――とは言え、僕の指示で向かわせた先は全く大層なものじゃない。美しい夜景が眺められるわけでもなく、彼に特別見せたいものがあるわけでもなく、その場所に行かなければならないような確固とした思い入れが存在したわけでもなかった。ただそこなら、人通りが極端に少なくなるだろう、というだけだ。
「ここなら誰も通らない。ちょっと降りないか?」
 アパートからそう遠くないところに流れる川の上に掛かる橋。自分達が利用したファーストフード店ともかなり近く、五分弱走ればすぐに辿り着いた。橋上の歩道に横付けするように停車して提案すると、黄瀬は目を丸くする。
「なんでっスか?」
 純粋な疑問だろう。言うほどのことではないと一瞬躊躇ったが、説明しなければ恐らく先に進まない。膝の上に置いていた紙袋を指しながら理由を口にした。
「ハンバーガーとかの匂いって、室内で食べると結構残るだろう。勿体ないじゃないか、せっかく良い香りでいっぱいなのに」
 ここで袋を開けるより外へ出た方が絶対いいに決まっている。だからと言って自宅へ戻って一人で食べるのも馬鹿らしく思えてしまい、こんな殺風景な通りに止めてもらったのだ。
 僕が言わんとしていることを当然彼は把握したようで、シートベルトを外しながら苦笑した。
「バレてたっスか。片手に一滴垂らしただけなんスけど」
「そのくらい鼻は利かせないとな。マンダリン・ゼストか?」
「……に、フリージアとサンダルウッドを混ぜた香水っス。××ブランドの夏季新作」
「へえ……知らなかった。さすが、センスが良いし情報収集も早いね」
 他愛ない会話をしながら降車する。黄瀬は後部座席に置いていたジャケットを着込んで歩道側へと回ってきた。その際にサングラスは外したらしく、やっと彼の両眼を直に見ることができて確かに嬉しさと安堵を覚える。
 自分が全て網羅しているわけではないとは言え、赤司グループ内で迅速に巡る情報よりも早くキャッチし自ら試す精神には心底感心せざるを得ない。相変わらずブランドには敏感だねえ、と、初めてオフィスクオーターを目にした時、黄瀬に向けられた桃井の言葉が脳裏に浮かんだ。恐らく昔からの性質なのだろう。僕は彼のそういう面をアパレル業界で関わる相手として、一等気に入っている。
 辺りを見渡すと視界に映るのは薄暗い街頭くらいのものであり、人も車も自分達以外は何もない空間だった。一応、マスコミに対しては懸念もあるが、今回は家に出入りするわけでもなくただ男二人が道端でハンバーガーを食べるだけだ。それを激写したところでとやかく言う輩はまず居ないだろう。
 外は意外にも夜風が強く、もう春も終わる頃だがスーツ一枚では微かに肌寒く感じた。
「寒くない?」
 黄瀬の、まるでこちらの心を読んできたかのような一言に少し顔が綻ぶ。常に相手のことを考えているのだろうな、そう思った。しかし返事もせずにいると自分のジャケットを貸そうとするものだから、慌てて大丈夫だよと答える。風邪でも引かれたら大変だ。
「ここ穴場っスねえ。人っ子一人通らないっスよ」
「橋に用なんて誰も無いからな。夜は特に、周辺に立ち寄る場所もないし……まあ、食べるだけなら十分だろう」
「ん、ゆっくりできそう」
 石造りの割かし頑丈な柵から橋の下を覗き込みつつ黄瀬は笑った。ゆったりと流れているのは比較的小さな川であり、古くからの穏やかで静かな水流だ。一人分の距離を空けて左隣に並び、柵に寄り掛かって持っていた紙袋を開ける。淡いオレンジ色の明かりがぼんやりと歩道を照らしていた。
「あっ、肉と魚だったらどっち?」
「え?」
 鼻孔を通る独特の匂いを感じながら買ってきたものに視線を落としていると、急にこちらを向いて聞かれる。よくわからなかったが「……魚?」と後者を選んでみると、彼は僕が持ったままの紙袋の中に手を入れて一つのハンバーガーを渡してきた。
「じゃあはい。社長は海老の方で」
 赤い模様の紙に包まれたそれを右手で受け取っている間に、もう片方のハンバーガーもがさごそと取り出す。そっちは肉メインということらしい。
「一つだけセットにしたからポテトとコーヒーもあるんで、良かったらどーぞ」
 抱えた紙袋の中を覗くと黄瀬の言う通りフライドポテトまで底にあり、ありがとう、と笑い返した。そしてお互いハンバーガーを包む紙を剥がしながら、いただきます。
 隅々まで澄んでいるわけではないしこの暗さでは川の奥など何も見えないはずだが、彼は柵に肘をついて水筋を眺めている。ゴマ付きのバンズに挟まれた海老カツは僕がよく選ぶヘルシーな口風味とは遠いものだけれど、久しぶりに口にしたらこれはこれでおいしい。マスタードが効いているのか少しスパイシーだった。
「ロスで食べなかったんスか? こういうの」
 チーズとビーフパティを合わせているようなハンバーガーを二口ほど食べた黄瀬が不意に尋ねてきた。
「アメリカってファーストフード多いじゃないスか」
「ああ、何回かは食べたよ。向こうに驚くほど大食いの友人がいてね、たまに連れられて行ったんだ」
「ふうん」
「黄瀬は?」
「俺?」
「海外に行ったことはないのか?」
 聞き返した質問に、ううん、と空を見上げながら記憶を掘り起こしているらしい。
「海外は……写真集の撮影でロンドンとベネツィア……と、あとブリュッセルは行ったことあるかなあ。どれも二泊三日くらいで帰ってきたから全然観光とかしてないんスけど。あ、でも高校の時に研修旅行で、ニューヨークにはちょっと滞在したっス」
「へえ、どうだった?」
「もう大変っスよ。ホームステイだったんスけど、俺、英語得意じゃないし。ホストファミリーがこっち系の仕事だったから多少盛り上がったってくらいで」
 ころころと表情を変えて喋る黄瀬の経験談は飽きなかった。
「でもバディの友達で現地に住んでる日本人の男がいて、いろいろ助けてもらったっス。……そういやそいつもすげー大食いだったな……」
 元気かなあ。ぽつりとそう零した黄瀬に、元気だといいな、と返すとふと僕の方を見てくる。そして目が合うなり小さく笑われ、何故だかわからず首を傾げると彼の左手がいきなりこちらに伸びてきた。
 そのまま躊躇うことなく肌に触れられ、手も思考も固まってしまう。
「ついてる」
 おかげで短い一言を理解するのに僅かに手間取った。けれど目をしばたたかせると同時に親指で口元を拭われ、指先についたソースを舐め取った黄瀬を見ていっきに羞恥が込み上げる。あ、ありえない。恥ずかしい。食事のマナーなど幼い頃に叩き込まれているのに、こういうものは食べ慣れていないから、と声にならない言い訳が頭の中でぐるぐると巡った。
 かあっと首より上に熱が溜まる感覚は自分でもわかり、とりあえず袋に入れられていた紙ナプキンで口周りを拭く。しかし最悪だと恥に苛まれるこちらなど構わず、彼は目を細めて「おいしい?」と聞いてきた。頷くしかないだろう。
「よかった。俺も好きなんスよ、その味」
「……それなら最初からこっちを選べばよかったのに。食べるか?」
 無意識だった。何を思ったか口を衝いて出た言葉と共に残り半分ほどのハンバーガーを差し出すと、黄瀬は目を見開く。予想外とでも言いたげな反応はこちらまで伝わり、我に返って行き場を失った手を引っ込めようとした時だ。
「じゃあ一口ちょうだい」
 あ、と口を開けて僕の手からハンバーガーを食べ、それこそ予想を超えた行動に驚くほかなかった。普通に手渡すつもりが受け取らず、まるで餌付けでもしたような感じにコメントもできず瞬きを繰り返す。ありがと、と一口分だけ頬張った黄瀬は満足そうに笑っているが。
「社長もいる?」
「いや、いい」
 無駄な意識をしている己が疎ましく何も考えずに即答した。そして僕も大きく一口、海老の多い部分を口に含む。
 彼の突飛な言動に振り回されるのもいい加減にしようと早々に話を切り替えることしか、一方的に気まずく感じているこの空気を打破する方法はなかった。「――『TiPOFF』のことだが」ハンバーガーを飲み込んでどこかで言おうと思っていた話題を切り出した途端、相手は真面目な表情になって相槌を打つ。
「今日、事務所の方に通知がいったと思うよ」
「え……まじスか」
 乗車した時からそんな様子が全くないからきっと今日は事務所へ行っていないに違いないと踏んでいたが、案の定だ。彼はまだ知らないのだろう。
「まぁ結果はあとで確認してもらえればいいが……その件で、明日、少し時間を取ることはできないだろうか」
「明日?」
「ああ。仕事が終わった後、三十分もあれば十分だ。お前と桃井に話したいことがある」
 こうして黄瀬と会わなかったら電話で伝えようとしていた内容を告げる。すると目線を上にやりながら予定を脳内で確認したのか、えーと、と黄瀬は口を動かした。右手に持たれたハンバーガーはもうほとんどなくなっている。
「明日は午後から撮影があるんで、かなり遅くなっちゃうんスけど……早くて十時過ぎくらい」
「構わない。どうしても明後日には間に合わせたいことでね、無理を言って悪いな。最近どうもスケジュール調整が上手くいかない」
「そりゃこれだけスパンが短くちゃ仕方ないっスよ。撮影終わったらどこに行けばいいっスか?」
「どのスタジオで行われるんだ、その撮影は」
「んー……と、確か『TiPOFF』のオーディションやったところと一緒」
 それは都合が良い。食べ終えて包み紙を丸めた黄瀬に紙ナプキンを渡しながら答えた。
「そこなら一階にロビーがあるだろう。十時には僕がそのスタジオに行ってるから、終わり次第降りてきてくれ。すぐに済ます」
 淡々と明言して自分も残りのハンバーガーを全部食べ、不必要になった正方形の紙は小さく折り畳む。ちょうど同じタイミングで肯定の返事が聞こえ、無事に用件を片付けられたことに胸を撫で下ろした。
「そういえば、」
 しかし一息ついていると不意に体を反転させ、僕と同じように柵に背中を預けた彼が呟く。社長、アイリス・ビレッジって知ってる? と。
「アイリス・ビレッジ?」
「うん。あ、今名刺持ってないや……えっと……アイ・アール・アイ・エスってスペルで、あとは“村”のビレッジ。多分『TiPOFF』の関係者だと思うんスけど……」
 聞き慣れない響きに最初は眉根を寄せた。が、頭の中で並べられた単語と黄瀬の情報を合致させ、そこまでくれば何を指しているのか理解することにそう時間は要さない。ああ、と閃いて彼を見上げる。
「『イリス・ヴィラージュ』のことだろう、それ」
 さらりに解答を述べるとまるで表情が移ったかのように今度は向こうが眉を顰める番となり、その名を復唱していた。
「IRIS VILLAGE――英語の読みだとアイリス・ビレッジだが、その企業はフランス出身だ。フランス語でイリス・ヴィラージュ。意味は変わらないがな」
「あー、なるほど……通りでピンと来なかったわけだ……」
 わかりやすく説明すると腑に落ちたのか、小さく独り言が聞こえてくる。しかし僕は驚かざるを得なかった。オフィスクオーターとイリス・ヴィラージュの直接的な関わりはないはずだ。
 紙袋の中に手を入れ、少し冷めてきているポテトを一つ摘まむ。
「イリス・ヴィラージュがどうかしたのか?」
 そのまま口に運んで尋ねると、彼は何やら返答を躊躇ったようだった。少しだけ視線を泳がせた後、頭を掻きながら気恥ずかしそうにこう話す。
「いや、ちょっと……オーディション終わってから声を掛けられて、……褒められたんスよ」
 明瞭ではない口調で続けられるが、その表情はどことなく嬉しそうだ。へえ、と微笑んで相槌を打つ。確かにあの撮影を見て彼に好印象を抱いたデザイナーや企業は多くいるだろう、何も疑問は湧かない。
「でも俺の知らないブランドだったから、社長ならわかるかなって」
「ああ……そりゃあそうだろうな。黄瀬は知らないと思うよ」
「どういう意味スか?」
 フライドポテトなんてもう随分食べていなかったから舌が受け付けるかどうか僅かな不安もあったものの、一度食べ始めるとどうしてか手が止まらなかった。この脂っこさがやみつきになってしまうようだ。黄瀬の方にも袋を差し出せば、何本か手に取って口にしている。
 そしてこちらの言葉の意味を理解しかねている彼は真意が気になって仕方がないのだろう。目を逸らさず、興味津々と言った様子で続きを待っている。それに応えるように告げた。
「お前は確かにブランドに敏いが、それはファッション関係のみだろう? イリス・ヴィラージュは舞台監督会社だ」
 あっさりと成された種明かしに黄瀬はぱちぱちと転瞬する。あまりに露骨な反応から、考えもしなかった範囲だということは明らかだった。
「舞台、監督……え、でも『今度はうちの服も着てほしい』って言われたんスけど」
「多分お前に話し掛けたその人は、イリス・ヴィラージュと契約している舞台衣裳デザイナーだよ」
「…………はあ、なるほど……」
「さっきからなるほどしか言ってないな」
 頷いてはいるものの理解が追い付いていないらしい。自分のことなのに茫然としている様子がなんだかおかしく、ふふ、と笑ってしまった。けれど大切な部分まで聞き逃していては駄目だ。「ちゃんとわかってるのか?」顔を覗き込むようにして確認を取ると、いきなり距離を詰められた黄瀬がびっくりしたのか口を結ぶ。

「デザイナーと言えど舞台監督会社から声を掛けられたということは、お前に『その可能性』を見出しているんだよ」

 しっかりと瞳を合わせ、諭すように一言一句を丁寧に伝える。あとの意味はさすがに察するだろう。一瞬の緊張か、彼の喉がごくりと上下したのがわかった。
――やっと自分の伸び代を自覚し始めた様子に満足し、口角を上げて距離を離す。
「まあ、縁は大事にしろ。いつかお前を助けてくれるかもしれない」
 僕の言葉を黙って聞き入れた黄瀬は暫く口を閉ざしていた。考えることがあって当然だ。オーディションで成功した自負はあるだろうけれど、彼はまだまだ己の潜在力に気付いていないところがある。そしてそれは、ここで立ち止まっていては一生花開くことのないまま終わってしまう。先に進まなければせっかくのポテンシャルは宙に消えるのだ。
(イリス・ヴィラージュに目をつけられたか……)
 予想していなかったがしかし、これ以上ないほど良い傾向と言えた。相手はとても優秀な企業。向こうに所属している知り合いの姿を思い浮かべ、いつの日かその人と黄瀬が邂逅するのかもしれないと思うと、胸が躍るような未来への期待に身が包まれる。
 ポテトもほとんど食べ終わったところで温いコーヒーに口をつけた。が、全てを飲めそうにはない。やっぱりテツヤに一本貰っておいてもう一杯はきつかったな、と申し訳なく感じつつ、三分の一くらいを残して黄瀬に渡す。
「もういいんスか?」
「うん、悪いな。おなかいっぱいで」
 眉を下げて控え目に謝ると、量の減ったそれを受け取りながら「ほんとにいいの」ともう一度聞かれた。何故そんなに念を押されているのだろう。と、疑問に感じたおかげで首を傾げるだけの返事に留まったが、こちらに目を合わせた黄瀬の一言は意外そのもので。
「間接キスになるけど」
 平然と尋ねられ、一瞬思考が停止する。
「い……今更何を……、さっきは普通に食べたじゃないか」
「あはは、そーっスね」
 真剣な目つきをしていたかと思いきや、軽く笑ってあっさりと飲んでいる。何なんだ、一体。眉を寄せながらも黄瀬の口元に目が行ってしまい、見上げている間になぜだか顔に熱が溜まっているようだった。ハンバーガーを食べられた瞬間と同じだ。あの時なんとか取っ払った意識を掘り起こされ、再びぶり返す羞恥に気付いたら視線を逸らしていた。
 意図しているのかいないのか知らないが、相手の言動を必要以上に深く捉えている自分がひどく恥ずかしかった。
「大体、気にする方がおかしいだろう……」
 半ば自身に向けたその台詞は黄瀬の耳にも届いたらしい。うん、そうだね、と静かに返される。川の上流から吹いた夜風のせいで彼の顔は靡く髪に隠れ、どんな表情をしているのかは、横目で見てもわからなかったけれど。
「……気にする方がおかしいんスよ」
 まるで五秒前の僕と同じように、黄瀬が自分に言い聞かせているように感じたのは気のせいだろうか。


 車に戻っても彼はサングラスを掛けなかった。紙袋に収めたごみはきっちりと蓋をして車内用のダストボックスに捨て、橋上から僕の自宅へと今度こそ向かう。その十分にも満たない時間で取り留めもない会話をぽつりぽつりと交わした。内容はあまり覚えていない。それほどまでに取るに足らない話題ばかりで、ところが全くつまらなくはなかった。寧ろ黄瀬と喋っている時は何故か自分の表情がよく緩んでいるような気がした。多分素直に、楽しいのだと思う。
「結局遅くなっちゃってごめんね」
 アパートの前に停車すると同時に隣から声が届き、見れば車内のデジタル時計は十時近くを指している。けれどさっきは僕のわがままで降車したのだから謝る必要はない、そう淡々と返事をすると彼は苦笑した。変なところで気を遣う奴だ。もう降りて別れなければならないことに妙な喪失感を覚えているこちらの心情など、きっと少しも気付いてはいないくせに。
 シートベルトを外して足元に置いていた鞄を持ち、ドアを開ける。「送ってくれてありがとう」振り返って降りながら告げ、アパートの入口へ行くべくフロントガラスの前を通り運転席側へと回った。するとパワーウィンドウを下げた黄瀬がそこから僕を呼び止める。
「ちゃんと休むんスよ」
「ああ。黄瀬も、帰り気を付けて」
「うん。……あ、そうだ、ちょっと待って。アドレス交換したい」
 不意に慌ててスマホを取り出して言われ、そういえばまだしてなかったか、と思い返す。仕事に関する連絡なら名刺に書かれた電話番号でどうとでもなるが、私情となると互いのメールアドレスは必要だ。
 けれど相手のそこまでの情報を得るということは、勿論これから仕事以上の関わりを持つと約束しているに等しい。僕も彼もそんなことはとっくにわかった上で教え合おうとしていた。鞄の外ポケットから携帯を出し、黄瀬の方へと近寄る。その前に夜に包まれた周囲を見渡したが、誰かに見られている心配はなさそうだ。
「ピアスのことだけどさ、最初はメールで聞こうと思ってたんスよ。でもよくよく考えればあんたのアドレス知らねーし、名刺にあった番号に掛けて帝光出版の受付とかに繋がっても困るし」
「だからわざわざ来たのか。手間を掛けさせてすまなかったな」
「いや、まー、それだけじゃないんスけど……あ、赤外線受信できる?」
 言葉通りに受信画面に設定し、窓から手を伸ばす黄瀬のスマホと自分の携帯を合わせる。ロードが進み保存完了したところで僕の方も同じように彼に送った。
「……『赤司征十郎』って一番上に来るっスね。探しやすくていいや」
 そしてスマホの画面に視線を落とし、笑みを零しながら呟く黄瀬はどことなく嬉しそうで。ぱたん、と携帯を閉じて鞄に戻す。
「ピアスは探しておくよ。見つかったら明日渡すから」
「ごめん、ありがと」
――じゃあまた明日。
 整った笑顔を浮かべて彼は右手を振った。その言葉に自分も頷いて踵を返せばいいはずが――いよいよ自制も何も見失っていたのだろう。ぼんやりとした思考のまま黄瀬の手に、細長い指先に触れていたのだ。ぎゅ、と握ってその肌を感じる。何が何だか僕にもわからなかったが不思議と動揺はしていなかった。
 逆にいきなり手を握られた黄瀬は心底驚いたらしく目を見開き、こちらを見上げる。その両眼には困惑の色がありありと映されていた。
「……社長?」
「いや……悪い。なんでもな」
 い、と引っ込めようとした瞬間、しかしそれは叶わなかった。同等の力で握り返され当然びっくりしたものの、するりと僕の左手を掬うように持ち上げた黄瀬は一度視線を絡ませて微笑んだ。その一瞬の表情があまりに格好良くてさすが、などと他人事のように捉える脳裏と裏腹に、脈打つ心臓は確かにどきりと跳ねる。
 でもどうしようもなかった。息を止めて見詰めていると、ゆっくりと瞼を伏せた彼が僕の手の甲に唇を寄せ――。
 触れるだけの口づけをしてきたのだから。
「……おやすみ」
 長い睫毛が持ち上がり、目を細めて一言。とても優しく、ひどく甘く、囁くように紡がれた言葉に同じ単語を返すことさえできない。ただ忙しない心拍だけが指先から伝わるのではないかと馬鹿みたいな思考のせいでぱっと手を離してしまい、何か言おうと思ったものの、結局無言でその場を後にするほかないのだった。
 背後で車の発信音など聞こえず、だからと言って振り返れない。一階の一〇三号室の鍵を開けるなり急いで中に入り、ばたんっ、と後ろ手に思い切り閉める。そのまま数秒立ち尽くした後、玄関の扉に寄り掛かってずるずるとしゃがみ込んだ。膝を抱えると嫌でもわかるのだ。
 誤魔化しようもなく、顔が熱い。
(なんで、あんな……)
 わけがわからなかった。いろいろとからかわれても半分以上は冗談だろうと思っていたのに、つい数分前のあれは何だ。
 会社から自宅まで送ってもらって、体調を心配されて、夕食を一緒に食べて、僕の分をあげて、アドレスを交換して、最後の最後で手の甲にキスなんて落とされては、まるで――と思考が落ち着かない。だってそうだろう。あんなに慈しむような目線を向けられたら、まるで、本当に。
「…………愛されてるみたいだ……」
 吐息が震える。唇から零れた台詞が自分でも信じられなかった。こんなのは自惚れでしかない、とんだ勘違いだと自ら思っているのに、どうしてか口づけられた部分は熱を持っている。うるさい心臓から意識を逸らすように目を瞑って首を横に振れば、赤い前髪が視界を揺らした。否、たった一、二時間を共に過ごしただけで何が変わったというのだ。落ち着いて状況を整理しよう。絆されるな、あの男の姿も声も笑顔も忘れられないからと言って。ずっとこの胸中が、どきどきと騒がしいからと言って。
 今日はちゃんと休むように強く言い付けられていたけれど、正直なところとてもじゃないが安眠できそうにはなかった。が、眠れないのはきっと二杯も飲んだカフェインのせいだろうと、無理やり自己完結させて家に上がった。



2013.09.11
第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
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