。苦手なタイプ、性格が合わない、それくらいならまだよかった。しかし実際は俺が喧嘩を売ったのだ。歩み寄るどころか和解さえ難しいだろう。
「じゃあ帝光出版と話し合ったこと伝えたいから、ちょっと時間いい?」
 上の階にある会議室を指しながら言われ、頷いて彼女の横を歩いた。
 契約書への捺印はオーディションが始まる前に既に済んでいる。契約期間や契約金についてもほぼわかっているが、今一度確認を取って資料を端から読んでいった。向かいに座った桃っちは書類に記されていない補足説明をところどころで挟み、それらについてもきちんと理解していく。いくらマネージャーを頼りにしていると言っても結局は自分のことだ、昔は細かい事務関係の処理が得意ではなかったが、最近では大分慣れたように思う。
 暫く集中して話を聞いていたが、帝光出版との契約書の最後にあの人の名前が書かれているのを見ただけでどきりと反応するのだから大概だった。間違いなく意識のしすぎである。必要以上に考えるから思考が落ち着かないのだと結論付けた俺は、雑念を振り払うように桃っちとの打ち合わせに耳を傾けた。
 表紙に選出されたことによって格段に予定が増え始めたスケジュールは整理するとなかなかハードなものであり、早速明日から都内ではない某所で連日撮影が開始される。スタジオでも撮るけれどその大半は屋外を利用したロケーション撮影らしい。近くのホテルに滞在する為、数日間こっちには帰ってこない。
 好都合だ、と思った。会える距離に居たら、また何か仕出かしてしまう。それならいっそとても離れたところで頭を冷やした方がいい。
「とりあえずこんなところかな。現地での詳細は移動中にまた話すわ」
「わかったっス」
 書類を揃えながら相槌を打ち、鞄へ仕舞おうとした時だ。「……あ、それとね」最後に一つ、と彼女は付け足す。
「あんまりこういうことは言いたくないんだけど……」
 少し躊躇いがちに、眉を下げて桃っちは言った。
「スキャンダルには、気を付けてね」
 しっかりと俺の目を見て告げられた一言にごくりと唾を飲み込み、書類を片付けるはずだった手は無意識のうちに一度止まってしまう。その様子を見たマネージャーは慌てて口を開いた。桃っちがスキャンダルについて言ってくることは、本当に珍しいのだ。
「ほらっ、きーちゃんこれから大事な時期でしょ? もちろんそういうの全部駄目って言ってるわけじゃないし、制限するつもりもないわ。きーちゃんがいつも気を付けてるのもわかってる。ただ、どこで何があるかわからないから……」
「大丈夫っスよ」
 桃っちはモデル黄瀬涼太のマネージャーあると同時に、俺の親友なのだ。頭ごなしにスキャンダルはされるなと怒鳴ってくる上司とは違い、全面的に否定しようとはしない。そういった交遊を無闇に咎めれば親友としての俺の意見を何も尊重できなくなると、それはモデルになって初めてパパラッチされた時に彼女が自分に向けた言葉だった。
 大丈夫、とまるで己に言い聞かせるように二回告げると、安心したのか心の底から微笑む表情に胸を締め付けられた。緑間くんにぶつけた感情と、桃っちの前で口にした台詞と、どちらも本心だなんて笑わせるな。世には回らなかったが社長の家に泊まった翌日、恐らくアパートの前に停車していたあれはマスコミだ。少しでも気を緩めれば途端にプライベートなどあったものではない。そしてそうなったら迷惑が掛かる範囲はきっと自分の予想を遥かに超え、当然、桃っちにも被害は及ぶ。自分のでせいでオフィスクオーターの社員である彼女の評価を落とすことだけはしたくなかった。
 けれど桃っちは自分の身ではなく、本当に俺のことを心配しているのだとも理解していた。これから大事な時期だからと、その台詞を反芻すると同時にふと思い出す。緑間くんが、あいつは今、大事な時期だと社長について本気で訴えてきたことを。
(……大事な、時期……)
 あの人は帰国して一つ目の大きな仕事である『TiPOFF』という異色なファッション誌を成功させなければならない。俺はオーディションをトップで合格した以上、相応の実力を付けて『TiPOFF』の売上を伸ばす努力をしなければならない。遊んでいる暇なんてないし、そんなつもりもない。役割を与えられたからにはそれぞれ果たさねばならない義務がある。
 緑間くんのことを心底嫌いになれない理由が漸くわかった。桃っちと似ているんだ。誰か一人の為に全力を尽くし、その人の将来を心から案じ、願い、信じている。そこに生まれた信頼は友情なんて言葉で片付けていいものではなく、俺と桃っちがビジネスパートナーなら、きっと社長と緑間くんも同じだろう。
 互いに脇目も振らず目の前の仕事をこなして最高の成果が残せれば一番よかったのかもしれない。――ただ、あの人を求めた俺の心が、社長への膨れ上がる感情だけが、それを邪魔していた。


 事務所を出ると叩き付けるような豪雨が辺り一面を薄暗くしている。今日は降水確率が五十パーセントを超えると予報で耳にしていたが、こんなに吹き荒れるとは思っていなかった。雨すごいねえ、と傘の留め具を外しながら桃っちが隣で紡ぐ。
「帰り気を付けてね。道、滑るし」
「うん。きーちゃんはタクシー?」
 俺達はほとんど一緒には帰らない。自分が車を回さない限り彼女は大抵電車での通勤であり、この会話も恒例だった。頷いてタクシー待ち、と言う。それからサングラスを取り出して掛けると、横目で捉えていたらしい桃っちが不意にこちらを見上げて呟いたのだった。
「ピアス、してないのね」
 ただ目に留まったことを口にしたまでだろう。しかし俺は一瞬返答に詰まり、なんとなしに左耳を指先で辿れば、何も付けていない故の喪失感をほんの少し覚える。濁った雨に加えてサングラスの色味で更に悪くなる視界は決して心地の良いものではなかった。
「あー……さすがに本物のダイヤは、ちょっと」
 恐れ多いというか、とこの期に及んでそんな返事しかできない。本当は、あの時の失態を思い出したくなくて鞄のポケットにずっと仕舞ってあるのだけれど。
 社長がくれたダイヤモンドの価値を知っている桃っちはそれ以上深く聞いてこなかったが、俺がピアスを付けていないことに関しては違和感があるのだろう。何せ中学の時に開けて以来、外した日なんて片手で数えられる程度だ。
 事務所の入口、屋根の下で佇む中、ざあざあと降り続ける雨音が二人の会話を掻き消していく。なんだかんだ打ち合わせを長くやっていた為に既に太陽は沈んでいて、通りには傘を差して帰宅途中と思しきサラリーマンがまばらに歩いていた。走り抜けていく車のフロントではワイパーが忙しなく動く。
 そうして自分達の前に事務所と契約している一台のタクシーが止まり、その扉が開くと同時に雑談はおしまいだ。気付けば桃っちはいつも待ってくれていた。
「じゃあまた明日」
 傘を開きながら彼女は少し声を張り上げる。そうでもしないと雨のせいで聞こえない。
「いよいよ本格的に始まるね」
「そうっスねえ」
「黄瀬涼太選手、今の意気込みは?」
「あははっ、なにそれ。えーと……ベストを尽くしたいです?」
「もっと具体的に」
 今のでは不合格だったようだ。そんなインタビュアーが居てたまるかと思いつつ、タクシーの方へ足を進めながら笑う。
「うーん、日本一かな」
 なーんちゃってと振り向けば、彼女は思いのほか真剣な表情で口角を上げるのだった。
「駄目よ、きーちゃん。世界一! 時代は東京オリンピックだもの」
 いつから俺はオリンピック選手になっていたのだ。「モデルの世界一ってなんスか」おどけながらタクシーに乗り込み、この豪雨であることにもかかわらず窓を下げた。すると桃っちは力強く告げる。
 それを見つけていくのよ、これから、と。


 普段なら行き先はもちろん自宅だったが、今日だけは運転手に別の目的地へ向かわせた。オフィス街を一つ抜ければそこは歓楽街。痛々しいネオンに包まれたその空間の隅に、俺が向かいたい場所はある。
 タクシーの運転手は昔からの契約先である為に何度か顔を見たことのある男性であり、俺の住所を正当に知っている数少ない人間のうちの一人だ。けれどお疲れ様ですと一言声を掛けられたきり、特に会話をしようとはしないところが気に入っていた。話したければ俺から喋るし、必要以上にうるさいだけの空気の読めない奴は好きではない。今もサングラス越しに雨天だろうと煌びやかな街並みを眺めるだけである。
 しかしいつもと同じように自宅へ車を走らせるつもりでいたに違いない運転手は、俺が提示した行き先に一瞬驚いたようだった。まぁそれもそうだろう。最近は全く行っていなかったし、職業上あまり大声で言えるような所でもない。だからと言って相手は承諾するしか術はなく、黙って淡々と歓楽街を突っ切っている最中だ。
 若い女性に絡む酔った会社員や、公衆の面前であることも考えずにはしたない行為を始めようとする非常識なカップルがそこかしこに居る。他にも大学生の合コン、飲み屋の客引き、風俗のチラシ配り、酷く雑然とした夜の街を横目に見ていた。雨なのによくやるなあと、とても他人事のように。
「着きましたよ」
 そして数分が経ち、ネオン街の端っこに辿り着いて運転手は知らせた。料金を支払って礼を告げ、開けられた扉から降車する。鞄に入れた折り畳み傘を差す頃にはタクシーはもう発進していた。
 いろいろと考えた。今自分がすべきこと。してはならないこと。考えた結果がここというのはおかしいのかもしれないが、自分の中で社長に対して芽生え始めた心を押し潰すには寧ろ最適だったのだ。大層な理由ではない。
「いらっしゃいませ」
――都内某所に存在するビルの中のクラブ。
 たった数メートルの為に広げた傘を畳み、入口に佇む正装に身を包んだ男性の前でサングラスを外せば俺は簡単に通れた。ここは金のない若者が屯するところではなく、芸能人が出入りすることで有名なちょっとお高い会員制の遊戯場。本来ならばIDとなる暗証番号の入力なども必要になってくるのだが、自分の場合は顔パスでどうにかなるくらい、世話になっていた。三、四年も前の話だけれど。
 厳重にロックされた扉が開く前に男性スタッフに持っていた傘と鞄を渡す。ドラッグやその他不法な危険物が入っていないか手荒にチェックされ、無いとわかった時点で貴重品だけを抜き、上着を含めてロッカーに入れといてと頼んだ。その時ふと目に入ったダイヤモンドのピアスも取り出したのは気まぐれだっただろう。今の持ち物の中では最も高価な装飾品であることを考え、ジーンズのポケットにスマホと一緒に入れておくことにした。ここのセキュリティを疑っているわけではないが、肌身離さず持っていた方が良い気がしたのだ、なんとなく。
 エントランスでドリンク代を払おうとすると、昔と同じ見慣れた女性が俺の姿を視界に入れるなり心底驚いたようだった。そして金を受け取らずにチケットだけを渡される。久しぶりだからね、と厚くリップを塗った唇で笑って一言。「ありがと」片目を瞑って財布を仕舞った。
――あとは自由に過ごせばいい。
 躊躇わずに一歩足を踏み入れれば、夜空とはまた違った暗さの中に広がるフロア。心臓を打つような重いトランスが鼓膜を震わせ、少なからず沈んだ気分は解消されていく。聴覚を鈍らせるくらい大音響の電子音楽が脳髄に直接響くようだった。四つ打ちのハウスやユーロビートも嫌いじゃない。スポットライトを浴びるDJブースを視界に入れれば、その周囲で踊っている多くの男女が目に映る。
(変わんねーなあ……)
 その居心地が良かった。
「あれぇ、涼太クンじゃない!」
 久々の光景を遠目に見詰めていると不意に名前を呼ばれて我に返る。声のした方に向けば、バーカウンターからブロンドヘアを後ろで結った女性が嬉しそうに顔を覗かせていた。確か自分より二つ上、ずっとここで働いている手馴れたバーテンダーだ。
「あんたまだ居たんスか」
 バイトでしょ? とわざと嘲るとカウンター越しに頭を叩かれる。
「いって……、相変わらず仕事も男も見つけられてないの丸分かりっスよ」
「うっさいわね。スピリタスストレートで飲む?」
「勘弁して」
 はは、と笑ってチケットをテーブルに置く。そこで注文を尋ねられたので適当にジンを頼み、ドリンクを作っている間に彼女と他愛ない会話をした。鼓膜を裂くような爆音の中では普通に喋っただけでは何も聞き取れず、自然と声量は大きくなる。桃っちと雨の中で言葉を交わした時よりも格段に。
「こんなところ居ていいの? もうすっかり人気になって忙しそうじゃない」
「気分転換。俺だってたまには息抜きしたいんスよ」
「息抜きがてら経営主の娘にまで手を出すプレイボーイが健在で何よりね」
「あれは馬鹿やったと思ってるって」
「ホントかしら」
 経営主の娘とは先ほどエントランスでチケットをくれた受付嬢のことである。ここのクラブを含め系列トップの愛娘に手を付けた思い出は古く、記憶を掘り起こすのも憚られた。理由なんて顔が良かったからというくらいのものであり、あまりに節操がなかったなと今になって後悔もしている。他にも問題にならない程度にはいろいろと遊んだ。目の前の親しいバーテンダーとは寝ていないが、それは互いに好みのタイプじゃないという利害の一致があったからだ。
 つまり、自分がクラブに足を運ぶ時と言えばそういった用件しかないのだった。仕事に精を出すようになってからは全く来ていなかったが、今日だけは許されてもいいだろうと自分に言い聞かせる。
 手渡されたドリンクをいっきに飲み干した。酔う為に来たわけではないとは言え、アルコールに頼った方が多少は気を紛らわせるはずだと思って。
「……あのさあ、今日アイツ来てる?」
 グラスを戻して尋ねると、彼女は瞬きをして質問の意味を考える。アイツと示した人物が誰なのか瞬時には察せなかったらしい。が、すぐに気付き、それから露骨に顔を歪めた。
「き、来てるけど……」
 返事を渋る理由もわかっていた。しかし肯定の返答を聞くなり早々に足を踏み出し、フロア内の人混みへ。「あっ、ちょっとぉ!」後ろから呼び止める声には焦りが見えたものの、振り返りはしない。
「またお店の中で喧嘩するのはやめてよ、涼太クン!」
 はーい、と心の中で返事をして人の合間を縫っていった。ダンスミュージックに体を揺らしている彼らには構わず、フロアの最も奥、ライトの届かない暗い場所へ足早に向かう。途中で立ち止まればたちまち女に絡まれるから面倒なのだ。
 そしてクラブに入る際のように鍵の掛かった大きな扉が入口である。その横に粛然と突っ立っているスタッフがちらりと俺の方を見やった。さすがにここは顔パスでは通れない、彼の方に近付いてまずは六桁の数字を耳打ちする。
 第二のIDであるそれを聞き取ったスタッフはそして小さく告げる。「What do you want」ホワット・ドゥ・ユー・ウォント? 入場したければ俺は彼の問いに答えなければならない。
「danger and play. For that reason he wants woman, as the most dangerous plaything.」
――『男が本当に好きなものは二つ。危険と遊びである。男が女を愛するのは、それがもっとも危険な遊びであるからだ』という、ニーチェの名言に基づいた応答。この一文がパスワードとなっているのだった。英語が得意でない自分もこれだけは流暢に喋れるのだから笑うしかない。
 目を伏せて了承の意を示したスタッフはがちゃりと鍵を開けて扉の奥へ誘導した。薄暗い明かりの下、統一性のない絵画が飾られた廊下を少し進めば地下に続く階段が見えてくる。ごゆっくり、と一言だけ残して踵を返したスタッフを尻目に、一つ息をついて下へ降りていった。
 するともう騒がしい音楽は流れていない。品のある女性の笑い声、ディーラーがトランプを切る音、誰と誰が愛を育んでいるのやら露骨なリップ音まで混ざり、静まった空間で各々ゲームを楽しんでいる彼らの様子も昔と変わってはいないようだ。ぐるりと一周見渡し、目に付いたビリヤード台に口角を緩ませる。
(……居た居た)
 本当は来ていない可能性ももちろん考えていた。何せあの頃から三年は経過しているわけで、一か八かではあったものの、案外簡単に見つけられたことに密かに安堵する。ま、宝石商の息子なら金には不便してないもんな。
 面白がって足音をあまり立てないように近付いてみるが、周囲に群がっている女の一人に気付かれてしまいサプライズは失敗に終わった。否、けれど十分だったのかもしれない。振り返ったそいつが、いっきに不機嫌な表情になるのを見れば。
 遠慮なくドスの利いた声を浴びせられる。
「……なんでテメーが居んだよ、リョータ」
 女の腰に手を回し、煙草を吹かしている目的の人物さえもあの頃と全然変わらない。だから咥え煙草はビリヤードのマナー違反だって何回言えばわかんだっつーの。
「だって俺ここのお得意様だし? 久々に遊ぼうよ」
 ねえショーゴ君、と笑い掛ければ、それがゲームの始まりだった。



2013.10.16
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