十歳の誕生日を迎えた年まで、この国に生まれた運命を呪ったことはなかった。寧ろ幸福に感じていた。古くからの階級制社会であり裕福とは程遠い家庭であったものの、きちんと援助を受けられ、貧しい人間に対する世間の目は決して冷たくない。これと言った差別部落もなかった為に、赤司はごく普通に学校へ通い、両親の仕事を手伝い、時には友と隣町へ行って遊んだのだった。その友人達の中には富饒な親を持つ子供も多く、しかし公平に扱われていたのは少なからず赤司の才を認めていたからであった。
 物心がつき始めた頃より、彼は一際鋭い感性の持ち主だったのである。善悪、美醜の判断はもちろんのこと、人の機微に敏く理解力も高い。何より学問への興味は日に日に膨れ上がり、あらゆる分野において赤司の脳は長けていた。長期休暇の宿題という形式で提出した研究の出来がとても六歳児の手によって完成されたものとは思えないと賞された十三年前の夏、その翌年には世界平和を目指す論文が中央政府の目に留まった。九歳の時には自ら研究コンテストの出場を希望し、優秀な成績を収め、最早家庭環境など赤司にとっては何の妨げにもなっていなかった。それでも限られた養育費で学び舎へ通わせてくれた両親には感謝の気持ちを絶やさず、心も穏やかに成長していった。
 幸せな日々は続く。恵まれない生まれであっても神様はこの子に素晴らしい才能を与えてくれたと、赤司の親は我が子の成長ぶりを讃えてそう喜び合っただろう。巷では天才だと持て囃すような輩も少なくない。小さな家に飾られる賞状、トロフィー、赤司征十郎を国の俊才として受け入れそれら褒美を贈ったのは――王族だった。

「征十郎、……どうして」

 しかし十歳になって一ヶ月が経った日に、そんな暮らしは突然終わりを告げる。しんしんと雪が降り積もる寒い冬の朝。初めに異変を感じたきっかけは部屋のストーブが切られていたことであり、布団から出るなり肌がぶるりと震えた。その時点で両親は家に居ないのだと考えた。赤司の母親は昔から体が弱く、些細な温度の変化でもすぐに体調を崩してしまう。故に毎年、冬場は必ずストーブを使って温度調節を行っていたのだ。
 その電気ストーブが役割を果たしていないとなれば、絶対に母が家に居ることはない。そして普段あまり外へ出ることのない母親が出かける際には大抵父親も付き添っている。こんなに朝早くから二人でどこへ行ったのだろうかと、そう思いを巡らせながら、確認の為に広くもない家の中をぐるりと一周してみた。
 すると居るはずのない二つの人影は、玄関を覗いたところですぐに視界に入った。
「……母さん、父さん?」
 まだ声変わりの時期も訪れていないハイトーンの声が小さく零れる。靴を履き、今にも家を出て行こうとしていた両親の姿が彼の瞳には映されていた。幼い子供にとって大好きな親の背中というのは見るだけでほっとするものであり、一人であるという僅かな不安や眠気さえもいっきに吹き飛んだ。
 ところが、おはよう、と背後から響く少年の声色に二人の親はびくりと肩を跳ねさせ、恐る恐る振り返る。そこで自分達に無垢な視線を向けていたのは、紛れもなく、今この瞬間だけは目の前に現れないでほしい我が子だった。
 赤司の挨拶に答えることなくその名を呟いた母親は、眉を寄せて表情を歪めさせる。どうして、と。
「どうして起きてきたの」
 震えた問いかけは切実さに溢れ、十歳になったばかりの子供は首を傾げた。質問の意味がわからない。――どうして?
「だってストーブついてなかったから、二人でどこかに行くんでしょ? いつ帰ってくるの?」
 火元の危険を考慮し、赤司が家に一人の時はストーブの電源を切っている。その間は毛布にくるまって本を読んだり字を書いたり、とにかく勉学に励み、両親が帰宅する瞬間まで耐える術を彼は知っていた。今回も、そうだろうと思ったのだ。昼過ぎか、夕方か、二人が帰ってきたらストーブを付けて暖かな団欒が始まる。そして一人でもずっと勉強していた自分を褒めてくれる。己の誕生日である季節だとしても寒気の漂う冬は好いていなかったが、その楽しみがあれば赤司は辛抱強く待つことができた。
 とは言え中身は所詮十歳の子だ。少しでも寂しさを濁す為に帰りの時間を聞いておきたい気持ちはあって当然である。ぱたぱたと近寄って見上げるが、両親は揃って口を閉ざしたまま、何も答えない。
「……母さん? な、んで、泣いてるの……」
 それどころか母親の両眼からはぽたりぽたりと止め処なく涙が零れ始め、突然の変化に赤司は目を見張った。驚いて呆然としていると感情が昂った彼女は足元がふらつき、咄嗟に父親がその細い肩を支える。
「え……?」
 大らかで優しく、愛しい我が子の前では必ず笑顔を絶やさなかった母が嗚咽を漏らしている。隣に立っている父も常に真正面から人と向き合って真摯に接することを望む人間であるというのに、今、自分の子供と決して視線を合わせようとしない。
 目をしばたたかせる。何か異常事態が起こっていることは、明らかだった。
「っ……征十郎、ごめんね、寒いね」
 膝を折って赤司の目線に高さを揃えた母親が、必死に涙声を抑えながら言う。大丈夫だよと赤司が返せば、母親は両手を伸ばして抱擁した。そしてまだ何も知らない小さな背中を温めるように右手でさする。しかし赤司は、自分の耳元で鼻を啜る母親の体が冷え切っている方が、よっぽど心配だった。
 同時に気付いてしまったのだ。今まで二人の影になって見えていなかったが、両親の真後ろ、足元に置かれた二袋の大きな大きな荷物を。とても半日だけ出かける為に必要な量ではなかった。思えば母親も父親も、コートやマフラーを着込み、手袋を嵌め、帽子まで被っている。防寒対策と言っても近くの店並びや市街地まで赴く格好にしては些か重すぎる。
 そこで今まで褒め称えられてきた赤司の物分かりの良さ、加えて勘の鋭さが仇となった。置かれた状況をそれとなく把握するには十分な現状と言えよう。何より彼は生まれながらにして貧困層の育ちであり、いくら学を認められ上流階級の人間との交流があったとしても、貧しい人間が辿る最悪な末路をその目で幾度か見てきたのである。
 七歳の時に世界平和について意見を書くべくいろいろな書物を読んだ。記憶に残っている。上に立つ人間が国民を踏み潰すことなど他愛なく、彼らが僅か一つの言葉を発しただけでいとも容易く人の生活は崩れるのだと。そしてそれは極めて、貧困層に多く見受けられる傾向なのだと。
――生活もままならない。その現実を突き付けられた瞬間、貧しい人々は何かしらの対処を取る。
 さもなくば、死んでしまうからだ。
「……オレ、何してればいい?」
 赤司はやつれた腕に抱き締められたまま、明瞭な声色を以てして質問を変えた。
「母さんと父さんが出かけてる間、ちゃんと留守番してるよ。何すればいい? 勉強? 研究? あ、洗濯とか? 何でも言っていいよ。……ちゃんと、最後まで、いい子でいるから」
 こういう時は泣き喚いて行かないでと叫ぶべきなのか赤司は考えた。しかし彼は生まれてこの方、一度として、両親に我儘を言ったことがない。言う術を知らない子供だった。どんな困難でもどんな苦境でも歯を食い縛って耐え、その地に足を付けていたのだ。
 我儘の通し方はわからない。反抗期などやってくるわけもない。家族以外を一等愛するやり方も覚えていなければ、天才としてではなく一人の人間として誰かに特別愛されたこともない――幼い子供だ。正しい生き方なんてどこで学べと言うのか。
 その子供に、運命を呪うような厳しい試練を与えるほか、二人の親に残された道はなかった。
「征十郎……母さん達ね、少し遠いところへ行ってくるわ。その間、絶対、体を冷やしたら駄目よ」
「うん」
「勉強もほどほどにね。夜はしっかり寝て、毎日、朝日が昇る頃に起きなさい。いい? 何があっても、必ず起きるのよ」
「うん」
「食べ物や水が足りなくなったら、ご近所に借りるの。そして恩恵を受けたら働いて返すのよ。借りっぱなしは駄目。大丈夫、征十郎ならできるわ」
「……うん」
 母親は目尻に涙を浮かべながらも、息子の顔を正面から覗き込み、一つ一つ諭すように続けた。
「天文の学習はもうした?」
「……自分でやった」
「そう。じゃあ、時間や方角は太陽と月と星の位置を見ればわかるでしょう。明日の天気も予測がつくはずよ。手を伸ばして、両足で踏ん張って、強く、賢く、頭を使って生きなさい。お金がないからわからないなんてこと、この世界には一つもない」
「わかった」
 力強く頷きを返した赤司はほとんど全ての現実を把握しているのだろうと、それは一体喜ばしいことなのか親にもわからない。何も知らないまま置いていった方が良かったのではないか。そんな後悔もこの敏い子の前では意味を成さなかった。
 母親は唇を戦慄かせつつも美しく微笑み、もう一度、先ほどよりも腕に力を込めて息子を抱き締めた。ごめんね、と悲痛な響きが赤司の耳に届く。
「――こんなはずじゃなかったのよ」
 訴えるような一言が胸に重く圧し掛かった。酷く苦しそうな声で、そこに純粋な愛情は見られない。寧ろどうしてか憤っているように思えた。自分達をこうさせた、幸福だった家庭を崩壊させた『何か』への恨みが母親の根底にはあったに違いないのである。それは憎悪か――赤司にはまだ知り得ない感情だ。
 頭では理解しても現実味が湧いているわけではない。言葉を返せぬまま母が泣き止むのを待っていると、不意に頭をぐしゃりと撫でられた。ごつごつとした大きな手の平が自分の頭を撫でるこの感触を彼はよく知っている。緩まない抱擁のせいで顔を上げるのも難しかったが、視線を上に向けると、一言も喋ろうとしなかった父親が「……本当にすまない」とだけ告げた。窓から差し込む柔らかな朝日のせいで表情が白く掻き消されてしまい、はっきりとは見えなかったものの、父の頬にも透明な雫が伝っているように映った。
 何故、大好きな両親がどちらも泣いているのだろう。
 何故、こうなってしまったのだろう。
 何故。
――何故だ?
「母さん、父さん……」
「征十郎」
 一生の別れなどとは思いたくなかった。心のどこかでは夢を見ていた。しかし世間の全てを知らない幼子の淡い期待は、頭から感触が消えた父親の手の平と共に離れて行く。
「征十郎。必ず、必ず迎えに来る」
「……だから、それまで、どうか……」

――生きて。


 二人がどこか遠くへ行っている間、自分がしなければならないことはその一つしかないようだった。両親が家から去っていってすぐ、まずはストーブの電源を付けに行った。振り返ることなく雪道を歩き、次第に遠くなる二つの背中を追いかけもせず。赤司の中で、自分もついていきたいなんて考えは少しも過らなかったのだ。やはりそれも親に我儘を言ってはならない先入観が原因だっただろう。体を冷やさないようにという言い付け通り、躊躇わずストーブを付けようとする。今まで一人で居る間は毛布を使用するだけだった彼が自ら電源に手を掛けたのはその時が初めてだった。
 しかしストーブは全く動かない。かち、かち、と電源を入れる音が空しく響くだけであり、そこに火はなかった。天井を見上げる。すると漸く明かりが灯っていないことに気付き、今度は部屋の電気を点けようとした。
(……点かないな……)
 きょろきょろと辺りを見渡し、他にも家にある電機製品の一切に触れてみる。ところが何一つとしてそれらが機能する様子はなく、電気を止められているのだと、赤司はその小さな頭で簡単に理解していた。
 十年間生きてきてさすがにこれは初めてであり、ほんの少し放心した。明かりがなくては手元が見えず勉強ができない。だからこそ夜は寝ろと言われたことを理解したが、逆に言えば日が昇っている最中に何もかもを済ませなければならない。はっとなった赤司は、慌てて台所へ走った。
 血相を変えて蛇口を捻り、間もなくして流れ出てきた透明の水に胸を撫で下ろす。よかった……まだ水道は止められていない。そう安堵するのも束の間、無駄にはできないと思い咄嗟にきつく蛇口を閉めた。
 そして流水の音が途切れた瞬間、しんと静まり返った部屋に赤司は立ち尽くしていた。一人だ。どこを見ても、どこへ行っても、誰も居ない。こんなに小さな家を生まれて初めて広く感じた。ぺたりと裸足のまま一歩踏み出せば、床は冷たい。手がかじかむ。今までこうならなかったのは両親が働いて電気代を払っていたからであり、その二人を失っては成す術もなく、早くも途方に暮れそうだった。
 しかしそんな彼を支えたのはそれでも親を信じる心があったからだ。必ず迎えに来ると、だからそれまで生きてと、そう言われた。ならば生きて待つしかない。生活が苦しくなって養育に当てる金などなく、果ては家族を一人捨てなければならないという現状に苛まれてこんな結果になったのだとしても、赤司は母を、父を信じていた。
 顧みればいつからだっただろうか。父親が家にあまり帰らなくなり、帰ってきたかと思えば酷く疲れた様子で眠っていたのは。母親の頬がこけ、腕がやつれ、子供の前で笑うのが精一杯であるようになっていたのは。何も昨日今日で家計が厳しくなったわけではない。もう随分と前から、あれだけ必死に働いても我が子を二人の手で育てることにさえ限界を感じていたのだった。非情だと疎まれるかもしれないが、彼らも自分達が生きて行く為にはこうするしかなかった。
 それぞれの涙で事情を理解せざるを得なかった赤司は決して親を責めようとしない。代わりに決意した。冷え込む指先に力を込めて拳を握り締め、両足でしっかりと立ち、真っ直ぐに前を見据える。頼りない日差しが彼の真っ赤な左目を照らしたその瞬間、片方の瞳は透き通る黄金色へと変わった。
 強く賢く、頭を使って生きなさい。母親の言葉が脳裏に巡る。――お金がないからわからないなんてこと、この世界には一つもない。
 僕は生きる為に、生きるのだ。


 赤司の決心は固かったが、齢十にしてろくに働き方も知らないままこの世を生き抜くことは生易しい話ではない。故に、母の教えを何より参考にした。別れた日から一週間も経たないうちに水道は止まり、食べ物と水が足りなくなった赤司は早速近所の住民を頼ることにしたのである。その前に先日まで皆勤賞を狙って通っていた学校へ足を運んだが、もう自分はそこの生徒ではないと門前払いにされた。恐らく家を出る前日にでも学校に連絡はしていたのだろう。親に捨てられたなんて面倒な事情を抱えた子供の相手まではしてくれないらしい。
 そうして赤司の学校生活は終わった。これから学習は自力でしていかなければならないのか、と考えたが、その覚悟さえ甘かったのだとすぐに思い知らされた。勉強どころではなくなったのだ。親はいくらかの食糧を残していってくれたものの、二週間と少しで底を尽きてしまった為に赤司は働いた。今まで両親の手伝い以外で仕事をしたことはなく、最初は隣で営業しているパン屋の店員としてショーケースの奥に立った。その家は昔から赤司家と仲が良く、店主であるおじさんが事情を聞いてすぐに雇ってくれたのである。同情されたのだろうとは赤司自身わかっていた。
 日雇いの安い給料でなんとか食材を買った。しかし素材そのものを得たところで料理ができなければ食べられず、調理方法はパン屋のおばさんに教えてもらった。台所を借りられたのはその家だけだった為、結局、コンロが必要となるようなレシピは直に無駄になってしまうのだけれど。
 元々堅実で真面目な性格をしている赤司の働きぶりは目を見張るものであり、小さな町の中であの天才が親に捨てられたと多少噂にもなったが、それが影響して「うちでも働いてほしい」と人手不足の仕事場に呼ばれるほどとなった。十歳の春である。パン屋で学んだ接客を活かして花屋でもケーキ屋でも働いたし、農家の畑を耕したこともあるし、町役場の力仕事だっていろいろと任された。赤司はその全てにおいて言われた通りにこなし、手を抜かず、みるみるうちに評判は上がった。順調だった。両親の涙と言葉はずっと心に残り忘れられないでいたが、僕は一人でも生きていけるよ、大丈夫だよと、その思いを二人に届けたくて目を瞑る。
――ところが運命はどこまでも無情だった。
 赤司が生まれ育った町は階級社会の中でも下位を占める、貧困層だ。初めのうちは自分の家だけが上手くいかなかったのだと思っていたが、それは違った。次第に町全体の雰囲気が重くなり始めたのである。どの家庭からも笑顔が消え、皆一様に生活が苦しくなっていることは明らかだった。近所付き合いなどやってられない。
 赤司の両親が養育費を賄えなくなったように、今まで働いてきた職場の大人達も他人を雇う分だけの金を用意できなくなった。当然、給料が出せなければ雇用するわけにはいかないし、赤司も働く意味がない。隣のパン屋はいつだったか潰れ、紅葉が散り秋が終わる頃、彼は財源としていた仕事を全て失った。再び食べ物が無くなる。
 そして、赤司がまっとうに生きていた中で、最後に頼ったのは上流階級の人間だった。
 学校に通えていた時まで仲良くしていた上層の家へ向かい、頭を下げた。ただで食物をねだるような乞食紛いな真似はしない。恩恵を受けたら働いて返せという母親の言葉を胸に、必ず見合った分だけは働く、どんな雑用でも構わない、だから雇わせてもらえないかと交渉を持ち掛けた。――が、派手な服に身を包んだ上流階級の市民は、揃って赤司の懇願に目もくれなかった。
 一年前はあれだけ持て囃していた天才の子を蹴り返した貴族の豹変ぶりに呆然とする。何が起こったのか理解に手間取った。
(……なんで……)
 養えと言ってるわけじゃない。たった一人貧しい人間の話に耳を傾けることさえ厭うのかと、そう考えた瞬間、純真だった赤司の心に黒い墨がぽたりぽたりと垂れ落ちる。ついに初めて、上流階級という存在を憎く思った。
 市民の様子が一変してから町はあの日々の明るさも穏やかさもなくし、あっという間に廃れていく。生きる為に金を手に入れなければならなくなった必死な人間は善悪の判断さえ鈍り始めたのだった。食糧を奪い合い、暴力も躊躇わず、凶器を持ってでも何とか生きようとしたことがかえって命を落としてしまうような愚行。まるで共食いだと赤司は怯えた。中には貧困層の人間が憎悪から上流階級の家を傷つけたり、窃盗や詐欺も横行するほど町は荒れていった。
 そもそも何故こんな事態になっているのだろうか。以前は皆、もっと幸せだったのだ。自分を含め貧しい人々も金銭的に余裕があった日はないが、それでも家庭に笑顔が咲くくらいの生活は保たれていた。それがどうして一斉に窮乏してしまったのか、何かしらの原因があるはずだ。
 そう考えた赤司は隣町の図書館へ向かった。そこで新聞のバックナンバーを探し、ちょうど親と離れた昨冬の号を端から読み返していく。読めない漢字や理解できない単語は辞書を使って調べ上げ、世界中の現状を把握していった。いくら勤勉と言えど十になるまで今の政治や経済について詳しいほど悟っているわけではない。彼は久々に難解な書物を読んでいる気持ちになり、新聞の隅々までをその頭に覚えさせた。
 そうしているうちに探し求めていた国の現実を突き付ける記事を発見し、眉を顰めて長々しい文面を凝視する。記された内容は意外にもすぐに呑み込めた。
――約一年前、この国の政経体制は大きく変化していたらしい。まずは下流階級に与えていた扶助を一切廃止し、それによって浮いた経費を外交へ回す。加えて極端な増税。前触れのない決定であった。更に階級社会の明確な分類、区別を定め、上流階級には多くの権利が付与された。全て我が国の将来の為と結ばれているが、どこがだと赤司は怒りに震えた。
「将来の……ため……?」
 何がだ? 外交を進めて国を発展させることか? 貴族のみに無償で与えた特恵によって組織や事業の進出を図ることか? そのせいで、税金という形を以て国民から多額の金を吸い取って、貧困層への援助を突然切り、こんなにも苦しむ人々が出ているのに?
 自国の民さえ守れないで、何が将来の為なんだ?
――大きく見開かれた双眸から、ぽた、と涙が落ちる。母と父を追いやったのは国だ。国の上層だ。煮えたぎる感情を鎮めながら流れ落ちた透明な一滴が新聞に染みを作った。悔しさと憎しみから戦慄く唇を噛み締め、拳を強く握り過ぎたあまり爪が刺さり手の平に血が滲む。僕はこの感情を、一生忘れないだろう。
 司書に気付かれないところで赤司はその記事の載った一枚を抜き取り、小さく折ってポケットに仕舞った。それは彼が初めて行った、窃盗行為だった。


 十九歳となった赤司にあの日々より得て残っているものはたった三つしかない。一つ目は例の新聞記事であり、すっかり黄ばんでしまっているものの常に肌身離さず持ち歩いている。最悪なことに記事の日付は十二月二十日だった。十歳の誕生日を両親が心から喜んでくれた日には既に幸福な家庭に亀裂が入り始めていたのかと考えては、赤司は袖を濡らした。
 そんな両親との写真が二つ目の宝物だ。必ず迎えに来ると言った親とは、まだ再会できていない。連絡先など知らないままに九年が過ぎ、二人の行方どころか生死さえ定かではなかった。それでもいつかまた会える日を、そして三人の幸せを取り戻せることを信じ続け、彼はこの国やこの町を去ろうとはしなかった。それだけの費用を調達できるわけもなく、何より生きて待つ約束を守りたいからだ。
 しかしここまで生き延びるにも多くの苦労があった。図書館から帰ってきた数日後に、まずは家に取り立て屋が来たのである。今まで家賃がどうなっていたのか幼子には知りようもなかったが、ただ支払えずに借金として溜めていただけだ。もちろん食べるものさえない赤司に家賃を払うことなどできやしない。だから捨てるしかなかった。赤司は十年間の思い出が詰め込まれた部屋から一枚の写真と、そしていつの間にか埃を被っていたトロフィーを袋に詰めて家を出た。
 彼の才能により贈呈されたいくつかのトロフィーは一つ余さず金で出来ている。これなら資金に変換できるかもしれないという考えは何より賢い判断だっただろう。王族から贈られたものなど触るだけで憎くて憎くてたまらなかったが、案の定、闇の世界と呼んでも過言ではない裏の人間達に純金の塊は高く売り捌けた。
 同時にその頃から、赤司の心は少しずつ歪んでいってしまっていた。生きる為なら仕方がないと割り切ったら最後、どんなに汚い行為でもぼんやりと見詰めるだけに終わっていたのだ。それでも両親の愛情により育てられた根の優しさのおかげか、誰かを傷つけるようなことだけは自然と避けていたのが唯一の救いだっただろう。代わりに自分の体を犠牲にすることは、少しも厭わなかったけれど。
 残っている三つ目のものは憎悪の感情だ。皮肉なことに強い恨みは彼を生かす気力にもなっていた。自分の運命も呪ったが、それ以上に貧困層を無下に扱った上流階級が許せない。こんなはずじゃなかった、と訴えた母親の怨念の矛先――あの時はそれが『何か』わからなかったが、今なら理解できる。
 幸せに暮らしていた美しい毎日と、その些細な日々をいとも容易く踏み躙った国への恨み。記事を暗記できてしまうほど幾度も幾度も読み返し、そこに記された最後の一文を赤司は忘れたことなどなかった。

 九年前の冬、将来の為などと寝言を並べて政経体制を変えたのは、ひとえに――。


 黄瀬王家のご意志であると。


2013.09.17
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