事務所内の情報網は著しく早く、スタジオへ向かおうとした時にすれ違った先輩モデルにもおめでとうと声を掛けられたほどだった。どうやら『TiPOFF』の発行に関してはもう公にしても構わないらしい。祝いも兼ねて今度飲みに行こうなんて誘われては断れるわけもなく、礼を言いながら苦笑する。調子の良い男や酒が入ると正直面倒な人も居るには居るが、前々から俺の成長を見守って良くしてくれた先輩達だ、感謝せずにはいられない。
 それから桃っちを助手席に乗せ、車を回してスタジオに行っている最中は今後の展望で二人盛り上がった。だんだんと仕事の幅が広がっていくことは確実だろうけれど、目指すは海外ね、なんてまるで社長と似たような台詞を口にした彼女を見たのは初めてだ。余程嬉しいのだろう。ただ海外というのはあくまで例えであるらしく、「私はきーちゃんが満足するようにこの仕事を楽しんでくれれば悔いはないわ」と曇りのない視線を以てして告げるマネージャーの心意気はやはり支えだった。
 今朝の寝覚めの悪さなどなかったかのように撮影は順調に進んだ。調子も決して悪くなく、馴染みのあるカメラマンに今日は一段と良いと褒められれば会心だ。合格通知のことも相まって、いつもより自然と笑顔を出せていただろう。
 しかしふと、控室で待っている桃っちを思い浮かべ、昨日の会話が頭を過る。明日話すと言われた件についてはまだ何も伝えられていない。桃っちの様子も普段と大差ない為に、自ら切り出すことはできなかった。けれどどことなく彼女がずっと笑顔を保っているのがわざとらしく感じた部分も、なかったわけではない。
「はい、終了でーす!」
 撮影が終わった頃にはやはり九時を回っていた。そこから衣装を返却したりメイクを落としたり、撮影用の格好から私服へと戻るには一時間程度は要する。各スタッフにも挨拶を終えたところで控室へ向かえば、何かの資料を読み込んでいたらしい桃っちが顔を上げてお決まりの台詞を言った。
「お疲れ様、どうだった?」
「今日は一段と良かったって」
「やっぱりね。きーちゃん、すぐ顔に出るもの。嬉しそう」
 開いていたファイルを仕舞いながら指摘されて気恥ずかしくもなるが、それはもう昔からだ。手荷物をまとめて二人で部屋を出る。向かう先は一階のロビー、エレベーターを使って降りていった。
 閉ざされたエレベーターの中でこれと言った会話はない。しかしこの後は社長と会う予定であり、今を逃したら聞くタイミングを失うような予感がした。
「桃っち」
 数の減っていく階数を眺めることをやめ、隣に無言で佇むマネージャーの方に視線を向けるが。
「何?」
「あ、いや……、やっぱなんでもないっス」
――口にできなかった。半ば驚くほかなかったのだ。声を掛ける前、桃っちの横顔が酷く強張っていたことに気付いては。今日初めてそんな表情を見た上、いつも穏和に物事を捉える彼女にしてはかなり珍しい。焦っているのか? 緊張しているのか? それは何に対して? とても軽々しく昨晩の出来事を聞いてはいけない雰囲気に、思わず息を呑んでしまう。
 そして再び黙り込むうちにも一階まで辿り着き、エレベーターを降りて角を一つ曲がればそこがロビーだ。スタジオを出て行こうとする社員やスタッフが何人か通るものの、話声はほとんど聞こえない為に極めて静かな空間である。ロビーには上等のソファーが向かい合う形で二セットずつ設置されていた。
 二人掛けのソファーに足を組んで座り、背もたれに寄り掛かって窓の外を見詰めている赤髪の人間が目に入ると、少しだけ歩みが止まった。こちらにはまだ気が付いていないようだ。膝の上に手を置いて微動だにせず、静かに呼吸だけをしているのが遠目にもわかる。端正な顔立ちと姿勢がまるで絵画のようだと思った。撮影に使われてもちっともおかしくないだろうな、そんな風にまで考えていると、不意に向こうが俺達の方を見つけるなりその場に立ち上がる。
「黄瀬、桃井。お疲れ様。悪いな、こんな時間に」
 お疲れ様っス、と俺も言葉を返して近寄る。
「遅くなっちゃってすいません」
「気にしなくていい、呼び出したのはこちらだ」
「桃っちも居た方がいいんスよね?」
 頭を下げるだけで喋らずに様子を窺っている桃っちに目をやりつつ聞くと、社長は頷いた。「ああ。居てくれると助かるよ」そう告げながら座るよう促され、彼の前のソファーに腰を下ろす。桃っちは自分の隣に並び、社長とは真ん中に挟まれたテーブルのせいで少し距離が空いた。
「撮影は無事に済んだみたいだね」
 早速、躊躇いもせず言われた一言に僅かに目を見開く。その反応があまりに露骨すぎたせいか彼はおかしそうに笑った。
「表情を見ればわかるよ。お前は調子が良くても悪くてもすぐ顔に出るから」
「……桃っちにも言われたばっかなんスけど、それ」
「私はきーちゃんのこと昔から知ってるからっていうのもあるけど……よく見てるんですね、赤司さん」
「どうだろう、人の顔色窺って生きてきたからかな」
「どこがっスか……」
「ん?」
「いえなんでも」
 地獄耳だ。見え透いた茶番に隣からはくすくすと笑い声が聞こえてくる。この人は意外と冗談も言うんだよなあ、と思っていると、ふと俺の方に鋭い視線を向けられて背筋が伸びた。すっと細めた目にはどうにも弱い。
「その様子だと、『TiPOFF』の結果ももう知っているみたいだな」
 しかし本当に、彼は人の表情一つで大方の内情を見抜けてしまうような、まるで物語の全部を悟っている魔法使いに近いものを、今までの言動を振り返ってそう感じずにはいられないのだ。
「今朝、見てきたっス。……ありがとうございました」
「こちらこそ礼を言うよ。オファーを受けてくれて本当にありがとう、感謝している」
 返された台詞にもう一度頭を下げれば、社長はマネージャーにも体を向けて口を開いた。
「桃井も、ありがとう。オフィスクオーターとはこれから長い付き合いになると思う」
「はい。御社となら、是非」
 淡々と口約を交わす。上階で撮影を手伝っていたスタッフ達がまばらにロビーを通って帰路へ着いているが、全員こちらを一瞥するだけで声など掛けずに通り過ぎていった。自分達はもう彼と『関係者』だからあまり感じないけれど、部外者から見ると眼前に座る人間の纏う雰囲気はやはり近寄り難いものがあるらしい。オーラと言えばいいか、無闇やたらと他人は寄せ付けないというのに、確かに凛と佇む存在感はモデルのそれより絶大な気がする。
「――それで、本題だが」
 一度目を伏せた後、心なしかゆっくりと瞼を持ち上げて切り出された声色はとても真剣なものだった。
「はい」
 社長は仕事中とプライベートで声遣いが大きく変わる。恐らく本人に自覚があってわざと変化させているわけではない。ただ自然に、当然かもしれないが、後者の間は打って変わって優しい。その分、こういった瞬間に有無を言わせない威厳を感じることが多かった。
 一呼吸置き瞳の奥まで射貫くように俺を見て、彼は言う。


「黄瀬涼太。お前に、『TiPOFF』創刊号の表紙を頼みたい」


 予測は立てていなかった。どうせ今回だって自分の予想の範囲など軽々と超える発言をしてくるだろうと思っていたからだ。――が、これは一体。
 丸く見開かれた両目が乾く。
「……表、紙」
 頭の中に反響した一言一句を呑み込もうと繰り返せば口を衝いて出ていた。
(え……)
 ちょっと待て。冷静に聞いてはいるが、この人は今何と言った。表紙? 創刊号? 何を頼んできた、俺に。
「えっ、いや、……表紙、っスか?」
「そうだ」
「で、でもそれは……」
「ああ。お前も知っている通り、創刊号の表紙はオーディション合格者トップのモデルに与えられる権利。その条件は変わってない」
 あとはわかるだろうとでも言いたげに平然と説明され、ますます脳内が慌ただしい。否、逆にぴたりと思考が止まってしまっているのかもしれなかった。社長の言葉の意味を理解できないほど馬鹿ではないが、嫌でも呆然とする。そしてぱちぱちとやっとのことで瞬きができたその時、いきなり隣から声が上がった。
「ほ……本当ですか!?」
 身を乗り出すようにして大声で確認を取る桃っちの様子に少なからず驚く。自分が動揺するようなことでも彼女は大抵困惑せずに受け止めている為、こんな姿は滅多に見ないのだ。
 それは当然社長も同じであり、桃っちの反応には僅かにびっくりしたのか少し目を見張ってから、しかし眉を下げて彼は微笑んだ。
「本当だよ。デザイナーも、カメラマンも、スタッフも、満場一致だった。……おめでとう、黄瀬」
 口元を緩めて優しく告げる表情に心臓が締め付けられそうだ。
「……うっそ……」
――まじで?
 徐々に視界が開けるような感覚。そこに広がった世界が見違えるほど輝きを持っているのは、きっと、気のせいではないだろう。
「すごい……っ、すごい! すごいよ、きーちゃん! 合格者トップだって!」
 おめでとう! と手放しで喜ぶ彼女の目には涙が溜まっていた。桃っちが泣いているところを見たのは実を言うと三回目で、そのうち最初の二回はもう随分と前の話だ。数年ぶりに目にした彼女の涙が嬉しさによるものだと、それが自分の成果なのだと咀嚼し、全身が大きな歓喜で満たされていく。
「ほ、本当に……俺で、いいんスか」
 声が震えるのを抑えられたかはわからなかった。けれど脆くなる涙腺だけは堪えてそう尋ねると、社長はしっかりと頷いて視線を合わせる。
「これは決して過大評価じゃないと僕は思う。『TiPOFF』の目指すイメージ――コンセプトは、日本人モデルが世界中のファッションを着こなし、流行を発進していくこと。でもただ着こなすだけじゃあ駄目なんだよ。いくら着飾ったって所詮服は服、そこに表情と感情を付ける仕事はモデルにしか出来ない。お前は今回のオーディション撮影で、それを一番に表現できていた。この国の文化として足りていない『自分を魅せる力』を、黄瀬は、誰よりも持っているんだ」
 だから、と息を吸って続けた。
「お前以外に頼むつもりはない。やってくれるか?」
――オーディションが始まる前、俺はあの十人の中では最も落とされる可能性が高いとされていた。その事実に異論はなかった。それほどまでに周囲の実力は凄まじく、最初はトップどころか合格さえ怪しかったのだ。ところがこうして認められるまでに至り、評価を得られ、自分にしか任せられない仕事を掴んだ。過去にもいくつかオーディションは受けているが、ここまで己の成長を感じられた結果は初めてだろう。
 ソファーから立って、今までで最も、直角くらいにまで深く頭を下げる。感謝と敬意と、意志を込めて。
「よろしく、お願いします……っ!」


 三十分もあれば終わると宣言された通り、社長はその後もどんどん話を進めていった。契約金や期間などの正確な資料はオファーを受理した時点で貰っていたが、オーディションの結果によって少しずつ変更する部分があったらしい。全員が受かったわけではなかったのだ。合格者は十名中八名、『TiPOFF』初代専属モデルは俺を含めた八人のモデルで構成されることとなった。
 不合格者について詳しくは知らされていないし、わざわざ聞いても仕方がない。ただ合格者のリストは社長の方から渡された為、あとで確認しようと鞄へ仕舞った。今後親密に関わっていくことは確実な仲間であり、ライバル達だ。
 再びソファーに腰を下ろして十分ほど向こうの話を聞き、十時半を過ぎた頃だった。明日、早速創刊号で掲載するインタビューページの取材があると聞いて驚いてしまう。事務所の方で会議があるから予定を開けておけとだけ言われていた日であり、まさかこの件に関する仕事だとは思っていなかったのだ。しかし合否発表をした後でなければ内容を教えるわけにはいかず、あくまで会議だと濁していたのだとか。
「まぁインタビューは慣れていると思うが、ちょっとクセのある奴が来てもあまり気にしないでくれ。害はない」
 害!? さらりと言われた一言に顔が強張る。有害か無害かを真っ先に知らされる人間というのも珍しくないだろうか。
 どんな人が相手なのか既に気になってしまうもののそれについては簡単に流され、『TiPOFF』の話は大方終了したようだ。こちらが必要な書類は全て受け取り終え、鞄のファスナーを閉めながら「ここまでで何か質問はあるか?」と聞かれた。
「……あの、一つだけ」
「ん?」
 言うべきか迷っていた。が、聞かずにはいられない。ごくりと唾を飲み込んでから口を開く。
「オーディション撮影が始まる前に、合格者トップが表紙を飾るってモデルの中では俺だけ知ってたじゃないスか。それで、もし本当に表紙に選出されたらどこで聞いたのかは問い詰めないことになってたけど……」
 ルール違反であったことに変わりはなく、ずっと心の中で引っ掛かっていたのだ。ミブチさんには悪いが正直に話した方がいいんじゃないか。そう考えていると、ああ、と相槌を打った彼は全く意に介していない様子でこう答えた。
「それなら大丈夫だよ。情報の出所はもうほとんどわかってるから」
 あ、まじですか。どちらにしろミブチさんごめんと内心で謝罪するほかない。あとで社長に何か言われてもどうか俺のせいにはしないでください。
「他には? 無いならこれで終わりにするが」
「俺からは大丈夫っス。桃っちは?」
 社長の説明はとても端的でわかりやすかった為、本題に対する疑問点は全く浮かばなかった。だから自分より頭の良い桃っちなんて尚のこと十二分に理解しているだろうと思いつつも目をやると、驚いたことに彼女は口を動かさない。ただその横顔が、ここに向かっていた時のエレベーター内で見た一瞬の表情と重なった。
 そして膝の上に置かれた両の手の平に力が込められている様子で、いよいよ何もないわけではないと察する。
「……桃っち?」
 俯き気味だった彼女の名を呼ぶと、顔を上げて社長を見据えた視線には力強さがあった。
「赤司さん。この件とは直接関係ないんですが、……あなたのことで、少しだけ聞きたいことがあります」
 あなたのことで――その部分を強調した物言いに息を呑む。何を言い出すのか自分には予想もつかなかったのだ。が、そう告げられた本人は意外にも驚く素振りなど全くなく、言ってみろ、と促した。
 ちらりと周囲に目を向ければもう俺達以外に人影は残っていない。
「ありがとうございます。ですがこれは私個人の見解であって、きーちゃんは……彼は何も関与していません。そこだけご理解下さい」
「ああ、わかった」
 何故いきなりこんなに重い雰囲気になったのか理解が追い付かない部分もあり、俺は黙り込むほかなかった。今日、否、昨晩からどこか様子のおかしい桃っちが社長相手にまさか意見を口にするとは思っていない。予断に反した展開に口を噤めば、静かに深呼吸している彼女から緊張感が伝わってくる。足音一つ響かないロビーで、桃っちは喋り始めた。
「――赤司征十郎。一九××年十二月二十日京都生まれAB型。赤司財閥を継いで生まれた赤司グループ本家の一人息子であり、次期会長候補。幼少期は業界や環境のことなどつゆ知らず育ちますが、六歳の頃にお母様を亡くされ、それを機に英才教育と帝王学を受け始めます。ピアノ、将棋、英会話、書道、乗馬、茶道、華道、弓道、水泳、バイオリン、そろばん、日本舞踊、フェンシング、囲碁、チェス、合気道、空手、剣道……多岐に亘り学び続け、その傍らでアパレル業界の即戦力となれるようお父様に鍛え上げられてきた。××小学校出身、上京して××中学校卒業後、××高校に入学。……しかし高二になったばかりの頃、退学してますね。その年の五月に海外へ行っているようですが二年後に帰国、日本有数のアパレル系専門学校へ雑誌編集専攻で入学。首席から一度として落ちず三年間そこに在学し、二十一歳の春――今から三年前、単身でロスへ旅立った。そして今年三月に再度帰国後、帝光出版社長就任。これが赤司さんの……、あなたの、公開されている大まかな生い立ちです」
 圧倒された。息継ぎもろくにせず言い切り、ずらりと発せられた単語の量に目を見開いたまま何も言えない。ただただ俺の頭は困惑するばかりだ。
(は……? なんで桃っちはそんな調べて……っていうか、え、高二で退学? ……中退!?)
 信じられもしない一言一句に瞬きを繰り返すほかないが、対し社長は少しも動揺の色を見せず、これと言って異論も返さない。寧ろ心なしか愉しそうに口角を上げているように感じる。
「その通りだ。……が、二週間も続かなかったような習い事まで公開した覚えはないな」
「日本舞踊のことでしょうか」
「それはマシだ、三ヶ月続いた。空手がなかなか上手くなれなくてね、初段補どまりだったんだよ」
 初段補って何だ? 首を傾げると隣で桃っちが「流派によるけど、初段の次よ」と小さく囁いた。さすがに理解できる。つまり上手くなれなくて二週間続かなくてそれで黒帯寸前というわけか、同じ人間とは思えない。
「まぁいい。公には京都生まれではなく東京生まれと言っているし、上京したことも一部の人間しか知らないはずだが、それらをどこで耳にしたのかは聞かないでおこう。……で? 桃井の言いたいことはそれだけか?」
――挑発されている、そう思った。足を組み替え、腕組みをした態度は明らかにこちらを唆し、少し顎を引いて目を眇める。その表情が俺からすればまるで艶笑に近かったのだ。
 不覚にもどきりとしたことなどまさか認めるわけにはいかないが、相手の双眸には全てを見透かされているのかもしれないと考えるだけで背筋が震える。引き際を見失うと本当にどこまでも思い通りにさせてしまうのがこの人の持っている力だ。それは俺自身十分に痛感していたが、今の場において桃っちにアドバイスできるような雰囲気とは程遠い。社長は笑みを崩さずに返事を待ち、対峙するマネージャーも、一度決心したら引かない性格。押し黙るわけがなかった。
「では単刀直入に聞きます。赤司さん、あなたは……初めて海外で暮らした二年間、何をしていましたか?」
 しかしその質問に自分は意図がわからず疑問符を浮かべ、社長はほんの僅かに眉を寄せる。
「……何って?」
「ロスではフリーランサーとして様々な出版社と契約を結び、ライターとしてもジャーナリストとしても、時にはプロデューサーとしても群を抜いた才能を発揮していらっしゃいました。『赤司征十郎』の名は全米で知れ渡っているほどの著名なクリエイターです。もちろん専門学校で培った実力を活かしてきたのでしょうし、それが功を奏して今こうして帝光出版の社長としてご活躍されていることは明らかです。でも……十七の時に日本から姿を消したあなたが何をしていたのか、その時の記録は一つも残っていません。『赤司征十郎』はロスにも居なかったんです」
 何をしていたんですか、と桃っちはもう一度強く尋ねた。
「そんなに大層な話じゃないよ。語学留学をしていただけだ」
「語学留学? 高校を辞めてですか?」
「籍を残しておく必要がないと思ったからね」
「失礼は承知の上で言わせてください。留学を名目としても中途退学をお父様が許されたとは考えられません」
「父は関係ない」
 容赦のない言葉の応酬に口を挟む隙もなかった。けれど――。
「それはあなたが独断で赤司家を出て、日本を発ち、パリに住み……」
 次の一言でついに彼さえもが目を見張る。

「“Emperor.I”というスクリーンネームを用いて、デザイナーを志したからですか」

 最も声を張り上げるようにして、マネージャーは確かにそう聞いたのだ。一瞬にして空気が固まり、俺は表紙の選出を告げられた時くらい――もしかしたらそれ以上の驚愕を覚えた。
 エンペラー・アイ。昨日の夜に久しく耳にし、夢を見て、今朝まで苛まれた単語。出版社の社長として生きる人間とは直接的な関係があるはずないのに。
(デザイナーを……志した……?)
 理解に手間取る。
「ど……どういうことっスか、桃っち……」
 この人に一体どんな過去があると言うのだ。困惑したまま口を開けば桃っちは俺の方を一瞥して、しかし言葉は掛けなかった。まさか明日ちゃんと話すと言われたそれがこんな形だなんて、嘘だろう。
「……エンペラー・アイのことは、ご存知ですね」
 俺から視線を外した彼女は再び赤司征十郎を見据えて問うた。「……もちろん」そしてそう答えた彼の顔からは先ほどよりもいくらか余裕が消えているように思えたが、ただ真剣な顔つきを作っているだけにも捉えられた。社長の返答は当然だ、この業界に身を置いて知らないわけがない。“Emperor.I”の名を。
 一人の人間、否、一つの存在の話。スクリーンネームとはいわゆるハンドルネームであり、偽名である。
「――七年前」
 彗星の如く現れた人だった。世界には様々なファッションコンテストがあり、県や州単位の小さなものから大手ブランドが主宰を務める世界規模のものまで、それこそ数え出したらキリがない。そのうちの一つ、最初に“彼”が出てきたのはパリで開催されたとあるファッションデザイナーコンテストのアマチュア部門予選だと聞いている。
「コンテスト本部に一通の封筒が送られてきました。審査対象であるポートフォリオです。その冊子に収められたいくつかのデザインは、どれも今までのファッショナブルな価値観を逸脱していた。写真だけでもわかるほど審査員の度胆を抜くような作品達は大会過去一の高い評価を得て、本選へ進みます」
 けれど早くも問題が生じたのだった。
「その封筒の送り主――“Emperor.I”は、決して素性を明らかにしない」
 審査委員会に届いたポートフォリオが入った封に送り主の住所はなく、本名もなく、ただ“Emperor.I”とだけ記されていたのだ。本来ならば失格となり得るところだが、しかしそれで落としてしまうなんて勿体ないと判断されて通過したほど、“彼”のデザインは業界に衝撃を与えるものだった。
 審査員達はとにかくそれらを生み出した人間と相見えることに心を躍らせたのだろう。だがそんな期待も空しく、デザイナー本人の面接、そして作品を搬入し実際にプレゼンテーションを行わなければならない本選において、“彼”は最後まで姿を見せなかった。棄権という形で賞を取ることはなかったのである。
 受賞しなければ個人の名が公表されるわけもなく、結局、その時に“Emperor.I”の存在を知ったのはコンテスト審査員の約三十名のみだった。
「ただのいたずらか、気まぐれか……いろいろと予測は飛び交ったようですが、素性がわからなければスカウトのしようもありません。アマチュア部門に応募しながら実力は既にプロと何ら変わらないにもかかわらず、“Emperor.I”はただその呼び名だけを残して消えていきました。……ところが、」
「二ヶ月後、今度はミラノにて」
 桃っちの話を遮ったのは社長だった。はっと見ればもう無表情に近い焦りはなく、何が面白いのやら少しだけ笑っている。
「ファッションコンテストアマチュア部門、再び“Emperor.I”は応募してきた。今回も住所や本名なんて書かれていない。またしても審査委員会を馬鹿にするかのように偽名を使用し、ポートフォリオには全く新しい作品。それでもやはりずば抜けた才能の持ち主だと、パリで一度だけ現れたあのエンペラー・アイと同一だと持て囃した割に、二度もルールに反した参加者を本選へ通すわけにはいかず、ミラノのコンテストで“Emperor.I”は予選落ちした――だろう?」
 正しい。仰々しく表現しているように思えても社長の言い分は事実だ。後に多くのマスメディアが取り上げたことにより、俺も含め“彼”の登場から消失まではこの業界に居ればほとんどの人間が知っている。
 パリ、ミラノと来て、それからも数ヶ月に一度のペースで数多のコンテストに“Emperor.I”は参加し続けた。主にヨーロッパを中心に活動していたものの、時にはアメリカやオセアニア、アジア、日本にまで作品を送ったと言う。勿論、活動と言ってもただひたすらコンテスト本部にデザインを送り付けるだけであり、販売など以ての外、一般への公開すらしていなかった。稀にコンテスト主宰の意向により展示会が開かれた際にのみ“彼”の作品を一般人は見ることができ、あとはホームページにその画像が載せられていたくらいである。
 オートクチュールからリアルクローズまで、“彼”の感性は今までの流行に囚われない。独自のイマジネーションを駆使して創作を繰り返し、素材もパターンも全てにおいて完璧なまでにハイセンスだった。そして何より業界を震撼させたことと言えば、“Emperor.I”が名を馳せるようになって一年強が経った頃――ついには服のデザインだけに留まらなくなった実力だろう。
「シューズコンテスト、バッグコンテスト、ジュエリーコンテスト、他にもファッションに関するいろいろなデザイン部門に名を見せるようになりました。どうしても作品のプレゼンが必要となる本選会場には一度たりとも足を運びませんでしたが……“Emperor.I”に不可能なデザインは無いと、ニューヨーク・タイムズの見出しに掲げられたほどに」
 最早、敵う者はいない。最強だ、天才だ、と畏怖された存在。
 賞を手にしたことはなくとも誰もがそれを悟り始め、一方ではたった一人の応募者に打ちのめされたデザイナーが業界に溢れ返った。ブランドを持つプロデザイナーさえもが“Emperor.I”に勝とうと躍起になったが、最優秀賞を手にしたって、とても彼に勝るデザインなど考えられなかったのである。そうして陰で消えていったプロは多く、自分の身近にも、また一人。
(俺の母親が、そうだった……)
 天才が初めてパリに出没した七年前の春から、三年前の同じ時期までの約四年間。所在も、本名も、顔も、声も、姿も、何一つとして露わにせず、調査した誰もが辿り着けなかった“Emperor.I”には様々な通り名が付いた。「正体不明の神童デザイナー」や「稀代のアーティスト」に始まり、恵まれ過ぎた才能を称えて「キセキ」と呼ぶ人間まで。そしていつしか、全部が全部謎に包まれたミステリアスさと完璧を具現化したような作品の数々から、こう謳われるようになったのだ。
 ファッション業界に、この世界に、刺激と高みを残していったデザイナー。


『ミスターパーフェクト』


 俺が“彼”と呼んでいるのは単に“ミスター”が由来であり、実際は“Emperor.I”が男なのか女なのかも定かではない。
「三年前に突如姿を消したエンペラー・アイはそれ以来、一回もコンテストに出場していません。最後までその姿を見た者は居なかった」
「……ああ、そうだな。僕がロスへ行った頃にはもうほとんどタブーだったよ。無残にも敗北し、自滅していった幾百のデザイナー達の為に」
 “彼”が居なくなってから、度を過ぎた才能を恐れた人々はまるでそんな時代がなかったかのように揃って口を閉ざした。幅広いジャンルと感性から見て“Emperor.I”は一人なのではなく複数人で構成されているのでは、などと膨れ上がった噂も一掃され、今や暗黙の了解として話題に挙げる方が珍しい。だから桃っちが昨日、俺に電話で告げた時に驚くほかなかったのだ。
 消えた理由はわかっていない。どこかできちんとプロに転向して今も活動していることを信じている人も居るだろうし、寧ろ業界どころかこの世から居なくなったんじゃ、と不謹慎な発言をする奴も中には居る。
「……赤司さん。私はこの数日間、あなたと“Emperor.I”について隅々まで調べました。その上で初めに言った通り、これは私個人の見解であり……半分は、憶測です。けれどどうか正直にお答え下さい」
 こんな話の方向になってしまった以上、本当は自分からも言いたいことや聞きたいことがたくさんあった。俺は過去に一度だけ、“Emperor.I”のデザインした衣装をこの目に焼き付けた経験があるのだ。その瞬間に受けた衝撃は今でも鮮明に思い出せる。色褪せるわけがない。“彼”は自分の中でとても偉大な存在で、大切な記憶で、きっと、あの日が来なければ俺はこうしてモデルとして働くことさえなかったのだから。
 桃っちはエンペラー・アイに繋がる確証に近いものを見つけたと言っていたが、恐らくそれはまだ口にしていない。彼女が何を発見したのか俺には知り得ない範囲だ。けれど確証もなくして社長と“彼”を結び付けるのはあまりに強引だろう。そんなことはわかっているのに、どうしてか彼女の主張が辻褄の合わないでたらめだとは思えなかった。
 昨晩自分が眠りに落ちる前、静かに考えながら過った二つのシルエットが重なり合う感覚。この脳裏に浮かんだ想像図は、マネージャーが尋ねようとしている見解と至極似ていた。
「赤司さん、」桃っちはもう一度呼び掛ける。いつも通りネクタイを締め、足を組み、毅然と座っている目の前の社長が今何を考えているのかなどわかりようもない。向こうはこちらの思考なんていとも容易く見抜いているのだろうに、悔しいことに俺にはそれができない。だからこそ知りたいんだ。
――もしもこれが事実ならば、業界を振盪させるような出来事に違いはない。
「全米に名を馳せる著名なクリエイター『赤司征十郎』と、全欧を中心に活動した謎のデザイナー『Emperor.I』は――」

 社長と、“彼”は。

「同一人物ではありませんか?」



2013.09.29
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