こんなにも気分の乗らない出勤は久々だ。きちんと本日のラッキーアイテムは鞄に収めて持ち歩いているし喉を潤す際には温かなおしるこを飲んでいるし、いつも通り人事を尽くしていることには変わりない。が、スケジュール帳に記された午後一の予定を思い浮かべる度に気が滅入る。それこそ赤司に『TiPOFF』の副編集長を頼まれた時くらいに。
『13:00〜14:30 黒子・紫原とオフィスクオーター黄瀬涼太へ挨拶』
 黒革のスケジュール帳を何ページか捲ったそこには、一昨日書き足されたばかりの項目。字面を見るだけで眉を顰めたくなるほど不本意極まりないが、我らが社長の指示ならば逆らうわけにはいかなかった。と言ってもあいつの気まぐれで俺にも行けと命じられたようなものだ。はあ、と今日何度目かの深い溜息を吐き出す。
 気まぐれ以外にも何かしら理由はあるのだろう。しかし相手は人気モデルだ。常に薄っぺらい笑顔を貼り付け、愛想を振り撒き、持て囃されなければ生きられないような芸能人。偏見だと思いながらもやはりその先入観からは抜け出せない。
 ファッション誌の編集事情も大分理解できるようになってはいるものの、まだ不慣れな部分は多くあった。そもそも自分自身、この業界自体に大した興味を持っていないのだ。帝光出版がアパレル系に力を入れていることは知っているが、それでも傘下の編集部から発行している小説やエッセイだって一流の書籍である。だから就職を希望したのであって、間違ってもアパレル業界に身を費やす為ではない。
 けれど俺が数か月前まで所属していた編集部に戻れるとするならその条件は、端的に言って『TiPOFF』が失敗すること、だ。
 帝光出版本社の二階、社員食堂の一角でスケジュール帳を閉じて蕎麦を啜る。昼食を食べたらすぐに件の芸能事務所へ向かわなければならない為、あまり時間はない。
「はぁ……」
「溜息ばかりついてると幸せが逃げていくぞ?」
 不意打ちだった。いきなり頭上から聞こえてきた声に驚いて顔を上げると、今の今まで頭の中に思い浮かんでいた人間が自分の前に座り膳を置く。今日は念願の邂逅だな、などと言って。ああ今まさに幸せが逃げていくようだ。
「誰も願ってないのだよ」
「心配しなくても、黄瀬は面白い男だよ」
「だから心配なんだろう……」
 お前が夢中になるような人間はろくな奴じゃない、と返せば赤司は膳に乗せられた湯豆腐を掬いながら笑った。今年の春から定食として常時提供できるようになったメニューだ。勤務中の昼食に湯豆腐を選ぶ人間なんてほとんど居ないが、もちろん、社長の希望である。
「その理論でいくとお前もろくな奴じゃないということになるな、真太郎」
 恐らく誰が相手でもこいつはそう言うのだろう。
「黄瀬涼太と同じ枠になど入れるな」
「どうしてそんなに嫌うんだ……元々興味がないのはわかってるが、会ってもいないのにあまり軽蔑するのは失礼だよ」
「だったら己の行動を振り返ってやたらと会いに行ったり話に持ち上げたり肩入れするのはやめるのだよ」
「僕が理由で嫌っているのか?」
「半分はな」
 蕎麦汁に目線を落として淡々と返すと、意味が理解できなかったのか相手は首を傾げるだけだった。だが答えを教えるつもりはないので無言で食べ進める。「まぁそれはいいとして、」そこまで気にならなかったのか、赤司もあっさり流した。
 ところが今一度俺の名を呼んだ彼の声は心なしか冷たく、低い。
「お前、桃井に何を言った?」
 間髪を容れずにずばりと聞かれた一言に、不覚にも箸が止まる。朝っぱらから機嫌が悪い(と自覚はある)俺を宥めに、あるいは茶化す為に来たのかと思ったが、どうやら違ったらしい。
 逸らしていた視線を合わせると、赤司の目はもう笑っていなかった。
「……何のことだ」
「とぼけるなよ。公にされていない僕の情報を彼女に教えたのはお前だろう」
 ごくりと喉が上下する。まさかと思った途端、嫌な汗が背中を一滴伝った。
「桃井が真太郎の大学の同窓であることは既に知ってる。同じ社会情報学部だったこともな。仲が良いのは結構だが……許可も得ていない他人の個人情報をべらべらと言い触らすのは感心しないよ」
 温度のない声色と据わった両眼が、大人しく白状しろと俺を牽制していた。こんな赤司を見たのは久しかった。相手はどう足掻いてもこの大手出版社でトップの地位に立つ者であり、容赦を知らない冷徹な心もどこかで存在しているのだと思い知る。
 乾いた喉を潤すように麦茶を一口流し込み、眼鏡のブリッジを上げて自分も意を決した。
「確かに桃井さつきとは知り合いだが、俺より黒子の方が親しいはずなのだよ」
 馬鹿正直に頷くわけにはいかない。
「……へえ?」
「お前のことなど話題に挙げるどころか、ここ数年は桃井と会ってもいない」
「僕とテツヤは高校で出会ったんだ。京都に生まれて中二で上京してきたことを知っているのは真太郎と敦と大輝だけだよ、今も連絡を取り合う中ではね」
「なら後者二人が言ったんじゃないのか」
「敦と大輝は僕がピアノを弾けることを知らない」
「ピアノ? よくわからないが……やたらと頭の良い変な転入生が、放課後に音楽室でピアノの練習をしていたところを見たのは俺だけということか」
「ああそうだ、習い事の話もお前以外にはしなかった」
「そういえばあの頃は方言も少し残っていたな、赤司」
 下手なとぼけ方をして、露骨なまでに無理やり話を逸らしていく。もちろんこれは正直に言えという命令に背いているも同然であり、眼前の男は口角を上げて笑んでいるものの少しも納得してはいないようだった。みるみるうちに不機嫌さが増していく様は実に恐ろしい。が、認めるわけにはいかないのだ。俺が知っている限りの赤司征十郎の全てを、桃井に教えたことを。
 沈黙を誤魔化すように蕎麦を食べていると、向こうは湯豆腐を掬っていた蓮華をいったん膳に置いて頬杖を突いた。方言について指摘すると黙るのは知っている。赤司は小学生の頃に父親から標準語を叩き込まれたと聞いているが、六歳まで愛情込めて育ててくれた母親の物柔らかな言葉遣いが忘れられずに外では京言葉を使い続けたらしい。しかしそれもどこで父親にバレたのか、中学に上がって一年後、酷く叱られた後に京都から東京への引っ越しを――というよりは、母方の実家から赤司グループの本邸へと住まいを移したそうだ。
 だから本人が望みもしないのに勝手に過去の思い出を語ると決まって拗ねる。今回も一か八かだった。これでこの話が終わりになればと僅かな期待を抱いて賭けに出たわけだ、が。思ったよりも根は深かったらしい。
 にこ、と笑って赤司は口を開いた。
「こんなに言うても教えてくれへんなんて……ほんにいけずなお人やわぁ」
 あえて昔より度の過ぎる口調で、それもわざとらしく小首まで傾げられ、盛大に顔が引き攣る。仰々しく微笑む表情とは裏腹にこのあたり一帯だけ冷気が漂っているようだ。瞬時に察する。
――まずい。本気で怒らせた。
「……あ、赤司」
「とりあえず給与を引き上げる件は三割五分から三割に変更だな」
「えっ」
 いつも通りの社長に戻ってばっさり言い切られた台詞にちょっと待てと反論し掛けたものの、それ以上赤司は取り合ってくれなかった。


 三日前の話だ、よく覚えている。時刻はちょうど八時を差し、まだ編集部には多くの人間が残っていた。自分の向かいのデスクでは黒子が二時間ほど前からずっと何かを打っていて、そろそろ疲れが出てきたのだろう、少しずつ眉間に皺が寄り始める。俺はと言えば珍しくノルマが定時までに終わった日であり、諸々の作業を済ませてからたまには家でゆっくり休むか、とパソコンの電源を落としたところだった。
 デスクの上に置いていた携帯が不意に振動する。集中して編集している周囲の邪魔にならないよう、誰からの着信なのか確認せずに携帯だけ掴んで編集室の外へと出た。しかしそれにより、ディスプレイに視線を落とすなり目を見張ることとなる。――『桃井さつき』からの電話などいつぶりだ。
 電話帳にその連絡先が登録されていたことにさえ我ながら驚いたのだが、そういえば昔半ば無理やり交換させられたような記憶がなくはない。ほとんど活用することはなかったのに何故今更、と考えつつ、既に十コール以上は待たせている呼び出しに躊躇いながらも応えてしまった。今日の仕事は終わったという余裕が自分をそうさせたのだ。
『あっ、ミドリン!』
 二年前と全く変わらない声に相も変わらずあのあだ名で呼ばれ、不覚にも返答に詰まる。通話口の向こうに居る旧友は構わず喋り続けた。
『久しぶり。よかったー、電話帳から消されてるかなって不安だったの』
 非通知だったら出ないでしょ、と笑っている。
「……久しぶりなのだよ」
『いきなりごめんね、仕事中だった?』
「今終わったところだ。お前こそ、忙しい時期なんじゃないのか」
『私は昨日今日ってオフ。意外と暇なのよ、表に立たない人間は』
 軽い口調でそう話してみせる桃井の印象は大学時代とぶれずに一致した。講義の合間に前触れなく話し掛けてきたり、一人で廊下を歩いていると突然後ろから呼び止められたり、屈託のない笑顔で遠慮なく踏み入ってくる彼女の性格は思いのほか掴めないものなのだ。あまり気張らずに話せることは有難かったが、唐突に電話を掛けてきた理由はわからない。まさか雑談がしたいわけではないだろう。こちらから話題の提示もできずただ黙っていると、彼女は勝手に話を展開させていった。
『ミドリン、副編集長になったんだってね』
 切り出し方としては予想の範囲内だ。ああ、と肯定する。
『こんなに早く一緒に仕事できる日が来るとは思ってなかったな。……ていうか、アパレル系希望してたっけ?』
「そんなわけあるか。俺はお前達と直接関わる気などないのだよ」
 反射的に即答してしまうと、相手も一瞬驚いたのか口を閉ざしてしまい会話が途絶える。しまった。オフィスクオーターは大事にしなければならない契約企業だというのに、今のはさすがに失礼千万だ。慌てて弁解しようと覚束ない言い訳が零れる。
「いや、悪い、そっちを否定しているわけではなく……」
『あはは、わかってるわ。単に興味がないんでしょ? それでも人事は尽くすもんね、ミドリン』
「……当然なのだよ」
 どうやら機嫌を損ねてはいないようで内心で胸を撫で下ろした。思えば桃井は大したことでは怒らないなかなか寛大な心の持ち主だ。『帝光出版はどう?』純粋に気になるのだろう、その一言を皮切りに互いの仕事の話題で少し盛り上がる。
 桃井とはなんだかんだ就活の時に協力し合った仲であった。というよりは、向こうがこの会社についてもよく調べていたのだ。自分は芸能事務所など当然眼中になかったわけだが、桃井は違う。元より芸能界全体の流動に絶大なる興味を持っていたのだろう彼女の視野の広さというのは半端なものではなく、実際にモデルを育てている事務所に始まり撮影をプロデュースするスタジオスタッフ、テレビ関係者、ファッション情報を発信させていくメディア、出版社、その他諸々、事細かにファイリングされたデータを初めて目にした時は瞠目するほかなかった。
 その記録の中に帝光出版も混ざっていたのだ。当時から大手企業のここを調べ抜いている者は多かったし、もちろん俺も隅から隅まで知っているつもりでいた。が、ある日桃井の集めた資料の中身をふと見てしまい、絶句する。あいつのデータはとにかく質が凄い。質より量で勝負しているのかと思いきやそんなことはなく、帝光出版のそれこそ公開されていないような秘密裏の記録や今後の企画までも何故だか桃井さつきに任せれば筒抜けだった。どうやって集めたのか見当も付かないデータの数々に頼りたくなるのは当然であり、そこで初めて連絡を取り合ったのだ。
 一つ一つの企業に関する情報収集において、桃井の右に出る者はいないと俺は思っている。
『――そっか。まあファッション業界って流行がどんどん変わっていくから大変だよね。でもミドリン、雑誌編集の技術まで身に付けたらいっきに伸びるんじゃない? ステータス』
 冗談めかして身も蓋もないことを言われ、浅く溜息をついた。
「今は副編で十分すぎるのだよ」
『いつかは編集長狙いじゃないの?』
「馬鹿言うな。赤司を押しのけて編集長などありえない」
 そして廊下の壁に背を預けて苦笑した時だった。桃井が初めて口を閉ざす。きっと話し上手の部類に入る彼女が不自然に黙りこくったことに違和感を覚え、「桃井?」となんとなしに名前を呼んだ。
 すると一呼吸置いてから、電波を通って耳に届く一言。
『……ミドリン、赤司さんと親友なんだよね』
 言葉自体は大したものではないというのに、何やら深刻な話が待ち構えているような雰囲気に少し気圧された。そういえば彼女は結局、何故俺に電話を掛けてきたのだろう。
「親友というか、まあ、付き合いは古いが……」
『中学からだったっけ?』
 そう聞かれた瞬間、僅かに目を見開く。躊躇うことなく確認を取られたが、自分と赤司が十年前に出会ったなどと言った覚えはない。赤司も好き好んで身の上話をする性格ではないし、そもそも桃井は赤司とこの間知り合ったばかりだ。
――知らないはずの情報を知っている、それは、彼女が一人で集めたデータだということに他ならなかった。
「……ああ、そうなのだよ」
 正確な意図はわからない。しかし特に否定する理由もなく頷くと、相手が意を決したように小さく息を吸う音が響いた。
『あのね、ミドリン。今日、電話を掛けたのは……赤司さんに関することを教えてほしくて』
 真剣な申し出に少しも驚かなかったのは、言われる前になんとなく予想がついていたからだろう。それでも一応理由を聞いてみる。
『私、今、彼についていろいろと調べてるんだけどね。どうも公開されている情報が全部真実かどうか疑わしいの。それでミドリンに聞いた方が早いんじゃないかと思って』
「……突っ込みたい部分が多すぎるのだよ」
『うん、そうだよね。……ごめんね』
 どちらともなく口を噤み気まずい沈黙が流れてしまい、迷った俺は眉を顰めつつも通話を切ることはしなかった。とりあえず事情を理解する必要がある。桃井は無駄に人の個人情報を漁るような奴じゃない、何かしら理由はあるのだろうから。
「調べてどうするつもりか聞いてもいいのか」
 正直これに答えられなければ何も力は貸してやれない。
「どこかで利用するのか、ただお前が知りたいだけなのか」
『……両方かな。でも商用じゃないわ、吹聴もしない。知りたいのは、私と、私のビジネスパートナーの為に』
 最後に指した一人が誰なのかわからないほど馬鹿ではなかった。だからこそ協力を渋った自分に対し、桃井はとても真剣な声で話し始める。
『こんなやり方が卑怯なのはわかってる。本当は本人に聞くべきだってことも……でも赤司さんはきっと誰にも言おうとしない。だからこっちからアクションを起こすしか方法はないの。彼だって人間よ、どこかに必ず隙はある』
 表情が見えないから何とも言えないものの、半ば自分に言い聞かせているかのような口振りだった。
「そんなに必死になって、一体何を突き止めたいのだよ」
『彼の隠し事』
 桃井は即答した。
 そのあまりの意志の強さに息を呑んでいるうちにも、彼女の弁は止まらない。
『ミドリン、おかしいと思わなかった? なんで『TiPOFF』なんてものが発動されたのか』
「……何度言えばわかる。俺はアパレル業界には疎いと、」
『今の一言でアパレル業界って単語が出てくるならほとんど気付いてるのね』
 ぐ、と言葉に詰まる。桃井が相手グループにいるディベートは大学の頃から得意ではなかった。普段の優しい雰囲気に覆われたその裏で、ここぞと言う時には確実に人を取り込む話術を身に付けているからだ。
『業界の中でとにかく異色なのよ、このファッション誌は。パリやロンドン、ミラノで活躍する有名デザイナー達が日本人モデルの為に新作発表? ありえないわ。今までに一度もない新しい試みだと言われているけれど、過去に例がないということは、単に失敗する確率の方が断然高いから皆が避けてきたってだけ。もしも売れなかったら帝光出版は契約したデザイナーや企業からの信頼を失って致命傷を負うことになるし、今まで売上を伸ばしてきた他のファッション誌にも影響がないとは言い切れない。……正直、今の段階ではメリットを見つける方が難しい』
 理解できないわけがなかった。桃井の言い分は、俺が副編を頼まれた時に悩んだ理由の一つだ。
『確かに成功すれば御の字よ。それこそ日本のアパレル業界の歴史を塗り替えるくらいのね。帝光出版ほどの力があれば上手くいく可能性はあるだろうし、何より全ては赤司さんの指示の下で行われてる。あの『赤司征十郎』が編集長ともなれば期待を寄せる人間は多い。でも、だからこそ、』
「社長就任して一発目にやるような仕事ではない」
『……そう。どう考えてもおかしいわ。彼ならもっと慎重に、確実に、一つ一つ功績を積み上げて世間の目を集める方法を取ったはずなのに……帰国してすぐに始動した話を聞いた時は心底驚いた。なんでいきなりこんな博打のような真似に出てるのか、……いくらなんでもリスクが高すぎる』
「桃井。お前、俺が副編集長に就いたことも本当は腑に落ちない部分があるんだろう」
『…………』
「正直に言っていいのだよ」
 静かな電話口に向かって促すと、肯定の返答。当然だ。俺自身、自分がこの地位に立っている意味を未だにきちんと咀嚼できていないのだから。
 帝光出版の社員の層はとても厚い。中でも四、五十代のベテランは多く、どの編集部にも必ず数人は高い評価を受けているプロフェッショナルな編集者が存在している。もちろん過去に発行してきたいくつかのファッション誌においても、編集長や副編集長という重要な位置にはそういった実力派の人間が割り当てられてきた。
 あとは手に取るようにわかるだろう。赤司が編集長であることに異論はないが、全く別の部類を担当していた俺がいきなりアパレル系の副編集長に任命されたことは、一部で反感を買っているのだ。編集実績に関しては少なからず好成績を収めている自負心はあるしこの待遇は素直に嬉しい反面、しかし手放しには喜べないのが現実だった。
「『TiPOFF』の編集は全員二十代なのだよ。黒子のような新米も少なくない上、ほんの少数だが新卒も混ざってる」
『……赤司さんは新人を育てようとしてるの?』
「そういう考え方もできるだろうな。赤司は俺に完璧な人材を揃えたと言ったことがある。……だが、お世辞にもギャンブルをするのに適した掛け金とは言えん。これではあいつの軍資金がいつ底をついてもおかしくない」
 異例の手法を選び、若い二十代に託し、期間はそう長くない。『TiPOFF』は確かに大博打だ。
 それを最も愉しんでいるのは赤司自身であり、成功すれば万々歳、失敗すれば――後はない。
「……桃井、お前もあいつが用意した駒の一つなのだよ。何故オファーを受理した」
 今更な話をするのは好かないが、聞かずにはいられなかった。しかし「断ることだってできたはずだ」と口にした一言がまるで己に返ってくるようで、誰にも見えないところで自嘲する。
『……わからないわ。テツ君が来たからかな』
「お前のビジネスパートナーとやらはそれで納得したのか……」
『きーちゃんは私を信じてくれてるから』
 だから絶対失敗させるわけにはいかないの、と強く宣言された。恐らく日本のアパレル業界の歴史を塗り替えると言う、最高の瞬間へ導いてやりたいのだろう。
 デザイナーだけでなくモデルやスタイリスト、ヘアメイクアーティスト、編プロも、そして桃井も、帝光出版と契約を結んだ人々は総じてこの賭けに乗じたのだ。そこには『赤司征十郎』への計り知れない期待が寄せ集められている。しかし成功するか否かは最終的に俺達編集部に懸かっていることも事実だった。
『……ミドリン、私の予測では、赤司さんには何か目標がある。若い世代を揃えたのは、会長が育て上げたベテランを自分の駒にはしたくないから。こんなにも急な依頼でスパンが短いのは、会長が社長復帰を果たす前に何としてでも成果を残したいから。過去に見ない、新しい試みを実践しようとしているのは、会長とは違うやり方で実力を示したかったから。『TiPOFF』が始動した理由……それはひとえに、』
 誰も触れようとしないところから、桃井は目を逸らしていなかった。

『赤司グループ現会長であるお父様に対する赤司さんの反抗――もしくは、挑戦と思えるわ』

 私は彼の本当の意志が知りたい。
――そう切に言い切った彼女の意志こそ、否定するどころか自分の胸中に沈んでいた望みと合致した。俺も赤司について知りたいことが多くある。あいつには何もかも一人で抱え込もうとする悪い癖があるのだ。
 だから協力してほしいと頼んできた桃井を前にして唇を噛み締める。赤司は次期会長候補として都合の良いように己の個人情報を父親に管理されているところがあり、その為に彼女が集めているデータの中で虚偽が混在していることは恐らく間違いない。昔からの友人として、あいつを近くで見てきた身として、勝手にばらせば後でどうなるかわからなかった。今まで自分が特に口止めさせられた経験がないのも、赤司が俺を信じているからだとは理解している。桃井に話した時点でその信頼を裏切ることになるのだ。
『ミドリン……』
 揺れ動いていた。大学の時に自分が頼った桃井なら必ず赤司が隠している何かを突き止められるだろうと思ったから、尚のこと。そうして眉を顰め決断を躊躇っていると、狭まっていた視界の隅にふと鮮やかな赤が映る。
「っ! ……悪い、いったん切る」
 反射的に、ピッ、と通話終了ボタンを押した。エレベーターを降りて腕時計に目線を落としながら歩いてきたその人物は、顔を上げるなりこちらに気付いて声を掛ける。間一髪だ。
「お疲れ、真太郎」
 四十三階の社長室から編集室へ戻るところだったらしい。
「……赤司」
「もう帰るのか? お前にしては早いな、いいことだが」
 ちゃんと休めよ、と自分は棚に上げてそんな風に言ってくる。上に立っている人間ではあるが、ただ椅子に座ってふんぞり返ることを嫌っているこいつも編集には大きく関わっていた。自身の首を絞めるように新人指導も直々に行い、社長という立場上、他社との会合にはよく出席している。その上で突然どこかへふらっと消えるのだから赤司の生活は全く把握できない。わかっているのはただひたすら、仕事の為なら何でもするというさながら完璧主義者のような揺らがない信念のみ。
 俺の横を通り過ぎて編集室のドアを開けようとした赤司の名を呼び、振り返った。右手で閉じた携帯を握り締めながら相手と向き合う。意を決して口を開くと、空気が震えた。
「――赤司。例えば……例えば、俺がお前を裏切るような行為をしたら、お前はどうするのだよ」
 本人に聞かなければ行動を起こせないなんてとんだ臆病者だ。それも重要な部分は濁しているのだから。そんな自分に内心で呆れ返る中、脈絡に欠けた唐突な問いに赤司は一瞬目を丸くした。が、しかし何がおかしいのやらすぐにくすくすと笑い出す。
「社長である僕をリコールして代わりにでもなるつもりか?」
 寝言は寝て言え。
「……真面目に答えるのだよ。俺は真剣に、」
「好きにすればいい」
 不意にきっぱりと明言され、口を噤む。すると赤司は一歩近付き、不敵に笑みを浮かべてこう告げるのだ。
「何をしたいのか知らないが……お前の思うままに行動してくれて構わないよ。僕は僕なりに相応の対処を取らせてもらう、それだけだ。……でもな、真太郎」
 とん、とこちらに向けた人差し指で心臓のあたりを指される。
「もう、人の顔色を窺って自分の意気を殺すのはやめろ」
――息なのか、意気なのか。鼓膜に届いた響きのみでは瞬時に読み取れず、言葉に詰まってしまった。けれど赤司を裏切ることに繋がるかもしれない行動を、それをやり遂げようとする俺の意気を、決して否定はしないのかと頭が理解する。そしてもし息を殺すなとも言いたいのなら、黙ってじっと見てないで、お前もこの業界に早く足を踏み入れろ――そう、強く呼ばれている気がした。
 返答などできないまま突っ立っていると、それだけ言い残して編集室へと赤司の姿は消えて行く。
(俺は……)
 自分の心に問えばそこに答えは存在していた。


 条件を提示した。こちらから情報を与える代わりに、調べ抜いて結果が出たらそれを俺にも教えること。そして俺から聞いたとは絶対に赤司に言わないこと。
 さっきはいきなり通話を切ってすまなかったという一文に加えてそうメールを打つと、数分も絶たないうちに了承の返信が届く。そこで俺と桃井の交渉は成立した。自分が知る限りの赤司征十郎のデータを教えるとなれば電話では難しく、家に帰ってからパソコンで文書を作りメールに添付、送信。せっかく早く帰宅したものの、その日は結局、三時を回ってから布団に入った。
 翌朝、ありがとうと端的な返信を受け取る。赤司のことを調べ上げた時点で本人に確認を取るだろうとは思っていたし、その際に赤司自身も桃井が俺から情報を得たと気付くことはわかっていた。しかしあんなに早く問い詰められるとは予定外でさっきは冷や汗を掻いたのだ。彼女の行動はこちらの予想を遥かに超えて迅速だった。一分一秒でも早く知りたいのだろう、三日でどんな結論が出たのかはわからない。連絡も来ていない。ただ、俺が求めているのは最終的な見解である為、何も音沙汰がないということは恐らくまだ桃井の中でもまとまっていないのだ。


「来てませんね、紫原君」
 タクシーから降りた黒子が辺りを見回しながら呟く。今、俺達は例の黄瀬涼太への挨拶を済ます為に帝光出版と離れたところへ来ているのだった。
「まだ十二時半だ。もう少しこの辺りで待ってみるのだよ」
「ちゃんと時間通りに来ればいいんですが……」
 黒子が不安に思うのもわかる。ヨウセン編集プロダクションからやってくるあいつとは現地集合ということになっていて、このオフィスクオーターに四十五分には着くよう予め決めているのだ。が、紫原の時間にルーズな面は最早救いようがなく、五分前行動も望めない。一時に相手方と待ち合わせているのだから何が何でも来てくれないと困るが。
 待つこと十五分、案の定、一向に姿を現す気配もなく深く溜息を吐き出した。移動手段が車なのか電車なのかも聞いていないけれど、いい加減、目の前の公道を見詰めてあいつが早急に来ますようにと祈り続けることに嫌気が差してしまう。時刻は十二時四十七分。なんとなしに後ろを振り返り、そびえ立つオフィスクオーターを見上げた。恐らく二十階建てくらいだろう。帝光出版ほど高さはないが、建てられてまだ数年という事務所なだけあって綺麗な外観だ。
 空には一面灰色の雲が蔓延り、太陽を隠してしまっている。気分が重くなるような天候だった。予報によれば今日はいつ雨が降ってもおかしくないらしく、鞄には折り畳み傘が一本入っている。
 ちらちらと時計を見ている黒子ももう一人が気になって仕方がないようだ。そろそろ連絡を入れた方がいいか、と上の方を見ていた視線を下げ、ポケットから携帯を取り出した時だった。
 どんっ、といきなり右腕に何かがぶつかり、手に持っていた携帯が地面へと滑り落ちる。
「わっ、す、すいません! 大丈夫スか?」
 驚かざるを得なかった。慌ててそれを拾った人間を視界に捉え、目を見開く。その金髪とその顔。わからないわけがない。
「…………黄瀬、涼太」
 これから自分が会いに行こうとしていた男であり、プラス、できることなら一生関わりたくなかった部類の男だ。そいつとついに対面してしまったという芳しくない事実が露骨に顔を歪ませたらしい。少し怯んだ様子で相手は口を開いた。
「すみません、あの……社員の人じゃ……?」
 差し出された携帯を受け取りながら否定しようとしたものの、それはまた別の声に掻き消される。
「きーちゃん!」
「あ、桃っち」
 入口の自動ドアが開き、奥からやってきた女性の声にいち早く反応したのは眼前の人間だった。『桃っち』などと初めて聞いた呼び名で。ぱっと視線を向けるなり、ピンク色の髪を揺らして走ってくる桃井の方へと足を進めている。
「ごめん遅くなって。こういう日に限って渋滞してるんスよね」
「ううん、間に合ったから平気よ。……って、あれ、ミドリン! この間はありが……て、て、テツ君っ!?」
「こんにちは、桃井さん」
 黒子が行くことは知らなかったのだろうか。とてもびっくりした様子で、しかし心底嬉しそうにこちらへ寄ってくる。そしてそんな桃井の行動を見ていた黄瀬涼太の驚き様と言ったらない。多分黒子のことは視界のどこにも入っていなかったのだ。影が薄すぎて。
「い、いいいいつからそこに」
「最初から居ましたが……」
「テツ君ひさしぶり、会いたかったわ!」
「お久しぶりです。今日はよろしくお願いします」
 二人のやり取りを茫然と眺めていた黄瀬涼太が、不意に俺の方を見た。
「……えっ、じゃあもしかしてあんたが『ミドリン』さんっスか」
「やめろその呼び方。俺は帝光出版の緑」
「ミドチーン」
 間真太郎だとさえ名乗らせない声にイラッとくる。寄りによってこのタイミングで現れるのか、お前は。
「紫原……お前今日は絶対に遅刻するなとあれほど」
「紫原っち!?」
――え。
 振り返って二メートル越えの巨体に注意をしていたところでまた変なあだ名が通りに響いた。驚愕の声を上げた黄瀬涼太が指を差した先には、紫原が眠そうに突っ立っている。
 心の準備をする間もない。整理できないままいきなり全員が邂逅してしまった結果、沈黙が流れた。
「…………」
 何なのだよこの状況は。



2013.10.07
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