「全米に名を馳せる著名なクリエイター『赤司征十郎』と、全欧を中心に活動した謎のデザイナー『Emperor.I』は――同一人物ではありませんか?」
 物音一つしない静まり返ったロビーに、凛々とした女声が反響する。柔く握った己の拳は少量の汗で湿り、俺は何に緊張しているのか、脈打つ心拍が妙に大きく聞こえた。
 社長と“彼”が同じ人間だったら――。考えも及ばなかった範疇だ。輪郭のない“Emperor.I”に対し、誰もが少なからず架空や幻想と言った類のカテゴリーに収めかけていたことは確かだった。だからこそいざ現実に持ち出されると瞬きも惜しまれるほどにただただ衝撃を受けるのみであり、しかし頭の中だけは忙しなく動いてしまう。真実を知りたい、謎を明かしたい、子供のようなとても単純な願望は恐らく胸の奥底にずっと眠っていたもので、それが掘り起こされたかのような感覚だった。
 三年前に忽然と姿を消したあの“Emperor.I”が今になって人前に現れるなんて到底ありえない。桃っちはいつから、果たして何を根拠にそう思ったのか。見当もつかなかったが、きっと譲れない理由はあるのだろう。
 核心を突いた彼女の一言に固唾を呑んで場を見守る。数秒の張り詰めた沈黙の間、社長の表情に変化はなく自分達のことをじっと見詰めるだけだった。しかし何かを探るように一度目つきを鋭く細め、眉根を寄せたかと思いきや、彼はぱちりと転瞬して少し顎を上げる。色素の異なった両眼に映った自分の表情はやはり強張っていた。
 窓の外では夜が深まり、人々が活動を辞めて眠りに就き始めている。けれど重く湿った空気の中で冴えたこの視界は、視線は、ひたすら彼の微かな動きを追っていた。絵画のようだと思った人の動作一つ一つに目を奪われていることは最早否めない。
 暫く静寂は続く。やがて社長はその唇を僅かに開け、落ち着いた声色で淡々と紡いだ。
 それは違う、と。
「……“Emperor.I”は、僕じゃない」


Mr.Perfect / Scene 02 - D part


 聞き間違いのしようもなく耳にすんなりと入ってきた一言は、心臓を締め付けるような緊張感から俺を解放させた。呼吸さえし易くなる。ところが同時にあらゆる可能性を考えていた思考がいっきに空っぽになり、それは恐らく喪失感と言えるものなのだろう。ああ、と嫌でも理解せざるを得ない。ショックと安堵が綯い交ぜになったこの感情はあまりに露骨だ。
(期待、してたんだな……)
 ありえないとわかっていながら、桃っちが示し出した可能性に。もしかしたら本当にそうかもしれない、この人が、二つの顔を持った天才なのかもしれないと。しかし自分でも随分と都合の良い展開だと思った。“彼”は世界中のデザイナー達の敵であり、憧れなのだ。今までどれほどの人間が探し、追いかけ、調べ尽くしたか測り知れない。だというのに出会って数週間、桃っちが調査を始めて数日という中であっさりと辿り着けるわけがないだろう。
 急激に熱が冷えていき、先ほどまでのえも言われぬ興奮がしゅんと萎む。寧ろ社長の方が困ってしまったのではないか。“Emperor.I”なんて皆から畏怖された存在と間違えられては、いくら“彼”が才能の持ち主だとしても良い気はしなかっただろうし、ここは謝らなければならない。そう判断し隣に座るマネージャーに目をやった。
――が、一度口を噤んだ桃っちの表情は決して緩んでいなかった。
「でも……っ!」
 ばん、とテーブルに手を突いて反論を口にし掛けた彼女を見て、心底驚いてしまう。どうやら社長の言葉で変に冷静になったのは自分だけらしい。唇を噛み締めて目の前の相手を睨み付けている横顔も、声を荒げて反駁しようとする様子も、普段の桃っちからは考えられない姿だった。
「でも、何だ?」
 そしてそれをまた彼は煽る。面白がっているわけではなくただ主張を聞き入れようとしているのは察するが、平静さを欠いた彼女が何を言い出すのか一瞬にして不安を掻き立てられた。何故桃っちは、社長と“彼”が別人であることを認めたがらないんだ。
「……でも、あなたは……、あなただけが……!」
「も、桃っち、落ち着いて」
 どうしたんスか、と肩を押さえて宥める。常に物事を見極めることに長け、合理的にメリットだけを手に入れていくのが俺のマネージャーのやり方であるのに、その片鱗も見受けられない。
 社長が何も言わずに台詞の続きを待っている分、尚のこと歯止めが利かなくなった人間は知慮や礼儀を失くすだろう。それは後々、桃っちの為にならない。なんとか彼女の熱くなった思考回路を元に戻さなければ。そんな気遣いから「とりあえず今日はいいじゃないスか。ね、ほらもう遅いし、社長も違うって言ってるし」なんて適当に言葉を並べたのが間違いだった。
 睨み付ける対象を社長から俺に移した桃っちが、強い口調で訴える。
「きーちゃんだって、本当のこと知りたいでしょ!?」
 ロビーに誰も居なくてよかったという安心が頭の隅に浮かぶほど、大きく張り上げた声が響き渡った。
――本当のこと?
「そ……そりゃあ、知りたいっスけど……でもわかんないものはわかんないし、」
「その一言で片付けてたら一生わからないままよ。きーちゃん言ってたじゃない。“Emperor.I”に会って、礼を告げて、それからいっぺん殴らないと気が済まないって」
 桃っちが明かした一言に、僅かに目を見開く社長の表情が視界の端に映った。が、いきなり自分の過去を引き合いに出されてこっちも平常心に罅が入り、それどころではなくなってしまう。忘れようとしていたことをわざわざ持ち出す必要があるのか。
「……それはもう昔の話っスよ。“Emperor.I”は確かに俺にとって特別だけど、今更拘ったってしょうがない」
「そうやって諦めるのね。普段はあんなに負けず嫌いなくせに、一度無理だと思ったら絶対に足を踏み入れようとしない。自分が傷つくのが怖いから。久々に見たわ、きーちゃんの悪い癖!」
 容赦なく否定され、嫌味まで言われ、ついに頭のどこかでぷつりと何かが切れた。相手が桃っちであることなど気にしない。寧ろ桃っちだからこそ、本気でぶつかり合う時は遠慮がないのだ。
「何言ってんスかほんと……。“Emperor.I”の痕跡なんて一つもないのに、意味ないっしょ? 桃っちだって無意味なことに費やすの嫌いじゃん。なのに当てもなく探し続けるんスか? それこそ全く関係ない社長とかに聞いてさ、」
「いいえ、違うわ。赤司さんは絶対に関係がある」
「なんで言い切れんの」
「私の情報収集力バカにするつもり?」
 あまりに自信を持って断言してくるものだから、つい気圧された。珍しい。彼女が不敵に笑っている。
 一、二秒、互いの腹を探るように視線を交差させてから、彼女は不意に社長の方へと向き直った。すると俺達のやり取りが意外だったのだろう、口を挟まずに黙って見ていたらしい彼は瞬きを繰り返すだけだ。
 しかしこの有能なマネージャーはどうしても定かにさせたいことがあるらしい。
「――言い方を変えるわ」
 きっぱりとそう言い放ち、ソファーから立つ。カツン、と桃っちの足元からヒールの靴音が鳴り、もう一度テーブルに両手を置いた彼女は前屈みになって社長の顔を覗き込んだ。ぐっと距離を縮め、問い質す。
「赤司さん。あなたは“Emperor.I”じゃないかもしれない。でも、あなたは……」

――“Emperor.I”の正体を、知っているはずよ。

 どうしてこうも強い女性の声というのは明瞭に聞こえるのだろうか。
 桃っちが社長に対し初めて敬語を外したことと、彼女が口にした内容への純粋な驚き。その二つが重なって俺は唖然とした。そして桃っちの目線に合わせて少し顔を上げていた社長も、目を見張ったまま圧倒されている様子が窺える。
 正体を、知っている? 世界中の誰一人として見つけ出すことのできなかった“彼”の素性を。同一人物だとしても、正体を知っているのだとしても、どちらにせよ“Emperor.I”と直接的な関わりを持っているというだけで天地がひっくり返るくらいの大ニュースだ。果たしてマネージャーの発言は正しいのか。先ほど完全に裏切られたばかりだというのに、懲りずに期待している自分が馬鹿らしかった。
 桃っちは彼を、自分は二人を、そして社長も俺と彼女の目を交互に見詰め、三人が三人とも意中を図ろうとしている。言ってしまえば賭けに近い。一体誰がこの静寂を破り、より信憑性の高い言葉を紡ぐのか、意見を述べるのか、流れる空気は引き締まる。
 ところが静けさが打ち破られる瞬間は突然やってきた。なんということか、今の今まで両眼を真ん丸にしていた社長がいきなり笑い出したのだ。俯いて、喉の奥でくつくつと。何がおかしいのかと俺も彼女もその仕草に眉根を寄せていると、とても満足そうに口角を上げた彼が一言。
「……正解だ」
 と言った。
「素晴らしいな、お前達は。互いの良い部分だけを褒めて励まし合うだけの関係かと思ったら、全然そんなことなくて驚いた」
 桃っちの視線から逃れるように立ち上がった社長は、こちらに背を向けて何歩か歩き出す。そして全面ガラス張りのロビーから広がる真っ暗な夜空を背景に立ち止まった。スーツのポケットに両手とも入れて振り返り、笑みを浮かべ、その表情はどこか愉しそうだ。
 正解――ということは。遅れて返答の意味を咀嚼し始め、耳を疑ってしまう。社長ほどこの業界に浸透している人間なら知っているかも、なんてそんな話があり得ると思っていなかったのだ。抗いようもなく呆然としていると、しかし次の台詞でいよいよ信じざるを得なくなった。
「マネージャーの熱烈な弁論に敬意を表して、二つだけヒントを教えてあげよう」
 若干一名は“Emperor.I”を見つけ出して殴りたいようだしな、とわざとらしく付け足され、どきりとする。え、いやあの、それは。昔ちょっと、いろいろあって。
 子供染みた願いを知られてしまったことが恥ずかしい。慌てて口籠るとやはり面白がるように笑っている彼はポケットから右手を出し、ピッと人差し指を立てた。「まずは一つ目」立ったまま聞いている桃っちの肩が微かに跳ねる。
「桃井、お前は最初、『“Emperor.I”というスクリーンネームを用いてデザイナーを志した』と言っただろう。……だがそれは間違ってる。“Emperor.I”が志したかったのは、デザイナーではない」
 ……は?
 きっぱりと明言されたはいいが最初のヒントは全く理解し難いものであった。何を言ってるんだ。
「志したのはデザイナーじゃない、って……」
「……彼の活動は、不本意だったということですか?」
 疑心を募らせた問いに対し、ゆるりと首を横に振られる。桃っちは敬語に戻っていた。
「いや、そういう意味でもないんだ。“Emperor.I”は全てのデザインを本気でやったよ。ただデザイナーという道自体はあくまで通過点に過ぎず、“彼”が目指したのは、もっと上」
 人差し指を数センチ持ち上げて告げた。まるで雲よりも高いところを指すかのように。社長の後ろで開展している黒い空にぽっかりと浮かぶ月と、太陽のように真っ赤な髪色のコントラストはなんだか不思議な感じがする。
(もっと、上……)
 既に“Emperor.I”は最強だと誰もが認識しているはずなのに、これ以上望むものがあるなどと聞いて、行く末の恐ろしさに鳥肌が立つ。目標なのか夢なのかその答えは皆目見当もつかない。が、何であっても“彼”なら可能にしてしまいそうであり、更に言うなら『ミスターパーフェクト』としてまだ伸び代を持っているのかもしれないという蓋然性に、三年ぶりの昂りを覚えた。
――これだ。この感覚だ。何一つとして根拠も確証も残されていないというのに、次に“彼”の創るデザインが、起こす行動が、楽しみで仕方なかった。どれほどの力を秘めているのかもわからず世間を驚かせる能力は人一倍、そして最後の最後まで期待を裏切らない。まさに予測不可能。胸が熱くなって、高鳴る心臓が、夢中で“彼”を追い掛けている。
 ただ話を聞いただけで心拍が速まるのだから大概だろう。それほど俺にとって――“Emperor.I”という存在はいつまでも、どこまでも、その全てが魅力的だった。
「二つ目」
 息を呑む。最早何を教えられようと食い付く自信があるくらい興味を持って耳を傾けたが、人差し指に加えて中指も立てた社長は、これを言う前に一つ聞かせてくれ、と呟いた。
「……お前達は、“Emperor.I”の存在をまだ信じているか?」
 躊躇いがちに紡いだ声がどこか苦しそうに聞こえたのは恐らく気のせいではない。少しばかり眉を寄せ、瞳に僅かな迷いが生まれたように見えたのだ。確かに“彼”が消えた日から三年が経過し、タブーにもなり、一部では尊敬の念を抱きながらも敬遠されてきたことは事実である。しかしこちらの返答など揺らぐわけがなかった。
「俺は、信じてる」
 自分に正直に、自分の意見はしっかりと主張する。それが俺のポリシーだ。
 私も信じています――と、一秒遅れて断言した桃っちの態度にだって、俺に合わせたわけではない彼女なりの信念が窺える。
「……そうか。じゃあ、期待を裏切ることになってしまうかもしれない」
 彼は立てていた二本の指から力が抜けたように右手を下ろしながらこう続ける。
「“Emperor.I”はもう、死んだも同然だ」
 淡々と、静かな声で。
 だから追いかけるのは諦めろ、忘れろと、そう言われた気がした。けれど社長の言葉を受け止めた俺は丸っきり別の方向に思考が働き、落胆するどころか更なる関心を煽られたのだった。やはり期待を裏切ってはいない。だって彼は、死んだとは言い切っていないのだ。死んだも同然。それは裏を返せば、
(まだ……生きてる)
 ほとんど消えかけて二度と姿を現すつもりさえないのかもしれないが、悲観すべきことではない。確かに生きている。『志したい』ではなく『志したかった』、『目指している』ではなく『目指した』――“彼”の正体を知っているという社長の台詞が一つ余さず過去形だとしても、この業界のどこかで、“彼”自身消えようとしているのだとしても、それでも。
「俺は“Emperor.I”にいつか会えるまで、忘れるつもりはないっスよ」
 あの日心に決めた夢を、叶える為に。ぎゅ、と拳を握って言えば、社長はあからさまに顔を歪めさせた。自分がこの職に就いた最も大きな理由が“彼”にあると知って呆れられただろうか。もちろんモデルを続けているのは単に仕事内容が俺に合っていること、そして衣装を身に纏いカメラを向けられ自分を魅せることが好きだからに他ならない。けれど、高校生の時にこんな業界へ足を踏み入れようとした元々のきっかけは、“Emperor.I”だ。
 社長と“彼”に繋がりがあるのなら尚のこと諦めきれない。漸く、正体を知っているなんて予期しない人間と出会えたのだから。寧ろ社長が俺達に与えたヒントはあまりに重大なものであり、初めに桃っちの提示した結論が今になって可能性を帯び始めた。本人からはっきりと否定は受けている。同一人物ではない、と。でも、もしもそれが嘘だったら? もっと深い意味を持って、違うと答えるしかなかったのなら?
 勝手な憶測を広げているのはきっと桃っちも同じだろう。そんなこちらの様子を悟ったか、社長は小さく息を吐き出してから視線を逸らしつつ俯いた。
「――黄瀬、桃井。もう一度だけ言う」
 そしてゆっくりと顔を上げ、一言一句を噛み締めるように、目を開いて繰り返す。

「“Emperor.I”は……『僕』じゃない」


 全てを話し終えた彼はにこりと笑って、「ここまでで何か質問は?」と再び言った。二つのヒントと一つの主張を残していかれたが、相手は今の話を他人にするつもりなどきっとなかったに違いない。眉を下げて微笑む様子が後悔している風にも捉えられたし、逆に教えたことによってすっきりしたとでも言いたげな雰囲気も確かに残っていた。
 目線を落とせば腕時計の長針は十一時を差している。さすがにこれ以上問い詰める気にはなれず、まずは一人で整理しなければと思い無言で首を横に振った。少し経ってから桃っちも、ありませんと小さく返している。けれど腑に落ちない部分があったのだろう、彼女はその場に立ち尽くしたまま下を向いていた。
 俺達の返答を受け取った社長は、よし、と肩を脱力させて一度大きく呼吸する。
「この話は終わりだ。それじゃあ二人とも、『TiPOFF』のことは頼んだぞ」
 気を取り直して、という表現が似合うような物言い。目の前の人間はもういつもの赤司征十郎に戻っていた。ロビーの窓際からこちらに歩み戻り、桃っちの右肩をぽんと叩いてソファーに置きっぱなしだった鞄を持つ。
「……あ、そうだ」
 彼はそのまま帰ろうとしたものの、ふと何かを思い出したように足を止めた。そしてソファーの肘置きに鞄を乗せて中を探り、「忘れるところだった」と呟きながらテーブルの上に置かれたそれ。
 透明のポリ袋に収められたものを見て、あっ、と声が上がった。俺も忘れていた。
「ピアス、僕の家にあったよ」
 探してもらうよう頼んでいた自分の左耳のピアスだ。
「ありがとっス。……すぐ見つかった?」
「ああ」
 端的な返答にほっと胸を撫で下ろして手に取る。袋の中から取り出し、早速付けようとした――が、手の平の上に落ちた耳飾りから放たれる輝きに一瞬目が留まった。同時に覚える違和感。もう一度、まじまじと見てみる。
(…………ん?)
 見間違いだろうか。
(いや、いやいやいや……え、マジ……?)
 記憶の中にあるイメージとの僅かな不一致に、眉を顰めた。
「ちょ……ちょっと待って、社長」
「何かな」
「……あの、これ、……本当に俺のピアス?」
 立っている彼の方を見上げて恐る恐る尋ねる。確かに返されたものは数日前まで身に付けていた形状と何ら変わりない、K18ゴールドのスタッドピアスだ。けれどその中心に埋められた宝石が、前と異なっている、ような。
 もし間違っていたら相当失礼な発言であることはわかっていた為、顔を強張らせて相手の反応を待った。すると無表情だった社長は俺の言葉に、笑みを深める。
――嫌な予感は的中した。
「よく見抜けたな。合格」
 ……いっそ不合格の方が嬉しかったかもしれない。
「宝石の部分だけ、取り替えたんスか……?」
「ん? 違うよ、人様のものを勝手にいじるわけないだろう。それはそっくりそのまま模った複製品だ。お前の言う通り、ジェムストーンだけは変えているがな」
 と、至極楽しげに続けられた一言を聞くなり頭を抱えたくなった。待ってくれ。複製品ということは要するにこのピアスは俺の為に造ったか買ったか拾ったか何かしらしたんだろう、全く洒落にならない。
 恐らく自分は今、とても青褪めた顔をしている。様子の変化に気付いた桃っちが隣に座り、黙ってこちらの手元を覗き込んできた。俺としては何も聞きたくないが聞いておかなければならない。
「で……、これは何の宝石なんスか」
「ダイヤモンド」
「…………」
 わかった今度は聞き間違いか。聞き間違いだな。心の底からそう願いつつワンモアプリーズ。
「だから、ダイヤモンドだよ。南アフリカ産の。日本語で金剛石。炭素の同素体の一つで、化学式はCだったな」
 いやそこまで聞いてねーし聞き間違いであってほしいって言ってんだろ!
「冗談っスよね」
「冗談だと思ってるお前の為にあげるよ、それ」
「は!? い、いらないっスよこんな高価なもの!」
 咄嗟に大きく首を振ると同時に気付く。あ、言ってしまった、高価だと。今、自分の手にあるものが本物のダイヤモンドだと認めたことに、社長は目を細めて満足げに笑ってみせた。あんたの笑顔は嫌いじゃないけどこういう時の表情は良くない、俺の反応を見て愉しんでいる証拠だ。
 そう簡単にお目に掛かれるものではない宝石に桃っちは見入っているようだが、受け取るなど以ての外、今すぐにでも返品したい。こんな高いものを易々と頂戴できるわけないだろう。
「いや、あの、俺のピアス返して頂けませんかね」
「駄目だ」
「な……んで」
「こっちは僕が貰う」
「……はい?」
 わけがわからず間抜けな声が零れ落ちた。するといつの間にか社長の右手には形を同じくしたもう一つのピアス。それが本来返されるはずだった自分のものであることは一目瞭然だ。
「黄瀬、せっかくセンスの良いフォルムを選んでいるのに、何故キュービックジルコニアにしたんだ。イミテーションダイヤを否定するつもりはないが……お前ならそれくらいファッションの一環として身に付けられるだろう」
 ダイヤモンドをそれくらいと表現する人なんて初めて見た。さすがは社長、美的感覚はピカイチだが金銭感覚は常人と微妙にずれている。
――イミテーションダイヤ。それは文字通り『模造ダイヤモンド』の別名だ。そしてキュービックジルコニアとはその代表で、天然で産出されることはない人工合成石である。一般的に多くの宝飾品に使われ、模倣の元であるダイヤモンドと外観や質感はかなり似ているのだった。けれどもちろん安物。実際のダイヤモンドというのは綺麗に透き通っているほど極端には光らないもので、ジルコニアの人工的な磨き方を見れば本物か否かは案外簡単にわかる。
 どうやら社長は俺が偽物を使用していたことがあまり気に入らなかったらしい。まぁそこまでは百歩譲っていいとしよう。でもなんで俺が持っていたピアスをあんたが貰うことになるのか。
「思い出の品なのか? なら返すが」
「そういうわけじゃないっスけど……それマジで安物だし、ブランド品でもないし……」
「いいよ。『黄瀬涼太のピアス』となれば数十万は固いだろう。ある意味ブランドだ」
「だ、だから等価交換とか言うわけじゃないっスよね? 卸店で買ってないならゼロもう一つ多いはずっスよ、こっちは」
「贈り物の値段を推測するのは失礼に当たる行為だよ」
 いやいやいやだったらこんな露骨に高いもん贈らないでください。そう反論したい気持ちをぐっと堪え、もう一度社長から渡されたピアスに視線を落とした。本物のダイヤモンドだと意識すればするほど恐れ多い。値が張ったアクセサリーも撮影では多用されるが、自らこういった宝飾に金を掛けることはあまりしてこなかったのだ。オフの時までお高いものに身を包むのはなかなか息苦しいから、なんて理由のせいで。
「大丈夫、黄瀬なら似合うよ」
 何を根拠にそんな判断をしているのか。愛想の良い笑顔を浮かべて簡単に言ってのける彼の考えがわからず、じゃあ、と口を開くことにした。値段は聞かない代わりに。
「このダイヤの4Cだけ教えてもらっていいスか」
 恐らく俺の質問は予測の範囲内だったのだろう、あっさりと社長は答えた。
「0.35ct、D、VVS1、3EXだ」
――と。頬が引き攣る音がする。
「えっ……D!? 3EX!? む、むり、無理無理無理こんなの受け取れないっスまじでほんとに」
「どうして」
「だって、」
「不満だったか? やっぱりグランサンクから選ぶべきだったかな。それともハリー・ウィンストンの方がよかっただろうか」
「……はは……社長はジョークまでマジ一流っスね……」
「ありがとう」
「褒めてねーよ……」
 予想を軽々と超えた返答に言葉を失っていると、きーちゃん、と不意に名を呼ばれて我に返った。そして自分達の会話に混ざれなかった桃っちがピアスを指しながら小さく尋ねる。「4Cって何?」――ああ、知らなくて当然だろう。俺が宝飾店と仕事で直接関わった経験はなく、それはつまり桃っちが調べたことのない範疇の話だ。彼女は普段必要以上にアクセサリーを身に付けるタイプではないし、聞き慣れない単語だったに違いない。
「4Cっていうのは……簡単に言うと、ダイヤモンドの評価基準みたいなものっス」
 社長を見やれば説明してあげろと目配せされた為、ダイヤモンドの表面を桃っちに向けるようにして喋った。
 4Cとは――まずはカラットのC。これは宝石の重さを表す単位であり、指輪を選ぶ時なんかによく聞くだろう。当然、多ければ多いほど値打ちは高い。
 二つ目はカラーのC。ダイヤモンドは無色透明を誇るジェムストーンだ。色味が増すとその希少価値を失くしてしまう為、クリアな石ならばより上の位置に格付けされる。評価は二十三段階、黄色みを帯びるZが最低ラインでそこから順にY、Xと上っていき――ダイヤモンドの頭文字Dが最高となっている。
 三つ目はクラリティのC。和訳すると、透明度。傷や汚れが含まれていないかを判定する基準とされ、十一段階に亘って区別が付けられる。『Very Very Slightly1』の略、VVS1は上から三番目の価値であり、十倍のルーペで鑑定しても内包物が発見されることはほとんどない。そしてその上の二段階は産出が極めて稀な為、市場で流通する中ではVVS1が最上位クラスだった。
 最後はカットのC。研磨という意味を持ち、四つの評価のうち唯一人間の手に委ねられるグレードである。ダイヤモンドの形と仕上げを見極められるのだ。EXは『EXCELLENT』を表し光学的に理想とされるまさに最上級のものなのだが、更に3EX――トリプルエクセレントというのはそれを優に上回る。カットの総合基準であるプロポーションに加え、研磨の状態を指すポリッシュ、シンメトリー、この三つの全てがエクセレントの評価を得た時にだけつくのだった。
 4Cは国際基準であり、世界中のダイヤモンドはこれらの観点からランク付けが成されている。
「ここまで大丈夫っスか?」
「う、うん……きーちゃんよく知ってるのね」
「あー、昔ちょっと宝石学とか勉強したんで……。で、このピアスの4Cはさっき社長が言った通り、0.35カラット、カラーはD、クラリティはVVS1、そんでカットが」
「3EX。大変だったんだよ、探すの」
 さらりと言っているが本当にわけがわからない。この人は昨日の晩に俺のピアスを見つけたはずなのに、どうしてこんなものが翌日までに手に入るんだ。宝石商か。
 口が半開きになっている桃っちに対し、つまり、と説明を締め括る。社長は変わらずご機嫌のようで、こちらが複雑な気持ちになるのも仕方がないだろう。
「……これは、最高峰のダイヤっスよ」
 普通に考えて何でもないピアスになど使用されない石。例えば――そう、婚約指輪に使われるレベルのダイヤモンドである。それも芸能人同士の結婚で左薬指に嵌めたキラッキラの指輪を記者会見で見せびらかしている女優の光景が目に浮かぶような。
 それを踏まえ、自分の思考にはある一つの可能性が浮かんでいた。まさかとは思う。まさか、その為にわざわざピアスを複製して馬鹿高いダイヤを入れたわけではない、はず。しかしあり得ないとわかっていながら、社長のさっきの言葉が引っ掛かっていた。
“それともハリー・ウィンストンの方がよかっただろうか”
――ハリー・ウィンストン、イコール、アメリカの最高級宝飾品ブランドだ。キング・オブ・ダイヤモンドと呼ばれ、重要なのはここ、『エンゲージリングの代名詞』であること。ちなみにグランサンクはショーメやヴァンクリフ&バーメルなどのパリ五大宝飾店の意だが、何より婚約指輪で有名なブランド名を出してきたことがその可能性により現実味を与えた。
 社長、と彼の瞳を見詰めて聞く。
「……もしかして、これ、仕返し?」
 真意を探りたくて、けれどはっきりとは指さずに濁して言えば、隣で桃っちが首を傾げている。彼女には決して理解できない話だろう。眼前の人間は少し黙りこくったものの、やがてこう答えた。
「何の話だ?」
 ああやっぱり。わざとらしいにも程があるとぼけ方で僅かな可能性は確信に変わる。嘘だろうと疑ったが嘘ではなく、きっと、いや絶対、この人は根に持っているのだ。
 昨夜の車内で。

――社長なら良いお嫁さんになれそう。

 と、俺がからかったことを。
(あの時ちょっと怒ってたもんなぁ……)
 他にもワーキングマザーみたいだとか調子に乗っていろいろといじってしまったのが恐らく全ての原因だった。赤司グループのご令息を相手に付け上がりすぎたのだ。たった一言の冗談に対する意趣返しがここまで大層なものだとは思わず、大方の意図を察して無意識のうちに溜息をついてしまう。
 お嫁さんという単語からどうにか関連付けて復讐したかったに違いない。だからわざとエンゲージリング並みに高価なダイヤモンドを選び、元のピアスとすり替え、俺を心底困らせるような方法を取った。贈る方と贈られる方が逆だろと思わないでもなかったが、社長にとって恐らくそんなことはどうでもいい。ただ自分が焦って動揺してペースを崩している様子を見れた、その時点で仕返しは完了しているのだから。
(……どんっだけだよ)
 全ての整理がついて真っ先にそう思う。本当に容赦のない返報に呆れて物も言えないとはまさにこのことであるものの、咀嚼していくうちに少し面白く感じたのは否めないのだから大概だと自分に呆れ返るほかない。ビジネスには敏感なくせしてこういう時はまるでゲーム感覚で金を使う、そんな人が、俺なんかの冗談に振り回された昨日の夜もなかなか楽しかった。が、それに対する仕返しをこんなにも派手にされると、まだこちらの手には全く落ちていないんだなと、柄にもない思考がぼんやりと占める。驚くほどに飽きない。
「それは僕からのトップ合格祝いとしてプレゼントするよ、黄瀬。どうしても腑に落ちないというなら『TiPOFF』の売り上げで返してくれ」
「……俺のピアスはどうするつもりっスか」
「僕が有難く頂戴しよう」
「社長、ピアスホール開けてないよね?」
「いつか開けるかもな」
 端的に返された一言は意外そのものだった。できれば開けてほしくないような、けれど自分がずっと身に付けていたジルコニアのピアスを付けてくれるなら開けてほしいような、二重の思いが交錯する。何故だかはわからない。
 本来ならばこの手に戻ってくるはずだった耳飾りが社長の鞄へと入れられる様子を黙って見る。そして交換条件で与えられたもう一つの方はいい加減大人しく貰ってしまおうと決心がついた頃、不意打ちで桃っちがこう口を開いた。
「そういえば、ピアスが家にあったって……きーちゃん、赤司さんの家に泊まったの?」
「えっ」
 空気が固まる。不覚だった、忘れていた。自分が彼の家で一晩を過ごしたことはマネージャーにも知らせていなかったのだ。びくりと肩が跳ねたのは俺だけでなく社長も一緒で、密かにアイコンタクトを取ればこちらに向けられた視線が早く誤魔化せと言っている。そんな横暴な。
「あ、いや……社長を送っていった日に、ちょっとだけ上がらせてもらったんスよ。ね」
「ああ。送ってくれたお礼にな」
 丸っきり適当な発言だがあながち間違いではない。
「そうなんだ。でも珍しいね、きーちゃんがピアス外すなんて」
 とりあえず深く突っ込まれることなく流されて胸を撫で下ろしていたものの、甘かった。悪気なく喋った桃っちの次の一言で俺は致命傷を負うことに。
「お風呂入る時でも絶対に外さないのに」
 え。
「な……なん、で、桃っちがそんなこと知ってるんスか」
「え? なんでって……雑誌のインタビューでそう答えてたじゃない。確か私服特集の時に」
「…………まじ?」
 嘘だろ。頭の片隅にもない過去の撮影を勢いよく脳内で巡り返らせたが、そこにあるのはあまりに膨大な記憶であり自分がいつそんなプライベートを口にしたのか思い出せなかった。けれど当然、彼女は別に嘘を言っているわけではない。
 俺は普段、ピアスを絶対に外さないのだ。食事中も就寝中も、そしてシャワーを浴びる間でも。それは昔からの習性のようなものであり、今になってピアスを外すという時は必ず――『わざと』だ。
 あの時だって勿論、腕時計と共にピアスを取って棚の上に置いたのは。
――はっとなって社長を見上げる。
「……やっぱりか」
 両目を細めて告げられたその一言で、自分は完敗していたのだと悟った。彼の寝室に積まれた数個の段ボールの中身は凄まじい量のファッション誌であることを知っている。加えて俺が載っている全ての雑誌をこの人は隅から隅まで熟読し、評価まで付けているという事実も。つまるところ、きっと『風呂に入る時でもピアスは外さない』なんて些細な情報でさえその頭には入っているわけで。
 だから彼を初めて車に乗せてこの件を話題に挙げた時、「……外したのか?」と半ば疑うように確認を取られたのかと、今更気付く。
 浅く溜息を吐き出した社長が一歩二歩と俺の方へ近寄り、右肩に手を置いて耳元へと唇を寄せた。その優雅な動作に対し、不可抗力で体を強張らせた俺は背中に冷や汗が流れるのを感じる。そして反対側に居る桃っちに聞こえないよう、囁くように彼は喋ったのだった。
 感謝しろ、と。
「お前がわざとピアスを僕の家に置いて帰ったことも、それを口実にいきなり会いに来たことも、話を繋げて僕のアドレスまで聞き出したことも――……全部、気付かなかったことにしてあげる」
 随分可愛らしく言い終えるなり、チュッと小さくリップ音を立てて右耳にキスをされ、いよいよ目の前が眩んでしまう。
――バレていたのか。
(う……わ、うわ、うわ……)
 驚きも後悔も羞恥も同時に自分を襲った。この人にピアスを探してほしいと頼む為に起こした行動全て、それこそ初めて泊まったあの日の朝からプライベートの連絡先を手に入れるまで、余さず意図して実行し続けた計画であったことを見透かされていたのだ。隠し通せていた自信を最後の最後で折られ、ついにどの感情よりも恥ずかしさが勝る。いっきに顔が熱くなるのが嫌でもわかった。社長にも桃っちにも見られたくなくて片手で顔面を覆って俯き、反対の手にある貰ったばかりのダイヤモンドを、羞恥心を押し殺すように強く握り締める。
(やばい……)
 正直に言うと今ものすごく死にたい。結局からかわれていたのは俺だったのだ。もう彼の顔など見れるわけもなかったが、仕返しについては十分に満足したはずだろう。「じゃあまたな、桃井」俺は勝手に後悔してろとでも言いたげに桃っちにのみ声を掛けて去っていった社長の声色はどこか愉しげであり、残された自分は脱力するほかなかった。
 昨日、彼と完全にオフの状態で会う為に理由が必要で、二つ細工を施した。その一つは先にも言った通り行き先だ。そしてもう一つはピアスを彼の家に残していくことだったわけだが、何一つとして上手くいかなかった結末が恥ずかしいどころの話ではない。
 耳に残る相手の息遣いのせいで変な意識までしているのが情けなかった。
「……きーちゃん? 大丈夫?」
「いやもう全然……全然大丈夫じゃない……」
 俺が社長に何を言われたのか、さりげなくキスをされたことなど知りもしない桃っちだが、ぽんぽんと背中を叩いて宥められている自分の姿がどこからどう見ても格好悪くて更に泣きたくなるのだった。



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