ちょっと気になっただけだったんだ。真剣に仕事ばかりしている割にプライベートとなれば様々な表情を見せてくれるものだから、もう少し関わってみるのもアリかもしれないと、そんな軽い気持ちであの人に会おうと思った。
 けれどそれらしい理由もなく唐突に訪ねるのはおかしい。何の用だと言われて答えられないような事態はさすがに避けたいし、実際そこまで仲が良いかと聞かれれば首を横に振る。何せ知り合ってまだ一ヶ月も経っていないわけだ。それもビジネスの上でたまたま顔を合わす機会があったというくらいであり、いろいろすっ飛ばして寝てしまったせいで距離感を掴み損ねている部分もある。
 彼の中で自分が仕事だけの付き合いなのか友人程度には昇格しているのか、それとももしかして、もっと別の対象なのか――会えば何かわかるかもしれない。社長を抱いた翌朝からなんとなく考えていたことだった。だからもう一度、今度は完全なプライベートとして会う為の口実が必要で、二つだけ細工をした。
 一つ目は行き先だ。連れて行きたい場所があると言えば格好はつく。が、予め選んでおいた目的地へは結局向かわなかった。あんなに疲れ切った様子では無理もないだろう。本人からはちゃんと休んでるだの気にしなくていいだの反論を返されたが俺は聞く耳を持たず、家に帰って寝るように言い付けるしかなかった。毎日毎日多忙すぎるのは体に悪い。
 まあ行き先なんてそんなに大層なものではないし、社長が暇な時(があるとは思えないが)にでも再び車を走らせればいい話だ。――というところまで考えて、既に『また会おう』と思っている自分に気が付き、内心で頭を抱える。
「……あー……」
 自宅の扉を勢いよく閉めている後ろ姿を遠目に見送り、車内に一人のみとなったところで盛大に溜息を吐き出した。運転席の背もたれに深く寄り掛かって項垂れる。
 距離を探ろうとしてあくまで全て冗談だと言う風に約一時間半を過ごしたというのに、最後の最後でやらかした。あれは笑えない。ほとんど無意識のうちに手と口が動いていたせいで我に返った今、自分でもわけがわからず、心なしか首から上が熱いことなど信じたくなかった。
「何してんだ俺……」
 手の甲にキスなんて女の子相手にもやったことねーよ。


Mr.Perfect / Scene 02 - C part


 なぜ口づけたのか特に確固とした理由があったわけではなく、強いて言うならただしたかったから、程度のものであるのが今になって恥ずかしく思えた。あんなに簡単に自制が外れてしまったことに驚きを隠せない。したかったからって何だ? 恋愛経験はそれなりに豊富だが直情的に行動を起こすことは嫌っていたはずだろう。常に頭の中で次の次の次くらいまでは手順を構想してからでないとこの手足は動かない、自分が経験してきた恋はそういうものばかりだったのだから。
 それがどうだ。脈絡のないキスに当然向こうもびっくりしたようで、俺と一瞬視線を合わせて間もなく無言で手を離されてしまった。夜の暗さではっきりと表情はわからなかったが、けれど逃げるように帰ってくれたのは寧ろ好都合だった。俺だってあの後、彼が離してくれなかったら。
(……何をするつもりだったんだ……)
 もしくは何を言うつもりだったのか。おやすみと告げた後のことを全く考えていなかった。そもそも社長がいきなり右手を握ってきたからそれに応えたのであってと、今更な言い訳を胸中でしなければ平常心を保っていられないほどには調子がおかしい、熱もおかしい。名残惜しそうに触れてきたあの人の行動が、もしも“帰りたくない”という意志表示だったなら――自惚れと深読みが交錯する。帰さなかったかもしれないな、と瞼を伏せて思った。
 社長との距離を改める為に会いに行ったはずが、自分で縮めようとしていることに最早笑うしかない。下心がなかったと言い切れないなんて。
 もう一度アパートの方を見やれば彼の部屋の明かりがちょうど点いたところだった。二階の電気はどこも消えている。これ以上ここに留まっていると信じたくない方向へ思考が進んでいってしまいそうで、理性を失うことを恐れた俺は早々に帰ろうとした。が、同時に思い至る。明日の予定に変更があるとマネージャーに伝えなければ。
 先ほどポケットに仕舞ったばかりのスマホを再度取り出し、着信履歴から桃っちの番号を選択する。しかし遅くなる前に連絡した方がいいだろうと判断したのだが、珍しく五回コールを経ても反応はなく留守番電話サービスにも繋がらない。腕時計に視線を落とすもののまだ十時だ。この時間に電話してもいつもはすぐ出るのになあ、と天井を見上げつつも、これではまた掛け直した方がいいだろう。
 そして耳元からスマホを離そうとした瞬間、コールが途絶えた。こちらから切ったわけではない。
『……きーちゃん?』
「あっ、桃っち! 遅くにごめん、寝てた?」
『ううん、大丈夫だよ』
 はっきりとそう答える声は確かに寝起きではないようだ。『どうかした?』と続けられ、単刀直入に本題に入った。
「明日なんスけど、撮影終わってからちょっと時間取ることって大丈夫っスよね?」
 言いながら鞄からスケジュール帳を出し、四月のページを開く。今月は比較的みっちりと予定が詰まれているがたまたま今日はオフの日だった為に、彼女とは顔を合わせていない。
『明日は終了予定が十時だけど……』
「それからでいいって。なんか社長が話あるみたいで」
『社長? 事務所に戻るってこと?』
「あ、ごめんそっちの社長じゃなくて、帝光出版の方」
 名前を出さなければそう受け取って当然だろう、電話口に向かって慌てて言い直す。
『……赤司さん?』
 うん、と相槌を打つ。が、その時、少し引っ掛かった。
 自分達と直接関わりを持った出版社の社長と言えば一人しかいないけれど、何故か桃っちはその名を出すことを躊躇ったように感じたのだ。僅かな沈黙。それが表す彼女の変化に俺は疑問符を浮かべた。初めはこの間の飲み会の件が原因かと思ったが、恐らく違う。一瞬、桃っちの声色が鋭くなったことを考えれば。
「用件はまだ聞いてないっス。でもすぐに済ますって……あ、あと今日は事務所行ってないよね、桃っち」
『行ってないわ』
「じゃあ明日、撮影前にちょっと寄っていかないスか? 『TiPOFF』の通知来てるらしいから」
 歩道に横付けしている自分の車の隣を一台のタクシーが通り過ぎる。その様子を横目に伝えると、桃っちは楽しみだねと一言。彼女は嘘を口にしない。心底楽しみにしているということは、ほとんど結果などわかっているのだろう。これから忙しくなるだろうな、と嬉しい悩みに笑みを零した。
 そうして明日の予定について最終確認を取り、十一時に事務所で待ち合わせるということに。しかし『じゃあ、』と早々に電話を切ろうとした相手に、やはり違和感を覚える。
 ただの勘違いなら構わないが――。
「桃っち、何かあった?」
 何年もビジネスパートナーをやっていて、遠慮はない。寧ろ仕事上で一人で抱え込むような隠し事は出来る限りしてほしくなかった。通話を終わらせる前にきっぱりと尋ねると、小さく息を呑む音が耳に届く。
『そんなきーちゃんが心配するようなことは……』
「って言う時は何かある時。何年一緒に居ると思ってんスか、八年っスよ八年」
『そうだね。……わかりやすかったかな、私』
「いや? でも声の感じとか、ちょっと疲れてるみたいだし」
 とは言うものの、実際は社長の名を告げた際の数秒の静寂とトーンの下がった声色がきっかけだった。消化し切れていない、もしくは煮え切らない何かを桃っちは抱えている。一昨日会った時はそんなことなかったはずだが、疲労が溜まっているだけとは思えなかった。もし本当にそうならばこの時間こそまさに睡眠を取っていたことだろう。
 しかし思いのほか言い淀んでいる態度にこれ以上の催促をする気にはなれず、口を噤む。そして向こうのタイミングを待って黙っていると、あのね、とゆっくりと話を切り出された。『――少し調べ事をしてたの』いかにも桃っちらしい一言に相槌を打つと同時に、視界の端に映っていた社長の部屋の電気が消える。シャワーを浴びずに寝たのだろうか。
『それで……、』
 落ち着いた彼女の声はよく響くが、俺に話すつもりは毛頭なかったのだろう。とても言いにくそうだ。おかげでどれだけ深刻な内容なのかと少し身構えたのは、正解だったかもしれない。何の心の準備もなしに次の一言を聞くことは憚られる。
 一つ息を吸って、きーちゃん、と呼びかけた桃っちは躊躇いがちにこう紡いだ。

『……“Emperor.I”って、覚えてる?』


 ◆


 およそ黄瀬の言葉は間違っていなかったのだろう。昨日は頭の中が困惑して眠れないかと思ったが、布団に入るとそんなことはなかった。驚くほどあっさりと寝てしまい、気付けば朝の五時半だ。どちらかと言えば眠りの浅い自分にしては珍しい。ちゃんとホテルでも休息は取っていたし特に体力的に悲鳴を上げているなんてことはなかったつもりが、思った以上に疲労は溜まっていたようだった。その点は黄瀬に感謝しようと思う。
 体を起こしてまずはカーテンを開け、ちょうど昇り始めた朝日に目を眇める。天気予報によると明日の朝から雨らしい。洗濯物をいつ片付けようか考えつつ玄関の郵便受けから新聞を取り出し、テーブルの上に放って浴室へ向かった。
 帰ってきてからは酷く脱力してしまい何もする気が起きなかった。おかげで風呂にも入らず就寝した為、会社へ行く前にシャワーを浴びなければならない。その前にあれだ。一歩足を踏み入れ、きょろきょろと視線を動かして目的のものを探す。すると脱衣所の棚の上、この三日間置き去りにされていたらしい宝飾が目に入った。
「あった……」
――K18ゴールドを使用したスタッドピアス。昨夜はこれを探してほしいと頼まれる為に彼に会ったのだ。アパートに泊まったあの日に黄瀬が忘れていったと言う、小さなピアスを手に取ってまじまじと見詰める。とりあえず発見できてよかったと胸を撫で下ろしながら。
 ファッションを邪魔しないシンプルな形は好印象で、いかにも黄瀬が選びそうなものだと思った。あの男は意外にも、私服においてはカットソーやジーンズなどすっきりとしたタイプを好んでいる。もちろん街中では目立たないようにという配慮もその理由の一つだろうが、ワンポイントのアクセントや単色あるいはバイカラーで惹き付けるコーディネートを無意識のうちに選択していることが多いのだ。似合っているのだから文句もないが。
 だからこそ、こういった細かい部分まで拘ることは知っていたから尚のこと、中心に埋められた宝石を凝視して僕は眉を顰めた。
(……キュービックジルコニア……?)
 きらきらと不必要なまでに輝きを放っている石はどう見てもそれであり、少し予想外で目を丸くする。せっかく美しいフォルムなのに勿体ない。――そう思った途端、一つの考えが脳裏に浮かんだ。そこからは簡単だ。僕の座右の銘は迅速果断、一度決めたことはすぐに実行する。
 昨日の夜はしてやられてばかりだったからな、と既に頭はその方向で動き始めていて、ピアスを返さなければならない今夜までに行動に移そうと決意した。やられたら倍返しだなんて何もそこまで大層な話じゃない。ちょっと細工をしてやるだけだ。
 あくまで忘れた『ことになっている』彼のピアスを手にした僕は、僅かな悪戯心を抱えて口角を上げた。


 かん、かん、と乾いた靴音が響く中、アパートの階段を上っていく。自分の部屋のちょうど真上、二〇三号室。風呂に入って髪も乾かし、いつもと同じく黒のスーツを身に纏いその一室を目指した。ドアに取り付けられた郵便受けには新聞や広告がぎゅうぎゅうに挟まっていて、暫く放置されている様子に溜息をつく。しかし構わず、青峰と記された表札の下にあるインターホンを一度だけ押した。
――応答はない。また仕事でどこかへ行っているのだろうかと考えたが、夜よりは朝の方が居るはずだ。二回、三回、懲りずにインターホンを鳴らし、それでも静まり返った空間に諦めて踵を返そうとした時だった。がちゃりと鍵の開く音。
「はーい……こんな時間に誰だよ……」
 どうやらまさに寝起きらしい。ぼさぼさの青い髪を掻きながら姿を現した彼は、ジャージに白いTシャツを着て欠伸をしている。が、こちらを見るなり瞠目したようだ。少しは目が覚めただろうか。
 赤司、と驚いたように名を呟かれた。
「おはよう。久しぶりだな」
「ひ、久しぶり……って今何時だと思ってんだ! 朝の六時に人んち来るとかありえねーぞ!」
「六時半だ。それは悪いと思ってるが、昼に訪ねても夜に訪ねても居ないじゃないか、お前」
「当たり前だろ……。そんな暇じゃねんだよ」
「僕だって暇じゃない」
 直に言葉を交わしたのは数年ぶりだけれど、二人の間にぎこちない空気が流れることもない。ちょっと上がらせてもらうぞ、と言うが早いか大輝の横をくぐるようにして中へ足を踏み入れた。真上に構築されている為に僕の部屋と造りは同じだ。おい! と後ろから怒鳴り声が聞こえてくるが、彼の言い分は全て無視して靴を脱ぐ。
「まだいいって言ってねえだろ! ……ったく、勝手にずかずかと……」
 出会って十年という年月を重ねれば遠慮なんて必要としないわけだ。向こうもそれ以上は僕を咎めず、郵便受けに挟まった新聞を引き抜く音が背後で聞こえた。
 部屋に上がるととても暗く感じ、開けてないカーテンが原因か、と思い至る。紺色のそれをシャッと開けると同時、玄関の鍵を閉めた大輝が「何しに来たんだよ」と言った。もちろん、目的がないわけではない。
「ちょっと弁解しに」
 振り返ってにこりと笑えば、彼は眉根を寄せて聞き返す。
「はぁ……? 弁解?」
「放浪癖があるだなんてテツヤに言ったそうじゃないか」
 つい先日まで全国を転々としていた為か、主の不在だった部屋はこちらの予想を反して散らかることもなく綺麗なままだ。必要のないものは置いていないのだろうし、家具も最低限に収めて整頓されている。が、二人掛けのソファーに腰掛けた際にたまたま目に入った、床に放置されているAVについては感心しない。不快なパッケージを視界に映すのが嫌で足先で机の下に追いやった。
「あ、てめ、蹴んなよ」
「相変わらずの悪趣味さで安心した。こんなものが放ってある部屋に女性を連れ込むなよ」
「余計なお世話だ。つーか俺は至って普通だから。少なくとも両刀の誰かさんよりはな」
 嫌味を口にすればわざとらしくそう返され、しらばくれるように話を元に戻す。「この間、テツヤと会ったんだってね」と。言ってから、白を切るのではなく今は違うとでも否定しておけばよかったと後悔した。ここ数年のことはお互い知らないのだから。
 僕の一言に頷いた大輝は台所から買い置きしていたらしいパンをいくつか取り出し、朝食について尋ねてくる。もう済ませた、と答えると今度はコーヒーか麦茶か選ぶように言われ、後者を選択した。コーヒーは暫く見たくない。
「緑間にも久々に会ったぜ。あいつ全然変わんねーのな」
 シンクの横で注文通り麦茶をコップに注ぎながら大輝は笑っている。
「変わらない?」
「おは朝信者」
「それは彼のアイデンティティだろう。社内じゃデスクの上に常におしるこの缶も置いてあるよ」
「マジで……」
「だから休憩室の自販機を変えたんだ、今年の春に。前までおしるこがなかったみたいでね」
「あ、それアレだろ。『TiPOFF』の副編集長になる代わりの条件」
「なんで知ってるんだ」
 確信を持って告げられた台詞に驚いて顔を上げる。が、真太郎と話したと言われたばかりだろう、情報の出所など一つしかない。まったく、テツヤも真太郎も友人に対してはつくづく口の緩い男だと思った。本来ならば『TiPOFF』の存在自体まだ、出版業界に身を置かない彼が知っていていいような話ではないのだ。数年ぶりの再会ということで今回ばかりは大目に見てあげるが。
 隠し通すほどの内容でもないと判断し、足を組んでその条件について口を開いた。
「そう、真太郎をこっちに引っ張ってくる為に、向こうが提示した条件をいくつか呑んだんだよ」
 そこで一度だけ咳払いをする。
「一つ目は今のやつ、休憩室の自販機をおしるこが入っているものに変えること。これは前々から各方面で希望があったみたいで案外簡単だった。何せ前の自販機を取り付けたのは創設当時だ、ほとんど壊れかけだったしね。二つ目はもしも『TiPOFF』が失敗したら即座に元居た編集部に自分を戻すこと。まあ当然だろうな。三つ目は以前より三割五分給与を引き上げること。副編という待遇を受け入れてくれるならそれくらいは容易い。そして四つ目、」
「お前が勝手にどこかへ行かないこと」
 ことん、と眼前の木製テーブルにガラスコップを置きながら遮られ、反射的に息を飲み込む。瞼を持ち上げると向かいの絨毯に腰を下ろした大輝が、朝食用のパンを開封しながら僕の方を見た。
「四つ目の条件を一番渋ったんだって? 赤司」
 隠し通すも何も全て筒抜けのようだ。自分で嵌まった沈黙に耐え兼ね、早速相手が用意してくれたコップを手に持つ。そしてきんきんに冷えた麦茶を口内に少量運び、窓の外へと瞳だけを動かした。
「……彼はいつからそんなお喋り上手になったのかな」
「酒飲ませたから、半ば無理矢理」
「ああ、それでこの間すこぶる機嫌が悪かったのか。まさか二日酔いをしたとは信じられなかったんだろう。真太郎は普段飲みに行ったりしないし、」
「話逸れてるぜ。弁解はどうしたんだよ」
 間髪を容れずに一言。こちらの意図をわかり切った上でそんな風に言ってくるのだから厄介だ。眉根を寄せて内心で舌打ちをした僕は、何食わぬ顔でカレーパンを頬張っている大輝に目をやりながら同僚の言葉を少し恨めしく思う。やっぱり酒を飲んでいいことなどない。
 コップをテーブルに戻し、どう切り出そうか考えた。冗談を交えて誤魔化したところで納得はしてくれないのだろう。彼は僕の出方を図っているのだ。
 求めている返答などとうに悟っていた為に、すまなかった、と正直に口にするほかなかった。
「……三年前、何も言わずに出て行って」
 少しも罪悪感がなかったわけではない。自覚もある。彼らに迷惑を掛けたことは重々理解している上で謝ると、大輝は大袈裟なまでに溜息を吐き出した。そんな反応をされたってこれ以外に言い方はないだろうと思ったが。
「お前それ六年前も言ったからな。ちなみに『もう勝手には行かないよ』って付けて。その三年後にまたどっか消えたけど」
「だから……二回目は仕事で」
「一回目は? いきなり高校辞めてパリだっけ?」
「……悪かったよ」
「緑間が前科二犯の謝罪など信じられんってすげー怒ってた。テツも」
 前科二犯か。酷い言われ様だと胸中で苦笑した。
 それからどちらともなく黙ってしまったが、喋りながらもカレーパンを食べ進めていた大輝は最後の一口を飲み込み、視線を合わせて僕に尋ねる。
「……なんで認めてやらなかったんだよ。最後の条件」
 その目に宿っているのは憤りか不信感か、恐らく両方だろう。認めなかったわけじゃない。そう返すと、一際眉間に皺が寄る。
「ただ、それは約束できないと言ったんだ」
 火に油を注ぐだけとわかっていても真実を伝えた方が良い気がした。
「約束できねえって……また海外に行くのか?」
「場合によってはな。父が復帰をすれば僕が帝光出版に留まる必要もないのだから」
「漸くお前と一緒に仕事ができるようになって喜んでるテツに何て言うつもりだよ」
「他人を気にして生き残れる世界じゃない。大輝だってそうだろ」
「俺は別に、」
「イリス・ヴィラージュからスカウトが来ていたはずだ」
――なぜ断った? 
「っ……」
 鋭く指摘すれば彼は目を見張って言葉に詰まっていた。触れないでほしい内容であることは知っていたからこそ話題に上げるなんて、自分もつくづく性格が悪いと思わざるを得ない。そして一方では僕がその話をどこで聞いたのか疑問に感じているようだったが、尋ねるまでもなく気付いたらしい。
「……そういやお前、パリに居た時はそこに世話になってたんだっけか」
 中身のなくなったパンの袋を丸めながら大輝は立ち上がり、台所へと足を進める。それには答えずに黙っていると、シンク下の収納スペースに入れられたダストボックスとビニール袋の掠れる音が響いた。
「決心がつかなかったんだよ」
 同時に掻き消されてしまいそうなほど小さく呟かれた一言は紛れもない本心なのだろう。麦茶に口を付けつつ彼の言葉に耳を傾ける。大輝なりの考えがあることなど当然わかっていて、ともすれば最初から責めるつもりはない。
「実際日本でも十分食っていけるからさ、この仕事。お前とか、上の奴らは海外海外って言うけど……別に今のままで不満があるわけじゃねーし、そもそも英語もできねーし、って思ったら気分が乗らなかった。そんだけ」
 淡々と話して完結させてしまっている。しかしいかにも彼らしい理由だった。大手からのせっかくの誘いを断る行為は普通ならば考えられないが、目指す意志に欠けた状態で本場へ踏み入るのは逆に危険だ。自滅しかねない。何より、彼ほどの能力があればいくらでも海を渡れるチャンスはあるだろう。
 時機を待った方がいいかもしれない、そう感じた。
「そうか、今の居場所を気に入ってるなら仕方ないな。でもまぁここで十分食べていけるなんて大声では言わない方がいい。そんなのは才能に恵まれた一握りの人間だけだよ」
「わかってるっつーの。ほら用が終わったんならとっとと帰れ」
「ああ……そろそろ行かないと。仕事前に寄りたい場所もあるし」
 麦茶を全て飲み干してソファーを離れ、脇に置いていた鞄を持つ。「こんなに早くかよ」七時台になったばかりだというのにまだ行き先があるのかと言いたげな表情をされ、口角を上げて返答した。
「ちょっと、知人の宝飾店にね」
 鞄の底に眠っている例のピアスを思い浮かべながら。
「宝飾店? まだ開いてなくね?」
「個人的な用件なんだ。麦茶ご馳走様、暇ができたら今度僕にも何か奢ってくれ」
「ふざけんな」
 玄関に向かいながら笑い掛けると一刀両断されてしまった。当然奢られたことなどないけれど、いつかゆっくりと食事でもしたいとは思っている。
 そして靴を履いて振り返り、律儀に見送ってくれる大輝の双眸と視線を交差させて最後に一つだけ告げた。
「大輝、今じゃなくてもいい。だがイリス・ヴィラージュのことは真面目に考えろ。……近頃、新しい精鋭を集めているようだからな」
 僕の台詞に「……新しい精鋭?」と首を傾げられたが、現状では当然の反応だろう。自分の頭の中では二人の――否、現在日本に居ない人間も含め四人の男の姿が浮かんでいたが、それが本当に上手く成立するかはまだわからない。しかしもしも彼らが一つの舞台に集合する日が来たら、その時は――。



NEXT
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -